第2話


痛み。




痛いという感情。




痛覚。




それらはこうもあっという間に意識の大半を根こそぎ持っていくのかと、そう思わずにはいられなかった。

その絶対的な権力は、まさに暴力的で、そして痛快だ。




自分の腹を鱗の生えた腕が貫いている。




意味のわからない非現実的でファンタジックなことでも、今現在も僕に与えられている痛みはとても現実的で悲惨で残酷だった。


あまりの痛みに大声で叫びたくても身体に穴が開いていて叫べず、僕はただ、ただ痛みに呻き、歯が折れんばかりに強く強く食いしばる。


今まで暗転しかかっていた世界が、一転してチカチカと白くスパークする感覚。視界はぼやけて四肢に力は入らず、いっそ意識を失えたらと願うほどの痛みが僕を襲ってくる。




ふと力の抜けた足、膝に衝撃が走る。


地面に膝をついたのだ、と理解した時にはついで胴体、顔をしたたかに打ち付ける。




その感覚も、感じたそばから急速に薄れていく。




腕が抜かれた、やっとこさそう考えられたのは、完全に地面に這いつくばった後だった。




腕を抜かれて、そして倒れたのだ。




そりゃそうだ。




もはや僕の足は僕の体重を支えていなかったのだ。貫かれていた腕に支えられて立っていた。


何とも情けない話だ。




そして、そんな僕の周りには生暖かい液体があふれていた。


泉のようにトクトクと音を立てて溢れるそれは、例えるならお湯をため始めた湯船の中にいて、ゆっくりと温もりで満たされていくような、そんな暖かさと不自然な居心地の良ささえある。




