野ねずみキーニと月の旅人
叶 望
野ねずみキーニと月の旅人
野ねずみキーニはとても後悔していた。
小さな手足に長い尻尾、前の歯は大きく2本見え隠れしている。
ずんぐりとした身体は、ダンゴ虫のように丸くなったかと思えば、ぺしゃんこになって細い道とは言えないような狭い隙間に入り込んでしまう。
甘いものや硬いもの、特にチーズなどには目のない、あのネズ公。
それがどうして、こんなに落ち込んでいるかというと、事の始まりは繁栄の季節である夏の良く晴れた朝の事だった。
野ねずみたちはとある森にて、群れとなり長い長い年月をこの地で過ごしてきた。
代々その地を受けついで、生活していたのだ。
しかし、近年の地球温暖化とやらで、気温が狂い、季節感が崩れただけでなく、作物の実りは悪くなり、湖は干上がってしまった。
そこで生活していた彼らにとってこれほど大打撃な事は今までそうなかったのである。
野ねずみの中でも長老と呼ばれる歳経たねずみは、今年の冬は前の年よりも厳しい冬となり、この先の冬もまた、厳しくなる一方であろうとの考えであった。
一族のみんなで、南にある天敵は多くなるが、作物が豊富な土地へと移住する事に決まったのだ。
キーニはこの土地が好きだった。
特に、丘の上にある高い木の上に登って見る景色はお気に入りで、良くこの場所に来てはお弁当を食べ、お昼寝をして、風の音を聞き、空に浮かぶ雲を眺め、思いにふけっているのが大好きだった。
そして、大切にしている詩があった。
この地で伝えられる不思議な詩である。
『月が満ちる時、強き真の願い持ちたる者あらば、天空より白き月の使者舞い降りる。』
『望みあらば応えよ。されば救いの手が差し伸べられよう』
この地に住まう者達は誰に聞いたのか、みんな知っている。
不思議な詩は大抵の場合、単なる詩で片付けてしまうのだが、キーニだけは違っていた。
なぜか、キーニはこの詩が真実であると心から信じていた。
『月の旅人』という題名で知られるこの詩を、幼い頃必死にみんなに話をしたが、決まって大笑いされた。
いつしか、キーニはそれを心だけに留め、決して口には出さなくなったのだ。
いや、口に出さなくなったのはそれだけではない。
キーニは誰にも信じてもらえない事が、悲しくて自分の事さえも人には話さなくなっていた。
この場所にはキーニが大切にしているものが沢山あった。
それは、キーニだけに限らず、森に住む全ての生き物達もだ。
しかし、それを捨て去ろうとしている。
キーニは嫌で仕方がなかった。
そこで、キーニはとある計画を立てたのだ。後に心から後悔することになるなどとは、露とも思わずに。
計画といってもそう難しいものではない。単に群れが移動する半ばでこっそりと列から抜け出してこの地に戻ってくるというものだ。周りへの迷惑など全く考えていない。キーニは自分の想いのために戻ると決意したのだ。
さて、どうやって群れから抜け出そうか。あれやこれやと思考を巡らせる日々、キーニの思いなどとは関係なしに豊かな南の地に移動するためのルートが決まり皆に知らされることとなった。
この暑さですっかり川も水かさが減り、所々で乾ききった場所さえできていた。水が溜まっていたころには考えもしなかった道だ。本来ならかなり迂回しなければ南の土地へは向かうことが出来ない。
この時を逃す手はないと言わんばかりに一族大移動の準備が整えられていった。
そして「出発は明日の朝、日の出とともに出発する」という回覧が回ることになった。
明日には決行というまるで遠足の前の日のようにキーニは心臓の高鳴りで目がぱっちりと開き眠れぬ夜を過ごした。荷物は必要最低限に。キーニが風呂敷に包みこんだものは、水筒と家に残っていた僅かな食糧。南の土地への地図、着替えは歯ブラシなど。準備と言っても旅行へ行くようなものと同じだった。
何せキーニたちはねずみだ。
身一つでも生きていける。
ただ一つ旅行の持ち物とは別に持って行くのが一つだけ。
キーニの宝物だ。
小さいときに森を冒険していたキーニが見つけた丸い穴の開いたきれいな石。それがこれまで唯一大切にしていた宝物だった。
