冬を迎える朝は涼やかに

第12話 冬を迎える朝は涼やかに

「調子はどうだ。凉乃」


 寝台の上で横になっていたら、不意に馴染みのある男の声が降って来た。

 いつの間にか帰って来ていたらしい。優しい声に揺り動かされるように睫毛をふるりと震わせ、暗闇の中を歩んでいた瞼を開ければ、そこには見知った顔。

 あたしは寝台から身体を起こして男の名を呼んだ。


「ヴェル。帰って来てたんだねぇ」


「今、帰った」


「あはは、あたしはまぁた「出迎えもしないで!」ってメイド長に怒られるねぇ」


「怒らせはしない」


「あたしがそういうトクベツ扱いっての気に食わないの知っているだろう?」


 口元に笑みを浮かべながら、真っ直ぐとヴェルを見て、ハッキリとそう言った。

 ヴェルと呼んだ男は眉を顰めるのみで何も言わない。言わないのが彼なりの抵抗なのだと知ったのは、わりと最近だったような、そうでもないような。

 ヴェル――インヴェルノ・スパロウはあたしが居るこの屋敷の主。

 つまりはスパロウ家のれっきとした当主だ。

 ヴェル、なんて気軽に愛称で呼べるのは、なんてことはない。あたしがこの男の妻だから。

 この西の大国では珍しくもなんともない金色の髪に金色の瞳を持つヴェルは、それでも目を引くような優れた容姿と共に、高位の家柄の当主である。


 そんな大層な男の妻となったのだから、さぞやあたしも良い家の出だと思うだろう? そんな期待を裏切るように、あたしは東の小国の遊郭に売られたただの遊女だった。

 とはいえ、馬鹿に出来ない額を積んで貰わなければ手すら握らせないような……そんな地位にまでは登り詰めたけれどもね?

 まあ、そんな過去なんてどうでもいいさぁね。こんな夜も暮れた深夜に疲れて帰ってきたところに損ねてしまったヴェルの機嫌を直してやることの方が大事さぁね。


「ヴェルは今日も仕事かい?」


「……あの男は、まだこの国の頂点に立って居たいようだからな」


「そいつは大変だ」


 この国の王様は東の小国の遊女に興味を持ったのか、あたしは一度だけ謁見したことがある。

 ヴァンダーフェルケ国王は、あまりに醜かった。

 ナニ、容姿の話だけをしているのではないけれども、肥え太り道楽好きの愚かな王様だね、とも思った。その愚王に寄って集って甘い蜜を吸いたい腐った家臣の目は、あたしを『娼婦』以上には見て居なかった。

 仲の良かった者も居るだろうに、そんな者達とは表面上は繋がっていても、ヴェルは冷静に、自分に必要な者だけを見定めていたように思える。

愚王の甘い蜜に集る者達は勤勉に働くヴェルを愚かだと言う。でも、あたしはそんなヴェルだから惚れたのだろうね。


(それを言う機会がいつかあればいいんだけれどもねぇ)


 口に出して言ってやれたら良かったのだと思う。けれども言えない。理由と言えるほどの理由はきっと、このじくじくと蝕む肺の所為だろうかね。


『本当にお告げにならなくてよろしいのですか、奥様……』


 いつもは口煩くて、けれども心配性で、身分だけでは決して人間を見ない。そんなメイド長が心配そうにあたしを見て、そう言った。

 あたしはただ微笑んで、これでいいんだよ、と目尻を下げた。


『……旦那様はお可哀想です。旦那様こそ国王に相応しい器だと言うのに。あの陛下さえ居なければ、奥様だって……!』


 叫んだメイド長は、あたしが何も思っていないことを悟ると、静かに泣いていた。

あたしにはこの国の政治的な小難しいことや家柄なんかは分からない。けれども、ヴェルが寝る間も惜しんでいることをあたしは知っている。ヴェルが屋敷に居る間はあたしの部屋に居るのだから、知っているも何もないんだがねぇ。


