アンコール

川野ほとり

2

「遅い」

声より先か後か、右腕に焼けるような感覚が走る。

「もう一度」

息を吸い、腕を振り上げる。僕の指が白鍵を叩いた。白鍵が沈み、ハンマーが動く。ハンマーはピアノ線を叩く。

ピアノ線はその衝撃に震え、音を出す。音はその空間で広がり、次に大きなグランドピアノを震わせる。びりびりとした感触が体を走る。直後、耳に音が飛び込む。

単音が集まりリズムが生まれる。横に座る後藤は何かが気に入らないようだ。楽譜を見つめていても、右頬に視線を感じた。

自分の音に耳を傾けるが、その理由はまるでわからない。

また右腕にあの感触が走った。思わず呻き、手を鍵盤から離す。

「そこで歌え、なんて指示が楽譜にあったのか?このトンチキめ」

後藤は手に持ったムチにしては短く硬い、しなる棒を僕に向けた。

「それでも中学生か?ゴミみたいな演奏しやがって」

「辞めたかったら、いつでも辞めていいんだぞ」

またムチが飛んだ。

「もう一度だ」


帰り道に、公園によった。腫れた腕を母さんに見せると、体罰がどうこうと慌てるのでめんどくさい。水道の水で冷やして、少しでもマシにしてから帰らなければ。

自転車を水道の脇に停める。公園の中には誰の姿も見えず、静かだ。

「痛っ…」

思ったより水道の水は冷たく、染みた。しかし冷たいだけありがたい。この前は昼間に日光で水道管が温められたのか、お湯が出てきてびっくりした。

今でこそ秋だからいいのだが、夏は大変だった。半袖で腕が露出するのだ。

なるべく周りに見られないよう、長袖を着て学校に行くのだが、やはり暑い。汗をだらだら垂らしなお長袖を着続ける僕は、周りから見れば一種の変人だっただろう。しかし毎年のことではあるので、小学校の頃と面子がほぼ変わらないこともあってか咎められることも少ない。

水道の水を止める。キュッ、と心地いい音がなった。

「お、山下じゃん」

背中の方で、女子の声がして、びっくりした。さらに驚くことには、僕は山下ではない。彼女に気が付かれないよう、軽く首を動かし、山下であろう人物を探す。しかし彼女の視線の先、僕の視線の先には誰も見当たらなかった。つまり、僕が山下と間違われているのだ。

思い切って、振り向いた。

制服を着た、黒縁メガネの女子が立っていた。

さらにさらに驚くことに、彼女は人違いをしていなかった。

「よ、山下。久しぶり」

この世界には、僕とよっぽど似ている人間がいるらしい。


制服を見るに、この近くの進学校に通う女子生徒らしかった。なんでも彼女の通うその高校は近所でも有名で、全国レベルの偏差値を誇る名門らしい。

彼女はベンチに座ったので、少し間を開けて、座った。

「山下、元気してた?」彼女は本気で僕のことを山下と思っているらしかった。

否定するほどの体力は残っておらず、なんとなく面白そうなので、乗っかってみることにした。

「元気してるよ。そっちは」

「バッチリ。どう、山下は高校」

「まあまあかな。えーっと、先輩が厳しくて辛いけど、うん。楽しい」僕はまだ中学生なので、想像する他なかったが、まあ、あまり変わらないだろう。

「そっか…北中学の頃が懐かしいね」

「そうだね」北中学といえば、まさしく僕が今通っているところだ。「そういえば、なんでこんな夜に?危ないよ」

「今日は流星群だから」

彼女は空を指さした。

都会からかなりの距離を有するこの街は、よく星が見える。「あ、見えた」彼女は嬉しそうに呟いた。

「星、好きだったっけ」

「うん。二年だけど、天文部の部長してる。部員不足で」

高二ということは三才上ということになる。山下という人物は、童顔らしい。

「それは大変だ」「うん、なかなか苦労してる」

ようやく流れ星が見えた。思わず「おっ」と声が出る。

「きれいだね」

少しの沈黙が流れた。同時に、なにか相手の情報を詮索しているようで、後ろめたくなってきた。腕時計を見る。もうすっかり遅い時間になっていた。

「じゃ、俺、帰るわ。気をつけて帰れよ」

「うん、山下も、風、ひかないようにね」

自転車から公園を振り返ると、彼女はまだベンチで、星を眺めていた。




袖にケチャップが飛ぶ。

「あちゃー、岡野。それ、なかなか落ちないぞ」一つ前の椅子を後ろに向け、僕の机で弁当を口に運んでいたのは友達の川本だった。

「ティッシュない?川本」

「ねえな、すまん」川本は大体、物持ちが悪い。期待はしていなかった。

「まあ、いいや」舌でそれをサッと舐めた。それでも、白いシャツなので赤い染みは落ちなかった。

「そういや、川本はもう受験のこととか考えてるの?」

川本は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。

「なんだよ急に。真面目だな」

「まあ、そういう時期かな、って」

川本は勉強は得意な人間だった。「は」という助詞が表すように、かわいそうに勉強以外はまるで能がない、かと言って天才レベルに秀でているわけでもない。いわゆる凡人と彼は自称していた。

「まるで考えてない」「まあ、だよな」「俺、まだ中二だし」

「岡野は?」川本は最後弁当箱に残った卵焼きを口に運んだ。

本当は音楽高校に進もうか、とそんな相談をしようと思っていた。しかし、ピアノをしていることは周りに話したことがなかったので、急に恥ずかしくなったのだった。

「いや…実は俺も何も考えてなくて」

川本は頷く。

「だよな。そもそも2年の頃から進路決めてるやつって、何考えてんだろ」

「将来の、事とか?」

「大体の場合、高校で将来は決まんねえよ」

川本が天井を仰ぐ。「大体、やりたい事も決まんねえし。高校なんて、決められない」

「へえ、意外」

何に対しても毅然と御託を並べ始める彼の態度には、野心とかそう言うものが含まれているものとばかり考えていた。

「自分のやりたい事が決まってる奴、羨ましいよな。成績とか何よりもそっちの方が圧倒的に大事なはずなのに、誰も教えてくれない」

五時間目の予鈴が鳴った。

「そういや、次、音楽じゃねえか、急ごう」川本は弁当箱を片付けた。僕もそれに習った。

「あれ、今日、リコーダーだっけ」

「いや、多分何もいらない。なんてったっけ、音楽教師、捕まっただろ」

「あ、そうか」

「多分今日は後任が来る日だから」

前の音楽教師が捕まったのは、三週間くらい前のことだった。容姿端麗、高身長で女子からも人気が高かった。しかしそのぶん、高校生を強姦してお縄とは、学内の衝撃も大きかった。

それよりも、教師が捕まったその三週間後には替りを用意できることに、僕は感心しつつも教師という仕事の大変さを感じたものだった。替りはいくらでもいるのだろうか。

「かわいい先生だったらいいな」川本は筆箱をひっつかんだ。




ピアノの練習はやはり音が伴うので、あまり遅くにすると近所の人たちに、嫌な顔をさせる。だから僕は遅くに帰るわけには行かなかったし、当然部活に入るわけにもいかなかった。

