あと何回私が死ねば、貴女は狂ってくれますか?

虹星まいる

月夜が望んだ世界

 とある境内のその本殿。

 錆色の燐光を纏う神体は、夜の帳によく映えた。

 人の姿を象った神は眼前の少女に向けて神言を下す。


『魂の巫女よ。汝に力を』


 輪郭をぼかすように放たれる燐光は、その存在がこの世のものではないことを顕示するように光度を増した。


『我が身は依り代。器となりて魂の救済を────』


 少女が紡いでいく祝詞のりとは言霊を宿し、神体へと取り込まれていく。


「愚かな……なれど、やむなしか」


 取り込まれた言霊は神の力によって実体を有した。神は燐光と共にそれを少女の身体へと送り込む。


 光が消え去り夜の闇に包まれると、二人の姿は見えなくなった。儀式が終わったことを察してか、少女は徐に立ち上がる。


「……巫女よ、汝の考えよることは儂には筒抜けじゃ。はっきり言うぞ。汝は狂っておる」

「有難きお言葉」


 少女はそのまま御前に目をくれることなく踵を返した。

 絶対存在に皮肉で返す。あまりにも礼節を欠いた言動。まるで神に仕える者が主神に対してとるような態度ではない。

 神をも畏れぬその所業。少女にとって或る一人以外のことは、人だろうが神だろうがどうでもいいことなのだろう。


 人型の影をした神は一つ溜め息を吐くと、そのまま幽体のように姿を消した。




 ◆




 蝉時雨せみしぐれの降り注ぐ七月の後半。夏をいよいよ本番に迎え、太陽からの熱光線は人を射殺さんとばかりに燦燦さんさんと降り注ぐ。

 明日から夏休みを迎える浮かれ気味な学生が一人、その暑さを身をもって体感していた。


「う、ん、暑い……」


 教室の窓際。斜陽の差し込む席。学生机の天板へとベタリと上体を倒した森戸もりと環奈かんなは地毛の茶髪をポニーテールに結い上げていたせいで、うなじを焼かれる感覚にうなされた。


「…………溶ける」

「……意味わからないこと言っていないで、カーテンくらい閉めたらどうかしら」


 机に伏せたままぼそりと漏れた環奈の呟きに、頭上から声がかけられる。

 声の主は篠山しのやま月夜つきよという少女だった。


「あ~、月夜おかえり~」

「……カーテン、閉めるわよ」


 月夜はサッとカーテンを引くと、環奈へと向き直る。

 月夜は今しがた一学期最後の委員会の仕事を終えたところだった。月夜と共に下校する約束を交わしていた環奈は放課後の教室で一人、彼女を待っていた。

 しかし、特にやることもなく手持ち無沙汰だった環奈の瞼はいつの間にか落ちていたらしい。


「寝ていたの?」

「実は夏休みが楽しみすぎて、はしゃいじゃって徹夜でさ、寝不足だったんだよね」

「そうだとしても、よく夏日を浴びながら寝られるわね……顔が真っ赤よ」

「じゃあ……冷やして!」


 環奈は素早く上体を起こすと、月夜の手を取り自身の両頬にピタリと添えた。日に焼け、体温が上がったことで色づいた環奈の顔に、月夜の白い指はよく映えた。


「ひゃ~、月夜の手は冷たくて気もひい~い~、い~た~い~、ひっはらないへ~」

「馬鹿な事やっていないで帰るわよ。ほら、支度して」


 頬を摘ままれてこねくり回された環奈は恨めし気に月夜を見上げる。

 これが少女たちの日常。明るい環奈と、冷めた月夜。十年来の親友。それが、二人の関係だった。


 ◇


 学校からの帰り道、明日から夏休みということもあって環奈の足取りは軽い。

 追いかける月夜も走りこそしないが、心なしか早歩きになっている。


「ねえねえ、せっかくだから展望台に行ってみようよ!」

「何が『せっかく』なのよ……」

「私たちの夏休み開始記念だよ! 今年で高校二年生だし、来年は受験勉強で遊べないじゃん? だから今年は、めいっぱい思い出を作るの!」

「その思い出第一号が私と展望台────篝火岬かがりびみさきに行くこと、と」

「そうそう、小さい頃はよく一緒に行ってたけど、最近はあんまり行かなくなっちゃってたし、ね?」

「はぁ、仕方ないわね」

「ふふー」


 不承不承といったていだが月夜は満更でもなさそうだ。環奈はそんな月夜を見て笑みを浮かべる。


 下校のルートからわずかに外れて小一時間ほど歩いていくと、目的の場所へと辿り着いた。

 切り立った崖の先端、展望台こと篝火岬。海風にさらされて朽ちかけた鉄柵と、錆びて動かなくなった観光望遠鏡がぽつんと佇むだけの廃れた場所であったが、そこから見える景色は決して陳腐なものではなかった。

