僕は彼女の糞になりたい。

蓮池タロウ

第1話 金魚の糞。


(緒方ってさ、本当に金魚の糞だよな)


 ふと、中学の頃の同級生、東堂の声が聞こえてきた。思わずあたりを見渡したが、当然、この通学路を利用するはずがない東堂の姿はない。僕は深々とため息をついた。やはり幻聴のようだ。


 道が登り坂に差し掛かったので、サドルから腰を浮かせて右足一本にぐんと体重をかけ、自転車を左右に揺らしながら登る。大した坂道じゃないが、毎日使う通学路としてはそれなりにうっとおしい程度のものだ。


(緒方ってさ、本当に金魚の糞だよな)


 再び東堂の声が聞こえてきた。いや、これはむしろいいスタートを切ったのかもしれない。僕みたいな常時鬱気味人間でも、高校生活初日にはそれなりにテンションが上がってしまっている。そんな状態で自己紹介なんかに望んだら、大事故を起こしてしまうかもしれない。実際に、中学初日の自己紹介の時の僕と言ったら......ああ、ゾッとする。思わず車道に飛び出しかけたぞ。せっかくのクルマさんが僕のせいで凹むところだったじゃないか、危ない危ない。


 大した上り坂に続いているだけあって、やっぱり大したことない下り坂の先に、大きな水たまりを見つける。僕はペダルを漕ぐのをやめて足をフレームに乗っけた。ザシュッと音を立てて水たまりの上を通過すると、予想以上に上がった水しぶきに、お気に入りのナイキの靴が濡れる。水が靴下まで侵食してくる感覚に、防水スプレーをふりかけたのがだいぶ前だったことが思い起こされる。ああ、クルマを凹ましてしまいたい。


(緒方ってさ、本当に金魚の糞だよな)


 テンションが下がりきったところに、追い打ちの幻聴と同時に、その時の東堂の、僕を見下しきった瞳まで映像として思い出されてしまった。春休み中引っ込んでいた分なのか、今日の幻聴は随分としつこい。こういう時は、下手に抵抗せずに、自分が辛くない程度に受け入れてしまうのが一番というのが、僕の今までの経験則から分かっていることだ。今回もそうするとしよう。


 この東堂の言葉、決して、僕、緒方啓介が、金魚の糞のような薄汚い顔面をしているブスだという意味じゃない......はずだ。自分でいうのもなんだが、顔は決して悪い方ではない。そして嫉妬から暴言を受けるほど整った顔立ちでもない。


 この場合の金魚の糞というのは、『虎の威を借る狐』と似たような意味を持つ。最近では...といっても、あくまで『虎の威を借る狐』よりは最近、という意味だが...『キョロ充』という言葉も同じような意味を持つ。


 つまり金魚の糞とは、権力者の後をひょこひょこと付き従う自立心のない弱者を指す言葉なのだ。金魚の肛門からぶら下がり、金魚の泳ぐがままに水中を揺れ動くその姿は確かにぴったりで、この言葉を考えた人には、恨みこそあれど感心してしまう。


 即ち、この発言の主、東堂は、僕、緒方啓介が、リア充の威を借るブスだと言いたかったわけだ。いやだからブスではないって......ないよね? ちょっと不安になってきた。整形って高校生でもできるんだっけか?


 と、いうことで、当時の僕はそれなりに厳しい言葉を投げかけられたわけだ。喧嘩を売られていると言っても過言じゃない状況、当時の僕はどうしたかというと、それに対してなんの反論もしなかった......しなかったというか、しようがなかったと言ったほうが正しいか。


 そう、僕を表す言葉として、『金魚の糞』はあまりに適切な言葉だったのだ。


 事実、東堂から金魚の糞と呼ばれたあの日も、僕は実に金魚の糞らしかった。


 四限目、美術の授業は自習だった。課題は美術室に置いてある石膏をデッサンするというもので、確か美術部員の女の子が、一時間では大した作品に仕上がらないと愚痴っていた気がする。