「岡野って家帰って、なにしてんの」川本と中学で出会って間もないとき、彼はそう聞いてきた。「部活、入ってないだろ」

「ゲーム?かな」

「なんで自分のことなのに疑問形なんだよ」

その時は笑ってごまかしていた気がする。

ピアノのレッスンは木曜と月曜。その他の日には、欠かさず練習を行っていた。

メトロノームは基本鳴りっぱなし。テンポは身についているつもりでも、ムチを打たれなかった日はない。それでも、身に着けようと努力する。やはり、ムチを打たれる。その繰り返しでも、あまり疑問を感じたことはなかった。ただ単純に、僕はテンポが身についていないのだ。

9時半に大体練習を終える。時計を見てやめることはあまりなかった。時間になると、母さんがおにぎりを僕の部屋に持ってきた。それが終わりの合図だった。

「今日も、なんか難しい曲弾いとるね」

いくら僕が弾くとはいえ、母さんがピアノができるわけではなかった。父さんも然りだ。だから、練習中の僕の演奏を聞いても、「上手だね」以外の感想をくれることはない。それは二割嬉しい一方、八割寂しかった。しかしそれに口を出したりすることはしなかった。母さんたちは悪くない。

「次のコンクールはいつだっけ?見に行くよ」母さんがそういったのは、確か鮭のおにぎりの日だった。

「再来月だったと思う」塩が効いた鮭は汗をかいた体に染みた。

「父さんはどうする?呼ぶ?」

僕は困った顔をする。母さんも困った顔をする。

「どうせいつも通り、忙しいよ」「そうね」

「遊、今はどんな曲弾いてるの?」話をつなげるように、母さんは聞く。

「言ってもわかんないよ」「そう」「なんか、難しいやつ」

今弾いているのは、コンクールの課題曲だった。運指がとにかく難しく、テンポが乱される。あまり設定されたテンポが速くないのが唯一の救いだった。

「遊は、ピアノ、楽しい?」

そう母さんが聞いてきたのは、確かゆかりのおにぎりの日だった。

少し黙ったあとで、僕は「楽しいよ」と答えた。「楽しい。弾けたとき、気持ちいいし」

本心だった。運指がスムーズにリズムにハマって、鍵盤を叩くのは気持ちがいい。コンクールの拍手も好きだった。

「そう」母さんは答える。「よかった」





「速い」

意識するより前にムチが飛ぶ。「何小節目だ?」

「43」ムチが飛ぶ。「バカか」

後藤は僕をじっと、見ていた。存在は静かな山のようなのに、行動は拷問官のように攻撃的だ。

「わかった。速く弾きたいんだな」後藤はまた僕にムチを向けた。「倍テンだ」

「売店?」

「たわけ。倍で弾け。できないなら死ね」

「できない」

「なら死ね」

強めのムチが飛んだ。

息を吸う、腕を上げる、鍵盤を叩く。「遅い」ムチが飛ぶ。

息を吸う、腕を上げる、鍵盤を叩く。「舐めてんのか」ムチが飛ぶ。

鍵盤を叩く。「殺すぞ」

またムチが飛ぶ。


「倍でなんか、弾けるわけないだろ…」

冷やした染みに、思わず悪態が衝いて出た。拳を握り、腫れた腕を殴る。痛い。なぜか更にむかついて、でも殴る場所などなく、結局声が出た。言葉にならない、獣のような荒々しい声だ。まるで自分のものとは思えなかった。

地団駄を踏む。

声がしたのはその時だった。

「どうしたの、荒れてんじゃん」

制服の彼女がベンチに座っていた。


「なんでこんなとこに?」

「演劇鑑賞してきたんだよ。ほら私、演劇部だからさ」そう言って彼女はミュージカルの主演のように、大きく手を広げて見せた。

「そう」何か違和感を覚えたが、そんなことを考える頭の余裕はなかった。

「駅前の劇場、行ったことある?」

「ない」

「おすすめだよ」

「へえ」彼女の隣に座った。

「山下、山下」

頭の中は後藤のことでいっぱいだった。だから、なれない呼び名に、彼女が自分のことを呼んでいることを忘れていた。

「山下ってば」

「ん」あ、自分のことか。

見ると、彼女は鼻の穴を膨らませ、白目のまま頬を指で伸ばしている。

それを変顔と気がついたのは、少し後だ。

「なんかわからんけど、大変なんだ。頑張ってね」

変顔とその真面目な応援のギャップに、考えていたことを一瞬忘れてしまった。ムカついて、馬鹿らしくなって、なぜか嬉しくなった。

だから、次に後藤の顔が頭に浮かんだときには、もうどうでも良くなっていた。

「なんだよ、それ」

「笑ってよ。私がバカみたいじゃん」そこでようやく笑い声がでた。つられて彼女も笑った。

「ありがとう」

「先輩だから。かわいそうな後輩は、慰めてやらないと」彼女は胸を張った。「ふふん」

少し涙が出そうになったのは、内緒だ。

「大体慰めるために変顔って。俺がキレたらどうするつもりだったんだよ」

「私の変顔はキュートだからね。キュートもキュート、キューテストよ」

「なんだよ、それ」

それと、山下君は高校の二年より下、一年生だと言うことがわかった。


「なんだよそれ、羨ましい」川本は卵焼きを箸でつまみながら、そう言った。そういえば、彼の弁当には毎日卵焼きが入っている気がする。「『公園に佇む、謎の美人高校生!』ってな」

川本は指を組み、嬉しそうに言った。

「ちょっと待てよ。別に美人なんて言ってない」

「え、そうなの」川本は意外そうな顔をした。「話し方的に、てっきり美人なのかと」

え、と声が出る。

「俺、そんな話し方してたのか」

「うん」

「ちょっと、恥ずかしいな」

「知らねえよ」川本はまた卵焼きを食べている。「そういや、岡野」

川本が顔を近づけ、声を少し潜めた。「音楽の高田。あいつの噂、知ってるか」

高田といえば強姦教師の替りに入ってきた音楽の先生だった。川本の期待に外れ、白髪の少し痩身のおじさんだった。

「知らない」

「あいつ、ピアノ、弾けないんだって」

ピアノ、と聞いて少しぎくっとしたが、自分とは関係がない。

「でも、この前校歌の伴奏してたじゃないか」

「あんなの練習すりゃ誰でもできんだろ。音楽の教師って、難しい曲とかぽんぽん弾けるものなんだろ。あいつには、それができないらしい」

校歌が誰でも弾ける、という言葉には少し引っかかったが、確かに校歌を弾いたとき、若干のズレが気になったのを思い出した。

「さすがにそれはないんじゃない。教師だって、試験とかあるだろ」

「そこだよ、ワトソン君」川本は僕を指さした。ワトソンとは彼の読む小説に出てくる人物らしい。「シャーロックかワトソンだったら、俺はシャーロック派だな」とか言っているのを聞いたことがある。

