迷夢のルフラン
夏木黒羽
迷霧のルフラン
さようなら、あの時あなたはそう言った。
私はそんなあなたのセリフが信じられなくて、つい、
またね、と答えてしまった。
まだサクラの木が彩られて、一週間も経っていない日。
私は最上級生となった実感もそこそこに、遠いようでま
だ一月も経過していないあの日のことをただただ、薄ぼ
んやりとまるで昼下がりの合間に見るひと時の夢のよ
うに、思い返していた。
そう、あの日からずっと、毎日、毎晩、四六時中、あ
の日のあの風景、そしてあの人のことを思っていた。
あの人にとっては、私、という存在はこの閉塞感に満
ちた学校、そして、思春期の未発達な心が安定しようと
乾き、求める存在でいられたのだろうか。
自分を満たしてくれる存在、異質な空間で異常な恋に
も似た錯覚に溺れ、白昼夢のような幻を見ていた私は、
今でもまだこの夢から目覚めることができないのだろ
うか。
それでもこのまどろみの中でいつまでも見ていたい、
そう思っていたのはあの時から成長をすることを放棄
してしまった私だけなのだろうか、どうしてあなたは一
人、夢から目覚めてしまったのだろうか。
紫外線をたっぷりと浴びた自分の髪を触り、枝毛を探
しながら、夕日に赤く、そして時に紫に塗られたカンバ
スのような校庭を教室から眺めながら、やっぱり私はあ
の人の面影を、あの人の姿をどこか追うように探してい
た。
初めてあの人を見たのは今から五年も前、まだあの時
の私は、いったい何色に咲くのかも分かっていなかった
若葉のようにただひたすらとグラウンドを駆けまわっ
ていた。
でも自信に満ち溢れ、同年代の誰にも負けない自信も、
誰よりも強く、一番に目立つ花を咲かす自負も持ち合わ
せ、誰もが同じように私を見てくれて、まさに私が世界
の中心だった。そんな時だった。あの人が私の前に現れ
たのは。
まさに衝撃的だった、あの人の前では私の持っていた
プライドも何の役にも立たず、打ちひしがれるだけだっ
た。ただただ、その美しさ、そして強さに圧倒され、翻
弄されたのはもちろん、私はあの時から魅了されてしま
ったのかもしれない。
それから一年が経ち、その頃の私は、あの人と同じ、
スタイル、立ち居振る舞いもあの人の模倣を完璧にこな
し、自身の初めての人生の岐路に立った時、私は何も考
えることなく、あの人の残り香を追い、盲目的に自分の
進路を決め、レールを敷いた。
そしてただひたすらに私はあの人を追いかけ、大きな
門をこじ開けたその先に、あの人は待っていた。
私は再びあの人に会えたことに感動を覚え、身体が、
心が、私を私たらしめる全ての物が震え、もう私の視界
にはあの人しか見えず、それ以外の物はすべてシャット
アウトしていた。
そんなあの人との馴れ初めを思い出しているうちに、
私は少し高ぶってしまい、気が付くと、学校の教室だと
いうのにも関わらず、背中を丸め、机に体を預け、自分
の下腹部のその先、スカートの中の花園へと手を伸ばし、
あの人が私を優しく愛してくれたように、私の高ぶりを
慰めてくれたように、口を手で押さえ、声を押し殺しな
がら、虚しい一人遊びに耽って行く。
私があの人にあこがれを抱き、そして追いかけるよ
うにここへとたどり着き、あの人だけを見てただただ盲
目的に過ごしていたあの日々、そして、半年が経ったあ
の日、私とあの人にとって大きな関係が築かれる事件が
起こった。
雨の中の試合で、私は決定的なミスを犯してしまい、
チームにとって大きな敗戦を招き、自分を見失っていた。
まだ一年生だから、とかそういう擁護の言葉は同級生
からはちらほらかけられたが、先輩たちはもう私のこと
は同格、あるいは自身の今までの積み重ねをぶち壊した
異端な存在としてしか見ておらず、上っ面では擁護の言
葉をかけてはいたが、裏では、ようやく私のミスにより
生まれた隙にかこつけ、潰そうとしてきており、かなり
私はあの時疲弊し、狼狽していた。
スランプに陥ってしまった私は、あの時ほど、好きな
競技に対して嫌悪感を持ったことはなかったし、私以外
のすべての人が敵に見えたことはなく、部活を辞めよう
とも思ったことはなかった。