 僕は絵を描くのが得意でこそないがそこそこ好きだったので、それなりに頑張っていたのだが、僕の友人たちは違った。三年の春にもなって内申点を気にしない彼らは、適当にデッサンを仕上げると、授業終了の十五分ほど前、人気の三角パンを手に入れるため、購買部に並んでおくと教室を飛び出して行ったのだ。今思えばその三角パンとやらは大した味ではなかったので、そういういかにもな青春ムーブに憧れていたんだろう。


 一人置いていかれた僕は、なんとも居た堪れなくなった。周囲のざわめきが、一人ぼっちの僕を笑っているような気がした。もちろん大抵の人間が僕なんかを気にしていないことは、理屈としては承知している。承知しているはずなのに、僕は怖くなってしまった。特に、自分の真後ろにいた東堂なんかはとても怖かった。


 耐えきれなくなった僕は、クオリティ度外視でデッサンを仕上げることにし、それなりに男前だったギリシャ人の生首は失敗を重ねたパーマ頭になってしまい、大学デビューに失敗したギリシャ人かのようになってしまった。ブランドのロゴがデカデカと入ったTシャツに、アディダスの三本ラインのジャージでも合わせてるんだろうって感じのギリシャ人だ。

 

 その一方、東堂はというと、僕と同じく一人孤独に、しかしその孤独に全く怯える様子もなく、背景にうっすらパルテノン神殿が見えようかというくらい完璧なギリシャ人の生首を描いていた。そのデッサンは愚痴っぽい美術部員のものよりも良い評価を受けていたと思う。


 そんな東堂からしたら、孤独を恐れギリシャ人の大学でのあだ名を『イキリシャ人』にしてしまった僕は、あまりに、あまりに情けなく映ったんだろう。つい罵倒が口をついたとして、なにもおかしい話じゃない。


 東堂だけでなく、僕も相当自分が相当情けなかったらしい。なにせ、その当時の僕は、中学生にしたって酷いくらい、自分を全く客観視できていなかった。自分は特別な存在だと思い込み、自分の明らかな欠点を認識せず、罪悪感すらヒーロー願望の中に組み込んでしまうような、本当にしょうもない人間だった。金魚の糞をバカにするタイプのラノベ主人公なんかに自己投影をしていたくらいだ。そのラノベ主人公のように華麗に否定してみせたかったが、できない。自分が金魚の糞であることをやっと自覚し、人として一皮剥けた瞬間だった。


 剥けたこと自体は良かった、東堂に感謝しなくてはいけない。しかし、自らの意思で剥けるのではなく、例えばお母さんに体操ついでに剥かれたんじゃ、その痛みがトラウマになってしまうことがある。それ以来、学校で東堂を見かけるたび、くだんの言葉を思い出し胸が苦しくなり、それを繰り返しているうちに、東堂がいないときでも東堂の声が聞こえてしまうくらいになっていた。しかし、東堂と進学先を別れた今ですら聞こえてくるというのは、参った話だ。僕のような過敏な息子を持つ世のお母さんがたは、剥くなら細心の注意を払ってあげて欲しい。


 ......しかし、僕の幻聴とやらは僕同様僕に甘いらしく、何かをきっかけに聞こえることが多い気がしていたんだけど。ただただ通学路を走っているだけで聞こえてくるなんて、珍しいこともあったもんだ。


 今日があの時と同じ春で、雰囲気や匂いから記憶が呼び起こされたのか。だったら花粉症と同じで、夏になる頃にはその苦痛を忘れていることだろう。


 僕は大きく息を吐いて、鼻から深く吸い込む。雨に流されたのか、もともとこの街にそんなおしゃれなものがないのか、強いていうなら朝食べた納豆の臭いがした。妹にすぐさま洗面所を奪われた上、それ以降の立ち入りを禁止されてしまったので、歯磨きが甘くなってしまったのが原因だろう。毎朝納豆が出される身としては納豆の臭いに鈍感になってしまっている。気づけてよかった。ちなみにうちの家庭内カーストのナンバーワンは母なので、母が出したものに文句をつけるなんて妹以外許されていない。