「交通事故で、指が動かないんだって」

「へえ」そんなことがあるのか。

「次の授業、確か金曜だな。その時に沢田とかが、問い詰めるみたいだぞ」

「なんだよ、それ」思わず嫌な顔をする。「趣味が悪いな」

沢田はクラスのリーダー格だった。いつも数人の取り巻きに囲まれていて、高そうなスニーカーを履いている。親は、有名企業の重役らしい。

「俺はさ、期待してんだ」気がつくと川本は弁当を食べ終わっていた。「沢田が問い詰めてさ、カッコつけて威嚇でもするとするだろ」

「仮定にしては随分と限定的だな」

「そこで、高田が超ピアノがうまかったりする、とするだろ。沢田、どんな顔するんだろな」川本は嬉しそうだった。「ああは言ったけど、どうせ噂なんて嘘だよ」

僕はといえば、ふうん、と彼に気のない返事をするしかなかった。




課題曲を倍テンで弾くのは、相当な根気を要した。途中少しでも指が絡まると、一気に音が追いつかなくなる。腕は疲れるし、頭も疲れる。それでも、やらなければいけないという意識だけが、僕を衝き動かしていた。

鍵盤に汗が落ちる。指が滑る。また曲においていかれる。

考えるより先に、拳を鍵盤に叩きつけていた。息が荒くなる。

そこで、部屋の扉が開いた。

「今日は昆布よ」その荒々しい僕の様子に、一瞬気圧されたようだったが、母さんはいつもの調子で続けた。「作りたて」

「いらない」まだ練習していたかった。指を鍵盤に置く。

「ダメ、9時半までって約束でしょ」母さんは僕の手を制した。

「弾けないんだ」その手を振りほどく。「ダメよ」振りほどいた手をまた制す。「約束は約束。守らなきゃ近所の人に怒られちゃう」

約束なんて。僕は弾けるようにならなくてはいけないのだ。弾けないと、またムチが飛ぶ。また、傷が増える。「でも、弾けないから」

しまいには母さんを軽く突き飛ばしていた。昆布のおにぎりが落ちる。

母さんは、何も言わず、僕をまるで可哀想な物を見る目で見ていた。

「母さんには、何もわかんないよ」

そんな言葉をぶつけていたことに、少し遅れて気がついた。




その日音楽室に足が向いたのには、2つの理由があった。

1つ、母さんのこともあり、家に帰りづらかった。結局昨日は練習せず、寝た。大人しく今週はムチを受けようと思ったのも事実だ。

2つ、掃除を終え、帰り中庭を歩いている時に、音楽室からピアノの音が聞こえた。この学校の音楽教師は現行1人であるので、恐らく高田が弾いているのだろう。耳に残る独特な引っ掛かりにも、聞き覚えがあった。

音楽室のある北棟3階に向かい、ドアのガラス部から覗く。

曲はやはり校歌だった。白髪の男が鍵盤を叩いていた。顔は真剣だ。

僕は高田を観察した。ひどい、というほどでもない。体育館で演奏を聴いていた殆どは気がついていないだろう。むしろ前任のロリコンより、格段に演奏は上手い。

だからこそ僕にはどうしても、その歪な、不治の呪いのように彼の演奏にこびりつく、ズレが気になってならなかった。決まってズレるその小節に、まるで彼自身はそれについて一種の諦めを持っているようにも感ぜられた。

川本の言葉が頭に浮かぶ。「交通事故で、指が動かないんだって」

まさか、と彼の言葉をはじめ聞いたときはと思ったものだが、考えずにはいられなかった。

しかしその思考も、一瞬を辞めざるを得なくなる。

「げ」

高田と目が合った。


ドアが開く。

「いらっしゃい。ええと、ごめん。名前はまだ覚えられてなくて」高田は頭を掻き、そう言った。

「2年3組、岡野です」

すると高田は一瞬考えるような顔をして、「ああ、あのピアノ少年か」と呟く。

一瞬何を言われたか、わからなかった。僕がピアノをしていると認知しているのは、両親と、それと後藤だけのはずだ。

「なんで」なんで、知っているのだろうか。

「なんでって」後藤は身を翻し、手前の学習机を使い、片手でピアノを弾く真似をした。「癖付くよな、これ」

思い返すと確かに、と頷けた。無意識に机で弾く癖があるのかもしれない。

授業中に片手でピアノを弾く自分を思い浮かべる。顔が熱くなった。

「2年だよな。提出物?は、ないよな。宿題は出してなかったはずだし」

「いや、音が聞こえたから」

椅子に座った高田がこちらを向く。

「下手だ、とはやしに来たのか?」もともと皺の少ない顔をしていたが、笑うとやはり年齢を感じずにはいられなかった。

「そうではないけど…」そうではないのか?本当に?頭の中で渦が巻く。

「ないけど?」

僕は好奇心に従うことに決めた。

「校歌のサビ入って2小節目。なんであそこだけ、ずれるんですか」

高田は少し面食らった表情をした。すかさず次の言葉を差し込む。

「聞き間違いならいいんですけど、先生の変な噂を聞いちゃって」

「それは」

「指、動かないんですか」

高田は悩んだ表情で僕を見て、次に床を眺めて、天井を仰いでから、また僕を見た。

「失礼なこと聞いて、すいません。でも、次の授業で」沢田が、と続けようとしたところで、彼が僕を制した。

高田がため息をつく。

「だいぶ練習したんだぜ、あれでも」笑った顔に、さっきとは違う皺ができた。


「椅子、一つ持ってきてくれ」高田はピアノ椅子の横に指を指した。「適当なのでいい」

椅子を持っていって、横に座った。

「右手の薬指がうまく動かないんだ。俺も噂はなんとなく聞いてる。そのとおり、事故だよ」

彼は右手を、左から二番目の指をじっと見つめる。テレキネシスに挑戦するかのような、そんな目をしていた。

「事故…」指が、動かなくなる。想像しようと思ったが、脳みそがその思考をして欲しくないみたいにその考えを邪魔した。

彼が右手で半音階を弾いてみせた。音が昇っていく。

「最初はやめようと思ったよ。でも、これしかできなかったから」頂点に達した音は同じペースで下っていった。「頑張って、練習した」小指も混ぜ、その手では難しい運指のはずだ。しかし音に寸分の違いはなかった。

