6(星空と銃声)

 レジスタンスの存在を知ったところで、何か変わるわけでもない。収容所生活は相変わらずだった。

 東は見事な狸を決めこんでいて、八方美人体制を崩していない。抵抗運動のことについてはおくびにも出さなかった。きっと死んだら立派な皮を残すことだろう。

 テレビで見るかぎり、革命政権の存続については当面は何の問題もなさそうだった。各国からの承認をとりつけ、条約の批准を行い、貿易を正常にやりとりしている。むしろ、旧体制より評判がよいくらいだ。ちなみに、革命政府をまっさきに承認したのはアメリカだった。

 革命派の平穏が、東の言う情報統制や政治戦略のおかげなのかどうかは知らない。ただ、映像で見るかぎりや実感としては、日本は概ね平和だった。少なくとも俺にとっては、ここに来るまでと何も変わらない。本当に、何一つとして。

 体育館での計算作業にも変化はない。例えば、こんな問題が出る。


 52+38×121+21=a、321÷3-57×3=b、47+32+56×42=c、45÷5×9-70=d

 a+b-c+d=e、2a-b+c×d=f、a×5b+c-d=g、a+12b-3c×d=h

 e+f×2g-h=i、5e×2f-g+h=j、2e-f×2g+h=k、e-3f×g-5h=l


 以下、同じようなことが何度も繰り返される。完全な作業に過ぎないが、時々頭が痛くなる。自分のやっていることの意味が失われ、自分自身の意味さえなくす。

 この作業に一体何の意味があるのか、俺にはわからなかった。あるいはこの作業の本当の意味は、大量の無意味さを産みだすことにあるのかもしれない。


 ある日の夜、俺は久しぶりに秋岡と会った。東のことについて訊くと、話したという。反革命活動についてはよくわからない、ということだった。

「すごく、しっかりした人だね」

 と、秋岡はやや見当違いの感想を述べた。東はかなりの年下だが、俺や秋岡よりよほどしっかりしているのは確かだ。

 ずいぶん前に夏も終わって、季節は秋の半ばを迎えようとしていた。ただし、正確な日付はわからない。収容所にカレンダーはなかった。時間の経過を感じるのは、せいぜい夜の空気が冷たくなりはじめていることくらいだ。

 あたりはすっかり暗く、星も出ているはずだったが、ひっきりなしに行きかうサーチライトのおかげでよくわからなかった。わざわざ危険を冒してまでここを出ていくやつがいるとは思えないから、無駄な電力の消費だと思うのだが。

「秋の四辺形はどこだ?」

 俺が秋の星座の目印を探していると、秋岡が話しかけてきた。

「ねえ、ここのことをどう思う?」

「どう思うって?」

 明るすぎて、やはりろくに光が見えない。人はいともたやすく星を殺してしまえる。

「何だか、おかしいんじゃないかな」

 俺は秋岡のほうを見た。秋岡はいつになく沈んだ表情をしている。

「東に何か聞いたのか?」

「そういうわけじゃないんだけど」

 秋岡の言葉は不鮮明だった。

「そりゃ、まともじゃないだろうな」俺はとりあえず、正論を吐く。「いきなり人間をかき集めて、塀の中に閉じ込めて、訳のわからない作業をさせてるんだから。基本的人権や倫理や常識はどこ行ったんだって話だよ。でもそんなの、たいした問題じゃないだろ? 正直、今までと何も変わらないと俺は思うね。外の世界でだって、誰も彼も、何もわからないまま、ただ生きてるだけなんだ。習慣とか、希望とか、恐怖とか、そんな訳のわからないものにすがってな。何かをわかっている人間なんて、一人もいやしないんだよ」

「本当にそう思うの?」

「ああ、思うね」

 俺は確言した。

「でもそれじゃ、どこにも正しさがないよ」

「正しいって何だよ?」

 俺は嘲笑した。

「そんなもの、お前は信じてるのか?」

「信じてない?」

「もしも目の前に持って来てくれたら、信じるけどな」

 俺は天使を描かないどこぞの画家のようなことを言った。

「正しさはあるし、正しいことをしてる人だっているよ」

 秋岡はなかなかしつこかった。

「だろうな、俺には知覚不可能なだけで」

「僕、思うんだけど、ここでやってる計算はね――」

「宇宙人の陰謀なんだろ?」

 俺は思わず、声を苛立たせた。

「お前のそのセリフは聞き飽きたよ。何だよ、宇宙人て? 俺たちも宇宙人だろうが。お前の言う宇宙人てやつを、今すぐここに連れてきてみろよ。そうすりゃ信じてやるよ。どうした? できないんだろう? できないくせに、自分のことは正しいと思ってるんだろう。うらやましいよ、自分のことを正しいと思えて」

「…………」

 俺は自分を抑えきれなくなって、言った。

「どいつもこいつも同じだよ。正しいなんてどこにもないのに、自分だけはそれを信じてるつもりでいる。自分だけは正しいつもりでいる。どこにいようが、どうしていようが、それはいっしょだよ。クーデターが起きようが、国がすっかり変わっちまおうが、それは変わらない。賭けてもいいね。奇跡が起ころうと、神が現出しようと、何も変わらないんだ。何も変わったりなんてしない。世界は相変わらず間違い続け、俺だけがバカみたいに同じところでじっとしてる。俺だけがどこにも行けずにいる。俺だけが自分のことを正しいと思えずにいる」

 秋岡は俺の言葉を、ただ黙って聞いていた。

 ――その言葉は俺にとっては、ひどく聞き覚えのあるものだった。

 暗く小さな、あの一人だけの部屋の中で、俺は散々その言葉を自分自身に言いきかせてきたのだ。うんざりして、嫌になるほど、赤い血の流れる傷口を繰り返し抉(えぐ)りながら。

「…………」

 俺は秋岡の顔をまともにみないまま、星空もない屋上をあとにした。

 歩きながら、ふと思っていた。

 俺はあの部屋の中にいたんじゃない。

 ――俺の中に、あの部屋があったんだ。


 その日の夜、俺は自分が社会反逆罪で銃殺される夢を見た。

 銃声の響きで目を覚ますと、びっしょりと寝汗をかいているのがわかった。動悸が激しく、めまいに似た感覚に襲われる。一瞬、自分がどこにいるのかがわからなくなって混乱する。

 汗がひくのを待って、夢の残響が心臓の鼓動から完全に消え去ってしまうと――俺はもう一度、目を閉じて眠った。

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