どこで見つけたのか同じ場所には決してたどりつくことが叶わなかったのだが。その石はいつの間にかキーニの手の中にあった。
その場所で何があったのか覚えていなかった。思い出そうとしてもきれいな白い光しか浮かんでこない。気が付くと森の中にある自分の家の前にその綺麗な石をもって立っていたのだ。キーニはその時のことを素敵なものを手に入れた大切な思い出の一つとして片づけていた。
キーニが大切にしている宝物の石は、丸くて世界の美しい所をすべてその中に閉じ込めたように美しかった。
とても不思議な石だ。
それを大切に荷物の中に収めてキーニは仲間たちの待つ集合場所へと向かった。集合場所になっているところは森の中でも開けた場所でキーニたちは広場と呼んでいた。
その広場にはすでに多くの仲間たちが集まっており、日が昇るころには見ただけでは数を数えることができないであろう程の数の仲間たちが集まっていた。
それぞれのグループで点呼をとり日の出とともに野ねずみたちの大移動がはじまった。大勢で移動する様を上空から見ればまるで黒い蛇がのそのそと移動しているように見えるだろう。
これはもちろん意図してのことだ。ねずみは身体が小さく天敵も多い。だからこそこうして集まって移動することで天敵から襲われる可能性を少しでも減らそうとしているのだ。
草をかき分け野を進み、丘を緩やかに降って森を抜け慣れ親しんだ住処を失う悲しみと新しい場所への期待をそれぞれの胸に秘めて南へと移動していく。南の土地への半ばである川にたどり着くころにはすっかりと日は暮れて今まで降るそぶりさえ見せなかった雲は暗く重く垂れこめていた。
森の空気が変わったと思った時にはぱらぱらと小さな雫が落ちてきた。
雨だ。
雨はキーニたち野ねずみにとって恵みの雨であると同時に体にかかれば冷えて弱ってしまう危険なものだ。下手をすれば病にかかって簡単に死んでしまう。雨が降り始めたのを皮切りに列をなして移動していたはずの野ねずみたちは一目散に駆け出した。
まさに蜘蛛の子を散らす様とはこのことだ。
我先にとばらばらに川の乾いた場所を渡った先の森の中へと消えていった。雨宿りのためでもあり、また川が水で溢れれば今最短である南の地への近道を使えなくなるという理由もある。
ただキーニにとってこの雨と日の沈んだ状況は絶好の抜け出すチャンスだった。
近くに落ちていた木の葉を傘の代わりにして雨をよけ来た道をまた辿っていった。緩やかな丘を登り、野を超えて、自らが慣れ親しんだ大好きな森へと戻っていった。
キーニはこの時勝ち誇ったような顔をしていた。
幼い子供がいたずらに成功した時のように楽しげに笑った。軽々と身を走らせ風のように、鳥のように鼻歌を歌いながら森を進んだ。まさにこれぞ人生最良の日だと言わんばかりの歓喜が体と心を満たしていた。
これほどの高揚感が今まであっただろうか。
他のものが見ればひとりではしゃいで喜んでいる愚かな道化にすぎないのだが、そんなことには気づかずにキーニは喜びに浸っていたのだ。
しかし楽しいのも束の間。何事にも終わりはやってくるものだ。キーニは自分でも気づかずに仲間たちへと期待していたのかもしれない。
きっと自分がいないと気付いて探しに来てくれるとか移動するのを取りやめて戻ってきてくれるという期待だ。
そんなことがあるはずがないのにキーニは気付いていなかった。そもそもそんな期待を心の奥底で持っていたなんて自分でも気付いていないのだから。
当然のことながらたった一匹の仲間のために移動をやめることなどあるはずもなく、また雨で川嵩が増したために川を渡ることが出来ない時点で戻って探すと言う選択肢は既になかったのだ。
そんな事とは知らないキーニは知らず知らずの期待に自分自身が気づくのも時間の問題だった。期待も過ぎれば不安と恐怖になる。仲間たちと別れて一日二日、三日と続けば楽しかった気持など微塵もなくなり五日も経つともはや絶望と悲しみの気持ちが心の大半を占めることになった。
今では自分の愚かな行動に対する後悔しか残っていない。
そして七日目の朝、とうとうキーニは耐え切れずに仲間たちと別れることになった川に戻ってきたのだ。しかし戻ったキーニは絵の前にある現実に愕然となった。