そんな時にあの人は私の次第にどす黒く濁っていく
心に、一筋の光を差し込んでくれたのは。
あの人も当時の部活の環境に嫌気がさしていたのか、
それとも毎日打ち込んでいた好きな競技から離れてい
こうとする私をもう一度向き合わせようとしたのか、あ
の日から二か月、部活にもいかずに私はあの人と、時間
を共にし、今まで傍らから眺めているだけだった関係が、
深く、心も共有するような関係になり、今まで競技以外
何もなかったモノクロの私の世界に命溢れる彩を加え
てくれたあの人に、私は次第に依存していき、あの人に
私の身体、心、すべてを見てほしい、あの人にだったら
さらけ出せる、さらけ出したい、そう思う自分がいるの
と、もし私が拒絶されてしまったらどうしよう、と悩む
臆病な自分、相反する二人の私がいることをあの時に自
覚したのだと思う。
私とあの人、二人で過ごす何気ない日々は刻々と積み
重なって行き、次第に傷つきズタボロになった私の心は、
修復されていき、年の瀬になるころには再びこの人とあ
のグラウンドへと立ちたい、そう思うくらいにはなって
いた。ただ、その時の私は、以前のように水晶のような
輝きを放ち、がむしゃらにボールを追いかけていた自分
ではなく、なにか以前のようで、以前の私ではない、壊
れたものが再びその姿を完全に取り戻すことのない、違
和感のある、元の私。いや、きっとすでにこの時の私は
どこかおかしくなってしまっていたのだろうか、そんな
気持ちに苛まれ、眠れない日々が続いていたような気が
する。
そんな自分自身の気持ちにつける言葉が見つからず、
悶々とした思いが溜まっていき、そして、ついに私はあ
の人の前で倒れてしまった。あの時あなたはいったい、
どんな顔で、どんな気持ちで私を保健室へと連れて行っ
たのだろうか、別れてしまった今でもその時のあなたが
気になってしまって仕方がない。
茜色に染まった空に気が付き、目を覚ますと、私は保
健室のベッドの冷たいシーツの上で横たわっており、あ
の人は、私をずっと付きっきりで看ていてくれたのか、
疲れてうつらうつらとパイプ椅子に座り、船を漕いでい
た。
そう、私はいつまでもこの日のことを鮮明に覚えてい
る。この日は私にとっては始まりでもあり、終わりでも
ある、あの日の夕方。すでに保健室の先生は帰り、部活
動で忙しい高校生はめったに校舎の中に戻ってくる、と
いうこともなく、さらに学期の終わりということもあり、
誰もいなかった。異空間、異質な空間、寝息を立て、椅
子に座るあなたの顔を私はあの時、一番近くで眺めてい
た。天才、そう言われ先輩にも、そして私たち後輩にも
慕われていた、学校の誇る大スターのそのすぐ傍に私は
いた。中学生のころ、一目見た時からずっと憧れ、追い
かけて来たあなたの後姿に追いつき、そしてようやく傍
によることができる。
私はあの時ほど自分を抑えることができず、そして、
あの時ほど高ぶったことはなかった。
高鳴る鼓動に耳を澄ませ、眠るあなたへと手を伸ばす、
あの時、自分の身体の血液はすべて、中心部へと集まり、
体を熱く、ほとばしらせ、末端に伝える無駄な体温はな
く、驚くほど冷たかった。
触れると、暖かく、ぬくもりが冷たい手を通り、私の
芯まで伝わる。柔らかい頬を撫で、そして、気高く、妖
艶な色気を出す、あなたの口元、そして唇をなぞった。
そのなぞった指で、私自身の唇を這わせると、なんと
も言えない背徳感、そして高揚感に満ち溢れ、頭の中が
真っ白になった。もうこの時、私は自分自身を抑えるこ
とはできなかった。
声をかけると、あなたはまどろみからゆっくりとこち
らの世界へと戻って来る。そんな黄昏の合間に、私はあ
の人の唇に、自分の唇を重ねた。
目をつむっていたから想像することしかできなった
が、あなたはきっと驚き、戸惑いつつも、私を受け止め
てくれたのだろうか、あの時ほど目を開けていればよか
ったと思った時はなかった。
優しい柑橘系の匂いがし、あなたは私の肩に手を回し、
私もそれに答えるように手を回した。
あなたの体温と私の体温が一つになり、心地が良く、
ずっとこうしていたい気持ちになったが、私は口を離し
