魔王のボディーガードになりまして。
結原うい
プロローグ
第1話
001
僕の住む街。
もっと言えば、育ってきた街。
奥多摩学園町。
東京都の外れの方に位置するこの街は、東京でありながら東京っぽくないと言うか、良く言えば緑が多くて山があり、悪く言えば田舎くさい。
中心部から離れれば閑静な住宅街とは名ばかりで、閑静というかむしろ牛の鳴き声で煩かったり、住宅街というよりは田園地帯で、狸やらイタチやらの野生動物を見かけることなんてしょっちゅうだ。
と思えば街の中心部は、街の名前にもなっている『奥多摩学園』を中心に、それなりに栄えている。
それなり。
というのが個人的にはミソだと思っている。
西武線に乗って1時間ほど揺られた先の池袋ほどゴミゴミとはしていないし、かと言って寂れているということもなく、一人暮らしの若者から大家族のファミリーまでが生活できるような大抵の娯楽施設は揃っている。
ショッピングモール。
カラオケ。
ゲームセンター。
その他もろもろ。
広くて安い土地のおかげで充分すぎる敷地に立つそれらほとんど全ては、さっき話にも出てきた奥多摩学園の学生の為のものだったりする。
なにせこの地域で育ってきた子供達が大抵集まる。冗談ではなく大抵集まる。クラスメイトのほとんどが顔見知りなんて当たり前だ。
小学校から大学までがほぼエスカレーター。
整った教育カリキュラム。
優秀な就職実績。
しかも私立でありながら、ほとんど公立高校と同じお値段でそのエスカレーターにひょいと乗れるとあれば、子供達というよりはその親たちが、この機会を逃すはずもない。
結果としてこの学園への入学試験は困難を極める、らしい。
らしい。
この『らしい』という表現は、僕が大分前からそのエスカレーターに乗っかっていて、正直に言えばまるっきり負んぶに抱っこな状態で、小学校の時に受けたらしい試験、その狭き門をくぐった苦労の大体を忘れている、というところから来る感想だ。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。
よく言ったものだ。
僕は大した勉強の苦労をすることもなく(これは別に僕が特別勉強が出来るという意味ではなく、既にエスカレーターに乗っているから、という意味だが)いつかしたであろう苦労もすっかり忘れて、エスカレーターの旨味を味わいに味わっているのである。
と。
ここまで考えたところで、僕は胸の奥から迫り上がるものにとうとう我慢が出来なくなる。
駐車場の看板に照らされた道路脇をよたよたと歩いてから、いつからそこに在るのかもわからない、道路とパーキングを隔てる錆びたガードレールを粗く掴んで、立ち止まった。
全身から吹き出る汗。
酸素を求めてぜえぜえと乱れる呼吸を意識しながら、ゆっくりと深呼吸をする。
乾いた唇を舐めて、顔を上げる。
後ろを、自分が走ってきた坂道を振り返れば、そこには宵闇に紛れた葛折りの坂が続いていて、目線を道に沿って走らせれば、眩しいくらいに明るく光る、件の奥多摩学園中心部へとたどり着く。
「だいぶ、来た、な」
呼吸は整うというには程遠く、独り言も途切れ途切れだ。
それもそのはず。
僕は自宅から街の中心部を通り、今自分がいるこの街の外れ、都と県を遮るようにそびえる山『月行山』を登る道路をコースとして、ひたすらにランニングしていた。
その距離約10キロ。
ランニングを晴れた夜の日課にしてからもう2年近く、そしてランニングのコースを自宅からこの月行山の中腹にあるパーキングに決めてから半年ほどが経つけれど、この自分が走って来た距離を確認して、そしてただ眺める時間が、僕は好きだった。
夜間の車の往来はほとんど無く、街灯すらもほとんどないこの道で、ただ月の光に照らされるこの時間が好きだった。
月行山。
げっこうさん。
その名前の通り、この山から見える月はとても綺麗で、昔の人々が『月』を見に『行く』ための『山』という意味を込めて『月行山』と名付けたという話を聞いたことがある。
確かになるほど。
そう納得してしまいそうな程に、この山から見える月は他で見るより美しい気もするし、照らす月明かりは他より鮮明な気もするのだ。
回らない頭で考えるのをやめて、手すりをベンチに変更、ガードレールに腰掛けると、鼻先を刺すような風が通り過ぎていく。
季節は3月。
まもなく春となる。
とはいえまだ夜は寒かろうとスポーツウェアの上から羽織ったウインドブレーカーが、今はただただ邪魔で仕方なかった。
頬を伝う汗を拭って、手を払う。
さて、自動販売機でスポーツドリンクでも買おうかと、そう思ってガードレールから腰を上げた僕を。
ピカリ。
光が包んだ。
例えではなく、包まれた。
それは僕を照らす月明かりよりもひときわ明るくて強烈なもので、僕の目をくらますのには十分すぎるほど眩しかった。
目を焼かれるとはこのことか。
ぎゅっと瞑った瞼を超えて目を刺す光に耐えながら、一体なんだと頭で考える。
車のヘッドライトだろうか。
いや、それにしては車の走行音など聞こえなかった。車通りのほとんどないこの道で、あのエンジン音を聞き漏らすはずがないし、突然ライトだけが現れるなどあり得ない。
では何だ。
外的ではなく内的。つまり身体の異常なのかだうか。
その思考がまた間違った結論にたどり着くより早く、徐々に僕の目を焼いた光が弱まっていくのを感じる。
恐る恐る僕が目を開くと、正解はそこに、まるで今までそこに居たことを僕が気付かなかったかのように堂々と、パーキングスペースの真ん中にいた。
とは言ったものの、僕には最初、それが正解だという認識は欠片もなかったけれど。
人影らしき物が2つ。
どうにかこうにか視認できたのはそれだ。
ぼやける視界のピントを必死に合わせると、そこには僕と同じ年頃であろう女の子が2人、コンクリートで固められた地面に蹲っている。
いや。
待て。
待って欲しい。
意味がわからない。
何だこれは。
どうなってる。
そんな疑問が次から次へ浮かんでくる。
ほんの数秒前までこのパーキングには僕1人だった筈だし、もともと人が2人いたんだとしたらそれに気が付かないはずがない。
そこまで鈍臭くはない。
と信じたい。
だとしたらこの2人はいつ現れた?