「大変でした、よね」大変なんて、僕が軽々しく言っていいものなのだろうか。

「そうでもなかった」

「え?」

答えは意外だった。

「意外とそうでもないんだな。多分、唯一の才能だったんだろ。覚えとけよピアノ少年。好きになるのも、才能、だ」

「好きになるのも才能」口で反復してみる。

「そうだ。元々楽譜が真っ黒の、ごちゃごちゃっとした難しい運指が大好きなんだ。それがさらに、指が動かなくなって、難しくなるときた。燃えたね。変態だろ」

「変態だ」

「プロとかそういう道は絶たれたが、何とか音楽の教師になれた。指が動かなくても、ピアノを生業にできたんだ」

高田は、軽くふんぞり帰った。

「俺が、羨ましいだろ」

「羨ましい」少し考えたが、気がつくと答えていた。高田が微笑みで答える。

「さて」彼が立ち上がる。「今度は俺の番だ。岡野、弾いてくれよ」

「へ?」いきなりの言葉に、頭が追いつかなかった。

「こんだけ俺のこと聞いたんだ」

「こんだけ、というほどには」

「それに見合う対価がないとなあ」

「でも」あまり自分がピアノを弾くことは人に知られたくない。

「じゃあ、これはどうだ」高田が人差し指を立てる。「俺の納得いく演奏ができなかったら、お前は次の合唱コンクール、伴奏をしてもらう。もちろん、教師の圧力で、な」

合唱コンクールの伴奏。それは僕が一番恐れるものだった。全校生徒の前で弾くなんて、自分の弱点に的をつけて踊るようなものだ。

「どうだ、やるだろ」高田はにやにやしていた。

「こんなに離任を望んだ教師は初めてです」

高田の納得いく演奏。校歌のズレがバレたときの彼の顔は、よっぽど驚いたようなものだった。そこまで自信があったということだし、それを指摘した僕への要求は少なからず大きいだろう。

鍵盤の上に指を置く。

課題曲をやろう。そう考えた。倍テンはまだ無理なので、1.5倍にする。1倍では納得されないだろう。

息を吸う。


高田は黙って僕をみていた。

「オッケーですか」僕は言った。

「オッケーだ、というか」彼は笑った。「くそ簡単なのでも正直良かったんだが」

「え」

「そこまで弾けるとは思わなかった。純粋に」

「学校の人には言わないでくださいね。特に、担任」

「すごいな」高田はなぜかほっぺたをつねっていた。何か考えるように、歩き回っている。

時計を見ると、思ったより時間が経っている。あまりここで話し続けるわけにもいかないようだった。「それじゃ先生、練習あるんで」

高田は気の抜けた返事をした。

「おー、頑張ってな」


家には誰もいなかった。しかし昨日のこともあり、そのほうがむしろ都合が良かった。

まずリビングに行く。冷蔵庫を開け、お茶が入ったポットを取り出し、中身を水筒に詰め替える。できるだけ、練習を中断する回数を減らすためだ。いつかわからないくらい昔から、自分からそうするようにしていた。

トイレに行く。シャワーを浴びる。動作というものが先にあり、そこに自分を当てはめていくように。いつものことだった。

「よし」

今日には弾ききらねば。


ピアノに向き合う。

好きになるのも才能だと、高田は言った。

自分はピアノが好きなのだろうか?いつか母さんが僕に問いかけてきたのを思い出す。

あのときは確かに好き、と答えた。しかし今、そんなことにさえ頭を悩ましてしまう自分がいる。それが全てではないのか。

メトロノームを再生する。

指で鍵盤を叩く。僕の音楽が再生される。

鍵盤が指を叩く。その衝撃に指が止まる。

止まってはいられない。腕を振り上げ、また指で鍵盤を叩く。

弾けた時は心地がいい、いつか母に宛てた自分の言葉を思い出す。

それは紛れもない本心だ。

しかし、それでいいのだろうか。疑念が頭を回る。いい、とは?何が僕に弾かせている?何が僕を惹いている?

メトロノームの音がやけに遠くに聞こえ始めた。しかし指は止まらない。

思えば、こんな練習を楽しいと最後に感じた記憶すらない。ただ日々の日課に、生活の一部に組み込んで、鞭打たれることに慣れただけではないのか。

腕が疲れ始める。肩から動かすように。体を燃費よく使う。

川本の顔が頭に浮かんだ。彼は楽しそうだ。鞭に打たれることもない。勉強で教師に面倒なことを言われることもない。ただ漫画だとか小説を消費し、享受してるだけの生活はおそらくこの僕の生活の何倍も効率的なはずだ。正しい生き方というものがあるとするならば、彼のそれの方がよほど近似値が高いはずだ。