た。
永遠にも似た刹那の時間だったが、私たちは何も言葉
を交わさず、お互いに気恥しそうに見つめ合っていたが、
今度はあの人の方から私を求め、再び口を重ね、今度は
もっと深く触れ合うように、互いに粘膜をむさぼるよう
に深く、深く、ゆっくりと、堕ちていき、歯止めを失っ
た私たちは、どんどんと、暖かで、普通じゃない沼の中
へと、沈んでいくだけだった。
気が付くと、私は机に突っ伏したまま、声を抑えるこ
とができず、誰もいない教室に甘い叫び声を響かせてい
た。自分という存在も、いなくなってしまったあの人の
ことも、今この瞬間だけは忘れ去り、盛った獣のように
狂い、指を動かしていた。
あの人のことを思い返しながら、あの人が私に紡いで
くれた優しい言葉を思い起こしながら、あの人の温かな
体温を頭から引っ張り出しながら。
いろいろなことが頭の中で乱れ、掻き混ざり、離れて
いくころには、私の中で弾け、絶叫し、自分の吐息の音
だけが空しく聞こえる。
燃え上がった後の焚き木を見るように、自分を慰めて
いた指をゆっくりと、引き抜き、眺めていると、得も言
われぬ深い虚しさが私に襲い掛かり、激しい自責の念に
駆られる。
そんな関係になってから、私はあの人と共に、部活に
復帰し、今までにない輝き、そして栄光を勝ち取り、ま
さに順風満帆の何一つ不満のない日が続いていた、否、
私が気が付かなかっただけで、あの人はかなり苦しい思
いをしていた、今ならそう考えることができる。
卒業、という文字があの人の中でちらつき始めた時の
ことだったと記憶している。何気ないときに将来のこと
を聞かれ、私はあの人の問いに答えることができなかっ
た。思い返せば私とあの人の中で少しずつ距離が広がっ
て行ったのはあの時からだったのかもしれない。
そうして生まれた小さなひずみは次第に大きなひず
みになっていき、気が付いたころには修復の利かないと
んでもないことになっているのが相場だ。
三月の頭の珍しく雪の降ったあの日、私の高校では一
つ上の代が主役の卒業式の日だった。何も滞りなく式は
終わり、部活のメンバーとの顔合わせ、最後のミーティ
ングも終わり名残惜しい雰囲気の中で、あの人から直々
に次の部長である私に激励の声をかけられ、感極まって
しまった。
そのあと、解散となったが、私はあの人に呼ばれ、学
校の誰もいない屋上へ、二人で上がって行った。
雪はもう溶けており、ただの露に代わり、身も心も凍
てつかせるような寒さの中、あの人は、あなたは、もう
この関係を終わらせましょう、そうはっきりと、でもそ
の強い意志の宿った瞳を赤く腫らせながら、上ずった声
で宣言をした。
あまりにも私にとって唐突な終わり、そして無慈悲な
終焉。驚きを隠せず、私はただ口の中が乾いていくこと
を感じることしかできず、あなたに対して話す言葉が見
つからなかった。だけれども私はそれ以上にあなたをそ
んなにも苦しめてしまっていたのか、ここまで追い詰め
てしまったのか、という自責の念が強く、ただうなだれ、
あなたの言葉を聞くことしかできなかった。
そしてあなたは、じゃあね、と言い冷たい寒空の下私
を一人にして涙を流しながら走り去って行ってしまっ
た。
そんなあなたの後姿もあの時の私には見る資格も無
く、私は壊れたレコーダーのように、またね、またね、
と口にしながらその場に崩れ落ち、泣きじゃくった。
気が付くと眠っていたのか、身体を揺すぶられ、頭を
起こすと、マネージャーであり、昔からの付き合いの友
人が呆れたような顔をして立っていた。
外はもうすでに暗くなっていて、部活も終わってしま
ったのに来ないから探しに来た、そういう彼女に手を引
かれ、私は席を立つ。
すると彼女が我慢できなかったのか、不意に私の唇に
自身の唇を重ね、離す。そんな彼女の先輩に似せた髪型
は私の心をどこか見透かしているかのようで、まだ私の
中の未練を具現化しているかのようでもあった。
迷夢のルフラン 夏木黒羽 @kuroha-natsuki
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