最近のよくある乙女ゲームの結末

叶 望

最近のよくある乙女ゲームの結末


 ラザリア王国の王都にある貴族が通う学院に一人の少女が入学してくる。


 平民であるその少女はボーラン男爵に養子として迎えられたばかりだという。貴族としてこの先を生きていくことになる少女ではあるが、学院でいきなり貴族として育ってきた者の中に放り込まれれば、きっと苦労することになるだろう。

 不憫に思った学院長はこの学院に通っている中で最も強い権力を持つ二人に少女の事をお願いすることにした。


「お忙しい中、お呼び立てして申し訳ございません。」


「我々を呼んだからには何か理由があるのだろう?」


 学院長に呼ばれたのはこの国の王太子であるアレクサンデルとその婚約者クリスティーナだった。二人は幼い頃から仲睦まじく、政略結婚とは思えない程に信頼のおけるパートナーとなっていた。

 そんな二人であれば少女の事も上手く取りなしてくれると学院長は考えたのだ。勿論、二人は快諾した。

 しかし、この時に話を持ち掛けた学院長はその後に起こる数々の問題に巻き込んだ事とそれによって齎された結果に深く後悔することになるのだが、それはまた別の話だ。


 麗らかな天気とは裏腹にその場に響いた不快な音、その場に居合わせた者達はそれを起こした人物に明らかな侮蔑の視線を送っている。

 淡い黄色のドレスを纏った少女が床に座りこみ熱い紅茶を被っている。その現場に駆けつけた者たちが見ればそれは明らかにどちらに非があるかは言うまでもないだろう。

 颯爽と表れた金髪碧目の青年このラザリア王国の王太子であるアレクサンデル・ラザリア・ガランドは床に座りこんでいる栗毛色の髪を持つ少女に手を差し伸べた。

 潤んだ緑の瞳を王子に向けて涙ながらに縋る彼女を見て、この場で一番身分が高いと思われる女性は一人悲しげに目を伏せた。


それを一瞥して王子はこの場を去る。


 去った後に騒ぎ立てる自らの友人たちを心配させまいと笑みを貼り付けてお茶会を終わらせた。部屋へと戻った女性は扉を閉めるとずるずると床にへたり込んだ。

 王子の婚約者であるクリスティーナ・ハウエルは銀の髪を掻き上げて嘆息した。紫がかった瞳をそっと伏せて呟く。


「私、呪われているのかしら?」


 彼女が疑問に思うのも当然の事、ラザリア王立学院に通い始めてからこのような事態が今日ですでに3回起こっている。

 それも彼女が入学してきてからというもの。彼女というのは王子が連れ立った元平民の娘。男爵家の養子となったアリア・ボーランという名の女性。至って平凡な容姿の彼女はまだ男爵家に入ったばかりで、貴族の礼儀というものを全く知らないまま学院に放り込まれた。


 明らかに男爵家の失態だ。


 それ故に始めの頃はなれないだろう貴族のしきたりというものを早くに覚えてもらおうと彼女に対して注意を何度か行った。

 その度になぜか大声で自分が平民だからいじめるのかと騒ぎ立てる彼女を残念に思いつつもそれをやめなかった。学院長に頼まれたという理由もあるが、貴族社会に入って困るのは彼女だ。


 次期国王であるアレクサンデルの婚約者としクリスティーナには他の者たちの模範となるだけでなく女性たちを取り纏めるのもやらねばならない責務の一つ。

 それでもアリアはクリスティーナの言葉を湾曲して受け取り涙を流してしまう。

 周囲の貴族もあまりにアリアが聞き訳なくクリスティーナの好意を無碍にし続けるのでアリアと距離をとるようになる。

 それをさらにいじめと勘違いするものだから困ったものだ。そしてアリアを諌めたときにとうとうその現場をアレクサンデルに見られたのだが泣いているアリアを見れば何事かと奇妙な表情を浮かべる。


 それも無理はない。


 クリスティーナはその後にも起こるアリアの愚行をなんとか穏便に済まそうと手を尽くしてきたのだが、ここ最近アレクサンデルのクリスティーナへの視線は痛い。


 それに婚約者である自分を差し置いてアリアと密会しているという話も聞いている。


 何より彼女は最近では王子だけではなくその側近である騎士団長のご子息であるカイン様や魔道師長のご子息であるネーベル様、そして宰相閣下のご子息であるラース様にも懇意にされているのだとか。