だけど。想像する。

この生活なしに、僕が生きてこれたとは思えない。

僕の生き方は多分、正しくない。


「あ」

止まった指と帰ってきたメトロノームの音に、懐かしいような安堵を感じた。

「弾けた」



その日ドアを開けたのは、意外にも父さんだった。

「母さんは用事。代わりに俺が」


リビングにて父さんと二人きりになるなんて、久しぶりのことだ。

「最近どうだ、ピアノは」

「なかなか大変」「そうか」

父さんはいつものように、ノートパソコンをいじっていた。

「母さんは、今日中に帰ってくる感じ?」「多分な」

「浮気かもね」「そうだな」

「そうじゃないかも」「そうだな」

重さのない会話のボールが、部屋の中を飛び交う。

僕は実は、父さんのこの雰囲気が苦手だった。

空気を変えるためにも、思い切って聞いてみた。

「次のコンクール、見に来る?」

キーボードを打つ手が一瞬止まる。「いつ、かによる」

「2ヶ月後の、どこかの土日」

「わからんな。多分無理そう」「そっか」

手持ち無沙汰だったので、テレビを点けた。

バラエティ番組がやっていた。表舞台に上がらない能力がある人材、いわゆる消えた天才、を扱う番組だった。

消えた天才映画監督。連絡が取れなく、取材がNGだったという。

有名な映画監督、小沢崇がテレビにはゲストとして映っていた。どうやら彼の高校時代の、映画部にいたのが、その天才、らしい。

世界的な賞も経験がある、小沢の認めた天才とは。テレビでは、そのような取り上げ方がされていた。

「小沢の認めた天才、なんて。よっぽど彼は偉いんだね」その自分を高いところに置くような論調が僕には気に入らなかった。

父さんが珍しくテレビに目を向けている。

「天才、ってのは絶対的な事実なんだろうな」またパソコンに向かい、こう続けた。

「皆がやってるからやる、これが凡人で、そうでないのが天才。ただこれだけなんだろな」

「誰の名言?」「天才映画監督だ」

父さんはテレビを消し、僕を見た。

「今言ったように、お前みたいにピアノを弾く人間なんてのは、意外とそこらにいる。でもな、それは俺みたいな凡人にはできない」

「うん」高田のその一人になるのだろう。

「『できる』事を傲るな。お前はその凡人でも天才でもないことを、誇ってくれよ」

結局母さんが帰ってきたのは日付を跨いでからだった。




水道から出た水がビチャビチャと音を立てながら、腕を伝って落ちていく。

「毎日いるの?」

「こっちのセリフだよ。いつも私が来た時には山下がいる」

「いや、こっちのセリフだ」

ベンチに座るのは、制服の眼鏡の先輩だった。未だ僕が山下君でないのだと、ばれる気配はない。

「今日はどうして?」腕を持ってきたタオルで拭きながら、彼女に尋ねた。隣に座る。

彼女は思い出す素振りも見せず、言った。「スタジオ練習が長引いちゃって。軽音楽部って何であんなに金かかるんだろ」

彼女の部活が会うたびに変わっているのには、気がついていた。不思議ではあったが、毎回変わるそれを聞くのもまた、公園の楽しみになっていた。

「軽音って事は、なんの楽器やってるの?」「ベース」「似合う」「そう?」「ごめん、適当に言った」

公園が狭くかつ静かな分、二人の笑い声は実際以上に大きく聞こえた。

「そういえば、山下は最近あの子とどうなの?」静かになったタイミングで彼女はそう聞いてきた。

「あの子?」

「ばか。典子ちゃんのことだよ。まだ付き合ってんの?」

彼女はういうい、と肩を叩いてくる。

山下くんは北中で、典子ちゃんと付き合っていた2個上の先輩、ということになる。

「ん…秘密です」そう答える他なかった。

「えー。ケチ」

「先輩こそどうなんですか。なんかあるでしょ」

以前川本にああいったものの、やはり目の前にしてみると彼女は美人だということがわかる。背は高くない。かと言って、低くもないといった感じだ。

「そっちが秘密なら私も秘密」指を口に当てる。

「えー。ケチ」「マネするな」

流星群はもう見えなくなっていた。

彼女は会うたびに部活の変わる、山下君という一個下、僕から見て二個上、の後輩をもった高2の女子高生、ということらしい。




授業終了のチャイムが鳴る。

「センセ、ピアノ弾けるんでしょ。なんかかっこいいの弾いてくださいよ」

そう笑顔で、ピアノ椅子に座る高田に詰めかけるのは、沢田とその取り巻きだった。「指、使えないんですよね」

その状態を僕は肘を机に付けながら、ぼうっと見ていた。横に座る川本は興奮している。「やってやれ、高田」

僕は彼が弾けることを知っていたので、川本のように手に汗握ることはなかった。

「おいおい、それ誰から聞いたんだ」高田は笑っている。

「いいから、いいから。校歌はダメっすよ。この前聞いたし」

「わーったよ」

川本は明らかに心を躍らせていた。「勧善懲悪だ、勧善懲悪」などと覚えたてなのであろう言葉を、小さく連呼している。

「その代わり」高田は指を沢田ズに向け、その後自身の口に当てた。「俺の指のこと、誰にも言うんじゃないぞ」

「わかってますよ」沢田が首をポキポキ回した。「早く」


座り直すのか、高田が一瞬椅子を立った。

そのすぐ横に詰めかける高田ズ。僕の横で興奮する川本。音楽室には、まだ何人か生徒が残っていた。

その短い間、彼は僕を見ていた。

目を合わせる。すると、彼は「見ていろ」と訴えかけるように、口元で微かに笑顔を作った。

その瞬間だけ、まるで茹だるような高熱の中、時間が止まってしまったような感覚に陥った。

高田が椅子に腰掛ける。

息を吸う。腕を振り上げる。鍵盤を叩く。


「高田、やっぱすげえよ」鳴り続ける曲の中、隣の川本はしきりにそう呟いていた。

沢田ズは、まるで何か大きな鯨でも見ているかのように、目を虚ろにしている。

音が音楽室に降り積もるほどに、次から次へと飛んでくる。そのテンポには、一寸の狂いもなかった。思わず指で、机の上で、その音を追いかけてしまう。

しかし、まるで追いつかなかった。僕はその曲を知っているはずだった。

「指、九本なんじゃねえのかよ」思わず、誰にも聞こえないように、そう呟いていた。

コンクールの課題曲だった。




放課後、まず僕は高田のもとに飛んでいった。彼はまた音楽室にいた。

「何なんですか、あれ」彼はいつもどおり、ピアノの前に座っていた。「音楽の時間の」

「お詫びだ」高田は平然と言う。「正直、軽く見ていた。授業中、机で弾く姿を見てる時はあそこまで弾けるなんて。先入観にとらわれて、そんな事を考えもしなかった」

「謝罪なんてどうでもいいんすよ」むしろイライラした。高田の顔を見るに、わざと煽っているのかもしれない。「何倍っすか」

