第250話「いつか来る幸せな日々」
「お父様、お母様……ワタクシ達、ここでお暇させていただきたく思います」
「っ……」
リンゼのその言葉に、息を呑んだのは果たしてどちらだったか。
列車の乗降口を境界線とし、その向こうで静かに佇むリンゼと彼方。穏やかに微笑む二人の足が動く気配は、もう無い。
「そんな、いきなり……」
既に列車に乗り込んでいたリゼットが戸惑いながら、外側にいる娘達に向けて言う。
「で、でもまだ日はあるんだから、もう少し──」
「いいえ、お母様」
どこか縋るように言うリゼットだったが、リンゼは毅然として首を横に降る。何かを断ち切るように。
「自覚をしたからにはこれ以上、無様を晒すわけには参りません」
「自覚……?」
「はい。ワタクシ達の軽率な行動が、どれほど双方を傷付けるものだったか。ここに来た時点で自覚するべきだった事を、ワタクシ達は考えないようにしていたのですから」
「そんな……」
リゼットが眉を歪めるが、言葉は続かない。
ああ、リンゼの言う通り。確かにこの邂逅は一つの結末が約束されたものだった。
──半ばで、必ずお別れをしなくてはいけないという……分かりきった結末が。
それが、今ということなのか。
戸惑いに揺れるリゼットの瞳を、娘達は動じることなく受け止めている。二人の決意は、固いらしい。
この結末を今朝方の様子から予感していた俺と刀花の前で、二人はまた頭を下げた。
「どうか勝手をお許しくださいませ」
「……許すも何もない。お前達は勝手に来た。ならば、勝手に帰るのが道理というものなのかもしれん」
「そんな、ジン……!」
引き留めて欲しかったのだろう。リゼットが俺の名を呼ぶが……止められんよ。
こちらを見上げるリゼットに寄り添う。せめて、その肩が寒くならぬように。
「マスター。娘が……俺達の大事な娘がこれより勇気を振り絞ろうというのだ。その意思は、尊重せねばなるまい」
二人がこの決断を下すのに、いったいどれほどの覚悟が必要だったのか。どれほど涙を流したのか。
……今、目の前で懸命に"笑顔を保ち続ける"二人を見れば、推し量れるというもの。年端のいかぬ少女にとって、親と別れるということがどれだけ重いことか。
こちらに来たばかりの頃にはまだまだ道に惑っていた娘達が、自分達の意思で更なる一歩を踏み出そうとしているのだぞ?
「可愛い子ども達の背伸びを見守るのも、親の務めと心得る。そうだろう、リズ?」
「……っ」
そうとも。
たとえどれだけ寂しかろうと。たとえどれだけ切なかろうと。俺達はいずれ別れねばならない。そもそもからして、生きている時間も世界も違うのだから。
ならばその別れ方はきっと、娘達の誇りを最大限に尊重したものでなければ。そうでなければ、子を見守る親として落第であろうよ。
娘達が笑顔を浮かべるのなら。
俺達もまた、笑顔で見送らねば示しがつくまい。
「むふー、寂しくなっちゃいますねぇ」
「刀花おかーさん……わぷっ」
俺達の横を駆け抜けた刀花が、笑みを浮かべて彼方に抱き付いた。その声色に少しだけの寂寥と、それ以上の優しさを乗せて。
「でも、すっごく楽しかったですよ彼方ちゃん。私、ずっとずっと家族が欲しかったんです。昔からの夢が叶っちゃいました!」
「おかーさん、でも……」
「うぅん……」
今から去ろうとしている彼方が、心苦しそうに何かを言おうとする。しかし刀花はその言葉を、娘の黒髪を梳いて優しく遮った。
「"ありがとうございます"。私、今でも充分楽しい日々を過ごしていますのに、これからのことがもっともっと楽しみになっちゃいました!」
「おか、ぁさん……」
ああ、そうだな。
リンゼは『勝手をお許しくださいませ』と言ったが、その言葉はきっとこの場に相応しくない。勝手に来てごめんなさい? そのような言葉、親として受け入れられるものか。
俺達は真っ当な家族の形を知らぬ。その正しい温もりを知らぬ。
