第一章

まさかの記憶喪失 その①

 私は、ふぅと息をき出して糸の始末をつけ、余分な糸をハサミで切りました。

 出来上がったのはクッションカバーです。夏の花々をあしらったしゆういろどあざやかな糸のおかげでとてもれいにできました。こうしやくが運営するいんのバザーに出して運営費の足しにしてもらうのです。刺繍をはじめとしたおさいほうは、これといったのない私のゆいいつの特技で、侯爵家のためにできることといえばこれくらいしかありません。

 だん様とけつこんして侯爵家にとついできて、早いものでもう一年がちました。

 大陸の西に位置するクレアシオン王国は広く豊かな領土を持ち、戦争が終結して数年がたった今はとても平和でおだやかです。

 旦那様は王国の守護のかなめである王家直属のヴェリテ団で王都をまもる第一師団の師団長を務めておられます。その上、王国のえいゆうでもある旦那様は次期騎士団長としても期待されているのです。

 ですが、その分、お仕事がほうもなくおいそがしいらしくこの一年間しきへ帰って来られたのはほんの数回で、屋敷にたいざいする時間も短くお会いすることはありませんでした。最近も遠方への視察に一カ月ほど出かけられていて、こちらにもどられたのは五日前のことです。

 この一年、私は妻として何の役にも立っていません。姉のように美しいわけでもなく、ぱっとしないあわい金の髪にくもぞら色のひとみでとても地味です。一応ははくしやくれいじようだったのですが、引きこもっていた私は令嬢として必要な知識も教養も最低限しかなく、実の母は私が産まれた半年後には天国に行ってしまったのでうしだてもありません。

 世間知らずで旦那様にとって都合が良いという利点があったとしても、三〇〇〇万リルという大金をはらってまで妻としてむかえ入れるには欠点が多すぎます。

 けれど、旦那様は私にとても良くして下さっています。

 私のしゆが裁縫だとじよに伝えた翌日には立派な裁縫道具を用意してくれました。それにこの屋敷の中で旦那様のしよさいしんしつ以外は自由に歩き回れますし、なんと、お庭に出たっておこられないのです。エルサといつしよにお庭をお散歩するのは私のひそかな楽しみです。

 実家にいたころは一週間に一度書庫に行く時か、両親や姉に呼び出された時だけしか部屋から出ることは許されていませんでしたので、とてもしんせんです。

 ですので、私は旦那様にとてもとても感謝しております。

 私はもともと両親にうとまれておりましたので、伯爵家ではひっそりと生活しておりました。幼い頃に、わけあって貴族令嬢として何の価値もなくなってしまったのですが父とままははは私を捨てるようなことはありませんでした。とはいえ貴族令嬢として価値のないむすめを持て余していたのは事実ですから、私は書庫に出入りする以外は基本的には屋敷のかたすみあたえられた部屋で過ごすように命じられておりました。

 異母姉あねは私をきらっていますが、七つ下の異母弟おとうとのセドリックは部屋に引きこもってばかりいる私を心からしたってくれて、両親や姉の目をぬすんで私の部屋に来てくれました。使用人たちは、私をあわれんでくれたのかセドリックが可愛かわいかったのかそのことについては目こぼししてくれていたので、留守がちだった両親と姉は知りません。

 私の結婚が決まった時、セドリックはさびしそうにしていましたがあの子だけがお祝いの言葉をくれました。

 今も月に一度だけ手紙が届きます。私に会いたいと言ってくれる弟に応えたい気持ちはありますが、私は侯爵家に嫁いだ身、旦那様の許可なく実家に帰ることも、客人を招くこともできません。何より私の両親は、セドリックが私と会うのを許さないでしょう。

 私が侯爵家に嫁いでかかえている心配事は、大事なセドリックのことだけです。寂しい思いをしていないか、かなしい思いをしていないか、それだけが心配なのです。

「……セドリック」

 口の中だけで愛を込めてその名を呼びます。記憶の中のあの子は、うれしそうに笑っていて胸が切なくなりました。

 コンコン、とひかえめなノックの音に私は思考のうずまれていた意識を引き上げて、どうぞ、と答えて顔を上げました。

「失礼いたします。おくさま、午後のお茶をお持ちしました」

 入って来たのは、私の専属侍女であるエルサでした。

 エルサは、いつもいろの髪を一分のすきもなく後ろでまとめ、シックなメイド服もきっちりと着ています。他のメイドさんの首元のリボンは白ですが、白百合しらゆりの刺?が入った赤いリボンは私の侍女であるという特別なあかしです。

「本日は、奥様の好きないちごのタルトを料理長が作ってくれたんですよ」

 エルサがにこりと笑って、私の前にお皿を置いてくれます。つやつやの赤い苺に白い生クリームが綺麗で、見ただけでしいと分かるいつぴんです。

「ありがとうございます。フィーユ料理長さんにもお礼をお伝えして下さいね」

「はい。奥様、失礼いたしますね」

 そう言ってエルサも私の向かいのソファにこしを下ろしました。かのじよの前にも私のものと同じ苺のタルトと紅茶が置いてあります。

 本来は、侯爵夫人と侍女が席を共にするなどありえないことです。侍女に対してていねいすぎる口調であることもとがめられることです。

 けれど、これらが許されているのはエルサや他の使用人さんたちのやさしさなのです。

 屋敷に来た当初、こうしてお茶を出されても私は口を付けることができませんでした。キラキラとまるで宝石のように美しいタルトをどうやって食べれば良いか分からなかったのです。実家にいた頃の食事はパンとスープだけだったので、見たことしかないごうな食事と左右に並ぶたくさんのカトラリーの使い方がさっぱり分からず、そうをしてしまうのではとおそろしくて食事ができなくなってしまったのでした。

