第229話「願わくば──」
「んっ……こく、こくん……」
俺の可愛い妹が、幸せそうに瞳を細めて喉を動かす。
頬は上気し、白い喉が一つ二つと動く度にそのドロリとした白い液体を嚥下している。
「っ──はぁ……ペロリ♪」
全て飲み終えたのか、刀花は微熱を乗せた吐息を漏らし、チロっと出した舌で己の唇を拭う。
揺らめく焚き火の光を生々しく反射する少女の赤い唇。その輝きが、どこか艶かしくこの兄の目には映る。冬空に白い軌跡を描く吐息すら、甘く芳しい。
「兄さん……もっとぉ……」
その口でたっぷりと味わってなお物足りないのか、少女は甘えた声でねだる。もっと、もっと、と。
「ふ……」
まったく、仕方のない妹だ……。
「住職よ、甘酒をもう一杯もらえるか」
「はい、どうぞどうぞ」
「むふー、いただきまーす!」
境内の中心に焚かれた火、そのすぐ近くに設置されテントにて。
気の良い住職から手渡された紙コップからは、甘く香る湯気が立ち上る。
それをまた刀花に手渡せば、彼女は念入りに「ふぅ~ふぅ~」と息を吹きかけ、またコクコクとご機嫌にそれを味わう。
……カップになみなみと注がれた、その甘酒を。
ふむ……。
「…………なるほどな」
「いやなに神妙な顔で妹が甘酒飲む姿をじっと観察してるのよ。絶対ろくでもないこと考えてるでしょ」
「何を言うマスター。俺はただ、我が妹が蕩けた表情で白く濁った液体を飲み下す様に妙な色気を感じていただけだ」
「だけ? だけって言ってたわよね今?」
「いやん、兄さんったらむっつりさんなんですからぁ♪ でもでも、ご所望でしたらこの妹がもっと雰囲気を出して差し上げますね。いきますよ? ──はぁ、はぁん……おいひい、れふぅ……♡」
「レビューが荒れてそうな方のグルメ漫画みたいな作画しないの」
映像として残せないのが残念でならんな。この寺院の境内は撮影禁止ゆえ。
「この煩悩爆裂兄妹……あなた達こそ鐘を鳴らしてきなさいよもう」
そう言うリゼットが指差す先は、境内の中で一段高い段差のある一角。意匠を凝らした造りの屋根の下にはもちろん、ここを訪れた目的である吊り下げられた巨大な鐘……梵鐘があった。
今は綾女がそこに上がって丁寧に合掌し、撞木に手をかける姿が見受けられる。
小さな身体で少し危なっかしく撞木の重量に翻弄されながらも、まるで破城槌を操るがごとくそれを揺らし……、
──ボォ~ン……。
胸の奥に染み渡るような、重く低い音色が冬の空に吸い込まれていく。単調な音であるというのに、どこか雅に聞こえるのは気のせいではあるまい。年末の風情というものだ。撞木に手をかけたままこちらに振り向き、笑顔で小さく「ぶいっ」とサインをする綾女も可愛らしい。先程の宣言通り、俺の煩悩を払うために鐘を突き続けるようだ。まったく健気な少女よ。
俺がそんな綾女に小さく手を振り返していれば、心を鎮める音色に聞き入っていたリゼットが閉じていた目を静かに開ける。
「ん、いい音ね……心が洗われるようだわ。お寺って初めて来たけれど、こういう落ち着いた雰囲気って素敵じゃない? このままあと数回打てば、心穏やかに年越しを──」
「はっ!? 兄さん忘れてました! 年越しする前のキス納めしましょうキス納め!」
「ねぇ人が異邦の文化に感じ入ってる時に異邦を通り越して異端な文化作らないでくれる?」
「んちゅう~♪」
「聞きなさいよ。あとここお寺だって言ってるでしょうが」
酒上家では毎年恒例の"キス納め"を、今年も無事に敢行できた。一年の締めくくりに相応しい、神聖なる行事である。
住職は甘酒の追加を作りに行き、他の参拝客もいないのをいいことに何度か互いに啄むようにして唇を求める。参拝客が少なそうな寺院を選んでおいて正解だった。妹の可憐なキス顔を、余人に見せるわけにはいかんからな。
「むふー……ご馳走さまでした♪」
「うむ」
うっとりとした妹の、甘い唇が離れていく。
それを名残惜しく思いながらも、次に俺はお堂の仏像を感心したように見上げている娘達二人に声をかけた。
「そら、リンゼと彼方も来い。納めるぞ」
「どういう誘い文句なのよ。純粋な愛娘達を異端に染め上げないの」
「はい、お父様。ちゅっ」
「おとーさん……ちゅ」
「なんで当然のように受け入れてるのこの子達……」
