第210話「ミ〇ウツーみたいなこと言い出したわね……」


 冬晴れの朝。


「む……このスープを作ったのは誰だ」

「えっ、ごめん私だけど──っていうか、刃君も一緒に手伝ってくれてたじゃん……何かダメなとこでもあった?」

「いや……美味い、と。そう思ってな」

「もう、変な言い方するからびっくりしたよ……でもよかった。朝だからちょっと薄味で、消化にもよさそうな具材を使ってみたんだ」


 今日も今日とてブルームフィールド邸のキッチンでは、朝食作りに勤しむ我々の姿がある。

 コンロの前に俺と綾女。そして隅っこで何やら物思いに耽りながら料理を皿に盛り付ける彼方だ。


「……」


 彼方は昨日の騒動からだいぶ落ち着いている。こちらに何か働きかけてくるまでは、一人で思考を整理する時間が必要だろう。


(うむ)


 そう判断しつつ、魚介系の良い香りを漂わせるスープを小手皿で味わえば、少し冷えた身体の奥にその温かさがじんわりとよく染みる。

 綾女の安心したような吐息を聞いた俺は、そのままの姿勢で思わず唸った。


「うーむ、こういうところだな。それを食する者のことを第一に考える心配り。さすがは喫茶店を営む家の娘、ということか」

「えへへ、ありがとっ」

「己が環境が充実しておらねば、人は他人を慮ることはできん。よい家庭環境で育てられたのだと、それがよく分かる一面だ」

「ふ、ふふふ。もう、刃君ってばおだて上手だなぁ♪」


 家庭を含めて褒められたのが嬉しかったのか、清潔な白いエプロンを身に纏う綾女は頬を緩ませる。


「ここの調理道具とか設備とかってすっごく充実してるからお料理するの楽しくて、つい気合いが入っちゃうよ」

「ほう、そういうものか」

「うんっ。うちもそこそこの設備はあるけど、軽食とかお菓子作り特化だからね。いやいいなぁ……おっきいフライヤーとかお鍋とか……」


 綾女が羨望の眼差しでキッチンを見回している。喫茶店の娘としての血が騒ぐのかもしれん。

 ふむ、なるほどな。


「この設備をいつでも使えるようになる方法があるにはあるが……どうだ、聞きたいか?」

「えっ、なになに!?」


 瞳を輝かせる綾女が可愛らしく、つい何とかしてやりたくなる。

 そう思った俺は、懐から一枚の紙を取り出した。


「まずこの婚姻届にサインをだな」

「また手の込んだネタを仕込んできたねー」


 ネタだと?