 当然アリアに向ける視線は厳しい。


 当の本人はそれを全く解していないのだが。


 問題になったのは次に起こった事件だ。


 アリアの様子を気にして彼女が教室に入った後を追ったときだ。悲しげに走って教室に向かったので何事かと思い追いかけたのだが、そこであったのは無残な彼女の机と教科書の数々。

 ぼろぼろになったそれらを手にとって涙を浮かべる彼女に声を駆けようと近づいたときに、またもやアレクサンデルがその場に現れたのだ。

 一度目であれば偶然、二度目でもまぁ、偶然で済ませられる。だが、それが三度と続くとなるとこれはもう何か運命の悪戯としか思えない。

 そういった場面に居合わせたアレクサンデルがクリスティーナからどんどんと離れていっているのも感じている。

 ずっと彼の妻となるべく厳しい教育を受けて育ってきたクリスティーナにとっては残念なことだ。だが、あまりにも続く不運にとうとうクリスティーナは王妃に相談することに決めて面会の手続きのために手紙をしたためた。


「アリア、また来ていたのか。」


 アレクサンデルが廊下に出るとアリアがクッキーを側近達に配っているところだった。


「あ、アレク様…その、厨房で余った素材を頂いて作ってみたのですが。いけませんでしたか?」


「いや、構わないが君はこんなところに来るよりも、他の方たちと交流を持った方がいいのではないかと考えたのだが。」


「その、まだどうしても慣れなくて。」


 アレクサンデルの言葉にアリアは俯いてしまった。どうにもアレクサンデルの周りにいる者とはすぐに打ち解けたアリアだったが、他の者たちとは折り合いが付かないらしい。

 クリスにも任せているが、最近はアリアを邪険にしているとしか思えないような行動ばかりを目にする。


「ではたまには外に出てみてはどうだ?学院ばかりではなく王都にもまだ慣れていないのだろう?」


 友人を見つけて外に出るようになれば少しは変わるかもしれない。そう言うつもりでアレクサンデルは言ったのだが、アリアはその言葉を待っていたとばかりに顔を喜ばせた。


「嬉しい!アレク様が案内してくださるのですか?」


「あ…いや、…。」


「そうですよね、アレク様はお忙しいですし。」


 悲しそうに視線を外ししょげてしまったアリアにアレクサンデルは苦笑した。


「分かった。日程を調整して一緒に街へ行くことにしよう。」


 そう告げると先ほどまでしょげていたとは思えない程に明るい笑顔を向けるアリア。アリアが笑顔になるだけでその場が和んでしまう。


 いつの間にかアレクサンデルもその雰囲気に呑まれてしまっていた。


 アリアと街に出かけたアレクサンデルは、王都に慣れないアリアをエスコートして案内をしていた。活気溢れる王都の町では露天が多く並ぶ場所がある。

 そこで足を止めたアリアはしきりに一つの装飾品を見つめていた。


「アリア?」


「あ、ごめんなさい。私アクセサリーなんてひとつも持っていなくって。」


 アリアが見つめているのはアレクサンデルから見れば玩具のような装飾品だ。


「そうか、なら好きなのを買ってあげるよ。」


 軽い気持ちで告げたアレクサンデルだがアリアが取り上げたのは指輪だ。


「あの、これ…すごく素敵で…駄目ですか?」


 上目遣いでおねだりするアリアにアレクサンデルは少しだけ悩む。


 他の装飾品を勧めたがアリアは決して頷かなかった。指輪を送るというのは婚約者以外にあり得ない。だが、目の前にある装飾品は子供が付けるような玩具のようなものだ。ひとつも装飾品を持っていないというアリアだ。


 このくらいならクリスティーナも笑って許すだろうとアレクサンデルは軽い気持ちで応じた。


「すごく嬉しい。大切にしますねアレク様。」


 愛おしそうに指輪を撫でるアリアにこの程度の玩具で喜ぶなら送って良かったとアレクサンデルは微笑んだ。王都の案内を終えて学院へと戻ろうとしたその時、アレクサンデルとアリアの前に数人の男たちが立ちはだかる。


