読書家みなとちゃん

七山月子

舌を噛み切ってやるから。

壮絶な台詞だと思った。

小説を読むには薄暗い夕方の、西日がよく当たる湿った図書室で、その台詞ばかり何十回も指を滑らせ目で追った。

共感するには程遠い生活をしている。

中学校の交友関係はさほど小学校の頃と変わりなく、小説の主人公のようにのめり込む男の影なんていうものもない。

イジメにあっているのは私ではないし、教師にセクハラを受けて騒ぐのも私ではない。

舌を噛み切ってやる。という台詞を吐こうものなら、母親や父親が止めに来るだろうし、幼馴染のトラだってさすがに驚くだろう。

トラの家は隣にあって、私は帰る前に彼の部屋に訪れる日の方が多く、弟の悠人にその場で出くわすことも多い。トラは一人っ子でおばさんもおじさんも私たち佐藤家の騒がしさに寛容だった。

「湊、おかえり」

トラは自分の部屋に侵入する赤の他人(幼馴染)である私に笑顔を放つので、私はイケ好かなくなってわざと鞄を乱暴に彼のベッド脇へ投げた。

「虎助、今から私の言うことをよっく聞いておくんな」

「またまた、今度は何を読んだの? 」

「てやんでい、舌を噛み切ってやる! 」

するとトラは思いがけず私の目をまじまじと見据えた末、真面目な様子でこう返した。

「そんなに思いつめていたとは知らなかった。何があったのさ? 」

それで私はそんな疑問に用意できる答えを持ち合わせていない自分がひどく情けなく感じたのだった。

図書室の人気な本棚の後ろの後ろの後ろあたりに鎮座していたその本を、それから何度となく読み返すも、やはり私の平和を思い知るほかなく、トラにあの日かかと落としをお見舞いする以外の答えを見つけられず、今に至る。

トラは夕方の西日が差した図書室に、忍び足で寄ってきて、私の肩を大きく掴んで驚かす、という仕様もない事をしでかし、図書委員である先輩方に睨まれた私たちはしずしずと帰路に着くこととなった。

「また本読んでたの? 」

トラはいつもにこやかで、なんだかイケ好かなかったが、クラスの女子には人気がそれなりにあるらしく、トラちゃん、虎助くん、トラトラなどと気安く呼ばれている。

「あんただったら、どういう時に舌を噛み切る? 」

私が見上げるとこの度成長期の喉仏が見えてせつなくなったが、そんなことに無頓着でいるトラが、

「俺だったらそうなる前に回避するよ」

など身もふたもないことを言うものだからやはりイケ好かなくなり足を引っ掛けて彼を転ばした。

トラは涙目になって私をあからさまに非道な大王を見る目つきで見上げたものだから、気持ちがよく有頂天に踊り出そうかと思った。

しかしそこに、

「虎助くん! 大丈夫? 」

クラスで一番とは言わないが三番目に可愛い小藤さんが現れて私の光り輝く王冠はすぐさま消えた。

「なんてことするの、佐藤さん、ひどい」

トラがそんな甲斐甲斐しく私を責め立てる小藤さんを、

「いいんだよ、いつものことだし」

と諌めた上に、

「湊はお転婆だからなあ」

なんてにやけたものだから、私のプライドはズタズタにやられ、まだ文句を言いたげな小藤さんにも腹ただしさとプラスアルファがこみ上げたので、

「虎助なんか、死んじまえ! 」

安い喧嘩を売ってしまった挙句逃走を図った。

走り去るというのは疲れるもので、息が上がる頃には歩き出したものの、後ろを振り返る勇気など持ち合わせていなかったし、自分の家の弟と二人部屋にしている狭い和室にまっすぐ帰ったら、悠人が不思議そうな顔を向けたことも気に食わなかった。

今日は厄日である。三度それを口の中でつぶやきながら二段ベッドに潜り込むと、悠人がヘッドフォンを首にかけ、

「ねえちゃん、これあげる」

と上の段から降りてきてそれを手渡してきた。

「なにこれ? 」

「落語百選。おもしろいよ。僕なんかはこれが好きだね、猫久」

「もらってやってもいい」

さすが私の弟である、彼は小学五年生にしては生意気にも、私よりも読書家で更に彼女というものがあり、そのおかげか世渡り上手で私の機嫌を取る方法をも熟知しているのだ。

本を読めばなんのその、どんな風に落ち込んでいたって私は立ち直る。

今回のことも、きっとトラは怒らないだろうし、小藤さんには嫌われたかもしれないが、私は何の変哲もなく日常が続いているようにしか思っていなかった。

しかし学校へ行くと様子がおかしかった。

誰もが私を無視したのだ。

おはよう、と言えば返ってきて当然の昨日までとは打って変わって学校生活が詰まらないような一日だった。

いじめの主犯はわかっていた。

小藤さんだった。

弁当箱は隠されて、上履きには画鋲が入り、椅子には悪口が書かれた。

トラに会えば、にこやかにしてくれるだろう。おはようとも言ってくれる。そう思った。

しかし放課後の鐘が鳴り、教室を出ようとしたところで足をかけられ、転んだ衝撃で頭から血が出た。

小藤さんは、そんな私を睨みつけて言った。

「あたし、虎助くんに告白したの」

私は痛む額を抑えながら、その声を聞いた。

「虎助くんと付き合うことになったから」

駆けつけた教師に連れられ、保健室で手当てをしてもらい、家の前に帰ると、私はようやく涙が出て、なんだか世界が真っ暗に見えると思った。

舌を噛み切ってやる。とはこんな気持ちだろうかと心で思ってみたが、しかし見上げた空はどこまでも茜色で、綺麗だった。

「どこか遠くへ行きたいという気持ち」

自分の気持ちを声にしてみると、晴れやかに思えた。

どこか遠くへ行ってしまえばいいんだ、と思ったら全く傷口の痛みも、明日からの生活への心配も、トラのことも全て忘れ去れた。

自室に入ると、悠人がいびきをかいて寝ていた。父も母も共働きのため家には居ない。

荷物をまとめようと、メモ帳を広げた。

インターフォンが鳴って、違和感なくドアを開けたら、トラだった。

目を見られない、と下を向いた。

「嘘だよ」

とトラの声がした。

顔を上げれば、頬を腫らしたトラが、どことなく緊張した面持ちで居たので、その怪我はどうしたのか、と訊こうとしたが、抱きすくめられたので声も出なかった。

力強く、私は女だったしトラは男だったことを急に思い出した。

トラは続けた。

「今日、湊のクラスの女子から、色々聞いて。俺、小藤さんに言っちゃったんだ。湊が好きなんだって。ごめんね。痛かったよね」

そのうち、泣き声が肩のところで熱くうめき出して、私はどこか遠くへ行こうとしていたはずのメモ帳を落としてしまい、空を見ていた。

「あのねえ、舌を噛み切るほどの事って、きっと私にはこの先もないと思う」

私が話すと、ようやく縛り付けたようなトラの腕は解かれ、目があった。

「虎助が、居ればいいから」

言葉は茜色の夕焼けに吸い込まれた。トラと私はそれからどこか遠くへ行くためのメモ帳を見て笑ったし、夕飯のオムライスは美味しいし、悠人は落語家になると夕食どきに告白して、ブロッコリーを食べてからと諌められ、私はトマトを悠人の皿に乗せて怒られた。

月は朧げに空に浮かび、私の明日はおぼろげに消えてしまい、何処へも行かず、舌を噛み切ることもない、そんな自分を少しだけ誇りに思えた夜だった。

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