 見渡す限りに広がるのは夕影を乱反射して煌めく穏やかな海。水平線に沈みかけた赤橙色が目に沁みるほどの絶景。


「うーん、やっぱりいい場所だね。綺麗な景色、すがすがしい磯の香り、心地いい潮風!」

「ええ、本当に。こういうのもたまにはいいかもしれない」


 ふっ、と吹き抜ける磯風。

 環奈は大手を開けて全身で受け止め、月夜はなびく黒髪を抑えて目を眇めた。


「小さい頃はさ、この景色を眺めながらおにぎり食べたよね」

「お互いが作ってきたものを交換したり、ね」

「うんうん、私は月夜のおにぎりを食べるの毎回楽しみにしてたなあ」

「……私はどうだったかしら。渡されたおにぎりの具がガムだったときに大喧嘩した記憶があるわ」

「あははー、ごめんって。あの時は子ども心にお菓子を入れたら美味しくなるんじゃないかって思ってたからさ」

「……まあ、チョコむすびはなかなかどうしてアリだったと思うけれど」

「えー、本当に~?」


 くすくす、と環奈は忍ぶように笑いを漏らす。月夜もつられるように口元を緩めた。


 会話が途切れたと同時に、場に静寂が訪れる。視界に広がる凪いだ水面のように、心地良い沈黙が二人の間をすり抜けていった。


「あの頃が一番楽しかったな」


 環奈の漏らした呟きを、月夜は無言のまま肯定も否定もしなかった。

 月夜は小さく息を吐くと、夕日に向かって一つ歩みを進めた。


「ねえ環奈、一つ相談したいことがあるの」


 紡がれた声は月夜のものにしては低く、重たいものだった。どこか憂いを帯びたような、重厚な鉄扉を押し開けんとするかのような、緊張した声音。

 環奈は小さく首を傾げる。


「どうしたの?」

「…………私ね、好きな人ができたの」

「えっ────」


 思わず、といったように環奈の口から嘆声がこぼれた。


 好きな人────それが意味することは、普段から鈍いと言われる環奈にだって理解できる。


 ただ、その言葉が親友の口から出るとは思わなかった。色恋沙汰など一笑に付すような、どこか達観した性格を持っている月夜のことだ。環奈にとっては、まさに青天の霹靂へきれきであり、月夜との十数年の付き合いの中で五指に入るほどの驚きをもってして環奈を打ちのめした。

 環奈は幾許かのあいだ口を開閉させ、ようやく喉から音を絞り出す。その声は震えていた。


「そ、それって誰?」

「……誰だっていいじゃない」


 冷たく突き放すような月夜の声音に、環奈はたじろぐ。私が言ってほしかった言葉は、それじゃない────────そう、言外に責められたような気がした。


「豆鉄砲でも食らったような顔をしているけれど、私に想い人がいることはそんなにおかしいことなの」

「いや、そういうわけじゃ……」


 環奈は言葉を詰まらせる。


 ────────おかしいに決まってる。だって、私と月夜は十年以上も親友をやってるのに、そんな話は一度たりともしてこなかったじゃない────────


 チクリと棘が刺さったように、その事実が環奈を苛む。だが、その棘が環奈の反撥心に火をつけた。


「そ、そっか、月夜も年頃の女の子だもん、憧れる人の一人や二人できてもおかしくないよね。私、応援するよ! 月夜ちゃんの一の親友、環奈ちゃんにお任せあれ!」


 強がるように笑顔を見せて、環奈は大きく声を張り上げた。

 遠くで木霊するウミネコの鳴き声を掻き消すほどの音量に、月夜は一瞬動きを止めた。


「……そう」


 夕日に照らされた環奈の笑顔を見て、月夜はつまらないといった風に声を出した。月夜の表情は逆光に翳り、環奈からは伺えない。

 月夜は環奈に背を向けると歩みを進め、そのまま鉄柵へと身を預ける。錆のまわったそれはギシリと嫌な音を立てた。


「本当に……憎たらしいほどに綺麗な夕景だわ」


 月夜は忌々しいとばかりに呟きを漏らし────────その影がブレた。


「────────ぇ」


 突然にすぎた光景を環奈は処理しきることができない。


 月夜が身体を預けた鉄柵が冗談のように根元から折れ、彼女は鉄柵の一部ごと崖下へと落ちていったのだ。


 何の前触れもなく消えた親友の背中を環奈はただ漠然と眺めるだけであった。数瞬茫然としたのちに響いたのは、引き絞るようにった環奈の悲鳴。


 逸る動悸と不規則な呼吸を引き摺って、環奈は月夜が消えていった場所へと歩みを進める。ようやく辿り着いたそこから眼下に広がっていたのは、まさしく惨状。


 二十数メートル離れた落下先の岩盤に叩きつけられたのは、艶やかな黒髪を携えていた少女。打ちどころが悪かったらしく、潰れた頭部からは脳漿と血液がどくどくと溢れ出し続けている。更に両足は在らぬ方向に捻じ曲がり、共に落下していった鉄柵は凶器として少女の腹部を貫いていた。学校指定の白ブラウスに染みわたっていく血は夕日を浴びてぬらりと鈍いりを返す。押し寄せる波の飛沫は少女の中身をもって赤く染まっていった。