「お前がアリア・ボーランか?」


「あの、貴方たちは…?」


「ハウエル家のご令嬢、クリスティーナ様の命令だ。王子に近づく不届き者。お前を痛めつけてやる。」


 男たちは剣を抜きアリアを傷つけようと迫った。アレクサンデルはアリアを背に庇って剣を抜く。男たちの剣を軽々と捌いたアレクサンデルに攻撃など届かないと悟った男たちは口々に小汚い言葉で罵りながらも慌ててその場から逃げ出した。

 追いかけようとしたアレクサンデルだったが、アリアが腕に縋ったまま離れず追うのを諦めざるを得なかった。


「クリスが…そんな馬鹿な。」


 アレクサンデルが思わず零した言葉は自身に深く浸透する。


 クリスティーナがそんな事をするはずがないと思う反面、最近よく見るアリアとの対応。一度疑ってしまえば信頼などすぐに崩れ去ってしまう。


 クリスティーナを信じたいという気持ちと疑念がアレクサンデルの中でせめぎ合っていた。


 王城に入り王妃に呼ばれて部屋にはいればなぜか国王陛下もいらっしゃってクリスティーナは恐縮してしまった。いずれは父になるのだからと優しく接してくださる国王夫妻はクリスティーナにとってはもう一人の父と母だ。

 クリスティーナの言葉を聞いて王妃さまは難しい表情で考え込んでいた。国王さまも苦りきった表情だ。その理由は呪われているかもしれないから次期王妃に自分は相応しくないかもしれないと告げたせいだろうか。


「クリスティーナ、この一件私が預かっても良いかしら。」


「王妃さま、私どうしたら…。」


「少しだけ時間を頂戴。何が起こっているのか調べて見ますわ。ねぇ、あなた。」


「うむ。クリスティーナ大丈夫だ。私たちが付いているからな。」


「ありがとうございます。」


 その日学院に戻って見れば婚約者がアリアと街に出かけたという話を聞いてショックを受けたクリスティーナ。

 だが、それでもそれを表情に出さずに耐えたのは彼女が長年耐えてきた教育の賜物。

 そしてアリアのエスカレートしていく行為に頭を抱えつつも、その尻拭いと周りの者たちを宥めて必死に過ごす毎日となった。

 次第に強くなっていくアレクサンデルの冷たい視線に耐えながらもクリスティーナは彼の婚約者として立ち続けた。


 そして学院卒業を目前としてパーティが開催された。


 今日は保護者たちも参加するので会場はかなり賑やかだ。その日、本来であれば自分をパートナーとするはずのアレクサンデルからエスコートができなくなったという知らせを受けて仕方なしに一人で会場に赴く。


 その会場で見たのは婚約者にエスコートされて会場に入ってきたアリアの姿。


 当然のことながら周囲はざわめいた。こそこそと話し声が聞こえる。国王夫妻への挨拶が終わるとパーティが始まるがその日はそれどころではなくなってしまった。

 クリスティーナは突然騎士団長のご子息であるカイン様に押さえつけられ床に膝を付いた。


「な、なにをなさるのです!」


「もう我慢ならない。クリスティーナこれまでの仕打ち今ここでアリアに詫びるんだ。」


 冷たい婚約者の視線と決め付けた物言いにクリスティーナは何のことだか分からない。


「一体何のことですの?仕打ちとは一体…。」


「しらばっくれるつもりか!お前はアリアが平民だからと言って蔑み、物を隠し教科書や机に傷を付けたそうじゃないか。おまけにお茶会に誘っておきながら彼女に紅茶をわざとかけた。」


「待ってくださいアレク様、私そんな事はしていませんわ。」


「ひどい。どうしてそんな嘘を付くの。」


 アリアはアレクサンデルの腕にしがみついて涙目でクリスティーナを睨み付ける。

 そしてアレクサンデルはアリアをそっと抱き寄せて頭を撫でた。


「大丈夫だアリア。私が付いている。」


「はい。アレク様。」


 潤んだ瞳でアレクサンデルを見上げて頬を染めるアリアをアレクサンデルは優しく宥める。そんな二人の様子を見せ付けられるクリスティーナは堪らない。


「あ、アレク様どうして…。」


 お茶会のことも調べれば分かること。なぜ決め付けるのかクリスティーナには理解できない。


「お前に愛称で呼ばれる筋合いはない。お前がやった事は全て明らかになっている。街で暴漢に襲うように指示したことも、彼女に買ってあげた指輪を盗んだのも分かっている。それに階段から突き落としたのもお前だそうじゃないか。」


