怖い話2【日常】

雨間一晴

第1話 窓

 がちゃ


「おかえりなさい!あなた」


「うわ、う、うん、た、ただいま……。ちょっと、苦しいってば」


 マンションの玄関が開けられると、女性が男性に飛びついた。まだ新婚なのだろう、汚れ一つ無い玄関と、子供が欲しい物を買ってもらえる時のテンションで、夫を出迎える態度が、それを物語っていた。


「もうすぐ帰るって連絡くれたから、インターホンのカメラで、ずっと見ながら待ってたのよ」


 女性は得意げに言うと、旦那の腕を引っ張った。待ちきれないようだ。


 首に吸い込まれるように、曲線を描く栗色の髪の中、右側だけ覗く、はっきりとした眉毛が嬉しそうに跳ねていた。左側だけにまとまっている前髪に、片目が隠れるのもお構いなく、愛する人の腕を引っ張っている。首までの後ろ髪も楽しそうに踊っている。

 二十代である事を主張するように、丸くぶどうの様に水々しいほほが赤く染まり、ぷっくりとした唇に、長く通った鼻筋、切長のパッチリとした目を持つ顔は、テレビに出ていても、おかしくないだろう。黄色いエプロンに、白いTシャツが玄関を照らしていた。


「それはありがとう。待って待って、靴脱ぐから、どうしたんだい?」


 男性は玄関ドアより少し低い身長で、腕にしがみ付く妻の倍はありそうにすら見えた。

 彫刻の様に整った顔立ちに、大きな鼻は日本人離れしていた、困った様に照れて上を向く眉毛の下に、知的な細い目が笑っていた。

 狭いひたいに少し黒い生え際が見えるまま、後ろに流された髪は、かなり出来るサラリーマンといった感じだ。腕を引かれ、前髪が一つ垂れてきている。


「こっち、こっち!」


 腕を引っ張られるままに、廊下を抜けていく。途中にあるトイレや洗面所には、立ち寄らせるつもりはないようだ。

 十二畳のリビングに連れてこられた旦那に、付けっ放しのニュースを見る暇は無さそうで、青い革張りの二人がけのソファーの前でテレビが喋り続けていた。


「なになに、そんなに慌てて、どうしたんだ?」


「見てよ、これ!」


 新妻は結婚指輪がはめられた手で、落ち着いた茶色のカーテンを勢いよく剥がす。


「うわ、これは酷いね」


「ね!ね!ヒドイでしょ!」


 窓には、外から勢いよくセミがぶつかったのだろう。嫌悪感ある下手な落書きのように、窓が汚れてしまっていた。


「カレー作ってる時に、すごい音がして、私びっくりして、お鍋の中に、お玉落としちゃったんだから!」


「それは大変だったね、今日はカレーか、楽しみだ」


「なに呑気な事言ってるのよ、私が虫ダメなの知ってるでしょ。お願い、掃除、ね?」


 うるうるした目で下から、子猫のように訴えられた旦那に、拒否権は無いようだ。

 

「わかった、わかった。掃除は僕がやるから、君はカレーね。いつも美味しいご飯ありがとう」


「な、なに突然、褒めたって何も出ないわよ」


 新妻が背伸びをして、軽く口づけの音を鳴らすと、キッチンに嬉しそうに小走りしていった。


「やれやれ……」


 旦那が照れ隠しの苦笑を浮かべながら、ソファーの後ろにある食卓用の、四角い白い木のテーブルに、結婚指輪をそっと置いた。四つの椅子が座られるのを待っている。


(汚れるといけないからな)


 そう大事そうにテーブルに置いた指輪に微笑みながら、スーツから灰色のスウェットに着替えた。

 携帯にイヤホンを差し、ロックを聞きながら、手際良く水を入れたバケツとスポンジ、洗剤を持って、ベランダに置かれたままの、白いビニールサンダルを履いて外に出た。


 十階建てマンションの二階から見える景色に、開放感は無い。都会の慌ただしさを忘れたように、街に容赦なく生えたビルやマンションは、何も言わずに上を見ていた。微かに東京タワーの先端が見える。


(これはひどいな、ついでに窓全体も掃除するか)