「2.1倍」

「練習は」

「たくさんした」高田はそこで照れ臭そうに目を逸らす。「お前だって、そうだろ」

「たくさんした、って。雑だな」

「演奏は正確だったろ」

悔しかった。自分はあんなに苦労したのに、と素直に思った。

「そんなに悔しい顔されても。俺は大人だから」

「知りませんよ。悔しいものは悔しいんです」

「自分で言っちゃうとこ、ものすごくいいと思うぞ」彼の言葉に皮肉は一切含まれてはいなかった。「お前は俺が中学生のときより、ずっとずっと上手い」

「でも今の先生には勝てない」「だな」

気がつくと、こんなことを口走っていた。「月曜の放課後、ここにいますよね」

「ああ、いるけど」

「次は負けません」勝ち、だとか負けを、こんなに意識したのは初めてだった。なぜか緊張の中、たしかに心が高鳴っている。初めてのその感覚は嫌いじゃなかった。

「絶対に絶対に、ぎゃふんと言わせますから」僕の人差し指は高田を真っ直ぐ指していた。

そう言葉を部屋に押し込んで、逃げるように音楽室を出た。

走り出した廊下に、心地いい空気が満ちていた。




帰りは歩いて、川の堤防を歩く。道は真っ直ぐ東へと続いているため、朝の登校、夕方の下校時にはいつも自分の影と一緒に見えていた。

しかし不思議だ、と僕は思う。その影が今日は歩かず、駆け足だ。カバンが上下に揺れ、足がリズムを刻んでいる。

高田に速さを上げられたのは悔しかったが、辛くはなかった。ピアノを弾くことにおいて、今までライバル、みたいなものを意識したことがなかったからかもしれない。

頭の中で課題曲を再生する。

影の足がより速く駆け出した。




後藤がムチをパシパシと己の手で叩く。

「そのまま」

鍵盤を同じテンポに乗せて、叩く。インクで印刷された楽譜を、脳の電気信号に、指の運動に、空気の振動に変換する。

「そのままだ、モタるんじゃねえぞ」後藤のムチの音が大きくなる。声には緊張が交わった。

高田に打ちのめされ、僕は練習量を上げた。2.1倍も、何とか弾けるようになっていた。

「いいぞ、最後まで気を抜くな」

後藤からいい、なんて言葉が出たのは久しぶりだ。「はい」「黙って弾け」

最後はアルペジオが連続して登場する。登って変調してまた登って、また変調して登る。まるで音がテンポを待つ様に、狂いなく弾いた。

「ラスト」後藤が拳を握る。

低い単音が響く。




腕は痛くなかったが、公園による事にした。

「山下ちゃん、もしかして私に会いに来てる?」

彼女がいるかもしれない、と思ったからだ。

彼女のことは、とりあえず、自分の中で仮にヨル子さんと呼ぶ事にした。意外と会話の中で自分の名前を呼ぶことは少ないのか、彼女の名前は知らないままだった。

いつのまにか工事があったのか、新しいベンチが向かいに、新しい机を隔てた先にあった。

調度向かい合うな形だ。折角なので、そっちに座ってみた。

ヨル子さんが身体を机に乗り出す。「山下、今日はいい事あったんだ」

「まあ、ぼちぼち」

「良かったね。先週はひどい顔してたよ」

「あの時はありがとう。あのおかげで、俺は立ち直れたみたい」

ヨル子さんは笑う。「よかった。それはなにより」

「今日はどうしてここに?」

「そう、これ」じゃじゃーん、と小さな声で、彼女は隣に置いたカバンを探った。「文芸部たるもの、本屋大賞は追ってかないとね」

何か緑の、想定の豪華な本だった。テレビCMでも見た事がある様な気がした。

「これ、最近流行ってるの?」

ふふ、とヨル子さんは鼻を鳴らす。「あれ、山下知らないの?これ」

「本はあまり読まないから」

「あれ、読まなくなったんだ。意外」

しまった、と思った。完全に油断していた。僕は山下ではない。彼が本の虫である可能性だってあるではないか。

「最近忙しくて」気をつけよう、と思った。

「あんなに好きだったのにね」

「ところで、その本どんな内容なの?」

「音楽家の話。主人公はトランペット奏者としては物凄い才能があるんだけど、イマイチ、社交性がない」

「うん」

「おわり」

「え」

「読んでからのお楽しみ」ヨル子さんは笑う。「というか、私も途中なの」

「面白そう、読んだら次貸してよ」

「うん。書いてる人も有名な人だし、読みやすいと思う」

最初会った時は天文部。次は演劇部、軽音楽部ときて、今は文芸部らしい。

「文芸部って事は、書くの?」

「書く?何を」

「小説、とか」

彼女は僕から意図的に目を逸らし、鼻で息をついた。「書けない」

書く、書かないではなく、不可能のニュアンスが含まれている事に、引っかかった。

「そう、なんだ」

「私には才能、無いから」

才能。その言葉に、思わず身が硬くなる。

「それよりさ。今日はどんないい事があったの?」ヨル子さんは表情を一転させた。「聞かせてよ」

少し迷った。彼女にピアノのことを話すべきか。同級生にも、高田以外の先生にも、川本にも、言ったことがない。

しかし言ったことがない理由が、言わない理由にはならないのではないか。そう無理に正当化する自分が無意識にいたのは事実だ。

なにかここで会ったのも運命的な力ではないか。

実はと言うと、僕はだんだんヨル子さんに惹かれ始めていた。ピアノの帰りに必ず遭遇する彼女には、何か人並みではない魅力が感じられた。謎は多いが、不審者のそれとは違う。

言ってもいいか、と思った。

「実は、俺さ…」

「へえ、凄い」

初めて自分から秘密を打ち明けたその夜は、ひどく暖かい、街頭の照らす冬の夜だった。




「で、やってきたと」

「はい」

高田は明らかに嫌そうな顔をしていた。「お前、テスト勉強とかは」

「普段授業聞いてれば、まあ、なんとかなります」嘘ではなかった。並々だが。

「…わかった。弾いてけよ」

放課後、僕は早速高田のもとへ向かった。この前の仕返しに、眼前でピアノを弾きちらしてやろうと思ったのだ。

鍵盤を叩く。曲を弾き終える。

「きっちり、2.2倍で」

「お前、嫌な奴って言われたりしない?」高田は自分の手のひらを僕に向けた。「俺、指動かないんだよ?怪我人だよ?」

「それ以前に、俺の音楽の先生です」

「今だけ、辞めてえ」高田が笑う。

「先生、最近思うんですけど」

「ん?」

「青春って、必修科目なんですかね?」

「はあ?」

高田は突然の質問に戸惑ったようだった。「何だよ。急に」

「最近、思うんです」手のひらを見つめる。甲を見ることのほうが圧倒的に多いため、何か新鮮だ。「俺、このまま青春とかすっ飛ばして大人になったら、何かものすごい後悔するような気がして」