「私はそんなことはしていませんわ。何かの間違いです。」


「私が憎いのも分かります。アレク様が良くしてくださっているのが気に食わなかったのでしょう。でも階段から落とすなんてひどい!下手したら怪我じゃすまないのに。」


 その言葉に押さえつけられる力が更に加わって苦しげに呻いた。


「もはやお前などという者が私の婚約者など…。」


「お待ちなさい!アレクサンデル。」


 アレクサンデルの言いかけた言葉を途中で止めたのはずっとその場を見ていた王妃さまだった。


「母上、なぜ止めるのです。」


「貴方、それだけ言うのだからきちんと調べたのでしょうね。」


「当然ではありませんか。きちんと証言した者がいます。」


「では連れてきなさい。」


 王妃さまに言われて連れて来られた者たちは皆一様に青ざめていた。

 その様子に気づかずにアレクサンデルは証言を求めた。


「お、お許しください。私はその女に金で雇われました。」


「わ、私はアリア様に脅迫されたのです。」


「な、なんだとお前たちどういうことだ!」


「ひどいです私のせいにするなんて。」


 アレクサンデルとアリアが叫ぶ。


 だが、周囲の視線が冷たく突き刺さっていることに気が付かないはずもなくどういうことかとアレクサンデルは王妃を見た。


「私はクリスティーナの相談を受けてずっと学院を監視させました。」


「う、嘘よ!」


 アリアが叫ぶが一瞥するだけで王妃はそのまま続ける。


「報告書をここに。」


「はっ!」


 近衛騎士が報告書の束を持ってくる。それを受け取ってアレクサンデルに王妃が渡した。その内容を見てみるみる青ざめていくアレクサンデル。


「いつまで私の可愛い未来の娘を床に押さえつけているつもりかしら。」


 王妃の言葉に騎士団長の息子であるカインは青ざめて手を離した。

 ゆっくりと立ち上がるクリスティーナ。その瞳は悲しげに揺れていた。


「どう、いうことだこれは。」


「ち、違うのこれは…あの女に命令されたの。逆らえなくてお願いアレク様信じて。」


 辛うじて絞り出した声は震えている。アレクサンデルはアリアを睨み付けた。


 その視線を受けてアリアは必死に弁解しようとアレクサンデルに駆け寄ってその腕に縋ろうとするがその手は振り払われた。


「すべて自作自演だったのだな。私とクリスを引き離すためにやったのか。」


「わ、私…。」


 アリアは言いかけた言葉を呑み込んでキッとクリスティーナを睨み付ける。


「何よ!悪役の癖に私をいじめないから全部自分でやる羽目になったのよ。あんたがきちんと役目を果たさないからこうなったんじゃない。ふざけないで!私はヒロインなのよ。ゲームの登場人物ってだけのあんたは大人しく私を引き立てて悪役らしく退場したらいいのよ!」


 叫んだ言葉はこの場の誰も理解できないことだった。


「お前なんて消えちゃえ!」


 近くにいた護衛から剣を抜いてクリスティーナに切りかかった。あまりの状況に身動きがとれなかったクリスティーナは目を瞑るが何時までも衝撃は来ない。

 そろりと目を開けるとずっと久しく見ていない愛しい婚約者の顔が見えた。


「く、りす…許してくれ。君を信じ切ることが出来なかった。」


「あ…あれく様?どうして…。」


 震える声でアレクサンデルの頬に手を添える。

 そして力が抜けたかのようにアレクサンデルがクリスティーナに倒れこんだ。真っ赤な血がクリスティーナの頬を濡らす。


「あ、あっ…いや、いやぁああああ!」


 クリスティーナの叫び声が会場に響き渡り騒然となった。取り押さえられたアリアは騎士たちに引きずられて会場を去った。

 ずっと私がヒロインなのになんでと口走っていたがその意味を解する人物は誰一人としていなかった。全員がアリアは気が触れたのだろうという見解だ。

 王子は無事に一命を取り止めたが傷は深く今も昏睡状態だ。

 そしてアリアに唆されてクリスティーナを糾弾した騎士団長の息子カイン様や魔道師長のご子息であるネーベル様、そして宰相閣下のご子息であるラース様は全員が謹慎処分を受けて教育を受けなおさせているらしい。

