ペンローズ
川野ほとり
第1話
幸田崇は息をついた。
色のついた記憶が頭を過る。
「――もし、三年後の今日、雪が降ったら」
記憶の中の彼女は続けた。
「私を迎えに来て。一緒に、街を抜け出そう」
空はその日にふさわしく、真っ青色をしている。幸田は、バスを待っていた。
いつも通学に使っていたバスだった。しかし、今日はいつもより、4駅長めに乗る。そこから、電車に乗り換えて、何度か下見に行ったあの街へ行くのだ。
不安はなかった。しかし、何かを忘れているような。彼はそこまで考えて、やめた。忘れ物をした気になるのは、いつものことだ。どこへ行くにも、何か忘れてないか、勝手に心配して勝手に安堵するのが彼の常であった。
「私達が、街を抜け出す。夜明けのタクシーもいいけど、初めての運転だっていいわ。とにかく、私達を止めるものは、何もない」
後ろを振り返る。思ったより列になっていたことに、気が付かなかった。彼はその長い列の先頭で、イヤホンをはずす。なんとなくきまりが悪かったからだ。
『なんとなくきまりが悪かった』幸田は地の文からその一節をつまみ出し、思う。
なんとなく、ばかりだ。と。
今までの決断も何もかも、なんとなくだった、といえばそんな気が、なんとなくする。
彼は、自分にはなんとなく、を区別するだけの技量がないのだと自覚した。
幸田の後ろに立つ、禿頭の男が、腕時計を睨む。
いや、彼だけでない。その後ろも、そのまた後ろも、皆いらついた面持ちで各々の時計を確認しては、舌を鳴らしている。
バスが遅れているようだった。
幸田はいつもどおり妄想にふけっているため、そのことには気がついていない。彼の立場上、気がついて、少しは焦ることが必要なのかもしれない。
「いずれ、知らない道に出るんだわ。知らない街、知らない建物。そこで、助手席の私が知らない人に聞くのよ。『ちょいとオニーサン、北はどっち』って」
幸田は左手に携えた英単語帳を再び開いた。かなり使い込んだのか、カバーはとうに無くなり、中の硬い表紙も傷だらけだ。彼は、そんな単語帳をえらく気に入っていた。
何度も読み返した例文。何度も赤い半透明のシート(もうなくした)で隠した単語。
幸田は緊張を自覚した。大きく息を吸う。体の中に入ってくる空気に、自分の中でその緊張の濃度、のようなものが下がっていくのを感じた。
そこで、後ろの禿頭の男が、気がつく。幸田に、声をかけた。
「兄ちゃん、時間、大丈夫なのか?バス、遅れてるけど…今日、受験なんじゃないのか」そう言って、左手首の高そうな時計を、幸田に向けた。
そこで彼は初めて時間を確認する。「え、嘘」
「こんなこと滅多にないんだけどな。ここのバス乗るってことは、京都駅までだろ?タクシーじゃないと、間に合わないんじゃないか」
幸田はすっかり焦っていた。「あ、ありがとう、ございます」そう言って、足元に置いたかばんに、手を掛けた。「気が付かなかった」
幸田は列の先頭から外れ、通りを駅の方向に、走り出した。
「兄ちゃん、頑張れよ」先頭に繰り上がった男が彼に親指を立てる。
「頑張ります!」
幸田は走りながら後悔した。
昨日見た映画が面白かったのだ。ほとんど勉強できず、そのまま寝てしまった。
はて、三年後のあの日、結局雪は降ったんだっけか。映画の内容さえ、もう忘れていたのだった。
「それは、大学側が悪い」
「もっともだ」
幸田と机、その上の鍋を挟んで、箸を上唇に乗せて遊ぶのは、元同級生、現ただの幼馴染、山田裕太だ。こたつに全身を埋めるように、座っている。「バスが遅れたのは、幸田のせいじゃないのに」
「『バス以外で来る手段も存在し、かつそれをしなかった』のが原因らしい」
「頭が硬えな!」
「だろ?母さんキレちゃって、もうほんと、死者が出るかも、と思った」
大学に談判をしに行くと、黒いスーツの役人に通され、小一時間に渡って僕たちに受験が無効となる理由を説明された。母さんは怒り出し、僕はそれを宥めるのに精一杯だった。
「いや、なんで母さんをお前が宥めてんだよ。お前がキレないと」
「そんなレベルじゃなかったんだって」
「まあ、お前の母さん怖そうだもんな。わかるよ」
山田はまだかな、と鍋の蓋を開けた。もわ、と湯気が飛び出す。まだ豚肉は赤かった。
「そうだ、山田。今更感あるけど、大学進学、おめでとう」
「お前に言われると、なんだか涙が出てくるな」山田は蓋を戻しながら、そう言った。
「泣いて喜べ」「そういう意味じゃないんだけど」
もともと、一人暮らしを始めた僕の家に、一人暮らしを始めた山田がガスコンロを持ってきたのは、彼の合格祝のためだった。幸田は渋々、肉をスーパーまで買いに行ったのだった。
「山田は、京芸だっけ」「うん」
山田は昔から絵が得意だった。小学生の頃は、幸田も彼の絵を見て、凄いもんだと感心していたのだが、まさか美術大学に行くとは。合格の知らせを聞いたときには、幸田も驚いた。
「どのへん?」