 他にも使用人にけいしようを付けて呼んだり、敬語を使ったりしないようにと侯爵家筆頭しつのアーサーさんに初日に注意され、非常に情けないことに口をくこともできなくなってしまいました。伯爵家では、使用人に対しても敬称を付け、敬語を使わなければ両親にひどく怒られるのです。あのせいきようと痛みを体が覚えていて、私はかれらを呼ぶことも、何かをたのむことも、返事をすることもできなくなってしまったのです。

 そんな私を助けてくれたのは、他ならない侍女のエルサでした。

 あの結婚初夜にはだを見られたくなくて、入浴とえの手伝いを泣きながらこばんだ私を心配してくれたエルサは、親身になって私にくしてくれました。

 まるで姉のように尽くしてくれるエルサに私は一カ月ほど経って、ようやく心の内の恐怖や痛みを説明することができたのです。情けなさに泣いてしまった私をエルサはめてくれて、敬語でも何でもいいから話してほしいと言ってくれました。さらには自分が教えるからと、こうしてお茶や食事を共にしてくれるようになりました。

 エルサがいなければ、私はどうなっていたか分かりません。エルサは今では私にとってかけがえのない存在です。

「……美味しいです。苺がとってもあまくて、カスタードクリームものうこうですね」

「料理長が自画自賛しておりましたから。今日の夜は、奥様の大好きなじゃがいものポタージュを作ると張り切っていましたよ」

「本当ですか? とても楽しみです」

 私は、ふふっと笑ってタルトを小さく切り分けて口へと運びます。じゅわっと広がる苺のじゆう、カスタードクリームと生クリームは苺の酸味をつつみ込んで美味しさを引き立ててくれます。クッキーのタルトもざくざくとした食感が楽しいです。

 エルサが説明してくれたのか、厳しかった執事のアーサーさんも優しくなって私の無作法を目こぼししてくれています。もちろん、少しずつしゆくじよとしてのマナーは学んでおりますが、要領が悪いのかなかなか上手にはできないのです。ですが他の使用人さんたちもとても優しくて、私は侯爵家に嫁いできて良かったと心から思っています。

 旦那様に愛してもらうことはかないませんでしたが、その分、たとえ同情であったとしても優しい使用人さんたちがいてくれるだけで私は充分、幸せなのです。

「フレデリックときたらまたワンピースを買って来て、次の休みこそ出かけようと果たせもしない約束をするのですよ? そうやってため込まれたワンピースやドレスが何着あると思っているのでしょうか」

 ぷりぷり怒っているエルサは、いつもの大人びた彼女よりもずっと可愛らしくて少女のようです。

 私より五つ年上のエルサは執事のフレデリックさんと結婚しています。フレデリックさんは彼女より五つ年上で、旦那様と同じ25歳。旦那様のきようだいでもあります。

 幼馴染だったという二人はその分えんりよがないのかよくけんをしますが、聞いている側からすればそれはただのげんです。言うと「ちがいます!」と全力で否定してくるので言いませんけど。

「ふふっ、エルサとフレデリックさんは本当に仲が良いですね」

「奥様、私は仲のしの話はしておりません。殿とのがたの中身をともなわない約束にはお気を付け下さいませ、と経験をまえて助言申し上げているのです」

 エルサがむっとしたような顔で言いました。くるくると表情の変わるエルサは、見ているだけでも楽しいです。

 私は、彼女のことは敬称を付けずに呼ぶことに成功しています。達成するまでに三カ月もかかりましたが初めて自然に呼べた時、とてもめてくれたので、すんなりと彼女のことだけは呼べるようになりました。とはいっても口調を直すのはまだまだ難しいです。

「それにしてもよく降る雨ですね」

 エルサが窓の外に顔を向けて言いました。それにつられるようにして私も窓のほうへ顔を向けます。お茶をいただく前よりも少しあまあしが強くなったような気がします。

 すると不意に外からさわがしい声が聞こえてきて、私とエルサは顔を見合わせました。立ち上がったエルサが窓から外をのぞき込み、おどろいたような顔でかえります。

「旦那様が戻られたようです。げんかんに馬車がまっております」

「ど、どうしたらいいのでしょうか」

 急なことにどうようかくせません。見送りも出迎えもしなくていいとは言われていますが、こんなに早い時間に帰ってきたのは結婚してから初めてです。

かくにんして参りますので、奥様はここで……」

 トントントンとやけにあせったようなノックの音がエルサの言葉をさえぎりました。

「フレデリックでございます。奥様、入室の許可を」

「ど、どうぞ……」

 フレデリックさんは先ほど話題に上ったエルサの夫です。執事とはいっても、この屋敷ではなく旦那様に専属で仕えているので会うことはほとんどありません。

 ガチャリとドアを開けて入って来たフレデリックさんは、たんせいな顔にしようそうこんわくかべていました。

「奥様、落ち着いて聞いて下さい」

 ただならぬふんに、すぐにエルサがとなりにやって来て私の手をにぎり締めてくれました。そのぬくもりに、私はどうにか背筋をばしてフレデリックさんの言葉を待ちます。

「旦那様が訓練中におをなさいました。命に別状はありませんが、転んだひように頭を打って……少々、問題が起きてしまったのです」

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