第485話「お楽しみはまだまだこれからだ」
「どうしよう。刃君と階段降りてるだけで幸せ……」
恋人との同棲生活を過剰摂取した綾女の情緒が限界を迎えつつある。
薄野家居住区である二階から、一階へ降りる階段の途中。学生鞄を手に、綾女がうっとりとして手すりを撫でている。
結婚をする前に同棲をした方がいいというのは巷に聞いていたが、なるほど道理であったようだ。こうして事前に慣らしておかなかった場合、我が相棒の愛は無制限に爆発してとんでもない事態になっていたのかもしれない。たとえば“しぇあるーむ”を始めた途端、すぐに妊娠したとか……な。
「終わってほしくない……刃君、私と永遠に階段の登り降りしてよう?」
「大変に魅力的な提案だが、そろそろ家を出ねばマスターや刀花との合流に遅れる。さ、名残惜しいのは分かるが」
「ふえぇ~ん……」
情けない泣き声を上げながら、綾女はこちらに手を引かれ一段一段よたよたと階段を降り始める。介護のバイトをしたことなどはないが、きっとこのような心地となるのだろう……。
ようやく半ばの踊り場まで来れば、綾女は「にへ」とよく分からぬ感情を込めた半笑いをして言う。
「忘れ物した、って言って階段登り始めたら怒る?」
「怒りなどはせんが、しっかり者の綾女が忘れ物をするとは思えんな。きっと寝る前に、きちんと事前の準備をしているのであろう?」
「今はその信頼が憎い……!」
なんならしっかりと昼食用の弁当まで持たせてくれている周到ぶりだ。お揃いの猫柄弁当袋が機嫌よさそうに我等の手で揺れておる。
だが対照的に、綾女の表情は芳しくない。このまま登校を始めても、彼女の学園生活に支障が出る恐れがある。
「これはいかんな」
明日からはリゼットとの旅行のため、今日の学園が終われば俺はそのまま一旦屋敷へ帰還する。薄野家での生活も、このまま玄関を出れば終わりというわけだ。綾女もそれは名残惜しむというものよ。
確かに綾女との貴重な時間は俺も惜しく思うが、時の流れには逆らえぬ。ご主人様の定めた集合時間には、特にな。
さてどうしたものか。我こそは少女を守護せし無双の戦鬼。その元に跪くからには、少女には笑顔でいてもらいたいものだ。
「ふぅむ」
彼女は終わりゆく幸福な時間を惜しんでいる。ならば必然的に、その俯きがちな瞳を前へ……未来へ向けさせるべきだろう。
滅ぼすばかりが得意な戦鬼だがなに、話だけであれば多少は生産的にもできよう。
俺は綾女のなだらかな肩に手を置きつつ、努めて感慨を込めて言葉を繋げた。
「楽しかったな、仮の同棲生活も」
「うん……思わず立ち止まっちゃうくらい」
「おや、我が相棒ともあろう者が、現状で満足してもらっては困るな」
「えぇ~? だってぇ……」
「──今度、二人でこっそり
「っ!!」
それは不動産を介し、事前に賃貸物件を見学する行為のことを指す。
つまり俺は今、大切な恋人にこう言ったのだ。
──進学した際の、二人で住む部屋を共に見に行かないかと。
無論、本当に決めるわけではない。実際に決めるとなれば、義母上や親父殿と相談もせねばならんだろう。
だが、見学だけならばタダだ。時期尚早とはいえど、内見はとても大事な作業でもあるゆえ。
部屋の広さや間取りは言わずもがな。シャワーや水道の水圧、ゴミ捨て場の配置による悪臭の有無、既存電化製品の劣化具合、周辺環境による騒音等、見るべきものを挙げればキリがない。
俺もブルームフィールド邸に移るまでは、刀花と共に格安賃貸物件を渡り歩いた身。多少の心得はあるつもりだ。
綾女は"内見"という言葉に、強く反応を示している。目を丸くして、ポッと頬を染める程度には。まだまだ楽しむべきことが未来にはあることを伝えねば。
「進学先は既に決めているのだろう? まさか綾女が落ちはすまい。なかなか悪くない案だと思うが」
「ほわ……内見……二人だけの……あ、愛の巣探し……」
「綾女はどんな部屋がいい」
「えっ」
ほわんとしている綾女に聞けば、彼女はモジモジと太股を擦り合わせる。
「ん、んと……どうかなぁ……い、いつでも一緒にいられるワンルーム、とか?」
「悪くない。だがさすがに恋人たりとはいえ、一人の時間は必要になってくるとは思うぞ」
「そ、そう?」
俺は貧乏だったゆえ六畳一間程度の安物件しか借りられなかっただけでな。刀花が目に入れても痛くない家族だったというのも大きい。
だがそんな刀花とて、お年頃の頃には一部屋では手狭そうだったのを覚えている。ずっと一緒にいるというのも楽しいものだが、時には一人でものを考えることが必要な場面もあろうよ。
「互いに同じ時を過ごせば過ごすほど、些細な部分が目に見えてくるものだ。良いことであろうと、悪いことであろうと。昨日、共に働きながら若干の不満を募らせたようにな。睦まじい様子である綾女の両親とて、喧嘩の経験もあろう?」
「う、うん。確かに……」
常に笑顔であれれば最良だが、変化し続ける人間にそれは無理な話だ。大事な者に見せたくない顔やモノも、女性にはあろう。単にその日の気分というのもある。
「せめて、綾女の部屋くらいは用意したいところだな。俺は共同の居間だけでいい。家賃を折半すれば安く済むというのが発端なのだからな」