 ベランダは、リビングの隣の寝室まで続いていて、窓はそれぞれ一つ。リビング側には、哀れなセミがバラバラに張り付いて、直視したくない光景だった。


 スポンジをバケツに入れて、洗剤を窓に吹き付けながら、ふと、室内を見た。

 リビングの中にあるキッチンで、新妻が、首を軽快に振りながらカレーの入った鍋を混ぜていた、何か音楽でも流しているのだろう。


 旦那は少し、その様子を見ていた。

 新妻が、それに気づき、片手にお玉を持ったまま、窓に投げキッスを飛ばした。

 旦那も照れ笑いしながら首を傾げて、作業に戻った。


 誰が見ても、幸せな新婚生活といった感じだ。


 セミも窓に居なかった事に出来たころ……


 ズシャーっと、カーテンが閉められた。


 旦那がスポンジを落とし、急いでイヤホンを外して、目を丸くしていると、カーテンが勢いよく開かれた。


「びっくりした?」


「なんだよ、マジでびびったよ、本当いたずら好きだよね、可愛いから許すけどさ」


「おー、綺麗になってる。その調子で寝室の窓もやってしまうのでしょうか!」


 新妻が、おどけながら、実況中継のように旦那に言い放った。


「うんうん、やるやる。もう、びっくりするから、ドッキリは無しね、全く」


「ふふ、あなた、かわいい所あるものね。あ、虫が入ってきたら嫌だから、窓閉めちゃうね」


「ああ、鍵は閉めないでくれよ、フリじゃないからな」


「分かってますってば、ふふふ」


 新妻は窓を閉めるとカーテンを勢いよく閉めた、そして、両サイドから、閉められたカーテンの間に自分の顔を差し込んで、唇をタコのようにして、変顔だけを旦那に見せつけて、キッチンへと戻っていった。


(かわいいなあ、もう)


 旦那は、にやけながら、濡れた手をズボンで拭いて、イヤホンを耳に戻し、寝室の窓に向かった。リビングとの間の、壁のせいでキッチンは見えない。


 旦那はイヤホンから流れるロックに合わせて、鼻歌を歌いながらも丁寧に、寝室の窓掃除を終わらせて、イヤホンを携帯に巻き付けポケットに閉まってから、リビング側に戻った。


(よし、外からは終わったから、後は中からも軽くこう)


 カチャリ


 旦那が窓に手を伸ばした時、目の前で鍵のかかる音が聞こえた。


(またあいつ、いたずらしてるな。変顔して逆に驚かせてやろうか)


 旦那はめいいっぱいまで唇を突き出してから少し横にひねりを加え、目を見開き、ひょっとこのような顔で、窓をノックした。


 コンコン


 カーテンが、ゆっくり開いた。


 包丁を持った男が立っていた。


 白い風邪用マスクに黒い無地のベースボールキャップを被り、黒いTシャツに青いジーパン。

 帽子とマスクの間の、浅黒いクマの出来た、一重の細く冷たい目が、変顔の旦那を見据えていた。


 旦那は、それを確認すると、目を見開き、電源が切れたように、手に持ったバケツを落とした、泡だらけの水が、ベランダの排水溝へと逃げていった。


 ガチャリと、マスクの男が、ゆっくりと軍手をした左手で開けると、右手の包丁を旦那に向けながら、ゆっくりと楽しむように窓を開けた。マスクの下は、きっと歪んだ笑顔なのだろう。


「黙って、ゆっくり中に入れ。余計な事はするな、分かるな?」


 旦那は、忘れていた呼吸を取り戻し、音を出しながら息を吸い、首を縦に何回も振った。

 両手を上げ、包丁を向けられながらリビングへ戻る旦那は、キッチンに妻の姿を見つけられなかった。


 旦那に包丁を向けながら背後に回った、マスクの男は、まるで携帯を取り出すように、ポケットからスタンガンを取り出し、迷いもなく、まるでリモコンで、テレビのチャンネルを変えるような優雅さで、旦那の腰に電気を流した。




 カチャリカチャリ……


 金属の音が聞こえ、旦那は気絶から目を覚ました。


 テーブルに、マスクを外した男が、帽子を被ったまま、カレーを皿から食べていた。テレビを見ながら、のんびり食べる姿は、まるで、この男の家の様に自然な光景だった。


「おう、起きたか。カレー少しもらってるわ。あ、手足はキツく縛らせてもらったし、喋れなくしちゃったけど、騒がないでくれな」


 まだ小さい子に、夜はうるさくするなよと、優しく言う父親のような言い方だった。


 旦那は座った状態で、足を前に伸ばし、両手は背中に回され、両手両足をガムテープで何重にも縛られていた。口を隠しながら、ガムテープが横に頭を一周している。


 すぐ隣に同じ状態の妻がいた、激しく震えながら旦那に助けを求める視線を送っていた。


「外を歩いていたら、カレーの良い匂いがするもんだから、ついな。全く、ドアの鍵はちゃんと閉めましょうって、学校で習わなかったのか?」


 答えが返ってこないことを知っている男は、二人とソファーの向こうのテレビを見ながら、当たり前のように食事を続けた。


「奥さん、かわいいね」


 妻が固まり、男に無茶苦茶に首を横に振った。


「はは、旦那さんは幸せ者だね、全く。カレーおかわりもらって良いかな?」


 妻の返事を待つことなく、自然な動きで男はご飯とカレーをよそい、またテレビを見ながら、優雅なディナーは再開された。


「顔が良いってのは、いいねえ。それだけで得だろ。全く」


 ぶつぶつと、動けない二人に当てつけるように話しながら、テレビから目を離さず食べ続けていた。

 

 その顔は、じゃがいものように不揃いな形で、鼻は低く潰れたように付いている。唇は薄く青白く、帽子から出てくる髪の毛は無かった。老けて見える顔は五十代のようで、何歳かは分からなかった。