 言葉巧みに彼らの心を掴んだアリアとろくな教育も与えないまま学院に放り込んだ男爵家も同罪とみなされ一族郎党処刑されることとなった。

 王太子を殺しかけた上、公爵家の令嬢であるクリスティーナを陥れようとしたのだから当然の処置だった。

 アリアは死ぬ直前までぶつぶつとヒロインなのにと呟いていたそうだが毒によってあっけなく最後を向かえた。


 アレクサンデルはあれから1週間昏睡のままだった。

 ずっと婚約者であるクリスティーナは傍で看病を続けていた。あれだけ非難されてもクリスティーナはアレクサンデルを愛していた。

 それは大丈夫だと支えてくれた国王夫妻が居たのが大きいだろう。今回のことを知ってクリスティーナの父が婚約を破棄するべきだと言ったがクリスティーナはアレクサンデル様が目を覚ましてから決めたいと告げた。

 今もなお裏切った恋人を愛するクリスティーナをいじらしく感じたが国王夫妻もクリスティーナを大切にしていたしクリスティーナの母も王妃と仲が良いので無碍には出来ない。お咎めなしとはいかないだろうがクリスティーナの父は複雑な気持ちでいるようだった。



――――…


 王城にある一室、豪華なベッドの上で一人の青年が眠っている。


 この国の王太子であるアレクサンデルだ。その横に寄り添うように椅子に座って女性が濡れたタオルでやさしくアレクサンデルの汗を拭う。

 クリスティーナを庇って怪我を負い今も昏睡状態の彼をずっと見守ってきた。やさしく撫でるようなその手はそっと掴まれた。


「え?」


 ゆっくりと開くアレクサンデルの青い瞳はしっかりとクリスティーナを捉えていた。

 そしてそのまま引き寄せると自然とクリスティーナはアレクサンデルの胸の上に収まる。とくんとアレクサンデルの心音が聞こえてクリスティーナは恥ずかしげに頬を赤く染めた。


「クリス…。」


「アレクサンデル様、お帰りなさいませ。目が覚めて良かったです。」


「クリス、すまなかった。」


「謝罪はすでに頂きましたわ。もう、良いのです。」


 クリスティーナは悲しげに微笑む。


 そしてゆっくりとアレクサンデルの上から離れ意を決したように彼の瞳を見る。アレクサンデルはすでに体を起こしていた。そっと水の入ったグラスを差し出す。

 一息ついたところでクリスティーナは居住まいを正すときゅっと両手を握りこんだ。


「アレクサンデル様、婚約の件ですが…。」


「っ…あぁ。」


 びくりと肩を揺らしたアレクサンデルにできるだけ笑顔を向けようとクリスティーナは微笑む。

 それはひどく儚げで今にも折れそうな表情に見えるのだがそれでもはっきりさせなければならない。


「アレクサンデル様が望まれるのであれば白紙にして頂いてかまいません。」


「…それは。」


「もとより政略結婚のようなもの。アレクサンデル様が望まれる方と添い遂げてください。」


「っ…分かった。」


「では御前を失礼します。」


 退室の許可の返事を聞く前にクリスティーナはアレクサンデルの部屋を飛び出した。きらりと光るものがクリスティーナから流れ落ち床を濡らしたがアレクサンデルは止める言葉を持たなかった。

 どれだけ傷つけたのか分からないほど愚かではないからだ。だがそれと同時にアレクサンデルは喪失感が心を占めた。

 まるで大切なものがすっぽりと心の中から飛び出してしまったような。それは絶望にも似た何か。

 アリアに裏切られたときには感じなかったそれにアレクサンデルはやっと自分の思いに気が付いた。信じていたかった。だが、目の前に突き付けられるものはそれを否定する物ばかりで、信頼していたからこそ裏切られたのだと傷ついた。

 だが、それは間違いだったと今ではわかる。

 ずっと政略結婚だと思っていたし、それ相応に共に過ごしてきている。親愛の情はあっても愛情ではないと考えていた。だが、彼女が去ってからアレクサンデルは自分がどれだけクリスティーナに救われていたのかを知ったのだ。