「北白川。けど、アパートはこの辺の借りた。安いし」
山田がまた蓋を開ける。「あんま開けると、煮えないぞ」「それもそうか」
豚肉はまだ赤い。
「でも、よかったよ。お前、意外と落ち込んでなさそうで」
「まあね。正直、受かる気はしてなかったし」
「国立だもんなー、すごいよ」
「受けてもないんだけどな」
幸田は蓋を開けた。
「「お」」
豚肉が食べごろになっている。
幸田と山田の間に位置するのは、小さめのこたつとその上の空の鍋だ。
「いやー、食ったな」山田は腹をさする。
「明らかに、2人分の量じゃなかった」
「お前、どこから鍋持ってきたんだ」
「どこって、家から」
「そりゃ、そうなるか…」
外には雪が見えた。もう三月の半ばだったが、季節外れの寒気と低気圧が日本を覆っていたのだ。住宅地だからなのか、はしゃぐ子供と、それを窘める親の声。
幸田と山田は目を見合わせた。
「エルザが引きこもりになるよな」幸田が呟く。
「アナがドアをノックするな。とんとととん、とんとん」山田は空でドアを叩く真似をする。
「やるか」
「浪人生の力、見せてやらあ」
こたつを抜け出し、腕を捲った。やはり寒かったので、袖は戻した。
雪の降りしきる夜だった。鍋を腹に入れ温まった彼らは、雪玉を転がし始めた。
「なあ、幸田」山田が積もった雪に倒れ込む。ボフ、と音がした。「俺たち、大丈夫なのかな」
「お前は、大丈夫だろ。受かったし」
「そうじゃなくて」
山田は手元の雪を丸め、雪だるまに投げつけた。外れる。「その上で、大丈夫なのかな」
「それは」幸田言葉に詰まる。彼の言葉からは、例えば幸田自身の境遇に対してとか、具体的な意味が欠落しているように思われた。「お前が、何を大丈夫と思うかどうかじゃないか」
「何を大丈夫、と思う、か」
「自覚の問題に持ち込むのは、ずるいか」
「ずるいな。お前らしいけど」
「何だよそれ」
閑静な地価の低い住宅街に、若者の笑い声が2つ響く。
「最近、思うんだよ」山田は、言葉を選びながら、慎重に話しているようだった。まるで、彼自身の本心のずっと深い海の底の、宝物を掬い上げるように。幸田はそう感じた。
「俺は、子供の頃、憧れた大人に成れてるのかな、って」
山田はまた雪玉を作り、雪だるまに向かって投げた。ちょうど鼻に、と突き立てた木の枝に当たり、鼻がなくなる。「昔の自分が今の俺を見たら、どんな顔をするか、とか」
空気の澄んだ夜だった。星の数がいつもよりやや多い。街はそんな空気を読むように、次々と各々の明かりを落とし始めている。
「まあ、小さい頃に何に憧れてた、なんてさっぱり覚えてないんだけどな」
夜十時のファストフード店はさほど混んでいなかった。
「京子は凄いよ、なんでそんなに平然とハンバーガーを頬張れるのさ」京子の前で友達の灯がシェイクのストローを咥える。
京子はいつもどおり背筋を伸ばし、ハンバーガーに噛み付く。「食べるときに平然も動揺もないでしょ?」
「それは、そうだけど。仮にも、花の10代よ?JKですよ?」
「それだけのことはしてる」
「それはそうかもしれないけれど…」
灯は携帯を取り出した。「モックのダブルチーズバーガー、四五〇カロリー也」
「ちょっと」
「ねがいましては」
「やめてよ」
京子が笑う。「いいの、塾帰りだから、疲れてるんだから」
「まあ、自己責任か…」
自動ドアが開く。入ってきたのはなぜかびしょ濡れの、二人の青年だった。なにか楽しそうに、話している。席が空いていることを確認すると、二人でレジに向かった。
「ねえ、灯。あの人たち、濡れすぎじゃない」
「たしかに。洗濯機ででも、遊んできたんじゃない」
「例えが雑ね」京子は悪態をつく。カロリー暴露の仕返しのつもりだった。
彼らは私達とは少し離れた場所に座ったのだった。
「そういえば、担任の広河原、結婚するんだって」唐突に灯がそんなことを言うので、京子は驚きそびれる。
「え?広河原?…まあ、妥当っちゃ妥当じゃない。あの人、三〇くらいでしょ」
灯は頷く。
「しかも、お相手はなんと」「なんと?」
灯は答えを発する代わりに、右手を差し出したのだった。
「はい、ここからは一文字に付き、ハンバーガーひとくち」
「高くない?まあ一口くらい、いいけど」
京子がその手にハンバーガーを乗せると、灯は大きく口を開け、かぶりついた。
「一口のサイズに言及しなかった私の負けか…」
「ふふほっほ」灯は親指を立てる。「口に物入れながら、話すな」
灯はまだ何かフゴフゴ言っている。
「え、なに?ポテト奢る?」
灯は笑いながら、大きく首を振った。やがて咀嚼は小さくなり、首の表面がうねる。
「―と、言うわけです。有料区間、終了」
「はい、ポテトはMでいいわ。買ってきて」
「嘘です、ごめんなさい」
そう言って灯は、別のクラスの友達から聞いたという、うわさ話をし始めたのだった。
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