愕然とするご主人様の声をスルーし、互いの頬に愛しい感触を残す。口付けを終えた二人の、照れ臭そうにはにかむ年相応な笑顔がなんとも微笑ましい。リゼットは異議があるようだが。
「絶対におかしいこの一族……」
「え、ワタクシ、幼少の頃にリゼットお母様から直接『年越し前にはママにキス納めするのよ~?』という教育を……」
「なんで当然のように染まっちゃってるの別の私……」
不思議そうに首を傾げるリンゼの言葉に、我が主は頭を抱えている。"かるちゃーぎゃっぷ"の溝は深い。
「ほんと……あなた達と関わってると時々自分が分からなくなりそうよ」
「ヒトは変化し、適応する生き物だ。マスターは己を見失っているのではなく、進化しているということだな」
「私、本国にいた頃は別にツッコミとかしなかったのに……」
「ツッコミをしないリゼットお母様なんて想像できる、カナタ?」
「まったく」
「えぇ~……?」
そんなことを言う娘二人を不満げに見ているリゼットだが……いやはや。
「俺は今のマスターの方が好きだぞ。出会った頃の少し張り詰めていた姿も、絶望の淵に立たされている者特有の香りがしてなかなかに好みではあったが」
「あなたね……あの時そんなこと思ってたの?」
「そう怒るな、俺は怨嗟と絶望を食む妖刀だぞ」
紅い瞳を吊り上げるリゼットに断っておく。
あの時は選定の段階だったからな……この無双の戦鬼を従えるに相応しいか否かの。
「妖刀とは暗き感情を喰らい、担い手の怨みに加担する物。言い換えてしまえば、担い手の怨嗟を晴らすための道具とも言える」
まぁ俺のように持ち主を慮る奉仕精神を持たぬその辺の二流妖刀であれば、力に飲まれ暴走し、担い手ごと共倒れになるのが関の山だが。
しかし俺は違う。俺が見初めた担い手ならば、この世でもっとも幸せでなければならぬ。そうすることこそが我が義務にして誇りであり、そして担い手の権利であるのだ。
「幸せか? リゼット=ブルームフィールド」
「──」
改めて問う。
失意の底に落ち、しかし闇の中にあってなお美しき黄昏の光を纏う者よ。暗き感情を力とし、それに溺れず高貴なる王道を歩む我が王よ。
そんな強き少女は一瞬目を見開いた後、
「……ふふ」
ふ、と肩から力を抜き唇を綻ばせた。少しだけ、苦笑するように。
「……ええ、おかげさまでね。私、自分の運命を呪ったこともあるけれど……今は、そう悪くないと思えるわ」
「ククク、それは何よりだ」
強がりな言葉も彼女らしい。何者にも阿らぬその姿勢、眷属として誇りに思うぞ。
「はい、はーい! 妹も今、とっても幸せでーす!」
「おっと」
マスターと不敵な笑みを交わしていれば、横から黒く柔らかい弾丸がこちらに抱き着いてくる。
バニラのように甘い香りを放つポニーテールを嬉しそうにブンブンと揺らし、刀花は蕩けるような満面の笑みでこちらの胸に頬擦りをした。
「バイト漬けだった頃よりずっとずーっと兄さんと一緒にいられますし、一緒に学園にだって行けてるんですから。もう毎日が幸せすぎて、どうにかなっちゃいそうです!」
「多分とっくにどうかしてるけれどね……」
「これも偏にリゼットさんが兄さんを眷属に迎え入れてくれたおかげです。リゼットさんと出会えてなければ、兄さんは未だにスーパーのレジに立っていたと思います」
「ふ、ふぅん……まぁ、そうね? せいぜい感謝しときなさい?」
刀花の素直な感謝の言葉に、リゼットはぶっきらぼうを装ってそんなことを言う。耳の先が赤いぞ。
「……兄さん兄さん」
「ああ」
そんないじらしいご主人様の姿に、妹は少しイタズラっぽい笑みを浮かべてこちらの袖を引き、
「ではでは、私達酒上兄妹の感謝の印としまして」
「感謝を形として、くれてやろう」
「へっ?」
こちらの言葉にキョトンとする、その一瞬の隙を突いた俺達はリゼットの両脇に立つ。
そうして少しだけ屈んでから……、
「ちゅっ♪」
「んなっ……!?」
──二人同時に、彼女の両頬へ感謝のキスを施した。
「なな、なななななななな!?」
「成功です~、いえーい!」
「いえーい」
唐突な両頬へのキスに真っ赤になって、壊れた機械のように震えるリゼット。それを余所に、楽しそうな妹とハイタッチを交わし合う。俺達の連携は抜群である。
「ふふ……ね、カナタ?」
「ああ」
そんな俺達の姿を見ていたリンゼと彼方も、コソッと互いに耳打ちしたかと思えば、先ほどの俺達のようにリゼットの両脇に立つ。