「青春、してないのか」「はい」

「本当に?」高田が人差し指で僕を指す。「本当に」

下校を促すチャイムが鳴った。そうか、冬になり完全下校の時間も早まったことを思い出した。

「それは、お前がお前自身を『青春』とかそういう言葉で包めたくないだけなんじゃないのか?」高田はにやっと笑う。「安心しろ。お前は十分、青春、してるよ」

その言葉に、記憶のどこかから川本の画像が出てくる。後藤の画像が出てくる。ヨル子さんの、母さんの、父さんの画像が出てくる。

「…そうですか」

「なんだ、恋とかしてないのか?」

敢えてその質問には無視をした。かばんを背負う。

「じゃ、また来るかもしれません」

「恋、してんのかって、おーい」

ドアを開けると、音楽室は暖房が効いていた分、冷たい空気に驚いた。




その日の9時半にドアを開けたのも、父さんだった。

「母さんは遅いみたい」「ん」

何か触れてはいけない話題のような気がするから、触れないでいた。

「夕飯、どうする」

最近母さんが遅いときには、父さんと外食にすることが多かった。

「いつものとこで、いい」

「ん」


いくつもの街灯の光が、前から後ろに走っていく。街路樹には何かLEDのいっぱいついたコードが巻きつけられている。「もうすぐ、クリスマスだったか」

「来月、かな。クリスマスは、コンサートの次の日」

父さんは、あー、と声を発した。「そのへんか」

車がうー、という重低音を奏でる。この車は僕が生まれた年に買ったんだっけか。父さんが言っていたのを聞いたことがある。

「この車も、そろそろ変えどきじゃない。父さん、結構仕事で乗るでしょ」

「そうだな。何が辛いって」父さんが微かに笑う。「高速道路で舐められる」

「確かにそれは辛い」


おー、と自然に声が出た。昨日も食べたハンバーグプレートだったが、いつ見ても、美味しそうに見える。

「最近、ごめんな。外食ばっかりになって」

「大丈夫。美味しいよ」

夜十時のファミリーレストランは、意外と家族連れが多いと最近気がついた。

「これ、少し食うか」父さんはオムライスを食べていた。「昨日もこれだったから、正直、飽きた」

「違うの頼めばよかったのに」

「一口目は美味しかったんだ」

仕方なく、ナイフで少し小さくハンバーグを切り分ける。大きなスプーンでオムライスを一口頬張ると、その切り分けたハンバーグをオムライスのお皿に乗せた。

「美味いか」「ん、なかなか」

レストランの中は、スプーンやフォークが皿にぶつかる音とか、楽しそうは話し声で溢れていた。その暖かい照明の色味になぜか頭が少しぼうっとした。

「幸せに音があるとするなら、まさにこんな音なんだろうな」父さんが言った。

「ちょっと、わかる」

周りに聞こえる僕らの「音」は果たして不協和音ではないだろうかと、そんなことを考えた。

父さんはまだオムライスを食べ終わらなさそうだ。

「なあ、遊。気がついてるとは思うけど」開けたくない口を、無理に開いて話している感じがした。「母さんの、こと」

「最近遅いよね」気がついてはいた。だから、目を逸らしていた。あえて言葉として、頭の中で形作ることを僕はしなかった。「浮気だっけ」

「真剣に聞いてくれ」至って真剣に聞いているつもりだった。でも、どうにか「その」言葉が父さんの口から出るのを、遅らせたかった。「実はな」

やめてくれと、頭の中で強く思う。わかっているから。何か漠然と散らしていた頭の中の因子が、一箇所に集まり始める雰囲気がした。

「母さんに、がんが見つかって」

何かわからないものが、ぱん、と弾けた音がした。




後藤がムチを当てた音だった。その狭い部屋の中に、確かな質量をもって、それは響いた。

「いつお前の速さで弾いていい、なんて言った」

後藤はいつもどおり、ムチでテンポを刻む。「1.2」

鍵盤を叩く。少し弾いたところで、またムチが飛ぶ。「ずれてる。1.2」

鍵盤を叩く。同じところで、ムチが飛ぶ。「ずれた。1.2」

鍵盤を叩く。さっきよりも早いところで、ムチが飛ぶ。「1.2」

鍵盤を叩く。

僕はずっと、いつかわからないほど昔に思える、後藤の言葉を思い出していた。「次のコンクールは次につながる。結果を残さなくてはならない」

「はい」

「課題曲はこれだ。死ぬ気で弾きつくせ」

後藤はどんな感情で、僕にムチを振っているのだろう?その無骨な表情から読み取れることは少ない。年齢も不詳だ。聞いたことがない。

ムチが飛ぶ。「1.2」

少し考えたが、やはりどうでもいい、という結論にたどり着いた。

「1.2」 



「山下、聞いてる?」

「ん?…ああ、聞いてなかった」

「どうしたの、ボーッとして」

ヨル子さんは不思議そうに僕を見た。その瞳は黒く、見ているといつも吸い込まれそうな気になる。

「や、なんでもない」

「そう」

僕はいつのまにか、ヨル子さんを好きになっていた。後藤に打ちのめされた後に出会う、謎多き年上の綺麗な女性。それだけで惚れる理由は十分だと思う。

「今日はね、サッカー部の応援で」

「マネージャー?」

「そう、それ」

「似合う」

「自負してる」

冬が始まろうとしていた。どことなく雲が細切れで、空は澄んでいた。

「山下、コンサートがあるって言ってたよね」

「うん。クリスマスの前の日」

「私も行こっかな」

え、と声が漏れる。驚き二割、喜び八割だった。

「来てくれるの、嬉しい」

「ここ以外で会うことがないからね。ま、先輩としての勤めってやつよ」

「ありがとう」

「チケットはタダなんだよね」

「なんとかするよ」

話しながらも、鼓動が高鳴るのを感じていた。課題曲は完璧でないし、母さんに病気は見つかった。自分に喜ぶ権利などないのかもしれない、などと勝手に考えていたのかもしれない。その喜びは、感じたことのない高揚を伴う一方、どこかで僕の足を縛り付けていた。

帰り道は、ヨル子さんを送る事にした。

外灯の比較的多い道だった。その明るさや、静けさ、密集した家に、常に誰かに見られている様な気になる。自然と口数は減っていった。

想像をした。本番、僕がピアノを弾く時の想像だ。

「プログラムNo.3 岡野遊」

彼女は僕の名前が違うのに気がつくだろう。

混乱も束の間、僕がピアノを弾く。次第に音に圧倒され、彼女は僕が岡野遊で、同時に山下であるのだ、と言うことを考え始める。

そして演奏が終わった後、抱え切れないほどの花束を抱えた僕は彼女と対峙して、言うのだ。

「今日はどちらから」

好きなロックバンド、好きな本、好きなお菓子。名前も聞こう。

僕は岡野遊として、「ヨル子さん」と別れるのだ。


「山下ってば」

「…ん?」

「ここ」

普通の一軒家だった。公園からの道を振り返ると、なんだ100メートルくらいしかない。

「じゃ、また今度」

ばいばい、とヨル子さんが手を振った。




「お前、勝負してんだって?」卵焼きを頬張ったまま喋るから、聞き取りづらい。「高田から、聞いたぜ」

「なんの話かわからないな」あのジジイやりやがった、と思った。ついに学校でもバラされた。

「とぼけるならいいけどよ」

「そういえば川本」

「話を変えるな」

川本は愉快そうだった。「お前が勝負してるって言うなら、展開は激アツなんだけど」

「何の温度が高いんだよ」

「俺も得意だからさ、あれ。楽しいよな」

「え」驚きは隠せなかった。「お前もやるの?」

「そりゃ、好きだからな。お前も高田も、意外なもの好きなのな」

「物好きってほどのものでも」

「物好きだよ十分。だって今は平成だぜ」川本がこちらを指差す。「てか、やってるって認めてるじゃん」

「ああ、仕方ない。お前もやってるなら、話は別だ。俺は、それを、やっている」

こんなに近くに仲間がいたとは。灯台もとの意外な暗さを、痛感した。

「川本、好きな曲は?」

「なんだよ、また話変えて」

「変えてない」

「将棋の話じゃないのか?」




「あんた、川本になに吹き込んでんだ」

「おいおい、先生に向かってあんたはないんじゃないの」

「知りませんよ」

そう怒った口調で、いつもの椅子に腰掛ける。高田が驚いた顔をした。「この前渡したばっかりだろう。もう弾いたのか」

「返事は音で」

高田が渡したそれは、聞いたことのない題名の、聴いたことのないメロディの曲だった。テンポは早くない。むしろ遅い。その分、運指が難しいのが特徴だった。とにかく音が分厚く、弾いているこっちが聴き入ってしまうほどだ。

「凄いじゃないか。何倍?」

「2.4。王手っすよ」

パチパチと高田は手を鳴らした。本心に見えた。「本当に、上手いんだな」

僕が放課後、音楽室に弾きに来て、高田がそれよりも速いテンポで音楽の授業に持ってくる。そんな速弾き対決のやり取りが、続いていた。

ちなみに、2.5倍になったらやめる、という取り決めがあった。キリがないからだ。

つまり、先に原曲の2.5倍に達したほうが、勝ちとなる。

曲の選択は、高田が行っていた。

「そういえば、岡野、コンクールってもうちょっとじゃないのか?」

「クリスマスの前の日です、確か午後だったと」

「俺も行こうか。どうせ、ヒマだ」

一瞬ヨル子さんのことを考えた。コンサート会場は広い。鉢会うこともあるまい。

「ぜひ」

「こんなことばかりしているけど、課題曲はいいのか?」

「大丈夫、こっちにばかり時間を割いているわけじゃないですから」

「そんならいいが」

高田は何かいいたげだったが、辞めたようだ。「そういや、岡野」

「はい?」

「チケットはタダなんだろうな」




「いよいよ明後日はコンクールだ」後藤は言った。「能力はある。後は審査員と、本番のお前次第だ」

「はい」

「うまくやれよ」


「コンクールは明後日だね」

「うん」「山下の弾くとこ、応援してる」


「じつは母さんの状態が少し悪くなってな」父さんは済まなそうに言った。「少しって言ってもほんの、少しだ。お前が心配するほどじゃないんだが」父さんは続ける。「手術が、入ってしまって」