それが自分の血だということは、なるべく意識しないようにして、僕は目をつむる。




死。




生まれてから今まで遠い何かだったそれが、リアルな質感となめらかな手触りを伴って、僕の身体を包んでいた。




意識が。




また遠のいて、血の沼へと沈んでいった。








002








「見つけたぜ、魔王様」




聞き覚えのある声だ。

そして目の前に立つ、立っていた、今はもう地面に突っ伏している青年、さっき雪谷十夜と名乗った彼を貫いていたその手にも見覚えがある。




手についた血を舐めるその仕草にも。




月の光を遮る木の陰に身を潜め、闇に紛れて顔の見えないその人物が誰なのか、私にはすぐにわかった。




わかっていても、どうしてその人物が今私と姫様の前にいて、どうして目の前の青年の胸を貫いたのかは全く把握できず、私の脳はすっかり混乱していた。




それを悟られないよう、私はゆっくりと口を開く。





「ガスタか、純魔族のナンバー2」





ひゅうっと、耳障りな口笛が響く。




と思えば、その人物はゆっくりと足を進めて、月光の元へと姿を晒した。




全身を覆う黒々しい鱗、爬虫類のような黄色く濁った鋭い瞳、そして純魔族の象徴でもある背中に生えた大きな羽と、先端に鋭い棘を持つ長い尻尾。




間違いない。




私と姫様と同じ、『あちらの世界』の住人である魔族。




ガスタ・ヌエ。




その人物。




ガスタはそのまま歩を進めて、私との距離をゆっくりと詰め、やがて地面に横たわる青年を踏みにじる。




もはや意識はないであろう青年の口から、くぐもったうめき声が漏れる。


私はまだ彼が絶命していないことに驚いた、何しろ身体に大穴が空いているのだ、どちらにしろ長くは持たない。




瞬間。




青年に奪われた私の意識は、本能的な反射でガスタへと戻り、そして猛烈な風圧を伴った尻尾の一振りが私を襲う。




私の首を薙ぐように振るわれたその一撃を、素早いバックステップの跳躍で辛うじて躱す。


必然的に私はガスタから約10メートルの距離を取り、そして結果的に地面に建てられ白く塗られた建造物に腰掛ける姫様の近くへと着地することとなる。


薄く切り裂かれた頬からは、すうっと一筋の血が伝った。




なおも青年を踏みつけたまま、ガスタは口笛まじりに口を開く。




「今は俺が純魔の棟梁だ、バルハート様が臨時の『魔王』になってるからな、そこのヨワヨワな元魔王様の代わりにな、有難いったらないよな」


「何故貴様がコチラにいる、ゲートはしばらく使えないはず」


質問への返答代わりにヘラヘラと笑うガスタをきっと睨みつけながら、後方の姫様を意識する。




「姫様、下がってください」


「下がらん、どうということはない」


「大アリです、無理です、今の姫様では太刀打ちできません」


「無理じゃない」


「無理なんです!姫様には、もう」




そこまで言って、言葉に詰まる。




そうだ。




私の後ろにいる金髪紅目の少女は、天に聞こえ、血を統べ、魔族を束る『ノクターン一族』の正当後継者であり現当主、リリア・ユラ・ノクターン様。




人族が恐れおののく存在。




魔族の王たる存在。




魔王。






いや。




魔王、だった。






彼女にはもう、その証明たる容易に空を焼いて天候を変え、大地を抉り地形を変えてしまうような、そんな比類なき絶大な魔力はもう無い。


彼女中には残りカスほどの、ちっぽけな魔力しか残っていないのだ。


その残りカスでも私より少し下を保っているのは驚きであるが、それでは目の前の敵は倒せない。




ガスタは私より強い。




今の姫様は私より弱く、ガスタは私より強い、子供が受ける教育より簡単だ、今の姫様ではガスタには勝てない。




「情けないね、プライドや意識は残っててもアンタはもう魔王じゃない、力を失う前は俺なんてその辺の石ころや」




そこで言葉を切ったガスタは、いっそう強く足元の青年を踏みつけてから「この人間と同じようなもんだったんだろうけど」と続けた。


青年はもう呻く力も残っていないのか、ただぐったりとされるがままにされている。




「黙れ、その人間から足をどけろ」




姫様の口から歯ぎしりと、低くくぐもった唸りのような声が漏れる。その響きはあまりにも悲しくて悲痛だった。




「だから、そういう甘っちょろいことばっかり言ってるから裏切られるんだよ、てか吠えるなよ、現に今のアンタじゃ俺にだって敵わないだろ?」




手をひらひらとさせてまた口笛、そして小馬鹿にするように笑い、ガスタは耐えられないとばかりにお腹を抑えてなおも笑う。





気づけば。





私は猛然と駆け出していた。




「武装」




通り抜ける風を意識しながらガスタとの距離を詰め、手を開いて小さくそう呟く。


次の瞬間、私の手には私の身の丈ほどの大きな鎌が握られている。




代々ノクターン家、つまり魔族における王家に仕える私の一族、インラスタ家に受け継がれる武器、魔剣、魂を喰らう鎌『ソウルイーター』。




手に馴染んだそれを両手で握り、強く力を込めて振りかぶる。


そして踏み出した足にブレーキをかけ、膝を深くたたんで力を込める。ミシミシと筋肉の軋む音がするが、気にはしない。




込めた力をバネ仕掛けのように解き放ち、ガスタとの、すなわち踏みつけられる青年との残りの距離5メートルを、一気に跳躍して詰める。


ジャンプの勢いそのままに、ニタニタと下品な笑みを浮かべるガスタの胴へと、迷いなく切っ先を振るった。




空振り。




ガスタは大きな羽を羽ばたかせて、あまりにも簡単に、ひょいと避けて見せた。


そのままさっきまで潜んでいた木の一番上、先端へと止まる。




月の光を受けてシルエットになり、黄色く濁った目だけが爛々と鈍く光るその姿はあまりにも憎々しく、私はソウルイーターを振るったその姿勢のままで再び睨みつける。




飛び越えた形になった青年をチラリと見やると、わずかに息をしているのか、大きな穴の空いた胸を上下に揺らしている。




「危ねえな、その鎌で斬られたら魔族でもイチコロなんだろ?」


「殺すつもりだ」




睨み据え、鋭く答えた私の言葉を、ガスタはため息混じりに一蹴する。




「怖い怖い、あのな、やめとけよインラスタ、お前じゃ俺には勝てねえよ」


「勝てる勝てないの話じゃない、お前は姫様を侮辱した、だから殺す」


健気だね、と口笛まじりに私を詰る。


