第115話「当事務所は浮気調査のみ受け付けているわ」
あ、今ものすごくジンに甘えたいわ。
『マスター、そろそろ朝食が冷める頃合いだぞ』
そんな彼の声と、鳴らされるノックの音で目を覚ました私は唐突にそう思った。
今日は土曜日で学園もお休み。こういった週末の朝は、特に彼との時間を作りやすい。
まあ、だからといって素直に「甘えたい」だなんて口が裂けても言えない。
だって、私ご主人様だし。眷属はご主人様を甘やかすのが仕事だけれど、ご主人様から眷属に甘えるのは、なんだかこう、高貴さが足りないっていうか?
……それに、素直な甘え方なんて、私には分からないもん。
「う、うぅ~ん……」
だから私は今日も策を練る。
わざとらしいかな、と思いつつも、むずがるような声を上げて彼が部屋に入ってくるように仕向けた。
「入るぞ」
計画通り。
蝶番の回る音の後に、彼が部屋に入ってくる気配。そのまま彼はこちらに歩みを寄せて、私の眠るベッドに腰掛けた。
「マスター、マスター」
低い声と共に、優しく肩を揺すられる。
そんな中にあって、私はいまだ布団を被ったままの体勢だ。
そう、私はまだ夢うつつの狭間にいるの。
だから、ほら……
早く私を、夢の世界から連れ出して?
「……今日は随分と眠り姫だな、俺のマスターは」
「んー……」
彼の指にゆっくりと髪を梳かれながら。
どこか仕方のなさそうな声色で言う彼の言葉に、返答とも寝言とも取れない声を返しておく。
「なるほど、そういう趣向か? どれ……」
「んっ……!?」
あ、あ!
か、彼が! ジンが今、シーツごと私を抱き締めてる!
覆い被さるようにして、彼はシーツに包まった私を更に包み込んだ。
ほんのり暖かいシーツが、彼の熱を間接的に優しく伝えてきてくれる。
(全身を、彼に抱き締められてるみたい……)
へ、変な声出ちゃったけど、バレてないわよね?
しかし確かめる術も無く、私は借りてきた猫のように大人しく、彼に抱き竦められたままで甘い時間を堪能する。
彼の顔は見えないけれど、落ち着いた彼の息遣いや、私を気遣った力加減で優しく抱く腕の感触が伝わってきて……すごく、素敵。
「……起きたか?」
「ん、んぅー……」
も、もうちょっとだけ……と、私は願う。
最近、彼は放課後にアヤメと喫茶店について相談することが多くなった。
無論、私やトーカも参加しているが、さすがに素人考えではなかなかいいアイデアが出てくるはずもなく、喫茶店にお金を落とすことくらいでしか役に立てていない。
それでもなお、ジンとアヤメが二人で難しげに打開策を相談する姿を見て……私は少し、寂しさを覚えていたのだ。自分でも、我が儘だとは思うけれど……。
「ん……」
だからもうしばらく、この充足感を味わっていたい。好きな男性が、私のことだけを見てくれているようなこの満足か――きゃっ。
「よっと」
い、いきなり……。
そんな軽い声と共に、彼は急に体勢を変えた。
私の肩と、足の関節に手を差し込み、そのまま私を胸の中へ。
(こ、これ、恥ずかしいんだけど……!)
ベッドシーツもそのまま巻き込んでするお姫様抱っこは、まるで赤ちゃんを抱く母のよう。
つまり今の私は、柔らかい毛布に包まれたまま抱っこされる赤ちゃんみたいで……!