 失って初めて彼女を愛していたことに気が付いた。それは遅すぎる気づきだった。


 後日、アレクサンデルとクリスティーナの婚約破棄が受理された。あれだけ大勢の前で行った仕打ちのまま婚約を続けることなど出来るはずがない。結局アレクサンデル自身に対するお咎めは両陛下からのきついお叱りしか受けずに終わってしまった。

 次期国王であるアレクサンデルが罰を受けるには騒動の内容が稚拙過ぎた。それに多くの学院に通っていた生徒たちからもアレクサンデルには同情の声が上がっている。

 彼が偶然にも居合わせた現場だけを見ればどのように理解されるのかが分からない訳ではないからだ。それも何度も重なればどんなに優秀な人物でも信頼している相手への思いが崩れてしまうのは致し方ない事だというものだ。

 あれではまるでクリスティーナがわざとそうなるように仕向けていると思われても仕方のない程の奇妙な偶然が重なっていたのだから。


 問題なのはアレクサンデルの学院での側近たちの方だった。


 アリアに良いように動かされ、彼女の望む情報を集め、嘘の報告をした者や金で偽の証言をした者、金で雇われた男たち。上げればきりがない。そういった彼らはすでにアレクサンデルの側近から外され、各々処分を受けた。中には廃嫡されたものもいる。

 彼らが裏切っていなければアレクサンデルに入る情報によってクリスティーナを疑うような事にはならなかったのだから。

 結局アレクサンデルが身を挺して婚約者を庇ったことで罰は相殺という形で落ち着いたのだが、アレクサンデルはその後自ら謹慎を申し出て半年間これまでの事を振り返りながら猛省した。

 そこで改めて知ったのはクリスティーナが自分のためにどれだけ奔走してくれていたのかという事。そして、アリアの為に彼女のしでかした事から彼女自身を必死で守ろうと頑張ってくれていたことだった。

 アレクサンデルは自分が周りを見ることができていなかったことにやっと気が付いた。周囲の雰囲気に呑まれ、部下の情報を鵜呑みにし、自分が見た状況だけで判断してしまう。


 これでは傀儡だ。


 他者に良いように扱われるなど次期国王となるアレクサンデルには在ってはならない事だ。


 あの事件から一年。


 アレクサンデルは今までの遅れを取り戻すべく王太子としての職務に没頭していた。

 そんな中、社交界から姿を消したクリスティーナが自殺を図ったという噂が流れた。家からも出ずに塞ぎこんだクリスティーナ。一命は取り止めたが以前にも増して塞ぎこんでしまったらしい。


 それを聞いたアレクサンデルはもはやいても立ってもいられなくなった。


 社交をしていれば多くの令嬢に声をかけられるアレクサンデルだがクリスティーナに代わる女性など見つける事は出来なかった。ずっと忘れることも出来ずかといって会うのも躊躇われた。

 日々、思い出すのは共に過ごした彼女との懐かしい出来事や最後に見た彼女の儚げなやさしい微笑みばかりで狂おしい程に思いばかりが募る。

会いたい。すぐにでも飛んで行ってもう一度彼女と…。

 思えばアリアの事は学院長に頼まれたことで世話を始めた。アレクサンデルに兄弟は居ないが妹のような感覚だったのかもしれない。わがままな妹に振り回されて、それでも愛おしいと感じる。きっと妹が居ればあのような気持ちになったのかもしれない。

 しかし、あまりにも大勢の前でひどく傷つけたクリスティーナに会わせる顔など持ち得ないアレクサンデルは、それとなくずるずると先延ばしにして顔を合わせることなくここまで来てしまった。

 アレクサンデルは改めて悔やんだ。そして、もはや悔やんでばかりの自分に、それしかできないのかと嫌気がさす。


「クリスティーナ!」


 ばたんと音を立てて扉を開いて入ったアレクサンデルが見たのは寝室に眠り続けるクリスティーナの姿。侍女が慌ててアレクサンデルを止めるが寝台に眠るクリスティーナを見れば止まれない。