水が干上がっていたはずの川は連日の雨で大きな流れを持つ川へと変わっていた。キーニは目を大きく開き、口をあんぐりと開けて固まっていた。
誰も探しに来ないのは当然だ。
一匹でもいないと分かれば探しに来るのが世の常という仲間意識を持って暮らしていたはずの仲間たちは戻ってくることが出来なかった。戻らなかったのではなく戻れなかったのだ。キーニは目の前の現実をうまく受け止めることが出来ずにいた。
これは夢だ。
長い長い悪夢を見ているのだと思いたかったが、どんなにあがいても現実は変わらない。目の前の雄大な川を見るまではいつでも戻れると高を括っていたのだ。希望があったのだ。いつでも行けるから大丈夫という思いはもはや叶わぬ夢となった。
この川以外に進む道は遠く険しい。雨のおかげで元気を取り戻した川はキーニにとって気性の荒い龍や大蛇のように見える。この川を一人で泳いで渡る勇気などは流石にない。川に入れば死は確実だった。
小さな野ねずみであるキーニには無謀なことだ。
キーニは一言も発さずに住み慣れた森へと戻っていった。
出かける時は不安だけだったが現実を知ったキーニの頭は項垂れ、涙を流しとぼとぼと歩いた。大好きな丘の木の上でひとり。ぽつんと小さく木の枝の上でキーニは後悔していた。
悔いても、悔いても悔やみきれない思いが心を占めていた。
苦い思いが泥となって心に積もっていく。
キーニは完全に取り残されたと悟った。誰もいない悲しみと切ない気持ちでいっぱいになった。もう二度とみんなに会えないかもしれない。絶望。愚かな過ちは既に取り返しのつかないところに来てしまった。
自分自身への怒りと悲しみは涙となって流れていった。たったひとりで冬を越すなどきっとできない。悲しい思いが溢れそんな気持ちを慰めようとキーニは宝物の小さな丸い石を取り出して眺めた。
小さな石の小さな世界。
仲間の影でも見えないかと、そんな気分に浸ってみたがそんなことが起こるはずもない。映るのは一匹の哀れな野ねずみだけだった。
キーニは一匹になって初めて大切なことを知った。あれほど大切に想っていた場所に居ても以前のような楽しさや温かさがすっかり抜け落ちてしまっていることだ。大切だったのは仲間といる場所。それこそがキーニが大切に想っていた場所なのだと。仲間がいて家族がいる。そこが居場所であり心の拠り所であったということを今になって知ったのだ。
すべてはキーニの意地っ張りで愚かな性格が災いしたことだ。
そしてキーニの臆病な性格が仲間のいる場所へ向かう勇気を奪っていた。遠回りしてでも仲間の場所に向かうと言う子とされできなくなっていた。
「みんな遠くに行ってしまった。自分は今やたったひとりだ。」
キーニの目から大粒の涙が一つ零れた。
辺りは既に暗く夜の闇が空を黒く塗りつぶしていた。まるでキーニの心を反映するかのように。零れた涙は雫となってキラキラと光って見えた。夜に浮かぶ星々のようにキラキラと涙はキーニが大切に持っていた丸い綺麗な石に当たって砕けた。
それはまるでキーニをあざ笑っているかのように思えた。
キーニは石をじっと見つめた。先ほどまでの苦い表情ではなく、驚きの表情でだ。
キーニの落とした涙の辺りから少しずつ白い光が見えた。空の月を映す鏡のように光る石。その光は波紋のように広がっていく。目の離せない不思議な現象にキーニは瞬きひとつせずに見つめていた。
その光は石を中心に広がるとまっすぐ上に向かって伸びていった。
キーニには登っていた木から慌てて飛び降りた。光は一点を指し示している。黒い闇に浮かんだ真っ白な丸い月。満面の月が大きく優しい光を讃えていた。キーニはその月が石の放った白い光を受けてまばゆい光を放つのを見た。
はじめは小さかった光が次第に大きく眼前に広がりその光の中から不思議な生き物が姿を現す。長い耳、赤い瞳をもった白いうさぎ。その瞳は真っ赤というよりも夕焼けを映したような優しい色を持っている。肩にかけた茶色の鞄が旅人らしさを醸し出している。ふわりとした風貌でゆっくりとキーニの目の前に降り立った。