「アァ、嫌、嘘、イヤ、月夜、ツキヨ……っ!」


 親友の凄惨な姿を視界に収めた環奈は数歩後ずさり、くずおれ、へたり込む。


「そ、そうだ、きゅうきゅうしゃ、救急車呼ばないと」


 震える手で携帯電話を取り出した環奈は嗚咽を漏らしながら画面をタップする。

 しかし、恐慌に陥った指先は「119」のたった三文字を正確に打ってくれない。


「ハァ、ハァ、動いて、動けッ!」


 環奈は苛立ったように自らの太ももを殴りつける。痛みに反応したのか、身体の震えは幾分か収まっていた。

 数字を打ち込み、耳に端末を当て、コール音を確認した直後────────


 環奈の意識は暗転した。




 ◆




「どうしたの、顔が真っ青だけど」

「あ、え……?」


 傾き始めた日が差し込む窓際の席。環奈は意図せぬままに机の天板へと上体を倒していた。

 環奈の視界に映るのは────────


「つき、よ……」

「何よ、その『幽霊でも見ました』って顔は」

「ぁ、本当に、月夜なの?」

「十数年来の親友に何を言っているのよ」

「そ、うだよ、ね、ごめん……」

「……怖い夢でも見たの?」


 怖い夢。環奈の脳裏に、あの凄惨な現場がフラッシュバックし────────かぶりを振って打ち消した。


「ゆめ……だったのかな」


 明晰夢にしては異常に鮮明だ。だが、現に環奈の目の前で月夜は生きている。何事もなかったかのように、平然と、いつもと変わらない表情で。頭の中身が飛び出るなんてことはなく、手足もしっかりしているし、お腹に鉄棘は刺さっていない。


 不躾な環奈の視線が気になったのか、月夜は訝しげな顔をして鳩尾みぞおちを軽くさすった。

 ふと、環奈は気になって周囲を見渡す。見慣れた教室には夕日が差し込み、朱く色づいている。時刻は十八時を回ったところで、環奈と月夜以外に人影は見当たらない。


 どこかで見たような光景だった。


「ねえ月夜、さっきまで私何してた?」

「なにって、私を待ち呆けている間に居眠りしていたんじゃないの」

「そっか……」


 月夜の言葉に、環奈は口をつぐんだ。どうやら先ほどの出来事は本当に夢だったようだ……と、無理やり自分を納得させる。違和感は拭い切れないが、気を紛らわさなければ先の惨状を思い出して嘔吐してしまうかもしれない。


「もうこんな時間なのね。帰りましょうか」

「あ……うん、そうだね」


 月夜の言葉に環奈は頷く。環奈の動きには未だ、ぎこちなさが残っていた。




 帰路についた二人の間には重たい沈黙が流れていた。会話の際、大抵は環奈から月夜へと話題が振られる。その会話の糸口を発する環奈が黙りこくっていると二人の間には自然と言葉が無くなる。

 環奈が口を閉ざす原因────────環奈の心を苛んでやまない理由。それは、圧倒的なまでの既視感デジャヴであった。

 寸分の狂いなく、とはまではいかなくとも、追い越していく自転車、すれ違う学生の会話、畑で農作業を行う老夫婦、空に揺れる夏雲。その全てが、つい先ほど夢で見た風景だった。

