第83話「保健所に連絡させて貰うわね」
俺もなかなかに、忠犬根性が板についてきたな。
二階から降りてくる我が主を視界に収め、休めていた四肢をゆっくりと起こす。無論、愛しい彼女と触れ合うために。
さて、折角巨狼の姿をとったのだ。今朝はそれに合わせた愛情表現を仕掛けてみるか。たまにはこういう日があってもよかろう。
頬擦りか甘噛みか舌で舐めるか、いやいや悩ましい。まあとりあえずはマスターに近付かんことには始まらんな。
そう思い俺は、なぜか青ざめた顔で後退りするマスター目掛け、黒いフサフサの毛に覆われた身体をグッとたわめ一気にとびかか――
「まっ、待って!!」
「むっ!?」
ろうとしたところでまさかの待ったが入った。
つんのめりそうな姿勢で急停止し身体が軋むが、なんとか主の“待て”を遂行できた。この身体に精神が引っ張られているのか、命令系統には少し敏感だ。
「……なぜ止める。吸血鬼にあるまじき犬派のマスターよ」
「うわ喋った。やっぱりあなたねジン」
「おうとも、おはよう我が愛しのマスター」
ブンブンと尻尾を振って挨拶してみれば、彼女は一瞬物欲しげな目付きでこちらを見てくる。が、身体をウズウズさせるのみで、なぜか警戒したようにこちらには近付いてこない。
妙だな、刀花共々犬派の彼女ならば一も二もなく飛び付いてくると思ったのだが……ちなみに俺は猫派だ。
疑問に思いつつそんな彼女を見れば、戦々恐々といった雰囲気でこちらを観察し続けている。
「な、なんでよりにもよって今日はまたそんな姿に……」
「昨夜見た映画があっただろう? それの影響だ」
「おのれ金ロー……!」
人間ともののけの戦いを描いた作品だった。
それを見てワクワクしたのか、今朝早くに起きた刀花にねだられてな。そうして映画に出てきた姫を乗せた山犬よろしく、妹を背に乗せ朝の爽やかな森を駆け回っていたというわけだ。
そう説明し自慢げに顎を上げて見せるが、しかし目の前のマスターは渋い顔。何か不満でもあるのだろうか……ああ。
「おおそうだ、朝の奉仕の途中だったな。くくく、喜べマスター。今朝は気分がいいからな、本当の犬のように振る舞ってやろう」
「え、どういうこと……?」
「おはようのキスではなく、それこそ犬のように舐めてくれるわ……その足先をな。おおまさに戦鬼を従える強者の立ち居振舞い! こんなことが出来るのは世界広しといえどもマスターだけだぞ、嬉しかろう?」
「へぇっ!?」
視線を黒ストに包まれた細い足に向ければ、彼女は肩を跳ね上げてスカートを下に引っ張った。その頬はリンゴのように赤い。
ふ、恥ずかしがりおって。どうせ最後には蕩けた顔で夢中になるくせにこうして意地を張るのは彼女の悪い癖だ。まあ、そこがいじらしいところでもあるのだがな。まったく愛い乙女よ。
「さ、座って足を投げ出すがいい我が主?」
「え、いや、その……」
じり、じり……
そう言って俺が一歩踏み出せば、しかし彼女は同じように一歩下がる。む……?
「……なぜ下がる」
「や、これは、えっと……」
じり、じり……
また一歩踏み出せば、また下がる。
おかしい。これ以上ないほどのご主人様ムーブが出来る機会を、彼女が喜ばないわけがないと思ったのだが……彼女は冷や汗を流し、後退し続ける。
視線は落ち着きなく、曖昧に笑いながら両手をどうどうと前に突き出している。この態度……
「……何を隠している?」
「は、はぁっ!? ななな何も隠してなんてないわよ失礼ね!」
図星か。
この俺に隠し事とは寂しいではないか? そう聞くと暴きたくなってくるのが鬼の性よ。
「ふむ……」
「み、見ないでよ変態……」
改めて目の前の少女を観察してみる。
珍しくきっちりと服が着られているな。いつもならば朝の着替えの後、少し刀花の仕上げが必要になるはずだが、珍しいこともあるものだ。
……それにしても。
「んん~……?」
いつも通り美しい、バラのように咲き誇る我が主の姿。
だが……なにか引っ掛かるな。いや、引っ掛かるというよりは、引き込まれるものがあると言った方が正しいか。
腰まで届く自慢の金髪は、寝癖なのか少しよれている。その一部は彼女の肌に浮いた汗に張り付き、独特の色香を漂わせていた。通常より発汗も多く、恥じらいからか頬も赤い。……だがなるほど、色香か。
「それだな」
「なっなに!?」
この違和感の正体。分かってきたぞ。
どうも今朝の彼女からは、一段階上の魅力をたっぷりと感じてしまう。だがいかんせん、まだその原因を特定できない。
この言語化しにくい色香……なんだ? 少し乱れた容姿か? 恥じらう仕草か? 不安そうに瞳を潤ませる表情か?