 包丁を持っていない男の。一重の小さな目はどこか眠たげで、つまらなそうだった。何回も見た映画を、飽き飽きしながら見ているような表情だった。


 床に拘束された新婚の幸せだった二人は、どうすることも出来ずに、男の食事を見守るしかなかった。

 

「はー。人生不公平だよな。俺みたいなのは生まれた時点で負け組なんだよ。こんなブサイクで馬鹿にされて生きてきて、何一つ良いことなんて無かった」


 スプーンを空になった皿の上に置き、ため息をつきながら男はタバコを取り出した。


「お前らには分からないだろ、分からないから馬鹿に出来るんだもんな。そりゃそうだ、俺がお前らみたいな美男美女なら、優越感も持つだろうよ」


 暗いため息にタバコの煙を乗せて、男は、夫婦に喋り続けた。


 夫婦は、ただ、首を横に振り、目で助けを訴える事しか出来なかった。


「まあいいや、カレーごちそうさま。ところでさ、どっちから死にたい?」


 男が、テーブルの包丁を、おもむろに持ち上げて、椅子から慌てることもなく立ち上がり、タバコをカレーの皿に丁寧に押し付けて、夫婦の元へ歩き出した。


 夫婦は目を見開いて、体ごと左右に首を振り、ガムテープの下から声にならない絶叫をした。


 夫婦の前に男はあぐらをかき、買い物で悩むように、二人を交互に見比べている。


「んー、悩むねえ。あ、そうだ、こうしよう。今から先に、瞬き《まばた》した方を殺そう」


 震えていた夫婦は固まり、動けないまま、お互いの目をゆっくり合わせた。


「俺が旦那なら、先に瞬きするけど、真面目にやらないと、二人とも殺すよ。ズルはよくない。うんうん」


 夫婦の顔が絶望に変わり、血の気の引いた目元は血走っていた。


 二人の前に座る男は、優しく微笑むと、妻の目の前で両手を勢いよく合わせた。


 パチンと、手が合わさり、妻は目を閉じてしまった。必死に目を見開いて否定するように首を振っている。


「あーあ、奥さんの負けだ、もう少しだったんだけどなあ」


 旦那が拘束されたまま、体をよじり、妻をかばうように身を寄せた。


「ふふ、ははは。いいねえ、幸せな夫婦ってやつだ。全く。うらやましいねえ」


 そう言いながら、男は心から楽しそうに、夫婦の前に包丁を置いた。


 自然な足取りでテーブルに戻り、お皿を台所へと置き、包丁を元の場所に閉まった。


「ごめんごめん、冗談だよ、奥さんがかわいいから、ついな。大丈夫、何にもしてないよ、旦那さんと同じで気絶させただけだ。俺は、ただカレーが食べたかったんだよ」


 状況が読み込めず、夫婦は震えながら泣くことしかできない。


「それに、殺すなら、やっぱり腹立つやつがいい。俺はな、小さいころ、ヒーローになりたかったんだよ、いじめる子を助けるようなさ。俺は、いじめられながら、ヒーローをいつも待ってた、でも、当然ヒーローなんか現れなかったよ」


 男はマスクを付け直し、スタンガンをポケットにしまった。


「この後にニュースでな、美男美女を殺して、現金を奪って逃走しています。って言われて、どうせブサイクの妬みだろう、やだやだ。って言われるのは腹立つしな。それより、夫婦の暮らす家でカレーだけ食べて何もせずに帰りました。の方が、愉快でいい。殺すなら、殺されてもいいやつで、世間が俺に感謝するくらいじゃないとダメだ。ああ、ダメだな」


 震える夫婦に男は淡々と話し、優しく微笑んだ。


「カレー本当に美味しかったよ、旦那さんは奥さん大切にな。俺はもう、ここには来ないから、忘れて暮らしてくれ、いいな?」


 夫婦は泣きながら何度もうなずいた。


「はは、かわいそうに、ふふ。これにりたら、鍵はちゃんとかけるんだぞ、小学生でも知ってることだぞ、じゃあ、お邪魔したな」


 男は自宅からコンビニに行くかのような軽い足取りで、夫婦の家を出て行った。

 夫婦は、しばらく、その場から動けず、ただ、キツいタバコの残り香が漂っていた。




「今朝のニュースです。昨夜未明、東京都のとあるマンションで、男が不法侵入した事が分かりました、男はスタンガンを持っており、不法侵入に居合わせた住人の夫婦には何もせずに出て行った、との事で未だに逃走中です、引き続き情報が入り次第お伝えします。さて、続いてのニュースは……」


「あら、やだねえ、今年は物騒で、全く警察は何やってるんだか」


 自分の身分を主張するように、似合わない宝石を指にまとった女性は、ふてぶてしく、たるんだあごきながら、ボソボソと呟いた。右手にはスナック菓子を大事そうに持っている。


 がちゃ


「んーん、とおるちゃん、もう帰ってきたのかい?」


 重そうな体を引きづりながら、ペルシャ絨毯のひかれた玄関へと、どたどたと歩いていった。


「ただいま」


 主婦の手から、スナック菓子の袋が落ちた。

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