「お待ちください殿下!お嬢様は…。」


 制止の声が聞こえたがそれどころではない。自殺を図ったと聞いたアレクサンデルは気が気ではなかったのだ。久しぶりに見た元婚約者のクリスティーナは少し痩せたように見えた。そっとその頬を撫でる。彼女の目の下には真っ黒な隈ができていた。


「ぅん……。」


 くすぐったそうにクリスティーナがもぞりと向きを変えてふと固まった。ゆっくりと開かれる瞳にアレクサンデルが映る。


「夢?」


「現実だよクリス。」


 アレクサンデルが告げるとクリスティーナの顔がみるみる赤くなった。寝姿を殿方に見られるなんて恥ずかしすぎる。


「あ、アレクサンデル様!やだ、どうして?」


 がばりと起き上がったが自分の姿を思い出したのか慌てて布団で体を隠す。めずらしく慌てた様子にアレクサンデルは思わずくすりと笑った。今までアレクサンデルが見てきたクリスティーナはいつも完璧な姿で何事も粗相なくやり遂げる人だった。

 それがこんなに愛らしく慌てる姿を見られただけでも来たかいがあったというもの。だが、今日はそんな事を確認しに来たわけではない。


「自殺を図ったと噂で聞いた。」


「はぇ?自殺ですか…。」


「違うのか?」


「違います。ただ、眠れなくて睡眠薬を規定より少し多めに飲んでしまっただけですわ。」


「駄目じゃないか!」


 薬を規定より多く飲むなどありえない。アレクサンデルは思わず大声を上げた。びくりと肩が揺れてクリスティーナはしゅんと項垂れた。


「ごめんなさい。」


「…私に謝ってどうする。全くなぜそんな事に。いや、私のせいなのか?」


 その言葉にそっとクリスティーナは目を伏せた。沈黙は肯定だ。目の前で切られたアレクサンデルを見たクリスティーナは不眠症になっていた。愛する人が目の前で血を流して倒れていくのを見たクリスティーナは目を瞑ればそれが脳裏に浮かんで眠れなくなってしまったのだ。

 アレクサンデルの看病をしていた時には起こらなかったこと。

 眠たいのに眠れない。それが続いてとうとう薬を使うようになったのだが、それも効きが悪くなってしまった。飲み続けることで耐性が出来たのだろう。飲むのを一旦止めるように言われたがとてもそれが出来る状態ではなかった。

 それで飲みすぎた結果ずっと目を覚まさないクリスティーナを誤解した侍女が慌てて医者を呼ぶという大騒ぎになったのだ。そして例の噂に繋がる。


「殿下のせいではありません。私が弱いのです。」


「今もそうなのか?」


「起きているときは大丈夫なのですが、眠ろうとすると…。」


「そうか。休んでいるところ悪かったな。ゆっくりと体を休めていいのだぞ?横になっているだけでも良いだろう。」


「それは、その。」


 殿下の前でそんな事はできませんとクリスティーナは言いたかったが体はだるく今にも倒れそうだ。アレクサンデル様のお言葉に甘える事にした。

 もぞりとベッドに横になるとアレクサンデルはそっとクリスティーナの手を握った。


「えっとアレクサンデル様?」


「なんだ?」


「手を…。」


「眠れるまで握っておいてやる。これなら私が無事だと分かるだろう?」


「…恥ずかしいです。」


「それとも寝かしつけてやろうか?」


「それは結構です。」


 子供扱いされてクリスティーナの頬が膨らむ。今日はクリスティーナの今まで見た事のない姿が多く見られてアレクサンデルは驚きの連続だった。アレクサンデルが握る手は冷たく冷えていたがすぐに暖かくなっていく。

 そしてクリスティーナが眠りにつくと愛おしい頬にそっと口付けた。やわらかな頬の感触にアレクサンデルはふと気が付く。

 指先へのキスはした事があってもこれまでクリスティーナに口付けた事がない事実に唖然とした。

 次の日の朝、小鳥の声でクリスティーナは目を覚ました。昨日はぼんやりとしていて誰かに会った気がするが定かではなかった。

 だからこそこの事態にどうしたら良いのか分からなくなったのだ。ずっしりとした重みが腕にかかっている。ふと視線を向ければ椅子に座ったままクリスティーナの手を握って腕に頭を乗せたアレクサンデルの姿があった。


