イモとの関係

メガネ4

第1話 こんなところで

第一話 『こんなところで』


車内は今朝も満員だった。僕は背中や肩を押されて、シート前に辿り着く。当然、七人掛けのシートは隙間なく埋まっている。

しかし、吊革には空きがあった。しかも、頭上の網棚には十分なスペースがある。僕は鞄を置こうと背を伸ばした。


その時、電車が発車する。


不意の揺れで、バランスが崩れた。咄嗟にずらした靴先が、シートで俯く女性の皮靴に触れた。顔を上げた女性の眼鏡が非難の光を放つ。だが、僕はその険しい輝きよりも、咀嚼中の口元と、膝上にあるカップ状容器に目を奪われた。


― オイオイ、此処で『じゃがりこ』かよ!


そういえば、この辺りには通勤電車にそぐわない匂いが立ち込めている。香水や整髪料とはまるで違う匂いは、目の前の女性が原因であった。


とにかく、僕は陳謝した。もちろん、言いたい事は他にあるが、この場では言うべき事のみ口にする事が正解だろう。


― ヤバい人女性だったら、面倒だしな。


女性は黒髪で銀縁眼鏡を掛けている。スーツの着こなし方も粋で、恰好良い。同僚の女子よりも断然、垢抜けているだろう。なのに、どこか疑わしい。


僕は、この女性を怪しく感じさせているのは、手にした『じゃがりこ』と、その堂々とした態度だと気が付いた。


―ひょっとしたら、この女性は相当のキャリアなのかもしれない。


異端分子を探る四方八方の視線の中で、この振舞は只者では無い証明だ。


― とにかく、円満解決だ。


ハザードに対しリスクは抑えるべきだ。満員の通勤電車の中で、女性はハザードでしかない。理由は女性がかなりの権力を有しているからだ。もし、ある女性が一声上げれば、即逮捕されてしまう男性が続出するだろう。僕などは抹消されるかもしれない。


目の前の女性は右手の中指で(親指と人差し指で『じゃがりこ』を抓まんでいる為、そうなったようだ。そう、思いたい)眼鏡をずり上げる。そして、観察する眼差しで、じっと、僕を見つめる。その瞳の奥で何を考えたのか不安になる。


「ホント、すみませんでした」


再度、僕は謝った。しっかりと、明瞭に謝罪を口にしたので、車内の視線が僕に突き刺さる。このくらいは、仕方が無い。


女性は抓まんでいた一本を口中へ投げ込み、咀嚼を始めた。ガリガリと噛み砕かれる『じゃがりこ』の感触が僕に伝わって来るように思える。そして、呑み込む際、女性は明らかに鼻を歪めた。


「うん」


そう、一言呟いた。どうやら、許されたらしい。


僕は一息ついた。


通勤ラッシュのお陰で、いくつものスキルを手に入れた僕だが、まだまだ修行不足のようだ。スマホの片手操作、非難の視線、小声の陳謝、踏ん張りの両足、咄嗟の鞄、無我っぽい境地では、対応できない事態もあるのだ。90分×六年間の修行など、有って無いようなモノだと痛感した。


憂う気持ちを溜息で追い出した僕は、気持ちを新たにした。今日は始まったばかりなのだ。


不意の揺れに備え、僕は右手で吊革を握った。空いた左手にスマホを持ち、日課であるメール確認と業界ニュースを眺める。


「ケホン」


その時、小さく咳が聞こえた。声の方へ目を向けると、例の女性が口元を抑えている。


「ケホ、ケホ、ケホン」


芝居や暗号ではなさそうだ。俯いている為、表情は見えないが、結構、苦しそうだ。周囲は眠ったように静かである。仕方ない、と僕はスマホを閉じた。


スマホを胸ポケットに戻し、左手でポケットを探った。指先で柔らかな感触を確かめ、掴み、取り出す。


「コレ、どうぞ」


声に応じ、顔を上げた女性にポケットティッシュを差し出す。レンズ越しの目が潤んでいる。


「駅前で貰ったモノだけれど、良かったら使って下さい」


以外にも女性はあっさりと受け取った。目の前で鼻水を拭い、涙を拭きとる。


「ありがとう」


笑った目で、じっと、見つめられた。その目で心臓が跳ね上がる。耳朶の熱さを感じた僕は、彼女から視線を逸らした。無心を装う為、窓の先へと目を向ける。


ガッチリと吊革を掴みながら、僕は結構な速度で変わる景色を眺めた。


ヘンテコな鉄塔や、ピカピカの建築物、背広姿が満載の高架ホームなど。全て見慣れた景色だ。そんな景色の中に、ぽっかりと空いた場所を見つけた。その空地が、慣れた景色をちぐはぐに感じさせる。


― あそこは?


昨日までナニカがあったような気がする。だけれど、ナニがあったのか思いだせない。それが、シコリとなったのか、どうにもスッキリしない気分だ。


睨むように考えてみたが、さっぱり思いだせない。それどころか、以前から空地だったような気もしてきた。思考力がイマイチ発揮できない。とにかく、どちらにしても僕とは無関係だ。『見慣れた景色』が、思い込みでしかなかっただけの事である。


そもそも、数秒で消えて行く景色を見て、分かる事など無い。実際に歩いたことも、ニオイを嗅いだことも無いのだから、それが当然だ。つまり、僕は六年間往復した通勤路脇の街を知った気になっていただけだ。いつもならば、それを不満とは思わなかっただろう。接点はなく、不便は何もないのだから。


「東京、東京です」


短いアナウンスがあった。電車はホームに到着し、ドアが開く。順々に降車していく人々に紛れる寸前、僕は彼女に呼び止められた。


「コレ、お礼です」


彼女は僕に『じゃがりこ』をくれた。食べかけの『じゃがりこ』だ。

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