この時、キーニはこの地に伝わる詩を思い出していた。『月の旅人』そして同時に手に持っていたきれいな石の宝物を見つけた時の情況が頭に浮かびあがってきた。なぜ忘れていたのだろう。この状況はあの幼い時に見たものと同じだ。キーニは幼いころに月の旅人に会っている。
その時は森の中で迷子になって彷徨っていたのだ。冒険するつもりで森の奥に入り込んだ幼いキーニは右も左も分からなくなるほどに歩き回って疲れ果ててしまった。疲れてもう一歩も歩けないと座り込んでいた。
あの時の空にはたくさんの星が流れていた。流星群のように見えた星の光はキーニの目の前に落ちてきた。くたくただった幼いキーニだがそれまでの疲れが吹き飛んだかのようにびっくりして素早く避けた。しかし星だと思っていたものは空中で浮かんでふわふわとキーニの目の前を漂っていた。ふと力をなくしたかのようにぽとりと落ちたもの。それはキーニが大切にしていた丸い小さな石。
それを手に取った時にまばゆい光が辺りを照らして今と同じように『月の旅人』が現れたのだ。そして目の前の白いうさぎはとても静かに落ち着いた声で言った。
それは凛としたまるで鈴のような、せせらぎか風のような美しい音色。
『強き真の願いを持つものよ。望みあらば応えよ。』
あの頃と寸分も変わらない声で、変わらない姿でうさぎは言葉を紡いだ。いや、声と言ってもうさぎが喋ったわけではない。声は頭に直接響いてきた。
キーニはしばらくその姿をポカンと眺めていたが、キュッと口を閉じた後、自身の願いを言葉にした。
「どうか皆のいる場所へ向かう勇気と力をください。」
荒れ狂った川を超える勇気を、仲間の元へ戻る勇気を。その先に進みたいという気持ち。切に切に祈るように言葉にした。うさぎは只静かにキーニの言葉を聞いて、こくりと頷いた。
そしてふわりときたときと同じままの体勢で飛び上がった。音もなく月と重なりそこで動きが止まった。肩にかけた鞄の中から銅鏡を取り出すと月の光を集めるかのごとく掲げた。
『願い叶えたくば応えよ。』
その言葉を紡いだ瞬間に鏡から強烈な光が放たれた。
眩しい光に思わず目をつむったキーニが目を開けるとそこには初めから何もなかったかのようにいつもと同じ景色があるばかりだった。まるで夢でも見ていたかのように辺りはしんと静まり返っている。空にはぽっかりとした白い月が浮かんでいるだけだ。今のは夢か幻か。
キーニはバクバクと音を立てている心臓の音を鎮めようと息をついた。口はからからに乾いており、なかなか落ち着かない。それは先ほどの夢のような時間が嘘ではないと物語っているようだった。
しかし息をついたのも束の間、静寂は唐突に破られた。
月に向かって啼く声が一つ。ひときわ大きく巨大な力を持つ獣の遠吠えが響き渡った。キーニは身をこわばらせた。夜。それは夜行性の動物たちの時間。
彼らは昼に身体を休ませ夜に動きを活発にする夜の支配者。目をぎらぎらと光らせて音もなく忍び寄るハンターだ。キーニのように小さい動物は見つからないように隠れていなければ捕まって食べられてしまう。
急いで身を隠さなければと思ったが、今夜は満月だ。明るすぎる光は既にキーニを食卓の皿に乗せていた。
まさにまな板の鯉ならぬ野ねずみだ。
キーニは草陰に光る無数の光る眼を見た。逃げなければと頭の中に警戒音が鳴り響く。どうすればいいかなど考える間もなく全身で危険を感じ取ったキーニはその場から飛び退って脱兎のごとく逃げ出した。
どこへ向かうとも知れずがむしゃらに。どこに向かうか、どう逃げるか、そんなことは頭からすっぽりと抜け落ちてただ走った。
何も考えずにあるのは逃げるという言葉だけだ。キーニはひたすら走った。形振りなんて構わずに今までにないというほどに全身の筋肉を使って駆けた。どんなに走っただろうか。体中から汗が噴き出して息を吸うたびに悲鳴を上げ熱がはしった。
身体は既にきりきりと鳴り、心臓は早鐘のように響いている。まるで体全部が心臓になったかのような錯覚を覚えた。
それでもキーニは止まらずに走り続けた。
後ろを振り返るなんて到底できそうになかった。少しでも振り返ろうものなら鋭く黒い影がキーニを間違いなく引き裂いただろう。キーニは必死で走ったが後ろに迫る影は確実にキーニの元へ近づいてきていた。キーニは後ろに死が迫ってきているのをひしひしと感じられたが止まることはなかった。