「俺は真剣だぞ?」

「余計悪いかなー……おぉ、刃君のもう記載されてる……役場から貰ってきたの?」

「いや、刀花から一枚貰った」

「何してるの刀花ちゃん……しかも束なんだ……」

「呼びましたー?」


 呆れと感心の入り交じった顔で婚姻届を覗き込む綾女に、呼ばれた刀花が食堂から帰参した。


「テーブル拭きご苦労だな、刀花。マスターとリンゼは?」

「仲良くお茶飲んでますよ。まあリンゼちゃんはストレートティーに苦い顔してましたけど」

「ああいった背伸びする姿が、あの子の愛される所以なのだろう」

「応援したくなっちゃいますよね。それで綾女さん、私になにか──あー! 兄さんの記入済み婚姻届ですー!」

「わ、びっくりした」


 綾女の手元を覗き込んだ刀花が目の色を変えて叫ぶ。


「いーなー! しかもちゃんと形式に沿って書かれてるやつです! 兄さんよく書き損じしますのに! これもう出したら受理されちゃいますよ受理! じゅるり……」

「今なんで舌なめずりしたの刀花ちゃん」

「いーなーいーなー。綾女さん、妹にそれ譲ってください」

「すごい。婚姻届をくれた人の妹さんに婚姻届をねだられるっていう類い希な経験しちゃってるよ私」


 今後に活かせられればよいな、その経験。


「朝ごはんの肉団子を代わりにお譲りしますから!」

「刃君の婚姻届安ーい……えっと……い、一応私が貰ったやつだから……その……」


 もじもじとして婚姻届を手放そうとしない綾女に、刀花が愕然として震え出す。


「に、兄さん大変です……これ、もしかしたら脈あるかもですよ!」

「これで無かったら俺は綾女を心底恐怖するぞ」

「私もまさかこんな風に恋愛感情をからかわれる日が来るだなんて、ある意味恐怖を感じてるよ。君達といたら一般的な価値観壊れそう」

「そうか? この程度、子どもがノートの端に描く相合い傘のようなものだろうに」

「絶対違う……」

「あとで役所に提出しておいてくれ」

「刃君、男性の結婚は十八歳からだから受理されないよ。あとお酒は二十歳になってからね」

「綾女さん綾女さん、二十二年には女性も結婚が十八歳からになるってほんとですか?」

「そうなのか? 早く結婚した方がいいんじゃないか?」

「二年後だから君達結局関係ないじゃん……」


 現在、二十年の冬。今日も我が家は平和である。


「綾女は今日帰ってしまうがゆえな、ついそんなものを用意してしまった」


 内情を吐露すれば、綾女は少しだけじっとりとした瞳をこちらに向ける。委員長のお小言モードが発動してしまったか。


「もう、ダメだよ? こういうのは然るべき時にキチンとお互いに向き合って書くものなんだから」

「ほう、然るべき時とは?」

「えっ? そ、そうだなぁ……」


 綾女の然るべき時、とても興味がある。

 聞けば綾女は、頬を染めながらも指を立てた。


「まず正式にお付き合いを始めて、同居する期間も欲しいよね」

「あー、いきなり結婚よりまずは同居してからの方がいいっていうのはよく聞きますよね」


 刀花も納得したように頷いている。そういうものか。


「両親に負担はあんまりかけたくないから、貯金がある程度貯まってからの方がいいかも。お金で苦労するのは子どもが可哀想だからね。あっ、でもでもそんな贅沢したいってわけじゃなくって、それこそ幸せなら小さなお家で構わないし、家族が笑って暮らせるなら私はそれでいいかなぁ……──ってあはは、私なに言ってるんだろ!」


 途中から我に返って照れ笑いする綾女だが、俺達兄妹はそんな乙女の姿に口許を押さえた。


「なんと健気な……嫁にしたい」

「私も綾女さんをお嫁さんにしたいです……」

「何言ってるの二人とも……」


 我が妹とはいえそれは譲れんな!


「綾女は俺が幸せにする」

「むふー、じゃあ私は今幸せにしちゃいます。えいっ♪」

「わっ、刀花ちゃん……ふふ、くすぐったいよぉ」


 まるでわんこのように飛び付いて頬擦りする刀花を、綾女が柔らかく抱きとめクスクスと笑う。

 なんと華やかな光景であろうか。そしてなんて羨ましい……!


「嫉妬で気が狂いそうだ……」

「どっちに嫉妬してるの?」

「妹に抱きつかれる綾女に嫉妬しているし、綾女に抱きとめられる妹にも嫉妬している。どっちも俺に代わるがいい」

「それどっちも刃君になっちゃうじゃん……」


 なんだそれは気持ち悪い。


「綾女は俺に幸せにされたくないのか!?」

「の、ノーコメントです……」

「むふー、私、鞘花姉さんも好きですけど、綾女お姉さんも好きかもです」

「お、お姉さん……! なんかいい響きかも……」


 いかん、刀花の『お姉さん』発言に、綾女がぽわぽわとし始めている……!


