メッセージ

好永アカネ

メッセージ

 見渡す限り、美しい青の世界だった。

 澄み渡るような青い空にいくつもの雲がたなびいている。雲は天に近付くほど白く輝いていて、地表ちひょうに向けた顔は眼下がんか情景じょうけいうつしたかのように青みがかったかげりをびていた。

 真一文字まいちもんじの水平線よりしたには、染みるような深い青色が広がっている。海だ。ところどころに落ちた雲の影が、大海原おおうなばら一層いっそう青く見せている。

 こんなに美しい景色を写真や映像以外で見たのは初めてだ。

 そう、まるで写真のようだ。

 私は足元あしもと見下みおろろした。

 私の足のしたには海が広がっている。しかし海の上に立っている、というのは正確ではない。なぜなら私の足は水面すいめんに触れていないからだ。私の体はちゅうに浮かんでいた。そしてなぜか目の前に、もう一つ私の体がある。

 もう一人の私は頭を下に向けて、手足を空の方角ほうがくに投げ出していた。やはり浮いているが、まるで重力にさからうかのように長い髪が上に向かって流れている。眠っているのかまぶたを閉じていて、指の一本、髪の一本すら微動びどうだにしない。

 目に見える全てが静止していた。さかさまの私も、雲も、海さえも。

 雲が動いていないのは、風が吹いていないからだろう。風音かざおとが聞こえないもの。

 海が動いていないのは、波が立っていないからだろう。波音なみおとが聞こえないもの。

 何も聞こえない。何も。静寂せいじゃくの中に、私の心の声だけがむなしく響く。


 これはなに? 私は夢を見ているの?


 唖然あぜんとしていると、頭上から間の抜けた声がってきた。

「あれぇ? 出ちゃってるぅ」

 見上げるとそれはすぐそばにいた。

 肌も、髪も、何もかも内側から輝いているかのように白い。実際そうなのだろう。心なしか輪郭りんかくがぼやけているし、わずかに空の青が透けて見えるような気もする。

 それは透明な一対いっついつばさを背中からやした、美しい女だった。

「え、天使?」

 反射的に声に出してしまった。それまで声を出せることを忘れていた。

「はい。そうですよぉ」

 天使はにっこりと微笑ほほえんで、手を伸ばせば届く距離まで近づいてくると、私と目の高さを合わせてちゅうに立ち止まった。

進藤しんどうミズキさんですね。えっとぉ、ご自身のこと覚えてますかぁ?」

 私は「なんだか随分ずいぶんおっとりした天使だな」と思いながらも、彼女の目を見て質問に答えようとした。

「はい。あの、どういう意味でしょう?」

「ときどき寸前・・たましいが抜けちゃう人がいるんですけどぉ、その時に自分が誰だったか忘れちゃうことがあるんです。あなたは大丈夫だいじょうぶそうですねぇ」

「はぁ」

「こっちは見ましたかぁ?」

 彼女はさかさに浮かんでいる方の私を指差ゆびさしている。

「はい。なんなんですか? それ・・

「ミズキさんの肉体にくたいですよぉ」

「えぇ? じゃあえっと……さっき言ってた魂が抜けちゃうっていうのは……」

「はい。ここから抜けちゃったのがあなたというわけですねぇ」

 彼女はここに来てからずっとニコニコしているが、私はとても笑う気にはなれない。

「どうしてこんなことに……それにここはどこなんですか?」

 私がうと、彼女は人差し指をあごに当てて考えるそぶりをした。そしてそのまま、指を頭上に向ける。

「あっち見てください。見えますぅ?」

 彼女の指差す先はもちろん、空だ。見上げたところでそこには雲しかない。

 いや、よくよく見ると、何か小さな黒い影が……

「飛行機?」

「ですです。ミズキさんはあそこから落っこちて来たんですよぉ」

「は!?」

 つい大きな声が出てしまった。

「あんなところから落ちたら死んじゃうじゃないですか!」

「はい。残念ながら、死んじゃいますぅ」

 彼女は再びさかさまの——私の肉体を指差した。

「あなたが肉体に戻るとまた時が動き出すのでぇ、ミズキさんはこのまま落下して、水面に叩きつけられた衝撃しょうげきでおくなりになることになってますぅ」

「そんなこと言われても……」

 目眩めまいがしてきた。彼女の間延まのびしたしゃべかたのせいで真実味しんじつみが感じられないが、本当なら到底とうてい受け入れられることではない。

「そもそもなんで落ちたりなんか……」

「ああ、忘れちゃったんですねぇ」

 彼女は、ぱんっとりょうの手のひらを打った。

「じゃあちょっとだけ上、見てきますぅ?」


 うながされるまま天使の手を取ると、スーッと景色がしたに向かって流れ始めた。

 どうやら私達の体が上空じょうくうに向かってのぼって行っているらしい。彼女の翼が動いているわけでもなければ音もしないので、何が起こっているのか最初はわからなかった。風などの抵抗ていこうを何も感じないのは、たぶん私が魂だからだろう。