 どうしようもない不快感が環奈の背筋を這う。まるで夢の内容をなぞっているような薄気味悪さ。環奈の顔は徐々に青褪めていった。


 ややして二人は岐路へと辿り着く。


 左に進めば市街地へと出る。環奈と月夜はそこへ自宅を構えているため、寄り道をせずに帰るなら左に曲がればよい。

 右に進めば海へと出る。かつて見た惨劇は、その先で起こった。


「ねえ環奈」


 唐突に発せられた月夜の声に、環奈の心臓は確かに跳ねた。ただの呼びかけであるはずの月夜の声が恐ろしいものに聞こえてしまった。

 緊張によって委縮した喉から、環奈はどうにか返事を絞り出す。


「な、なに」

「暑いわね」


 会話の主導権は月夜にあった。


 ────────暑いから何だというのだ。海へ行こうなんて言い出すんじゃないか。会話の流れを私が止められなかったら月夜は────────


「明日、プールにでもどうかしら」

「え、プール……」


 意識の埒外らちがいからもたらされた言葉に、環奈は思わず呆けてしまう。

 いつの間にか二人の足取りは、海とは逆側────正規の帰宅ルートへと入っていた。


 やっぱり夢は夢でしかなかった。


「う、うん、行こう! いいじゃん、プール!」

「どうしたのよ、急に元気になって」

「やだなぁ、ずっと元気だったってば」


 蒼白だった環奈の肌は徐々に赤みを取り戻していった。あはは、と気が抜けたように声をあげる。

 悪夢は終わったのだ。その帰り道、環奈は心の底から笑うことができた。


 ◇


「うっへー、人多いね」


 明くる昼下がり。プールサイドに月夜と環奈は佇んでいた。

 環奈は燦爛さんらんと落ちる光線を鍔広の麦わら帽子で防ぎつつ、げっそりとした声音でぼやいた。夏休みの初日となる今日は学生が多いらしい。

 ビビッドな水着の色が、ぶちまけられた絵の具のように水槽プールを彩っていた。

 所狭しと蠢く人の姿は見る人が見れば嫌悪感を抱いても不思議ではない。


「市民プールにしておけばよかったかも」

「そこも同じようなものだと思うけれど」


 わざわざシャトルバスまで用いて山間部に位置するレジャーランドに来た二人は、市街地に位置するこじんまりとしたプールに思いを馳せる。


「空くまで影で涼んでいましょう」

「そうしよっか」


 環奈と月夜はパラソルの下で昼食をとり、日焼け止めを塗り合い、隙があれば脚だけ水に浸かりに行った。浮き輪はお揃いで黄色ベースの愛らしいデザインのものを借りることに。