「まずいな、外堀が埋められていく……」

「あれ? これって私の外堀なの? なんかよく分かんなくなっちゃった」

「綾女さんは貰っていきますね、兄さん」

「待て、俺の方がおっぱいは大きいぞ」

「なんでそれが引き留められる理由になるって思ったのかなぁ……?」

「くっ、大事な妹と大事な友の門出に、兄である俺は祝福すべきなのだろうな……!」

「──あなたはまずご主人様の朝ごはんを作るべきだと思うわよ、お兄ちゃん?」


 おっと。

 わいわいとしていれば食堂に繋がるドアが開く。冷たい声と共に。

 細めた紅蓮の瞳をこちらに向けるは無論、我がマスター・リゼットである。


「お仕置きが足らなかったのかしら?」

「止めてくれるなマスター。俺は今、友と妹を同時に失いかねない瀬戸際なのだ」

「ふぅん……?」


 食堂とこの厨房はカウンターでも繋がっており、状況はこちらから届く声で把握しているのだろう。

 そんなリゼットはイタズラっぽく笑い、


「じゃあ私も……えい♪」

「なっ──」


 刀花とは反対側から綾女に抱きついた!


「な、に……!?」


 瞠目していれば、挑発的にこちらを流し見るご主人様がクスリと笑う。


「クス、ごめんなさいジン。私、昨夜にアヤメの魅力に気付いちゃったの。アヤメは私が貰っていくわ。きっとあなたにはもったいない子だからね」

「あー! リゼットさんずるいです! 綾女さんは私が貰いますぅー!」

「あ、あはは……急にモテ期がきちゃったよ」


 な、なんということだ……。

 両側から信頼の笑みを向けられ、綾女は満更でもなさそうに苦笑を浮かべている。

 そうか、これが──!


「知っているぞ……これが寝取られというやつなのだな」

「違うと思うけど実際に昨夜は一緒に寝たから何も言い返せないや。刀花ちゃんは朝方部屋に戻ったけど」


 くぅ、やはり俺もあの時に混じっていれば! きっと昨夜は、めくるめく百合の花が咲き乱れていたのだ!

 俺が後悔に打ち震えていると、綾女は両手に花でふにゃっと口許を綻ばせる。


「ふふ、私一人っ子だったから妹って結構新鮮でいいかも……振られちゃったね刃君。ごめんね?」

「くっ、俺を哀れむな……!」


 綾女の言葉に臍を噛む。勝者からの同情ほど屈辱的なものもない!

 睦み合う三人に、俺は宣言するように指を突きつけた。


「見ているがいい綾女……俺は必ず、主と妹を再び振り向かせてみせる……!」

「おぉ~、どうやって?」


 …………。

 ………………。

 ……………………。


「……とりあえず朝飯を完成させる」

「前途は多難だね、刃君」

「お尻に敷かれる兄さんも可愛くて好きですよ」

「未来の縮図が見えたわね」


 ああ、きっと何年経っても彼女達には頭が上がらぬに違いない。


「まあよい、それが俺の“役割”ということなのだろうよ。尻の感触も心地よいしな」

「いやん、兄さんのエッチぃ~♡」

「比喩だからお尻突き出すのやめなさいトーカ」


 そんな風に。

 綾女を加えつつも、いつも通りな雰囲気でじゃれ合っていれば──


「……“役割”?」

「む?」


 ポソッと。

 今まで沈黙を保っていた人物から、そんな声が漏れるのを聞いた。

 ……彼方だ。


「……」


 こちらをじっと見つめる彼方の瞳。その黒みがかった琥珀色の瞳は、何かを見極めようとするかのようだ。

 しばらくの空白の後に、決心がついたのか彼方はゆっくりと口を開いた。


「……旦那様。相談したいことがある」

「ほほう」


 娘から改まってそんなことを言われると、父としては背筋が伸びる思いだ。

 同じ心地なのか、母である刀花も彼方に向かって胸をぽよんと叩いてみせた。


「悩み事ですか? むふー、お母さんにもなんでも相談してみてください!」

「うむ。我々兄妹に解決できぬ悩みなど無い」


 自信満々にお母さん風を吹かせる妹の姿に感銘を受けつつ、力強く頷く。


「……じゃあ」


 彼方が上目遣いにこちらを見て口を開こうとする。

 ふ、愛娘の悩みなど、この最強無敵の兄妹があっさりと解決してみせよう。そう、この綾女特製のあっさりとしたスープのように──


「──私はなぜここにいるのか、それが分からなくて……」


 いや朝から濃い相談がきたな……。

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