(あ、でも……すごく安心するかも……)
一瞬恥じらいに沸騰しかけた頭が、ぼんやりと蕩けていくのを感じた。
彼は私を抱いたまま、揺りかごのように身体を揺らす。
それはまるで母のような慈しみで。かつて味わったはずの絶対的な安心感で。
(ああ、ダメ……)
催眠術にかかったみたいに、思考がグズグズに溶けていく。
こんな子ども扱いされて恥ずかしいはずなのに、恥じらいよりも先に、甘えたいという欲求がジリジリと私を焦がす。
「ん、ん、んぅ~……」
相変わらず私は目を瞑ったままだけれど。
ぐずるような声から、甘えるような声色へと変化していく。
そんな中で、私はシーツから腕を出し、自然と彼の胴にギュッと抱きついていた。
「ん、どうした? リズ」
や、優しい声で愛称を呼ばないでよぉ。
そんな風に囁かれたら、子どもみたいに甘えたらいいのか、恋人みたいに甘えたらいいのか、よく分からないじゃない……。
「甘えん坊だな、リズ……俺のリズ」
「!」
サッと、頬が熱くなっていくのを感じる。
い、いつ私があなたのモノになったのよぉ、あなたが私のモノなんだからね?
(それに、甘えん坊って……)
そ、そうよ、悪い?
普段はこんな素直に甘えられないけれど、微睡んでる時くらい許しなさいよね。私だって、トーカみたいに……
「さ、リズ? そろそろ起きたらどうだ」
「うぅ、やー……」
そう口を動かした瞬間、かつてないほどの恥じらいが私を襲った。
いや「やー……」って! 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!
トーカだったら、って考えてたらめちゃくちゃ恥ずかしいこと言っちゃったじゃないの!
「う、うぅ~……!」
耳まで真っ赤になった私は、顔を見られないよう彼のお腹にグリグリと顔を押しつけた。
これじゃまるっきり赤ん坊……! こ、これはさすがにない! じ、ジンももしかして引いて――
「可愛い」
「へ? んむっ!?」
彼の表情を見ようと、薄らと目を開けた瞬間。
そんな呟きと共に、目の前には彼の黒い瞳。
そして唇には瑞々しく、柔らかい感触が触れていた。
「ん、んん……んー……♪」
子どもと恋人の間で揺れていた秤が、一気に恋人へと傾く。
私は寝たふりをしていたことも忘れて、その感触にうっとりと目を閉じた。
「んっ、ちゅ……ん……」
優しく、触れ合うだけの口付け。
しかし唇はなかなか離れることなく、まるで磁石のようにくっついたまま。
そうしながら、どこからともなく指同士を絡め合い、互いの熱を求め合う。
体勢は変わらず、私が子どものように甘えるような姿勢なのに、彼が私に“女”を求めているようで……その倒錯感に、すごくドキドキした。
「ん……」
もう一度薄らと目を開けてみると、彼は真剣な表情でこちらの唇を吸っている。その瞳……私のことしか映していない瞳を見るだけで、クラクラする。
だけど、ちょっぴり恥ずかしい。
「ちゅ……はぁ……こういう時くらい、目を瞑りなさいよね……」
「起きたか、おはようリズ」
「おはよう……あ、あとリズじゃなくって“マスター”でしょ。も、もう……それに寝てるご主人様を襲うなんて、信じられないわ」
「クク、これは失礼した」
一旦唇を離し、至近距離で見つめ合う。
私の憎まれ口に、彼は嫌な顔一つせず、おかしそうに笑って謝罪をした。
「ああ、言い訳をさせてもらえるか?」
「な、なぁに……?」
「マスターがキスをしている顔が、一番可愛くてな。俺だけに許すその表情。その顔をどうしても、俺が独り占めしたかったのだ」
あ、あう……。
だ、ダメよ。朝からそういうこと、言うのは……しかも、そんな真剣な表情で。うぅ、私の眷属、世界一かっこい……。
「は、恥ずかしいから、見ないで……」