疑問が疑問を呼び、?が?を呼ぶ僕の頭を打ち払うように、2人のうち1人の女の子がゆっくりと起き上がった。
元々なのか、月の光かパーキングの看板から漏れる光に照らされているからなのか、その頭髪は銀色に輝いているように見える。
そして未だに横たわる女の子の髪の毛は、金色。
よくよく見れば彼女たちが身を包むその衣服も、普通のシャツやズボン、ワンピースなどのものではなく、ロープというかマントというか、いわゆるファンタジーというか、言ってしまえば定期的に幕張の方で開催されているイベントに行けば見れそうなものだった。
コスプレイヤー?
海外の方?
いやどこのファンタジーだよ!
どこの異世界だよ!
そんなツッコミを入れるよりも早く、いや実際には絶対に言えないけれど、銀色の髪の少女は、月の光を受けて爛々と光る青い瞳で僕を見つめた。
目があった。
絶対に日本人ではないその顔立ちと、その青い瞳の吸い込まれるような美しさに、僕は目を逸らせなくなる。
「貴方は、人間ですね」
いや貴方も人間でしょう。
何ですかその質問は。
やっぱりファンタジーなんですか。
と頭の中のツッコミは冴えに冴え渡っているものの、そんなもの1つも役には立たず、僕はおずおずと答えるしかない。
「はい、多分そうだと思いますけど」
「そうですか、ここは?」
「月行山です、東京都奥多摩学園町の外れ、です」
「東京、なるほど、姫様起きて下さい、どうやら成功したようです、無事かどうかはわかりませんが」
そう言って、銀髪の彼女は傍らの金髪の方を揺さぶった。
姫様。
そう呼んだ。おそらく確かにそう呼んだ。聞き間違いであって欲しい。
「姫様、いつまで寝てらっしゃるんです?」
そう言ってまた肩を掴む、見れば2人とも随分華奢な身体つきだ。
そしてやはり、姫様は聞き間違いじゃなかった。
やっと、というか何と言うか、姫様と呼ばれた金髪の少女も目を覚まして身体をもぞもぞと動かし、僕の上に馬乗りになった。
いや、別に僕の間違いではなく。
勘違いでもなく。
そして画面を見つめるアナタの読み間違えでもなく。
僕は、部活動には属さずとも毎夜走り込んでそこそこ体力に自信のある高校2年生は、細身の身体からは想像もできないほどの俊敏な動きを見せたパツキンの少女に、いつの間にやら地面に押し倒されていた。
遅れてやってくる背中の鈍痛。
頭を打っていないのは不幸中の幸いなのだろうか。
そしてまた、目が合う。
銀髪の少女が大人びた顔立ちに青い瞳だったのに対して、姫様と呼ばれる彼女は整いつつも幼めな顔立ちに、燃えるような真紅の瞳。
美しい、と言えば美しい。
が、こうも近距離で見つめられては、というよりも悲しいことに睨まれては感嘆している暇もない。
「お前は誰だ?」
それはこっちのセリフだ。
という言葉は動転した僕の口からは出てこない、というのは恥ずかしいので何とか飲み込んだことにしておこう。
銀髪の少女の「姫様、落ち着いて」という言葉も無視して、姫様は僕の胸倉を掴んだ細い腕に力を籠める。
みしみし。
骨が軋む。
僕の身体はカルシウム不足なのだろうか。
「種族はどこだ!?誰の差し金だ!?言え!!」
「あの、何を言っているのはさっぱりで」
心からの叫びでそう返しても、姫様は全く納得していない様子。
わけもわからず、僕は銀髪の少女にSOSの視線を送る。本当に意味が分からない。2人の少女が突然現れたかと思えば、ハリウッド映画のスパイ活劇ばりの流れで組伏せられ、到底意味の分からない質問をされている。
意味が分からない。
僕の視線を受け取ったのか、銀髪の少女はやれやれと言った様子で口を開く。
彼女、思ったよりも背が高い。
僕が地面に寝ているのもあるだろうけど。
何が悲しくて大人しく地面に寝ているのだろう、だんだん腹が立ってきた。
「落ち着いてください姫様」
「ルナ、黙ってろ」
「いいえ黙りません、ゲートは無事に開通、私たちはそれを通って『あちら側の世界』へ」
「そんなことは分かってる!それでこっちの世界にはバルハートの支配が及んでいないとどうして言える!?わからんだろうが!」
そうか、銀髪の彼女はルナというのか。