しかしそれだけではない気がする。全体的な雰囲気……そう、言うなればフェロモンだ。今の彼女からはむせかえるようなフェロモンが感じられるのだ。
このしっとりとむせかえるように濡れた色香。何が原因かは分からないが、これが彼女の隠し事に他なるまい。
「……なぜだ、いつもと違う何かを感じるぞ」
「ひっ!?」
じぃっと瞳を細めて見れば、思わずといった雰囲気で声を上げるマスター。
いつもと違う何か……そう、魅力だ。今の彼女はとても魅力的なのだ。存在感とでも言うべきものが肥大化しているようにすら感じる。本能に直接ガツンと来るようなパンチがあるのだ。
「なんだろうな……溢れ出ているな」
「溢れ出てる!?」
「視覚化するならばムワっとしているな」
「ムワっとしてる!?」
「そう、濃い。かなり濃厚だ」
「かなり濃厚!?」
……なんだ?
俺が言葉を発するたびに、彼女はショックを受けたような顔で涙目になっている。誉めているのだが。
それにしても、どのようなマジックを使ったのかは分からないが、今の彼女は俺には魅力的に過ぎる。朝から年甲斐もなく胸が熱くなってしまうくらいだ。
これが常態化してしまえば、文字通り俺が狼になってしまいかねない。今後のためにも、少し釘を刺しておかねば。
「マスター」
呼べば、涙目でプルプル震えながら「ち、違うもん……ご主人様くさくないもん……」と呟いていた彼女はビクリと肩を震わせこちらを見た。
そんな彼女に、俺は言い含めるようにして言葉を放った。こちらも意識的に真剣な表情を作らねば、彼女の溢れるように濡れた魅力に当てられどうにかなってしまいそうだ。
「よく聞いてくれマスター。今のマスターは俺には(魅力的すぎて)キツイぞ。(襲ってしまいそうだから)やめた方がいい」
「うわあああああぁぁぁぁああああああん!!!! ジンのばかあああぁぁぁぁああああぁ!!!!」
「きゃいんっ!?」
爆発したように叫び、俺の横っ腹に鋭い蹴りを放った我が主は涙を流しながら廊下奥へと走り去っていく。悲痛な叫びが屋敷に木霊して尾を引き、俺の腹にも痛みが尾を引く。
「な、なぜだ……」
「どうしたんですか兄さん、すごい声が聞こえましたけど――って本当にどうしたんですか兄さん!?」
「動物虐待を受けた、原因は不明だ……」
ホールにピクピクと倒れ伏す俺を見つけ、走り寄る刀花は混乱のあまり「ど、動物病院って何番でしたっけー!?」と叫んでいる。いや、兄さん普通の病院がいいな……いや行かんが。
――結局朝食の席についても、マスターは涙目で頬を膨らませ、こちらを睨むのみで原因は不明だった。
しかし、シャワーを浴びたからか先程の色香がなくなっていた彼女に当てずっぽうで「香水でも変えていたのか?」と聞けば「そっそう! そうなのよ! でもバランス失敗しちゃって!!」と力説していたので謎は解けた。なるほどな。
失敗ならばもう付けてはくれないのだろうか。
俺は少々残念に思いながら、隣で「匂い? そういえば今朝まだ脱衣所にリゼットさんの寝間着が……あっ」と何かを察した妹を横目に白米をかっ喰らうのだった。
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