佐藤先生の傘

 僕は、傘だ。

 高校の傘立てに無造作に立てかけられていた、何の変哲もないビニール傘。


 僕の持ち主は、これまでなぜか何度も変わった。

 ある雨の日にどこかの傘立てで一緒になったカラフルな花柄の彼女は、「私の持ち主は買ってもらった時から同じ人よ。とても大切にしてくれるの」と嬉しそうに微笑んだ。

 え?じゃなぜ……そんなことを考える僕を掴んだのも、さっきまでの持ち主とはまた違う男だった。


 そうやって流れ流れて、僕はある高校の傘立てに置き去りになった。



 まだ少し肌寒い、春の夕暮れ。

 この学校の校長先生が、花束を抱えて昇降口へ降りてきた。

「……あ、雨降ってきてしまったな」

「佐藤先生、この傘使ってください。もうずっとここに置きっ放しなので」

「え……でも、もう退職したら学校にも来ないしなあ……」

「いいじゃないですか。この傘もここでひとりぼっちでいるより、誰かに使ってもらいたがってますよきっと」

 用務員のおばさんが、そう言って先生に優しく微笑んだ。



 そうして、僕は佐藤先生の家にやってきた。



 でも、先生は学校を退職してから、ほとんど家を出なくなった。

 ただ静かに本を読んで、時々寂しそうに窓から外を見て……そんな毎日だった。

 時々奥さんに外出に誘われても、小さく微笑むばかりで動き出そうとしない。



 せっかく佐藤先生の傘になったのに。


 ——そして、先生の顔は、日に日に笑顔を忘れてしまうように見えた。




 小雨の降る、秋の朝。

 僕は決意した。


 出せる限りの力をふり絞って身体をゆすり、新聞を取りに外へ出ようとした先生の足元に、傘立てごとドサッと倒れた。



「……」


 どこか不思議そうな顔をしながら倒れた傘立てを直そうとした先生は、ふと手を止めて僕をじっと見つめた。



「……高校の傘立てにずっと住んでたんだよな、君は。

 よく見ると、綺麗な水色だ」


 先生は、ふっと優しく微笑むと、ごつごつした手で僕を握った。


「今日は、ちょうどいい雨模様だし。

 一緒に散歩でもしようか」



 僕は、ありったけの笑顔を彼に向けた。




「仕事を辞めるまで、気づかなかったよ。

 君を叩く雨の音って、とてもいい音なんだな……しかも、落ちてくる雨粒をこうして傘の下から眺められるなんて。

 ビニール傘くん、気に入った。君といると、雨の日の散歩がこんなに楽しい」


 雨の中を歩きながら、佐藤先生は子供のようにはしゃいだ笑顔を浮かべる。



 あのカラフルな花柄の子の幸せそうな微笑みの意味が、わかった。

 こうして誰かに愛してもらうこと、そしてその人のために働くことが、こんなにも幸せなことだなんて。



「——あ、そうだ。

 そこのコンビニで、母さんに甘いものでも買って行ってやるか」


 楽しげにそう言って、先生は傘立てに僕を立て、自動ドアの中へ入っていった。



 その途端、激しい不安が僕に襲いかかった。


 そう言えば——

 僕は、コンビニの傘立てでしょっちゅう持ち主の顔が変わったんだ。

 今こうしているうちに、別のやつが店から出てきて、僕を掴んで持ち去るかもしれない。



 ——嫌だ。


 先生……!




 恐ろしさに身体が震え始めた僕を、誰かがぐっと握った。



 すいと持ち上げられると同時に、僕の身体に何だかくすぐったい感触が走る。


 ——佐藤先生の優しい声が降ってくる。



「君が誰かに持って行かれたら、悲しいからね。

 油性のサインペンを急いで買ってきたよ」



 そう言いながら、彼は僕の柄の部分にしっかりと書き込んだ。

 達筆の、大きな大きな「サトウ」の文字を。






 この日から、僕は佐藤先生の傘になった。

 やっと、この人だけの傘に。




「ああ、今日は雨だな。……よし、散歩にでも行こうか。

 母さん、行ってくるよ」




 そしてこれからもずっと、雨の日の散歩は先生と一緒だ。






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