「母さん、来れないの」「ああ。でも大丈夫、俺が行くことにした。仕事も休んだ。金賞獲ったら家族でビデオ見ような」

残念だが、仕方がない。「母さんにも、頑張れ、と伝えて」

ああ、と父さんは答えた。





ヨル子さんのことを思い出したのは、朝ごはんのお供に、なんとなく見たニュースがきっかけだった。

「遊、もうすぐ出発じゃないのか?車、出すぞ」

「まだ大丈夫」

近所のヨル子さんの通う高校が映っていた。いじめがどうとか、とコメンテーターが怒っていたが、ヨル子さんにチケットを渡していないと言う事に気がつき、何のニュース、とまでははっきりと見る余裕が無かった。

急いで納豆を口に掻き込む。歯を磨き、とりあえずスーツに着替えた。

チケットは…と戸棚を調べた。先週高田に渡した分を勘定して、三枚。しっかりとそこにあった。

「父さん、ちょっと待ってて」

「わかった。車のエンジンかけといていいか」

「いや、家で待ってて」

自転車を走らせた。公園はそこまで遠くない。


最初に異変に気がついたのは、車の数だった。

公園は住宅地にあった。だから彼女の家の前に、こんなに車があることは、まずないのだ。

嫌な予感が現れたのは、その車の側面に放送局のロゴが入っていたからだ。

今朝のニュースを思い出す。

そんなはずがないと、首を振った。ヨル子さんの顔を思い出す。あれが、加害者の表情か?あれが、被害者の表情なのか?

玄関前には、多くの記者たちが詰めかけていた。

自転車を停めた。


記者たちの中心にいたのは、化粧もしていない、涙に濡れた女性だった。その顔に、ヨル子さんを思い出す。

「お子さんを亡くされた今のお気持ちをお聞かせ願います」

「お子さんは病気も患っていたとお聞きしましたが、事件との関係性は」

「過去にも被害を受けた事件があったらしいですが、その点については」

そのフラッシュの数に、目が眩みそうになった。

「典子さんを失った今のお気持ちをお聞かせください」


今回の事件の発端は、故人、日高典子が中学生の頃、音楽の授業を受けていた男性教員からの強姦事件が関係していた。彼女自身、大きなショックを受けたのは事実であるが、それも今回の事件における材料に過ぎない。

教員による事件ということもあり、マスメディアによって瞬く間に拡散され、勿論、彼女の高校の生徒にまで広く伝わった。

彼女は初め、多くの慰めを受けた。気を使い、多くの人間が優しさを彼女に与えた。

それを快く思わない人間もいた。

自分やその周りの事象が常にトレンドでないと、ストレスを感じる人種だっていたのだ。彼らは、典子を慰めるように近づき、やがて言葉の暴力を投げかけた。

「三千円でやらせてくれる」などという噂を真に受け、何人かの男子生徒が彼女に接近したことだってあった。

それらは、彼女が精神を病むのには十分な理由である。

彼女は夢遊病であったと考えられる。

両親が早く寝る特定の曜日、寝静まった家庭を抜け出し、公園で一定の時間を過ごしていたという。もちろん彼女にはその記憶はない。

きっかけというほどはっきりとした動機は、見つかっていない。いや、上記の内容がすべての動機とも言えようか。

日高典子は、12月23日、自殺した。

17歳であった。




「プログラムNo.3 岡野 遊」

拍手の中を歩く。久々のステージは眩しかった。

椅子に座る。楽譜を見る。

僕はもうこの曲が弾ける。間違えないで、練習通り弾いたら、コンクールはまず優勝できるだろう。

これを弾ける様になったのは、後藤の指導が一番大きい。彼は異常なまでに厳しいが、そのおかげで僕は確実に上達していた。

頭の中で、何か声がする。

しかしまた、高田の影響も大きい。指が動かなくなっても弾き続ける、彼の存在は僕にピアノを弾く理由を大いに与えてくれた。後藤の出す課題に向き合えたのも、彼なしではありえなかった。

頭の中で、やめろ、と声がする。

高田とそもそも会う様になったのは、川本が彼の噂を面白がって僕に伝えたからだ。高田との速弾き対決は、楽しかったし、僕にピアノを弾く理由を与えてくれていた。

頭の中の誰かが、やめろと叫ぶ。

高田の噂が流れていたのは?

そもそも高田がこの学校にやってきたのは?

僕がこの曲を弾けるのは?

「遊は、ピアノ、楽しい?」母の声が響く。

頭の中の自分が、やめてくれと叫んだ。


なにも考える事が出来なかった。違う、頭の中が呪いの様に、1つの考えに侵されていた。

目を楽譜に合わせる。

もう何もかもわからなくなった僕は、楽譜を手で払い除けていた。

姿勢を崩し、できるだけ楽な姿勢でピアノに構える。

会場の雑音が、耳についた。

うるさい。

高田との速弾きの曲を弾いた。もともと音が多いので、耳の雑音が掻き消える。自分の実力を確かめる様に、力を込めて、弾く。

指に染みついた運指、聞き飽きたメロディ。

それでは、足りなかった。

サビが終わる。倍にして弾く。

音楽なんて考えなかった。ただ、ただ自分の実力を誇示するために弾いた。音は思考を置き去りにして、ホールに広がっていく。

観客の反応がわからない。気にしている暇などなかった。

まだだ、と思った。わからない何か、何かがまだなのだ。

サビが終わる。さらに倍にして弾いた。

目は見えない楽譜の先を追い、体はそれをさらに追いかける。

それでもやはり足りなかった。

そのままのテンポでいけるだろうか、と迷った時にはもう、僕の指は課題曲を弾いている。異質だった。今まで聴いてきたそれには、もはや聞こえなかった。

瞬きが邪魔だった。指が10本しか無いのが煩わしかった。もっと速く、追いつかれるぞと、誰かの声が聞こえる。

アルペジオを継ぎ足し継ぎ足し、転調していく。何度も練習した作業だ。

調が最後の、ニ長調に辿り着く。

最頂の音をきっかけに、腕は運動を止める。


一瞬の静寂に、観客の一切を了解した。


息を吸う。

また、鍵盤を叩く。

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アンコール 川野ほとり @kawamorz

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