 私達はあっという間に雲を抜けた。もう飛行機がすぐそこだ。

 彼女は開いている搭乗口とうじょうぐちを見つけると、そこまで私の手を引いて行ってくれた。

 中をのぞいてすぐにぎょっとする。搭乗口の両脇りょうわきに、目出めだぼうをかぶった黒ずくめの男が一人ずつ立っていた。どちらもニヤついている。

 奥には、肩まで伸ばした髪を茶色に染めた細身ほそみの少女が——

「カスミ!」

 ——私の妹が、別の男につかまっていた。男は妹のうしろから左腕を回して首元くびもとを押さえ、右手に持った拳銃けんじゅうを妹の頭に押し当てていた。妹は両手を前に伸ばして何かをさけんでいる。

 私は咄嗟とっさに妹にかけ寄り、拘束こうそくから助け出そうとしたが、できなかった。体がすり抜けてしまうのだ。

「思い出せそうですかぁ?」

 背後はいごから天使がのほほんと聞いて来る。私は振り返って言った。

「思い出しました。私はこいつらにそこから突き落とされたんでした」

 そう、突然のハイジャック。男たちはあろうことか妹を人質ひとじちにとった。私は助けようとしたのだが、当然かなわず、今にいたるというわけだ。

 ああ、無念むねんだ。

 私がしんみりしているのをあわれに思ったのか、天使が言ってくる。

「そのへんを一回ひとまわりして来てもいいですよぉ」

 お言葉に甘えることにした。

 機内きないには両親りょうしんもいるはずだ。こんな状況ではみんな無事ぶじむかはわからないが、顔を見ておきたい。

 私は霊体れいたいの特性をかして機内を一周いっしゅうした。ところどころに黒ずくめの男が立ってにらみをきかせているので、誰も動けないようだった。幸い今のところ犠牲者は私だけらしい。

 両親はすぐに見つかった。母は今にも泣き出しそうな顔をしていた。父はそんな母の肩を抱きながら、そばにいるハイジャック犯を鬼のような形相ぎょうそうで睨みつけている。

(お父さん、お母さん、ごめんね。私これから死んじゃうんだってさ)

 少しだけ感傷かんしょうひたってから、私は天使のもとへ戻った。

「じゃあ行きましょうかぁ」

「そうですね。ハァ。カスミのアイス食べてごめんって言いそびれちゃったな」

「あ、いいですよぉ。それくらい伝えても」

「え、いいんですか?」

耳元みみもとささやいてあげてください。ちょびっとならつたわりますからぁ」

「それならちょっとだけ……」

 私は妹に近づいて行って、耳元でゴニョゴニョと最後の言葉を伝えた。


 ちゅうに置きりの私のからだの元へ戻る道すがら、私は前々まえまえから気になっていたことを天使に聞いてみた。

「私はこれからどこへ行くんですか? えっと、死んだあとって意味ですけど」

「うーん、どこかに行くわけではないんですよぉ」

 天使は、まるで子供に言い聞かせているかのようにゆっくりと優しい声で言った。

「あなたはこれまで長い旅をしていました。あなたの魂は神様の御許みもとに帰るのです。私はあなたが帰り道で迷わないよう、おともするために来たのです」

「ということは、私が死ぬ時もそばにいてくれます? ちょっとこわくて」

「もちろんですよぉ。それに大丈夫です、即死そくしですから」

「それを聞いて安心しました」



——翌日、あらゆるメディアがある話題でり上がっていた。


達人たつじん少女、ハイジャック犯を撃退げきたい!』

 生還せいかんした進藤カスミさん(15)じゅうごさいは柔道黒帯くろおび

 インタビュー動画はこちら


「お姉ちゃんの声が聞こえたんです!

 銃を持ってるのはそいつだけだよって! だから私、無我夢中むがむちゅうで投げました! お姉ちゃんのかたきです!

 う……うわああんお姉ちゃーん! もう怒ってないから帰ってきてぇええ!」


 カスミさんら家族は不運ふうんにも旅行を終えて自宅に向かっている途中で事件に巻き込まれた。

 長女ちょうじょの進藤ミズキさん(19)じゅうきゅうさい旅客機りょかくきから転落てんらくして以降いこう行方ゆくえがわからなくなっている。現在も捜索そうさく中だ。

 カスミさんはミズキさんの好きなスイーツをたくさん用意して、帰宅を心待こころまちにしているとのことだ。ミズキさんの発見が待たれる。

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