先に口を開いたのは、この枝葉に来た頃とは別人と言っていいほど雰囲気をガラリと変えた彼方だ。
「リゼットおかーさん、急に来た私達を迎え入れてくれてありがとう。おかげで、私も曇っていた視界が開けた心地」
「ワタクシも感謝いたしますわ、リゼットお母様」
彼方から言葉を引き継ぎ、リンゼも感謝を述べる。
「ほんの軽い気持ちでこちらに来たのですけれど、ワタクシもカナタも、とても大事なことを教えていただいたと思っておりますわ」
黒みががった琥珀色の瞳と、同じく黒みががった鮮血の瞳が柔和に細められる。そうして──、
「「ちゅっ♪」」
「はわわわわわわわわわ」
またも二人同時に、頬への口付け。
それを受けたリゼットは、既に外から受け取る情報量がパンクしているようで目をグルグルとさせている。
「なになに、みんな何してるのかな?」
そこへ更に、俺の煩悩を払うために数度にも渡って鐘を鳴らしていた綾女も、こちらの楽しそうな様子に興味津々な瞳で近付いてくる。
「ああ、今、この可愛いご主人様に皆で感謝を伝えているところなのだ。頬への口付けでな」
「ふふ、みんな仲良しさんなんだ」
「綾女もどうだ? 今ならこの普段ツンツンしているマスターも素直に受け入れてくれるぞ」
「え、私は……あ、でもそっか」
一瞬だけ遠慮しそうだった綾女だが、何かに気付いたような声を上げる。
「一緒にお風呂入ってる時に聞いたんだけど、刃君が二年生として編入してきたのってリゼットちゃんの指示だったの?」
「そうだな」
「じゃあじゃあ、もしリゼットちゃんと刃君が出会ってなかったら、私と刃君も再会できなかったんだね」
「……そうだな。そうなる」
俺が学園に入れたのは、ブルームフィールド家の資金とそれを使うリゼットの気遣いあったればこそ。俺とリゼットがあの時出会い、主従関係を結ばなければ、同時に学園で綾女と再会する機会も失われていたというわけだ。
そう思えば、リゼットの功績は計り知れない。まさしく、俺にとっても運命を変える少女だったのだ。そしてそう思っているのは、綾女も同様のようで……、
「うん、リゼットちゃんのおかげで、私は鬼さんとまた会うことができたんだね。だから──」
綾女はクスリと笑って、今の運命に感謝するようにして……、
「ありがと、リゼットちゃん……ちゅっ♪」
「あうあうあうあうあうあうあうあう」
フラフラ揺れるリゼットの真っ赤っかな頬に、綾女が控え目にその唇を触れさせた。その尊い光景を前に、俺も思わず「おお……!」と歓声を上げてしまった。しかし同時に嫉妬も感じる。
「くっ、綾女のファーストキスを主に奪われてしまったか……」
「い、いやいや! ほっぺだし! あくまで親愛表現だから!」
綾女にしては攻めると思っていれば、彼女の中ではそういうことになっているらしい。親愛表現であれば口付けはセーフなのだな、覚えておこう。
そうして独り頷いていれば、街の方角からにわかに歓声が聞こえてくる。
「む……どうやら年が明けたようだぞ」
「あはは、カウントダウンとかできなかったね」
苦笑する綾女だが、それよりも良いものが見られたので良しとする。
だが今この時は、これだけは言っておかねばなるまい?
リゼットを除いた俺達は、フラフラする彼女の方へ今一度姿勢を正し──、
『明けましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします!』
「へ、へっ?」
折り目正しく一礼し、新年を祝う。
一堂から笑顔と祝福を与えられたリゼットは、頭からぷしゅうっと湯気が出るほどに照れ、
「え、えと……こ、こちらこそ、よろしく……お願いします……」
俯いた前髪で瞳を隠し、蚊の鳴くような声でそう呟いた。
そんな、先程皆から尊敬の念を向けられていた少女の、打って変わった年相応な可愛らしい姿に……、
『ふ、ふふふ、あはははは!』
「も、もぉー! からかわないでってばぁ!!」
怒りと、少しの照れ隠しが含まれた声が境内に木霊する。なんとも締まらぬ、しかし俺達らしい新年の迎え方だ。
──願わくば、こんなにも温かい時間をもたらしてくれたご主人様の迎える新年が、また良き年でありますように。
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