 暑い暑いと嘆きつつ談笑をしていると、あっという間に時は過ぎていった。


「マシになってきたわね」

「やっと入れる~!」


 時刻は十五時半ほど。午後の暑さもピークを越えたからか依然として人は多いままだが、ごった煮というほどの様相を呈してはいない。

 レンタルしてきた浮き輪に身体を通し、流水プールの中を二人して揺蕩う。本来なら冷水であるはずの水温は、夏の日差しと人の体温によって温水になっていた。

 ただ、プールサイドで待ちぼうけを食らっていた少女にとってはそれすらも十分に心地のいいものであった。


「ふぁ~、気持ちいいね~。ん、後で一緒にウォータースライダーへ行こうよ」


 気の抜けたあくびをかましながらユラユラと流される環奈。視界端には長大な水の滑り台が映っている。

「仕方ないわね」と付いてきてくれる親友の返事を期待しながらニヤニヤと腑抜けた笑みを浮かべた。


 しかし、その言葉に返事はなかった。


「あれ、月夜?」


 環奈は不審に思い周囲を見渡すも、そこに月夜の影はない。


 先ほどまで共に流水へと身を任せてくつろいでいた黒髪の少女は、少し目を離した隙に何処かへ消えてしまったらしい。


 ────────ゾクリ


 環奈の背筋に悪寒が走る。

 過去のものとして処理した筈の惨禍が環奈の直感に警鐘を鳴らした。


「どこ、行ったの、月夜……!」


 環奈の身体はぬるま湯の中にありながら震えていた。タッピングされた歯がカチカチと嫌な音を立てる。


『ただいまより十分間の休憩となります────────』


 タイミングよく場内アナウンスがかけられた。周りの人々は一様にプールサイドへと上がっていく。

 環奈も適当な場所で素早くおかに身を上げると忙しなく視線を走らせた。鬼気迫る環奈の面持ちに、周囲の人間は道を譲る。


 ────────と、そこで


『黄色い浮き輪の女性、今すぐプールから上がってください』


 拡声器によって注意を促す監視員の声が響いた。


 黄色い浮き輪の女性。


 それが指示する先にいたのは、黒髪の────────


「月夜……!」


 親友の姿を発見した環奈は安堵の息を漏らす。早く上がってきなよ、と声をかけようとしたところで息が詰まった。


 おかしい。


 流水プールでになっている月夜の姿に、強烈な違和を感じる。


 だらり、と垂れた腕は浮き輪を掴んでおらず、腕を通すための紐に引っかかっているだけという表現の方が相応しい。そして何より、顔が水面に浸ったまま微動だにしていない。


 それが異常だと気が付いたのは誰からか。


 ハッ、と目を剥く監視員を横目に、環奈は月夜のもとへと飛び込んだ。

 流水の力も借りたおかげで数秒でたどり着いた環奈は、脱力した月夜を抱き起こす。


「月夜、月夜ッ!」


 環奈の必死の呼びかけにも応答は無い。

 月夜の肌は突き抜けるように白く、呼吸も鼓動も止まっていた。

 環奈は喉から飛び出しそうになる悲鳴をグッと堪え、今しなければならないことを自覚する。


「誰か引き上げて! お願いします! 心肺蘇生を!」


 環奈の叫びは観衆へと伝播していく。

 しかし、誰も動こうとはしなかった。

 監視員はアルバイトだろうか、月夜の姿を見て狼狽えるばかり。

 プールサイドに立つ人々は傍観を決め込んだようで、携帯電話で撮影を始める者までいた。


「お願いします、お願い、お願いだから……っ」


 少女一人の力で同じ程度の体重の人間を引き上げることは難しい。

 腕の中で命を散らしていく親友の姿に、環奈は耐えられなかった。


「ああ、なんで、こんな、私が、私のせいだ、私がちゃんと月夜を見ていなかったから、ごめん、ごめんね、ごめんね────────」


 自らの無力を嘆き、環奈は月夜を掻き抱く。その四肢は細く、力を籠めれば折れてしまいそうなほどに頼りないものだった。


 かいなの内にある灯が消えたのを感じ、環奈の意識は徐に水底へと沈んでいった。




 ◆




「こほっ、けほっ……んっ、お待たせ、環奈」


 環奈が目を覚ますと、目の前に映ったのは親友の変わらぬ姿であった。


「つき、よ……月夜!」

「ちょ、ちょっと、重いっ」


 環奈は立ち上がり、月夜に抱き着き、押し倒した。ガシャンと音を立てて倒れた椅子には目もくれない。

 月夜の胸の内で環奈は涙を落とす。月夜が生きているという安心感と自分の無力感がないぜになったぐちゃぐちゃの心。

 で、その慟哭どうこくいやに響いた。




 茜色に染まる帰り道。環奈と月夜の間に言葉はなかった。

 環奈は月夜の手を握り、怯えたように周囲を警戒する。


 ────────月夜の死は決して夢などではなかった。


 その事実が環奈の胸の内に重くのしかかる。一度だけならば夢だろうと自分を納得させることができたかもしれない。時間の流れに任せて『ああ、怖い夢を見た』と忘れることができたかもしれない。

 だが、現実は違う。二度目の死を目の当たりにして訪れたのは、一度目の死と同じく、終業式を終えた日の放課後────即ち、月夜が死を迎える前の時間。

 夢だろう、と一蹴できればどれだけ良いか。二度の親友の死を、それが訪れるまでの時間を、環奈は鮮明に思い出すことができた。勘違いなどでは済まされない。


 環奈はこの事について一つの答えを持っていた。



 時間遡行タイムリープ



 あるきっかけをもって、この日この時この場所へと跳躍する超常の現象。

 この場合だと、月夜の死をもって、夏休み直前の放課後、二人きりの教室へと跳躍するといったところだろうか。

 勿論、環奈にとって時間遡行などサイエンスフィクションの中の出来事であったし、それを仮定にすることがどれだけ馬鹿げたことかも理解していた。

 だが、身をもって体験してしまうとそうはいかない。

 少なくとも一回目の時点で「もしかすると」という予感はあった。あまりにも出来すぎた明晰夢だと思い込もうとも、肌を刺す熱や頬を撫でる風、月夜の無惨な姿を見たことによるショック、どれもが現実味を帯びすぎていて────実際、どれも現実だったのだろう。


「ねえ環奈、どうしたのよ」


 月夜は眉根を寄せて、困惑したように環奈を見つめる。

 環奈は淀んだ瞳で月夜を見つめ返した。


「こういう日もたまにはいいかなって」

「手を繋いで下校なんて小学生の時以来だわ……」


 ────────もう、絶対にこの手は離さない。


 環奈が心の中で打ち立てた誓約。


 何故自分が時間軸の外側に放逐されたのか。一介の女子校生である環奈には理解の及ばないことだった。ともすればそれは恐ろしいことでもある。だが、こうして生きて彼女の傍に寄り添える機会を与えてもらったことに、環奈は誰とも知れず深く感謝していた。


「今日さ、月夜の家に泊まっていい?」

「また藪から棒に…………泊まると言っても、ウチには何もないわよ」

「大丈夫だよ、月夜さえいてくれれば……そうだ、夏休みの間は、ずっと月夜の家に居候していい?」

「私は問題ないけど……環奈の御両親にちゃんと許可を貰えたらね」


 環奈はおのが信念のもとに月夜に寄り添う。

 芯をもった乙女の顔は、凛としていた。


 神様が与えてくれたチャンスを無駄にはしない。月夜の二度に渡る死は偶発的なものではないはずだ。世界が、運命が彼女を殺そうとするならば、抗おう。次こそは幼馴染で親友の彼女を守れるように。