「善処しよう」
「……て、テスト、する」
「……ああ、存分に試してくれ」
そう言って、彼は含み笑いをしてからその瞳を閉じる。そんな彼に――
「んっ……!」
私はいてもたってもいられず、すぐさま唇を重ね合わせた。さっきからずっと……こうしたかった。
私は試しに、彼の表情を探る。
彼は私の顔を見ることなく、私の命令通りにその瞳を閉じていた。
(今の彼の顔は、私だけのもの……)
確かに、悪くないかも……。
今の彼の顔を存分に脳に焼き付けた後、そのまま私も口付けに集中すべく瞳を閉じる。
「ん、ちゅ……はむ……」
彼の唇を挟むように動かせば、彼も同じように唇を動かす。
戯れるような感触がくすぐったく、同時に恋人にのみ許されるその遊びに、深い愛情が胸に湧いてくるのを感じた。
「顔が、トロトロだぞ……」
「やぁ、見ないでって、言ったぁ……」
いやいや、と首を振って、そのイタズラする瞳に口付けする。
閉じた瞼に満足し、私は再び彼の唇に自分のものを押しつけた。
二人の息遣いと、時折漏れる声だけが私の部屋を満たす。まるで世界に二人だけしかいないかのような、そんな馬鹿馬鹿しくも甘い思考に耽った。
そんな時間が、五分……十分……分からない。とにかくいっぱい。
もはや溶けたバターのようにふにゃふにゃになった私は、身体に力を入れられず、ようやく唇を離した。
「……おはよう、俺のマスター」
「う、うん……おはよ……」
「クク、朝飯は冷めてしまっただろうな」
彼の言葉に顔を真っ赤にして、目を逸らす。
うぅ……や、やってしまった……これじゃトーカをどうこう言えないじゃない。
ち、違うのよ? 普段なら普通に起きて、普通にちょこんとキスを済ませて普通に起きるんだから。そうそれが普通。普通普通……普通ってなんだっけ?
「その様子だと、着替えも一人で出来るか不安だな」
「ばっ、で、出来るわよおバカ! 変態!」
今更ながら子どものように抱かれていた姿勢を思い出し、慌てて彼の身体から降りる。
ま、まったくもう。子ども扱いして。その子ども扱いする女の子の唇に夢中になってたのは誰よ。それにいくらなんでも着替えくらい一人で――ネグリジェの肩紐片っぽ外れてた……あわわ。
「ん。さて、そろそろ時間か」
白い肩が剥き出しになっていたのを直しつつ、ぷしゅうっと頭から湯気を放出していると……彼がそんなことを呟きつつ立ち上がった。
「俺は所用で少し出る。きちんと朝飯をとるのだぞ、マスター」
「……そういえば、珍しく洋服を着てるじゃない。ん」
彼が頭を撫でる掌に頬をすり寄せつつ、珍しいこともあるものだと思考する。
彼は休みの日は、外に出ない限り和服を好む。買い出しにでも行くのだろうか。
「ああ、少しな――」
「んー……?」
スリスリと、彼の少し無骨な手に安らぎを感じながら聞き返す。くす、なぁに?
「――綾女と、カフェ巡りに行ってくる」
「ふーん……………………ん?」
は?
ん、なぁに? 聞き間違いかしらー? 今なんだか聞き捨てならないことが聞こえた気がするのだけれど?
「ん、いかん。あと40秒で時間か。悪いがマスター、俺は行くぞ」
「え、いや、ちょ、待ちなさ――!?」
私が驚愕に目を見開き、そして一度まばたきした瞬間――
「いないし!」
彼の手の温もりごと、刹那の間に彼の姿は闇に消えてしまっていた。
一人取り残された私は、嫌な汗をダラダラと流す。
いやいや……いやいやいやいや。
カフェ巡りって。いや分かるわよ? 事態の進展を望むべく、他店のリサーチも兼ねているのでしょう。
「だ、だけど……それってほぼ――」
で、デート、なのでは……?
ねえその危険性は考えなかったの? 何でこのご主人様を置いていったの? 普通「マスターも行くか?」って誘うわよね?