闇雲に走ったキーニは自分が今どこにいるのかさっぱり分からなかったがどうやら、夜のハンターたちによって見事に誘導されたようだ。
いつの間にかキーニは崖の上に立っていた。
じりじりと迫りくる獣と後ろに下がろうにもさがれない状況。崖の下には川があった。ごうごうとうねりを上げて水が大きな流れを作っていた。あの先に仲間たちがいる。キーニは直感的にそう感じていた。
だが、そこへ向かうことさえできないことも同時に理解していた。キーニに残されていたのはこの場で喰われるか、崖から落ちて川に叩きつけられるか二つに一つの情況だった。要はどう死ぬかだ。絶望ともいえる時間。
しかし獣の群れは歩みを止めることはない。むしろあざ笑うかのように時間をかけてじっくりと追いつめられているのだ。
キーニの小さな命は今まさに消えるかに思えた。
一瞬のはずである時間がキーニにはひどく長く感じられる。月明かりは夜の闇を優しく照らしてキーニを追い詰めた獣の姿を露わにしていた。
黒と白の間をとったような灰色の毛並。金色に光る瞳と大きな赤い口。中には白く先のとがった牙が並び、だらりと垂れた赤い舌と食事を前にしててらてらと涎が滴っている。犬よりも大きく尖った顔をした狼。
それが食べても大して腹は満たされないであろう小さな野ねずみを久しぶりに見たごちそうであるかのように追いかけてきたのである。涎さえ見なければその立ち姿は絵に描いたように美しい。
キーニは息をのんだ。
狼は体制を低くしてゆっくりと品定めでもするかの様に近づいてきた。ある一定の距離まで来ると狼はぴたりと歩みを止め力強く大地を踏みキーニに向かって駆けた。狼に食われるくらいならとキーニは思いっきり後ろに飛んだのと同時にガチリと狼の歯が空ぶった音を聞いた。狼は崖から急速に落下していくキーニを恨めしそうに見ていた。
キーニは落ちていった。
崖はずっと下まである。このまま永遠に落ち続けるような長い時間をただ落ちていた。実際にはものすごい速さで落下していたのだが、キーニにはそれが永遠にも感じられたのだ。キーニは仲間に到底届くとは思えなかったが最後の別れの言葉を口にした。音にもならない程の擦れた息が出た。
キーニは決して目をつぶろうとせず最後の最後までこの美しい世界を目に焼き付けようと必死に目を開けて見ていた。
美しい月が見えた。
満月。決して何者にも踏み込むことが出来ない聖域のように感じる。その月はキーニを優しく照らしていた。崖の底が見え川の音が大きくなってきた。時間だとキーニは悟った。
その時、びゅうと風が唸った。風は突風となり周りのモノを巻き上げた。一陣の風は小さなキーニの体をも巻き込んでぶわりと宙を彷徨う。
キーニは空に投げ出され、見事に遠くへ飛ばされた。
キーニの目の前には風で同じように飛ばされてきた葉っぱがあった。キーニの体よりもずっと大きな葉っぱだ。キーニはまるで早くこれにお乗りなさいと言われているような不思議な感覚に包まれた。わたわたと宙をかき、葉っぱの上に降り立った。とは言ってもキーニも葉っぱも風に煽われて浮いたままではあったが、必死にしがみついていた。
葉っぱは舞う。
キラキラと輝く風の精霊のように、鳥の羽のように軽やかに。
その中の一つにキーニは乗っていた。背を低くして葉にぴったりと寄り添っていた。誰かがそれを見たならばまるで空飛ぶ絨毯か円盤にでも乗っているかのように映っただろう。上空からの旅はとても美しく楽しそうに思える。それをしている本人からすれば恐怖以外の何物でもない。
しかし恐怖と同時に奇妙な感情もわいてくる。空を飛んでいるという事実に初めて冒険した時のような憧れとワクワクした気持ちが。地上は段々と近づいてきた。ふわりふわりと空を飛びながら、キーニの乗る葉っぱは大きくパラシュートのような役割を果たしていた。
そして見事に川へ着水した。
パシャンと水の跳ねた音がしたが、特に気になるほど濡れることはなかった。水に揺られてゆらゆらと川を降っていく。