 ────────だが、そんな環奈の気勢は刹那の内に、呆気なく、嘲笑われるように、砕け散った。



 翌々日の昼下がり。血の海に沈んだ親友の肢体を前に、環奈は立ち尽くすことしかできなかった。


 大型バスに数十メートル引き摺られたは、先ほどまで自分と笑い合っていたのに。


 ────────どうして。


 ────────そんなこと、わかりきっているだろう。


 ────────私が月夜のことをちゃんと見ていなかったから。


 ────────手を放してしまったから。


 血の泪を流し虚空を見上げる親友の瞳と目が合う。

 環奈には、恨めしそうにこちらを睨んでいるように見えた。見えてしまった。


「ゆる、して…………」


 環奈はその場に膝を折る。

 遠くに聞こえる救急車の音も、下半身を浸す温かい血も、何もかもがどうでもよかった。


「ごめんなさい……うっ、ひぐっ、ごめんなさい、ごめっ、ごめんなさい、ごめんっ、なさいっ────────」


 少女の絶望は、滂沱とともに流れていった。




 ◆




 何度も、何度も何度も、月夜はその命を散らしていく。

 環奈の目の前で。まるで見せつけるように。

 環奈の心が壊れていくのは当然の帰結であった。

 親友の死が自分のせいなのではないか。自分がもっと気を付けていればこんな結末を迎えずに済んだのではないか。


 夕影が差す教室へと戻るたびに、環奈は自責の念に駆られた。


 月夜の死は、その全てが事故であった。

 不運に不遇が重なって起きた不慮の出来事。

 誰かのせいにすることすら許されないやるせなさ。

 負の感情の矛先が、観測者である環奈自身に向けられることは止められなかった。




 いつしか環奈にとっての月夜は「親友」という一言で表せない複雑な存在へと成り替わっていく。

 自分が守ってあげなければならない悲劇のヒロイン。

 罪を償わなければならない相手。

 運命を共にする半身。


 月夜の肉体が壊れると、環奈の心も同じように壊れる。


 森戸環奈という少女が篠山月夜という少女に傾倒していく。


 五度目の死を迎えた。監視が必要だった。月夜と同棲することを決めた。

 十二度目の死を迎えた。動きを制限する必要があった。月夜を部屋へ閉じ込めた。

 三十五度目の死を迎えた。一秒でも離れることに恐怖を覚えた。月夜と自分を錠で結んだ。

 四十四度目の死を迎えた。何度でも牙を向く世界を、月夜以外を敵とみなし、全てを憎んだ。


 決して月夜の死に対して麻痺しない狂気。

 月夜の遺骸を抱きしめる度に、心の昏い情熱に薪がくべられていく。

 次こそは、次こそは次こそは次こそは。

 私だけがアナタを救ってあげられるから。


 斯くして、環奈の世界は「月夜」で閉じた。

 彼女が笑っていれば、歩いていれば、食事をしていれば、言葉を発していれば、それだけで環奈は満足だった。幸せになった。

 彼女が傷を負うたびに自己否定と自己嫌悪を繰り返した。




 対して、は、その誰もが環奈の狂気を肯定した。


 十三度目の彼女は、監禁されることに抵抗しなかった。

 三十六度目の彼女は、手錠で繋がれた腕を見て面白いと破顔した。

 四十五度目の彼女は、怒りに吠える親友を抱きしめた。


 調



 ────────そして、五十四度目の放課後。転機は訪れる。



 ◆




 環奈は覚醒すると、ぼやける視界で少女の姿を探す。


「あ、月夜」


 目的の人物に焦点を合わせると徐に立ち上がり、抱き着いた。


「ああ月夜だ。五体満足の月夜だ。ごめんね、もう離れないでね、私の視界から出ていったら許さないから」

「環奈……」


 環奈は「月夜」を己の所有物だと言わんばかりに身体をこすりつけた。自分の言動全てが月夜のための物であり、端から見てどれだけ奇天烈に映ろうとも気にする理性など残されていなかった。