あ、でも……最近、週末になると私も疲れて「マスター、買い物に行くがどうだ?」って聞かれても「パスー……お菓子だけ買ってきてー……」って答えてたかも。
それに寝起きが弱いことなんて、とっくに彼には知られちゃってるし。
……もしかして、変に気遣われた?
「トーカ! トーカ!」
私は急いで身支度をし、同士である少女の名を呼びながら階段を降りる。しかし返答は全くない。
彼は独りで外へと向かった。ならば彼女はこの屋敷に残っているはず……!
私はとりあえず、この時間ならば食器を洗っている頃だと踏み、キッチンへと向かった。
「トーカ! ジンが――っ!?」
思わず息を呑む。
キッチンに足を踏み入れた私。そんな私を待っていた風景は――
――ガチャン。
「はい、兄さん。きちんとお皿の水気を取ってくださいね……あっ、もう。また落としちゃったんですか? 次はちゃんと受け取ってくださいねえ……」
――ガチャン。
「ひっ」
トーカが、お皿を洗っている。
そう。お皿を、洗って、いる。独りで。
青いエプロンに身を包み、お皿を甲斐甲斐しく洗うその後ろ姿は、まさに理想の幼妻と言えるだろう。
しかし……
――ガチャン。
その音が、絵に描いた理想をグチャグチャに塗りつぶす。
彼女は洗剤の泡を落とした食器を、隣にいる人物に受け渡すような仕草をし……
――ガチャン。
……落とす。それは当然のこと。
だって、彼女の隣には……誰も、いないのだから。
しかし彼女はそれに気付かず……いえ、その事実に目を背け、ひたすら生暖かい笑顔を浮かべながら、いるはずのない兄へお小言を言う。
そしてまたお皿を落とし――割る。
そしてまたお皿を落とし――割る。
割る割る割る割る割る割る割る割る割る割る割る。
そうして床一面に広がった白いお皿の破片は、まるで彼女の壊れてしまった心のよう見えて……
「トーカ! トーカしっかりなさい!!」
あまりの惨状に見ていられず、駆け寄って彼女の肩を揺さぶった。
「あ、リゼットさぁん……おはようございます。あ、ほら。兄さんもおはようって言ってますよ……」
「いないから! イマジナリージンだからそれ!」
その幻想をかき消すように、頬をペチペチと叩く。
そうすると、何も映していなかった瞳にようやく光が……
「はっ、私は一体何を……確か兄さんが綾女さんと二人でカフェに行くとお話を、うっ――」
「ちょっと急にまた光を見失わないでよ怖いから」
戻りかけた光をまた見失うトーカを揺さぶる。かなり怖かったから、さすがにもうやめて欲しい。夢に出そう。
「こ、これは由々しき事態よ……」
現在の時刻は午前10時。
今頃、彼はアヤメと合流を果たしているはず。街中であるため、“オーダー”を使って無理矢理連れ戻すことは出来ない。
……まあそもそも、彼はきちんと報告をして出かけたのだから、彼に“そういう気”がないのは明白だった。
だが、やはり……気になるものは気になる!
「……行くわよ」
「へ? ど、どちらにですか……?」
いまだ少し酩酊状態のトーカに、鋭く視線を返す。
彼の気持ちを疑うわけではないけれど、アヤメがどうかは分からないものね!
そう、これは眷属を心配してのこと! ご主人様の責務なの! 決してヤキモチじゃないんだから!
「ジンを追うわよ! 続きなさいトーカ!」
「え、は、はい!」
発破をかけるようにして言えば、トーカはビシッとした敬礼を返してくれる。よし!
それではブルームフィールド探偵事務所、これより調査に取りかか――
ぐぅ……
「……その前に朝ご飯と、モーニングティーをちょうだい」
「え、は、はい……」
唐突に鳴った自分のお腹の音に赤面しながら、トーカにそうお願いする。
い、いや、ジンもさっき「きちんと朝食をとるのだぞ」って言ってたから。
それに日本でも言うじゃない? 腹が減っては戦は出来ぬって、だから、ねえ……?
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