「お前はもっと冷静で周りが見えるヤツかと思ってたのにガッカリだって、ハルバート様も仰ってたよ、まさかそっちに、オヒメサマに付くとはね」


「私にしてみればお前たちに心底ガッカリだ、裏切り者が」




そうだ。




言葉にして、意識して私の中の怒りの炎は大きくメラメラと燃え上がる。まるで油を注いだ火のように。それよりもずっと強く。




ガスタは、いや、姫様を裏切り、今は臨時であれ『魔王』という地位にある魔族、ハルバート・ビルドローグという男。


奴は私と同じように姫様に仕える身でありながら、もっと言えば深く信頼されていたのにも関わらず、姫様を欺き、裏切った。





残酷で非道な手段によって。





そして、裏切り者、という言葉を聞いたガスタは、いやいやとかぶりを振って口を開く。




「裏切り者はそこの魔王様だろ?」




答えず、ガスタを睨む目に力を込める。


私の視線に目を逸らすことなく、濁った目はなおも続ける。それ以上はやめろという私の中の想いなど知らないとばかりに。




「人間との和平を望むなんて、そもそもが間違ってるんだよ」




反論したのは姫様だった。




いつのまにか私のすぐ後ろに移動したのか、横たわる青年の脈をとるように手を伸ばし、側に座っている。




「そうじゃない!間違いじゃない、今の争いは無益だ、殺して殺されて、和平を結んで手を取りあった方がいいに決まってる!」


「人間なんて皆殺しにすりゃいいだろうが、そうすりゃ難しいこと考えなくて済む、争いもなくなる、全部解決だ」




そう吠えた。




おそらくそれは、今目の前にいるこの男の意志、というよりは『あちらの世界』の魔族ほぼ全ての総意なのだ。


何万といる、かつて姫様が統べていたはずの、魔族たちの総意。姫様のお考えとは違う意志の集まり。




「それじゃダメなんだ!」


「だよな!ハルバート様が言ってもわかんねえから!今こうなってんだよな!」




小さく叫んだ姫様を圧倒するように、ガスタは叫ぶ。再び忌々しく光る羽を羽ばたかせると木の尖端から浮き上がって、そしてひときわ高く飛び上がり、羽を発光させる。




発光。




鈍く、黒く、赤い。




それは私たち魔族が『魔法』を使う際の予備動作、魔力を使う際に起こる発光現象。




つまり。




攻撃が来るということ。




ガスタは空中で身体をくるりと前転、バク宙のような動作をとって勢いをつけ、魔力を帯びた鱗を羽から一斉に打ち出す。




まるで光の矢の雨を受けるような一撃。




魔族にとっては、それも羽を持ち、魔族としてより凶暴な性質を持つ『純魔族』にとっては、初歩的な魔法だ。




だがガスタの巨大な魔力と高い練度によって高められたその威力、速度共にとても防ぎきれるものではなかった。


純魔族の棟梁というのも嘘ではないらしい




少しでも打ち出された鱗を弾こうと懸命に振るったソウルイーターの刀身も虚しく、地面へと到達した鱗が私の身体を浅く、そして数本は深く切り裂く。




痛みに呻き、歯をくいしばる。


私の身体をそれた鱗が地面に突き刺さり、それを眺めるガスタの高笑いと口笛が響く。




ちらりとガスタを見れば、再びその羽は赤黒い光に包まれている。




2発目が来る。


その思考よりも早く、ガスタは濃縮した羽を、魔力を解き放った。




硬い地面を覆うように、さっきよりも広く、つまり姫様にも届くように、赤い光の雨が降る。




その時間はとても。




とてもゆっくりとした時間に感じた。




魔力によって肥大した鱗がよく見える。




不思議な感覚だった。




降り注ぐ光の雨の一つ一つを私の目は捉えていて、そして何より、件の青年を守るように彼に覆いかぶさる姫様をしっかりと捉えている。




私は反射的に、姫様を覆うように身体を投げ出していた。




例え今は魔力を失っていようとも、このお方は魔王、簡単に倒されていい方ではない。そして裏切り者であるハルバートの好きなようにやらせるわけにはいかない。




決して。




もしも万が一姫様が魔力を取り戻せば、ハルバートを倒せる。


そして何より、私の身体は頭で考えているそんな事よりももっと大きな強制力を持った、いわば本能のような感覚に突き動かされていた。




傷つけさせない。


絶対に。


姫様は私が守り抜く。




バルハートに裏切られ、共に異世界に通じるというゲートをくぐったその時から、いやもっと前、まだ幼い頃に私よりも少し小さな姫様に仕え始めたその時から、私はそう決めていたのだ。




その為ならば私の身体などどうなってもいい。




背中に突き刺さる冷たい感触を意識しながら、猛然と駆け出したスピードを一気に殺して、目を瞑る。




その後方では。




姫様の小さい呟きが溢れていた。




「ルナ」


「申し訳ありません」




この攻撃で息絶えなくても。


ガスタは私を殺すだろう。




トドメを。




刺すだろう。





それでもいい。





私の意識はまるで電気がふっと消されるように、唐突に、突然に、暗く深い場所へと落ちて行く。








003









生暖かい感触がある。


そして鼻につく血の匂いと、硬く冷たいコンクリートの肌触り。




そう自覚したのがいつだったか、つまりは僕が僕の意識を認識したのがいつだったは、全く分からない。




永遠は一瞬のようで、一瞬が永遠のような。


そんな不思議な時間の感覚。




深く沈んでいた僕の意識は誰かに持ち上げられるように、まるで代わりばんこに落ちてきた誰かに引き上げられるように。




どうやら再び浮上したようだった。




ありとあらゆる感覚が薄れていた。


耳も、目も、肌にも霞が何重にも重なって全てがボヤけている。




木々を揺らす風の音。


甲高い口笛。


笑い声。


それらがボリュームのつまみを大へ小へと激しく回されているように、不細工にハウリングした音楽のように、僕の身体を包んでいる。





そんな中で、声が届いた。





凛としていて。


震えていて。


暖かくて。


寂しくて。


そして慟哭のように魂に響く小さな声。






「すまない、お前の命、貰い受ける」






「ああ、こんな死にかけでよかったら、どうぞ好きにしちゃってください」




そう答えられたかどうかは分からない。

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