「大丈夫、どこにも行ったりしないわ」

「本当? 嘘じゃないよね?」

「ええ」


 月夜は微笑み、環奈の頭を優しく撫でる。

 環奈ははにかみながら身を捩り、月夜と見つめ合った。


 七月の暮れ。二人きりの教室。


 ひりつく暑さの中で、二つの影は一つに重なる。


 その日以降、少女たちの繋がりが絶たれることはなかった。


 前触れもなく、呆気なく胡蝶の夢は終わりを迎えたのだ。




 ◆




 白に囲まれた小部屋には、黒髪の少女と人影が向かい合って立っていた。


「あら、お久しぶりですね。夢の中に入り込んでくるなんて、如何様ですか我が主」

「…………巫女よ、もう満足したか」

「ええ、それはもう」


 口元に手を当て、黒髪の少女────────篠山月夜はたおやかに笑った。それは、月夜が主神に対して初めて見せる笑顔でもあった。


「儂の力をこんなことに使いよってからに……」

「はて、こんなこととは、何のことやら」

「とぼけるでないわ。自分の死を引き金に魂の疑似的な輪廻を起こすじゃことの、人の身でありながら神にでもなるつもりか」


 苦々しく語る神の言葉に、月夜は無言を返すだけだ。


「自らの凄惨な死を見せつけ、意図的に対象の魂を歪ませる。幾度となく傷められ、流転の輪に放り込まれたの魂は二度と元に戻ることは無いじゃろうて。に愚かなことをしよった。何がそこまで汝を狂わせる?」


 人影は糾弾する。月夜の罪を────────環奈を壊したその真意を。





 篠山月夜は巫女である。


 平安の頃より続く篠山家は代々、魂を司る神に仕えてきた。篠山家の者は自らを依り代とし、神の力を一部行使する。篠山家の当主たちは魂の救済という使命を脈々と受け継いできた。


 末裔である月夜を除いて。




 月夜は歴代の当主たちの中で最も依り代としての器が優秀だった────────つまり、神の力に適応しやすい体質だった。

 月夜の両親はそのことに歓喜し、月夜を甘やかした。月夜もまた両親の期待に沿うように優秀な子であろうとした。

 しかし、月夜が十二の誕生日を迎えた翌月、月夜の父は急逝した。事故だった。さらにその翌月、後を追うように母も病に伏せた。それら一連の出来事は、当時中学生の月夜には耐えがたい環境の変化であった。


 衰えていく母の姿に連れて、月夜もまたやつれていく。

 父が亡くなり、母が伏せたことで貧窮する生活。

 頼れる大人もいない中、彼女の唯一の救いとなった人物がいた。


 森戸環奈。


 月夜の幼馴染であり、数少ないもとい唯一の友人であった彼女は、弱っていく月夜を放っておけるはずもなかった。

 毎日励ましの言葉をかけ、夕食を月夜の家に作りに行き、月夜の母を看病したこともあった。


 月夜にとっての心の支え。

 弱った少女が依存するのは時間の問題だった。


 やがて月日は巡り、月夜と環奈が十四になった秋のこと。月夜の母は息を引き取った。

 安らかに眠る母のかおと、傍で泣きじゃくる幼馴染の姿を見て、月夜は狂気的な本能を自覚した。





「私はただ、環奈が欲しかっただけ」


 月夜はぽつりと、冷めた顔で呟いた。


「母が亡くなった時、正直それほど悲しくはなかったの。大好きだった母の死なのに、私には環奈がいるから別にいいや、ってね。でも、環奈は私だけのものじゃないから、せいぜいが親友止まりで、いつかは私の傍からいなくなるんだろうな、ということも理解していた」


 月夜は目を閉じて回想する。瞼裏に焼き付いた母の死の瞬間を。


「環奈は私の母の死に酷く心を傷めていたわ。涙が枯れるまで泣き腫らして、その後も私の顔を見るたびに泣きそうな顔をして、実の娘である私よりよほど堪えていたみたい。可笑しな話よね」


 月夜が首を軽く傾げるに連れて美しい黒髪が揺れた。


「────────ここだけの話、そんな環奈の姿に……………………すごく興奮したわ」


 薄ら笑いを浮かべる月夜は、呑まれそうなほどに妖艶であった。


「ああ、死んだらこんなにも想われるんだ。その魂に深く深く存在を刻み込めるんだ……これほど素敵なことなんて、なかなか無いじゃない」


 月夜はご機嫌に忍び笑い漏らす。


「母の死後、十四歳の冬に篠山家の当主になり、貴女様主神より力を授かった時からずっと考えていたわ。環奈の目の前で死ねたら、どれだけ素晴らしいか。私が環奈に依存したように、環奈にも私に依存してほしかった。二人だけの世界に閉じ籠れたら、きっとそれは素敵なことでしょう?」


 ────────そのために事故死と見せかけて、何度も目の前で死んでやった。


 堪えきれなくなったのか、月夜はクツクツと笑いを零した。

 対面する主神は狂気を孕んだ独白に、その能面をしかめた。


「それが、汝の狂うた理由か」

「狂っただなんてそんな……始点と終点を定め、魂に記憶と死因の指向性を持たせてループさせるわざを習得するために、狂ったような情熱を注いでいたけれど。長い時間がかかったわ。つい先日できるようになったから……かれこれ二年半は探求していたのかしら」