だいぶ流されるのに慣れてきた頃、キーニは自分が落ちたはずの崖を見上げた。川のずっと上の方にその崖はそびえ立っていた。山を荒く削ったような急な斜面は天から降った雷が大地をぱっくりと割ったようにも見える。
あんなに高い所から落ちてきたのかと思うと改めてキーニは身ぶるいした。
運よく風がキーニを運んでくれなければ今頃とっくにあの世へ召されていただろう。ゾクリと首筋に冷たいものがはしった。
あの時キーニは死を覚悟した。だが今はどうだ、必死に生にしがみつこうとしている。生きている。キーニは今までにないほどの生への実感が湧いていることに気付いた。こんな所で死んでたまるかという思いが全身から満ち溢れている。死ねない。川にだって負けるものかとキーニは思った。
何が何でも生き延びてやる。強い想いが確かにあった。
キーニは周囲を見渡した。川はうねりを上げてあちらこちらで跳ねていた。このままただ流されているだけではまずい。キーニは何かないかと探していた。
ふと木の枝が目に留まった。アレを使えば向きを変えるのに良いかもしれない。キーニは手を伸ばした。やっとの思いで木の枝を川から拾い上げた。なんだかとっても重たい。木の枝の先にひものような何かが絡みついていた。キーニはそれをグイッと引っ張った。パシャンと音を立てて何かが飛び上がった。
それは水の中を移動してキーニの傍に顔を出した。
ナマズだ。枝に髭が絡まって取れなくなってしまったらしい。キーニは快く木の枝から髭を取り外した。
木の枝に引っかかるナマズ。随分とドジなナマズもいたものだ。ナマズはキーニが仲間の元へ向かっていることを知ると、力を貸してくれそうな友達がいると言って潜っていった。
しばらくするとナマズは友達のカメを連れて戻ってきた。大きな亀だ。その亀の背に乗せられて、かつて渡らずに仲間と別れた場所についた。
カメのおかげで無事に川を渡ることが出来たキーニ。ナマズとカメに心からの感謝をこめてお礼を言った。これでやっとみんなの元に戻れる。キーニは大喜びで仲間たちの元へ向かっていった。
案の定、仲間の野ねずみたちは心配しており、説教もされたがキーニは決して苦ではなかった。
こうして、キーニは無事に仲間の元へたどり着き、幸せに暮らしましたとさ。
――――――
夜空にはぽっかりと丸い月が浮かんでいる。
月にはうさぎが住んでいる。昔から言われていたことだ。
そう。月には旅人のウサギが住んでいた。
うさぎは時折気まぐれで下界に降りてくる。今回もそんな気まぐれの一つだった。
昔に出会った小さな野ねずみ。迷子になって泣きそうになっていた。あの時幼子を家に届けたのもほんの気持ちがそう仕向けただけだった。大きくなった野ねずみはまたしても一人で迷子になっていた。ほんのちょっと気になって助けただけだ。
しかし悪い気持ちではない。
かつては多くの地の民が願い事をして叶えてくれる存在を望んだ。天に生まれた願いの権化。その存在は信じるものが多ければ力も強くなる。
しかし、だんだんとそれを信じるものがいなくなってきている。
かつてのような力は既にその存在にはもうない。
姿も本当はうさぎなんて形ではなく、見るものによって変わる。
そう。願いそのもの。
それがうさぎの正体だった。
熱心に願い、存在を認めてくれたのもまた野ねずみのキーニ。手を貸すにふさわしい存在だった。
ふと、背後に気配を感じて振り返ると、鈍色の狼の姿をした存在が姿を顕していた。そう。キーニを追い立て崖から落としたものだ。野ねずみ一匹を執拗に追いかける振りをしてキーニに試練を与えた。
彼もまた、地の民によって生み出された願いの権化。
月のうさぎと太陽のおおかみ。この二匹はそれぞれ長い年月を経て力をもった精霊のような存在だ。願いそのものと言ってもいい。地の民は月と太陽に願いを込めた。
そしてこの二匹は自身の存在を認識して以降、共にあるのだ。
力は失われつつある。それでも僅かな力で地の民をこうして見守っている。
-END-
野ねずみキーニと月の旅人 叶 望 @kanae_nozomi
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