月行山に現れた少女だけに。
上手くない。
話の内容はサッパリだけれど、彼女達は何やら議論をしているようだった。
1人は僕のお腹の上で、胸倉を掴みながら。
苦しい。
「ですから心配しすぎです、そもそもこちら側に膨大な魔力を保持したまま転移することはできませんから」
「単体でなら問題ない、お前が転移できているのがいい例だ」
「転移の影響なのか私の魔力も弱まっていますし、そもそも膨大な魔力をゲートを使って転移させれば、次にゲートを起動できるようになるまで時間がかかります、だからゲートはずっと起動できないままでしたし、それは姫様もよくご存じの事でしょう」
「そうだな」
「あんなことがあって、動転するお気持ちはわかりますが、どうか抑えて、貴女はリリア・ユラ・ノクターンなんです」
「もう、違う」
そう言った彼女、リリアと呼ばれた金髪の少女は、ゆっくりと僕の上から立ち上がってフラフラと歩き、僕がさっきまでそうしていたように、ガードレールにもたれかかった。
まるで押し倒した男のことなど眼中にない。
怒りを通り越して最早悲しい。
ランニングの汗はいつしか冷や汗に変わっても、早鐘を打つ心臓はそのまま。
ぼんやりと街の明かりを眺めていたあの静かな時間が、随分昔のことのような気がした。
一体何なんだ。
数分前のことを思い出しながらぼんやりと頭上を眺めていた僕の目の前に、白い手が差し出される。瞬間ギョッとして、それがルナと呼ばれていた銀髪の少女のものだと気づいた。
素直に手を取って立ち上がらせてもらった僕に彼女はゆっくりと、丁寧にお辞儀をした。
「姫様が失礼を致しました、その、少しショックな出来事があって動揺されていらっしゃるんです、お許しを」
「あ、いえそんな、ケガもないですし」
これは強がりだ。僕は背中を強打し、骨は確実に軋んだ。
そして、強がりついでに尋ねる。
「あの、お2人はどこかの国からいらしたんですか?」
「と言いますと?」
「髪の毛とか、瞳とか、顔立ちとかが日本人とは違うなって思って、なのでどこか別の国の方なのかと、いやでもそれにしては日本語ぺらっぺらですよね、カツラとかカラコンにしては違和感がないというか」
「名前」
「え?」
あまりにも唐突な単語で、僕は思わず聞き返す。
「名前?」
「ええ、貴方のお名前は何と仰るんですか?」
「あ、すいません、自分の名前も名乗らずに質問ばっかり、雪谷十夜です、雪の谷に十の夜で、ゆきやとおや」
懇切丁寧な説明。
「雪谷様、素敵なお名前で、それで私からもお伺いしたいことがあるのですが」
はい。
僕で答えられる事なら。
そう返事を返そうとした。
返そうとしたと言うか、返したのだ。
それが結果として空気の振動となり音とならずとも、僕はそう返事をしたつもりだった。
しかし僕の口から返事は出ずに、うーともあーとも付かないただしゃがれた声が漏れるだけで。
そして、僕の目の前に立つルナさんの顔が引きつって行くのをただ見ていた。
熱い。
腹筋のあたりがひどく熱っぽくて息苦しい。いくら息をしようと思っても上手く呼吸ができない。そう自覚したのは返事ができないと思った数瞬後だった。
さっき掴まれた胸倉が今頃効いてきたのだろうか。
そう思って僕は自分の腹部を見やる、と、そこに腕が生えていた。形は確かに人間の腕のそれにはしかし、人には無いはずのドス黒い鱗のようなものに覆われている。
生えている。
直感的にそう思ったものの、どうやらそれは違うらしい。
貫いているのだ。
僕のお腹を、誰かの腕が。
その証拠とばかりに、僕の真っ白なウインドブレーカーには穴が開いていて、その穴を中心に真っ赤なシミを作っている。
意味がわからない。
本当に意味のわからないことばかりだ。急に2人のファンタジックな少女が現れて、胸倉を掴まれたと思ったら、その胸を貫かれている。
そう自覚したら最後、僕の意識は痛みに耐えきれず、ゆっくりと薄暗くなっていく。
「見つけたぜ、魔王様」
暗転していく世界の中で、そんな野太い声が響いた。
魔王様?
意味がわからない。
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