「まさしくごうよの……我ら神をも凌駕せんとする汝の技量が世のため人のために向かえば、どれだけの魂が救われたことか」

「さあ、そんなものに興味はないわ」


 他人のことなどどうでもいいと、吐き捨てる。


 篠山月夜には森戸環奈がいればそれでよかった。


「して、巫女よ。汝は手の込んだ自殺をしておったわけじゃが、苦しくはなかったのか」

「ええ、苦しいわよ。でも、苦しいのは死ぬ前の一瞬だけだから。死ぬなんてどうということでもないわ」

「魂を司る者が生命を冒涜するか……」

「魂を司るからこそ、冒涜できるのよ。仕組みさえ分かってしまえば死ぬことも生きることも大して変わりのないことだって理解できるから」


 ────────まあ、面白いように事態が進んで環奈は私のものになったし、これ以上ループする必要はないでしょう。もしもあの娘の心が離れそうになったら、その時はまた目の前で死んでやればいいだけの話だしね。


 月夜の言葉を聞いて、神は肩を落とす。手に負えないと、息を漏らした。

 そんな主神の姿を見て、月夜は片眉を上げた。


「こうなることが分かっていたのなら、力なんて与えなければよかったのに」

「阿呆言え。平安の頃より血のちぎりによって汝の一族とは縁切れぬようになっておる。手綱はそっちにあるんじゃ。そのことは汝が一番わかっておろうに」

「そうだったわね……改めて聞いても神なんて大したことないのね」

「ぬかしよるわ……」


 敬意の欠片もない月夜の態度に、主神は小さく舌打ちした。


 会話が途切れたことを合図として、白に満たされた部屋はガラガラと崩れ落ち始める。

 現への帰還。月夜の目覚めが近いらしい。


「……最後に一つ聞かせよ。汝はの娘とどうなりたいんじゃ」

「……別に、一緒にいられればそれだけでいいわ。互いが互いの存在を支配し合うだけの閉じた関係。そこに愛は無いだろうけど、人を想う気持ちに貴賤は無いでしょう?」

「そうか……」


 部屋の崩壊が進み、月夜からは主神の姿が見えなくなる。


「今後、儂から干渉することは無いじゃろう。汝に世継ぎが産まれなんだ時は晴れて儂も自由の身じゃ。気張らんでええぞ」

「御忠告痛み入るわ。でも残念ながら、魂の巫女としての力を行使して私は環奈と娘を作る気満々だから、その時はよろしくね」

「神の力をなんじゃと思うとる……私欲にばかり使いよって。はぁ……実に食えん奴じゃ」


 人影は忌々しいとばかりに言葉を残し霧散する。


 月夜も意識を手放し、想い人の待つ世界へと消えていった。




 ◆




 月夜が目を開けると、目と鼻の先に環奈の顔が迫っていた。


「月夜、起きたんだ」

「おはよう、環奈」


 冷房の効いた薄暗い部屋。棚に飾り付けられた小物は環奈の趣味が色濃く出ている。

 外から差し込む朝日はカーテンによって遮られていた。

 ベッドの上には少女が二人。足錠レッグカフによって結ばれた二人は衣服すら着けず横たわっていた。


「ねえ、環奈。一つ聞いてもいいかしら」

「どうしたの」

「私に好きな人ができたら、どうする?」


 刹那、環奈の表情は強張った。瞳は激しく充血し、ギリリと歯を軋ませる。


「それって、私以外の誰かなの」

「……そうだとしたら、どうする?」

「そんなの許さない! 月夜は私だけ見ていればいいのッ!」


 激情に駆られた環奈は身を起こし、月夜を抑えつける。

 それは愛ではないだろう。魂に刻み込まれた独占欲と執着心。依存。

 環奈の態度に月夜の目元は弧を描く。その言葉を待っていたと言わんばかりに。


「冗談よ。そんなに怒らないで、私には環奈しかいないから」

「そうだよ、月夜には私しかいないの。私だけが貴女を守ってあげられるから。だから、だから────────」


 環奈は怒気を収め、今度は泣きそうな顔をする。


「────────ずっと私の傍にいて」

「ええ、死が二人を分かつまで」


 環奈は月夜の胸元へ顔を沈ませる。月夜の肌を直接感じて、環奈は幸せに満たされた。


 月夜は哄笑を堪えながら、環奈の体躯を抱き締める。




 月夜と環奈だけの歪んだ世界。確かに二人は幸せだった。

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あと何回私が死ねば、貴女は狂ってくれますか? 虹星まいる @Klarheit_Lily

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