「う、うーん、それもちょっと悪い気もするけど……」
「構わん。俺は立ったまま寝ることもできる。そもそも睡眠を取らずとも稼働できる機巧なのでな」
と、前置きとして少々堅苦しい話をしたが、それはここまでにしておこう。今は綾女に希望を見せる話の途中だ。
俺は姉上がするように指をピンと立て、かすかに唇を綻ばせた。
「それに部屋が複数あれば、置ける家具も違ってくる。二人で好みの家具を選ぶ楽しみも出てくるぞ?」
「わ、わ、素敵……♡」
こちらの言葉に口許を手で覆い「素敵」と宣う綾女。いい感触だ。
「新婚さんっぽい……!」
「そうだな。贔屓にしている"ぶらんど"で統一するもよし、手当たり次第気に入ったものを並べるもよし。好きなものに囲まれて生活を営むのは、なかなかに悪くないものだ」
「ふわぁ~……! ね、ねっ。私、実はちょっと気になってるお店があってね? 刃君もきっと気に入りそうなのがいっぱいあるとこでね?」
「うむうむ。是非、家具店の下見もしよう」
「うんっ」
その頷く声にもハツラツさが宿る。暗がりに光が差し込めば、人は自然と笑みを浮かべるものよ。
「調理専門の学校に入るのならば、厨房の設備は充実していた方がいいだろうな」
「そうだねぇ……でもそうするとお値段が……」
「まぁ、どこかの区画が犠牲になるのは仕方あるまい。風呂の面積ならば削りやすいが、どうだろうな……あぁ、無論トイレは別にしておけ。あれは衛生的にも美観的にも正直かなわん」
「実感こもってるね……。あ、私ならお風呂狭くても大丈夫だよ? その……狭い浴槽なら、一緒にくっついてられるし……えへ」
この家の浴槽より狭いとなると、欲望を我慢するのに苦労しそうだ。嬉しい悲鳴というやつだな?
そうしてまだ見ぬ二人の愛の巣について、我等は想像を膨らませた。
「刃君は和室の方がいいよね?」
「確かにそうだが、畳は後からでも敷ける。綾女も慣れた洋室の方がいいのではないか?」
「一階と二階ってどっちがいいんだろうね?」
「一概には言えんな。とりあえず下の方は虫が出やすい。窓を開けていれば猫も勝手に入ってくる。上階の者の足音も聞こえるぞ。上階に住むならば、逆にそういった騒音には気を付けねばなるまい。綾女が暴れる予定なら、下の方がよかろうな」
「暴れる……あっ、ど、どうだろ……"そういう音"って、結構他の部屋に聞こえたりするものなのかなぁ……あ、だからホテルに……」
よし、こうして話をしている内に、綾女が嬉し恥ずかしげな顔で身体をくねらせ始めた。我が目論みは成功したと言えよう。
俺はまとめるようにして、彼女の背中をポンと押した。
「今回の同棲で多少の感覚は掴めた。次はより具体的な方向で、今後のことを決めていけそうだな」
「うんうんっ、夢が広がるね! ふにゃあ……二人だけの部屋……二人だけの家具……お揃いのカップ……脱いだ後の並んだ靴……お出迎えする私……ただいまのチューをしてくれる大好きな旦那様ぁ……♡」
生活を共にすることに関して、今回などまだまだ序の口よ。自分達だけの住居を決めるというのは、まさに夢のような時間である。夢なら、いくらでも見ていいのだからな。
そうしてワイワイとしながら、ようやく階段を降りきることができた。そうすれば、ちょうど客席のテーブルを拭いていた義母上が「あら」と意外そうに眉を上げた。
「もう行くの? あやちゃんならもうちょっと愚図りそうなものと思ってたけど」
「お母さん。私、花嫁修行したい」
「どうしたの急に……あと多分現状でもあやちゃんはお嫁さん力高いと思うわ~」
「そうかな!?」
「ね、お父さん?」
「……ふん」
義母上の振りに、カウンター近くで豆の在庫を見ている親父殿が鼻を鳴らした。娘を貰い受けてすまない。
さて、二人がここにいるのは都合がいい。俺は改めて、その両親に頭を下げた。
「迷惑もかけたが、世話になった。この恩には必ず報いる」
「ふふ、そう? じゃあ、あやちゃんを絶対に幸せにしてもらおっかな~?」
「最初から承知の上だ、義母上」
「ごほんごほん!」
悪戯っぽく言う義母上の言葉に、親父殿の咳払いが重なる。可愛い娘を貰い受けてすまない……!!
「よし……それでは」
礼もそこそこにして、俺達は揃って玄関の方へと歩みを寄せる。少々遅くなってしまった。俺も名残を惜しんでいるのかもしれん。
そうして綾女の手を引き、明るい笑顔の彼女と共に背後へと別れを告げた。
いや……ここに相応しいのは“別れ”の挨拶ではないな。
「「──いってきます」」
「はーい、いってらっしゃ~い♪」
「……気を付けてな」
こうした家族としてのやり取りも、いつかは当然のように交わせる日が来るのかもしれない。家族が増えるというのは、なかなかに慣れぬものよ。今は少し、不器用になってしまうのを許して欲しい。
「クク……」
「ふふっ♪」
いつか来るのかもしれぬ未来を心待ちにしながら、我等は笑みを浮かべ、明るい外へと踏み出していく。
──チリリン、と。扉につけられた鈴もどこか、我等の前途を祝福するかのように鳴り響いた。
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