「それで、今日はどうなんだ」


「至って普通だよ。ちゃあんと食事も摂ったさぁね」


「煙草は食事ではない」


「ふふ、バレちまったねぇ」


ヴェルはあたしが横になっている天蓋がついたふかふかの寝床の傍らに置いてある煙管盆を見て言う。あたしは誤魔化すこともなく笑った。


「頼む……。少しでも良い。食事を摂ってくれ」


「そのうちね」


「凉乃」


 諫めるような、懇願するようなそんな声にあたしは微笑んだまま、緩慢な動きでヴェルから貰い受けた煙管盆から煙管を手に取った。

 吸い口に口を付けようとした途端、煙管が取り上げられる。


「凉乃。私は大切な話をしているのだが?」


「あたしがこのひと吸いを出来ないまま死んだら、お前様は一体どうするんだい」


「……っ、滅多なことを口にするな!」


 腹の底から叫ぶ悲痛な声に、その顔に、あたしは目を丸くする。

 ただの冗談にしては度が過ぎたかと若干だが反省した。

 でも、とあたしは無意識に腹をさする。

 感覚としては少し前。あたしの腹の中に居た可愛い娘は今頃何をしているのか。もう随分会っていないから分からないけれども。

 少しでも長く、少しでも多く。あの子の傍に、ヴェルの傍に、――居てやりたかったのだけれども。


「――三千世界の烏を殺して、」


口にしたのは東の国では有名な言葉。ヴェルはなんのことか分からないのか、首を傾げていた。この言葉のあとに、あたしはなんとつけようか。

あたしを見下ろす夫に、あたしはまた微笑んで見せた。笑顔の記憶を、彼の脳裏に焼き付けたかったのかも知れない。


――そう思った瞬間、ごほごほと咳が出る。その咳に混じって咄嗟に覆った掌には紅い華が見事に咲いた。


「凉乃! 大丈夫か!? その血……やはり寝込んでいる理由はただの風邪ではないのだろう!?」


「いやだねぇ、あたしの旦那様は疑り深くて。ただの風邪だよ」


「……ただの風邪で、三ヶ月も寝込むか。凉乃、私がそんなにも信用ならないか? そんなにも頼りないか?」


 嫌なことでも払うかのように首を緩く振り、あたしの目線に合わせるように寝台に腰掛けたヴェルは、あたしの手を取った。その顔をはあまりに切羽詰まっていてなんだかおかしな気分だ。

 こんなに想われて、嫌な気分はしない。こんなに想われながら死ぬのも、きっと悪くはないのだろう。


「そんなことはないよ。お前様ほど頼りになる男は居ないね。何せ、あたしが選んだ男なんだから」


 信頼できるから、頼りにしているから、安心できる。

 あたしとヴェルとの間に出来た愛の結晶を、あの子のことを、決して無碍にはしないと。あの子のことをあたしと同じくらい愛してくれているのだと。

 あたしは信じている。信じて、――逝ける。


「凉乃……」


「お前様もどうかあたしを信じておくれ」


「……なぁ、凉乃」


「なんだい?」


「名を、私の名を呼んでくれ」


「……ふふ。そいつぁ突飛な願いだねぇ」


「茶化すな」


 怒ったような声を出すから、可笑しくて。そんなヴェルが可愛らしくて。

 真っ直ぐに、まるでこれが最期だからと焼き付けるかのように。

 ヴェルの金色の瞳の中にこの国では珍しい自分の黒い瞳が映るのを確認してから。


「ヴェル」


 そう、名を呼んだ。

 ああ、いとおしいねぇ。名前を呼んだだけでこんなにも胸がいっぱいになる男はきっと、生涯でこの男ただひとりだ。


「もっと、」


「欲しがりな」


 ふふ、と笑って。あたしはヴェルに強請られるだけ、あたしが根を上げるまで、いとおしい男の名を呼び続けた。

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