「え?」


 薬も飲まずにぐっすりと眠れたのは久しぶりでクリスティーナの頭もすっかり靄が晴れたようにしっかりしている。

 ひとりあたふたするクリスティーナは侍女が事情を説明してくれたがどう考えてもこの状態は王子と一夜を共にしたと勘違いされるからだ。王子ともなれば責任をとらされてクリスティーナを望んでいなくても娶らねばならなくなる。

 せっかく望んでいない政略結婚を白紙にする事が出来たのだろうにクリスティーナは罪悪感でいっぱいになる。

 アレクサンデルからすればむしろ大歓迎な事態なのだがそんなことはクリスティーナには分からない。

 どうしようと慌ててもぞりと動いたおかげでアレクサンデルが目を覚ましてしまった。


「………おはようございます殿下。」


「おはよう。以前のようにアレクと呼んでくれクリス。」


 何でもないかのように返すアレクサンデルにクリスティーナは固まる。そして普通にしている王子を見て色々と考えていた事を放棄した。


「そうね。客室に泊まった事にすればいいのだわ。」


「何の事だ?」


 ぽそりと呟いたつもりがアレクサンデルにはしっかりと届いていた。気まずそうにクリスティーナはなんでもないという事にしたかったのだが、やはり頭の回転は早いようであぁという表情をしてクリスティーナに柔らかく微笑みかけた。


「クリスティーナ・ハウエル。」


「はい。」


「こんな状態で申し訳ないが、私と結婚して欲しい。」


「へ?け、けっこん?」


「クリスなしじゃもう駄目なんだ。私は1年前にやっとそれに気が付いた。こんな私を許してくれるかい?」


「わ、私で良いのですか?だって私の事なんて。」


 そっとクリスティーナの両手を握って跪く。


「そんな風に言わないでくれ。君以上の女なんて居ない。君が好きだ、愛しているクリス。ずっと傍にいて欲しい。」


「殿下…。」


「もう二度と寂しい思いはさせない。私に君の人生を共に歩む栄誉を与えてくれ。」


「私も貴方を愛しています。アレクサンデル様。」


 頬を染めて答えるクリスティーナは愛らしく思わずアレクサンデルはクリスティーナを抱きしめる。


「ひゃん。」


 がっしりと抱きしめられて思わず声が出る。薄い就寝用のドレスに身を包んだクリスティーナはここまでしっかりと抱きしめられたのは初めてだった。

 アレクサンデルの情熱の篭った瞳もこうして求められたことも初めての経験で嬉しいような怖いような奇妙な感覚が浮かんでくる。

 アレクサンデルの侍従が咳払いをするまでその状況は続いた。

婚約を再び交わして結婚をする。婚約してから半年アレクサンデルにとっては拷問のような時間だった。

 もともと結婚の準備を1年前に整えていたのである程度はすぐに準備が整ったのだがそれでも手順どおりに待たされる羽目になり日に日に愛らしくなっていくクリスティーナの傍で男としての誠意を試される事になった。

 その苦行の末、やっと夫婦となれる。一時は反対されることも多かったが反対する貴族たちを説得して回り、根回しを済ませて今日がある。

 純白のドレスに身を包んだ愛しいクリスティーナを同じく白の礼服で向かえる。


「綺麗だよクリスティーナ。」


「アレクサンデル様も素敵ですわ。」


 多くの貴族に祝福を受けながらアレクサンデルとクリスティーナは二人ゆっくりと歩みを進める。


「愛しているクリス。」


「私も愛しておりますアレク様。」


 もう二度と愛する人を手放すことはないと神に誓いを立てる。愛するクリスティーナに己の唇を重ねてその日二人は正式に夫婦となった。


 1年前の出来事は確かに一度二人を引き裂いた。


 だが、その出来事があったおかげで二人の距離は縮まり、真実の愛へと成長した。


 それは二人の心を傷つけもしたが、その分結びつきも強める結果となったのだ。


 乙女ゲームの結末は悲惨なものだった。だが、それによってアレクサンデルとクリスティーナは真の意味で結ばれた。

 その後の治世も安定しアレクサンデル王は妻と共に幸せに暮らした。アレクサンデル王は側妃も持たず、クリスティーナを寵愛した。

 二人の間には長男、次男、長女の3人の子がおり、優秀で聡明に育ったという。


‐END‐


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