だからこそ……その愛の一端を知る切っ掛けを作ってくれた娘達には、謝罪ではなく感謝が似合う。
「ふふ……良い子良い子、です。私達の所に来てくれて、ありがとうございます」
「っ……」
何度も、何度も。
刀花は感謝を込め、彼方の髪を撫でる。一撫でするごとに胸の内が温かくなり、一撫でするごとに別離の痛みは増していくだろう。
だが、刀花も彼方も……決して涙は流さない。唇を噛み締め、たとえその手が震えようと。
互いに楽しさだけを残すと、彼女達はそう決めたのだから。
「……もう、会えないのかしら」
眼を瞑り抱き締め合う刀花と彼方を見ながら、リゼットがポツリと言う。
「……そうだな。我等の力の本質は"斬り殺す"ことにある。世界に向けて、多用はしない方がいい」
「……そう」
厳密に言えば、娘達はタイムスリップをしてきたわけではない。彼女達はこの世界にとって異物であることは変わらず、戦鬼の力で我等の世界に"切り込み"を入れ、己の存在を一時的に確立させているにすぎない。
移動するために力を振るい、何度も同じ部分に亀裂を刻めば……対象がどうなるかなどは明白だろう。
その可能性を示唆すれば、リゼットの眉が更に歪む。母との別離を過去に済ませた彼女にとって、別れはなおのこと辛いものだ。
そんな小さい母の姿を見て、しかしリンゼは黒いドレスをはためかせて気丈に笑った。
「おーっほっほっほ! ご心配には及びませんわリゼットお母様! ワタクシ、最強の鬼の血を継いでおりますので。今はまだ力不足かもしれませんが、もっともっと力を付けて、より優雅に力を使えるようになりましたら、絶対にまた会いに行きますわ!」
「リンゼ……」
「それまでは、しばしの別れに過ぎません! 二度と再会できないなんて、そんなことは……そんっ、そんなことは、ごさいません!」
「リン、ゼ……?」
──ああ。
母の呼ぶ声に、リンゼは立て続けに言葉を放つ。その羅列が、己の身を守ると信じて。頑なに。
「ですから、ほ……ほら、お土産も、いっぱい買って……これ、ドラゴンのキーホルダー……お母様にって、カッコいいでしょう?」
「……リンゼ」
「あとあとっ、お菓子も、木彫りの熊さんもっ……お、お母様が、寂しくないようにって……」
「リンゼ」
「きっとワタクシがいなくなって、とても寂しいでしょうし……し、写真もいっぱい撮って送ったしっ、こ、これを見て、どうか無聊をお慰めに──」
「──もう、バカな子」
ふわり、と。
列車から舞い降りたリゼットが、その小さな身体を包み込む。迷子を見つけた母のような、慈愛を秘めた瞳で。
懸命に涙を堪え、肩を震わせる娘を抱き、リゼットは仕方ないというように苦笑した。
「クス……そんな泣き虫で不器用なところまで、私に似なくてもよかったのに」
「ふぇ……な、泣いてませんわっ……」
「うん、リンゼは泣いてない。こうして抱き締めていれば……涙なんて見えないもの」
「そ、そうですわよ……ワタクシ、お父様のように最強で、お母様のように高貴なんですもの」
「うん、うん……」
「こんなお外で、お、幼子のように泣いたりなんて……」
「うん……うん……そうね。リンゼは、強い子だものね?」
「…………泣いたり……なんてぇ……」
母の胸に顔を押し付けるリンゼ。その肩が一際大きく震えるが、彼女は泣いていない。ここからは見えないからな。
……リゼットの服の襟元が、なぜか少し濡れているだけだ。きっと、局所的に雨でも降ったのだ。
「おとーさん。これ、言ってたお土産」
「む……?」
少し険しい眼をした彼方がこちらに紙袋を渡してくる。その瞳が鋭いのは、妹の甘さを不甲斐なく思ってか。
それとも、これ以上見ていれば、耐えきれなくなるからか。
そんなじっと視線を動かさない彼方から紙袋を受け取る。中身は……、
「おお、酒か。気が利くではないか」
「むふー……さっきリンゼとお年玉で買った」
「いい使い道だ、俺はお前達のような娘をもって誇らしい……大切に、飲ませてもらうぞ」
「……はい」
──ポオォォオォ……。
ああ、汽笛が鳴ってしまった。
「……」
母の胸から離れ、二人の娘達はこちらを見上げてくる。最後の、言葉を期待して。
……とはいえ、大切なことはこれまでの日々で全て伝えたつもりだ。
リンゼと彼方、俺の可愛い愛娘達。これからも親に頼りつつも、少しずつ己の足で道を歩むであろうことを、俺は疑っていない。こんなにも強く、気高い姿を見ることができればな。
「リンゼ、彼方」
「「はいっ」」
リゼットと刀花が列車に乗り込んだことを確認し、扉付近に立って娘達を見下ろす。
リンゼ。母に似て強気で、少し抜けていて……しかし大切な物事を決して見逃さない、純粋な瞳を持つ者よ。
彼方。一度己を見失いながらも、大切な者の言葉を信じて己の道を模索する強さを持つ者よ。
「……」
ふ、なんとも……安直な言葉しか、出てこないものだな。
「──“また会おう”。俺の愛する、最高の娘達」
「「っ……はい!!」」
いい、返事だ。さすがは俺の娘と言える。
『扉が、閉まります』
「あ……」
プシュと空気の抜ける音と共に、列車の扉が閉まる。
もう向こうの声は聞こえず、ガラスを隔てた姿しか映らない。
そうして……少しずつ、列車は娘達の姿を置き去りにしていく。
「……」
ああ、大丈夫だ。泣いていない。
リンゼが両手で顔を覆い、その場に膝から崩れ落ちようと。
彼方が、こちらに頭頂部が見えるほど深く頭を下げ……着物の裾を強く握るその手が、小刻みに震えていようとも。
──娘達は最後まで、俺達に涙を見せることはなかった。
その立派な姿を見れば、いったい何を不安に思うことがあろうか。思うこと自体、おこがましかろう。
小さくなっていく娘達の姿を、俺達は最後の最後まで見送る。目に焼き付けるようにして。
「……行ったか」
そうして見えなくなる頃には……いつも近くに感じていた二つの大きな霊力が、この世界から消失するのを感じた。
「……ボックス席、こんなに広かったでしょうか」
「やめてよトーカ、今そういうの……せっかく、我慢してるんだから……」
指定された列車の席。そこに座り込むも、どこか寒々しいのは気温のせいだけではあるまい。
「もう我慢しなくてもいいじゃないですか?」
「……そういうわけにも、いかないわよ。あの子達が最後まで泣かなかったんだから、私だって……」
「ふふ、そうですか」
「……なんかその反応、ムカつく。トーカは寂しくないの?」
「もちろん寂しいですけど、言ったじゃないですか。私、それ以上に楽しみなんです。あの子達に、また会える日が」
「っ……ふ、うぅ……」
「あーもう、素直に泣いちゃいましょうよ。……やっぱり私も、少し……泣きますから、ね?」
刀花の言葉で、リゼットが遂に抑えきれなくなったように袖を瞼に当てる。刀花もまたその瞳に一筋の涙をにじませ、リゼットの肩を抱いた。
「……」
俺はそれを横目に、娘達から貰った酒を早速開ける。
「……ちょっと、ご主人様が泣いてる隣で何を──」
「あ、兄さん。何かおつまみは──」
「いや……いい」
瓶ごと酒をグイッと傾ける。
そんな俺の姿を見て二人が何か言おうとしたが、その言葉が最後まで続くことはなかった。
「……ジン」
「兄さん……」
ああ、肴は間に合っている。
……この瞳から流れる、一滴の塩分でな。
「クク……ああ、美味い……」
儚く舞う雪が、車窓から流れていく。
また会おう、異なる未来から来た一筋の風よ。
この列車の行き着く先は、お前達と共にいる“慣れてきた日常”ではなくなってしまったが……。
──“いつか来る幸せな日々”。
この道の先のどこか。俺達の背中を押す風が導く先にて。
そこで、お前達がきっと笑顔で待っていてくれることを信じて。
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