 リュックサックからフリスクを取り出したが中身は空。まだ待ち合わせの時間まで余裕はあるし、コンビニにでも寄ることにしよう。


 信号が赤から青に変わった。横断歩道の前に溜まっていた人々が一斉に動き始めた。僕もそれに合わせてペダルを踏み込む。見た目に関する校則が緩い柏葉高校の生徒たちの、派手な後ろ姿がいくつか見られた。あれだけ気合の入った格好をしているのに、漕いでるのはママチャリだと言うことに思わず笑ってしまいそうになるのは僕だけだろうか。

 

 牛乳缶の看板が見えて来た。田舎特有のだだっ広い駐車場に自転車がないのを確認してから、僕は自転車に鍵をかけて、外から店内を覗き込む。柏葉高校のブレザー姿は見当たらない。会ったこともない高校の先輩なんかがいるとUターンしないといけなくなるので助かる。


 店内に入ると、入店音と「いらっしゃいませ〜」との声に迎えられる。僕みたいな人間にそこまでしてもらう必要ないのにな、と申し訳なくなりながら、僕は菓子類のコーナーへと向かう。


 ......しかし、あれだな、本当にあの時の僕は情けなかった......ああ、せっかく上手いこと意識が逸れたのに、ついつい考えてしまう。子供の頃から固まりかけのかさぶたをなんども剥がして傷跡にしてしまったことがあったが、そういうへきが俺にはあるのかもしれない。


 「緒方って、本当に金魚の糞だよな」という東堂の言葉。それに対し僕は「あれ、消しゴムどこいったかなー」みたいな顔して机の下とかをキョロキョロ見て、聞こえないふりをした。そして、当然机の上にあった消しゴムを見つけて、「あ、あった」と小声で呟いたのだ。


 まあつまり聞こえなかったフリをしたわけだが、これのなにがダサいって、東堂の言葉に反応して、一度彼の方を向いてしまっていることだ。そしてすぐさまうつむいてからの三文芝居。混乱してて何が何だか分からなくなってしまったんだろう。そういう時にこそ、人としての格って出るんだと思う。


 ちなみに僕の描いたイキリシャ人は、のちの授業、デッサンの講評会にて、東堂のデッサンの隣に配置、見事に晒されることになる。その代償としてたどり着いた購買部にはすでにそれなりの列があり、三角パンは僕の手前で売り切れた。そして帰宅後はなんとか自分の感情を消化しようとベットの中でのたうちまわり、それを目撃した妹にキモがられた挙句「コイツ、なんかベットの中で変なことしてたよ」と親に報告され無事死亡。その日の食卓は非常に気まずいものになった。ほんと踏んだり蹴ったりだったな。トラウマになったのも頷けるっちゃ頷ける。


 いやしかし、我ながらよくここまで覚えているものだ。まあ、あの出来事が僕のクソ中学生活で一二を争うくらい印象的な出来事だったからな。なんならあの出来事しか覚えてないくらいだ。悲しい。


 しかし、どうせこんなに覚えてしまうなら「緒方ってさ、本当に金魚の糞だよな」の後に「鉛が炎色反応した時の色は淡青色だよ」とか言ってくれてたらよかったのにな、なんて馬鹿げたことを、淡青色のフリスクを見つめながら思う。僕の中で、フリスクといったらこれだ。手に取り、ついでに飲み物コーナーへと向かう。


「おい、緒方!」


 すると、後ろから肩をポンポンと叩かれて、大きく体を跳ね上げてしまった。笑い声に振り返ると、柏葉高校のブレザーを身にまとった男が立っていた。


「お前、驚きすぎだろ! トムとジェリーみたいになってたぞ!」


「......いやいや、驚くだろ普通!」


 僕の頭一つ分高い身長と、その身長に見合っただけの筋肉に威圧されながらも、なんとかリアクションを取る。髪はサイドを刈り上げたソフトモヒカンで、春休み中に染めたらしい茶髪をそのままにしている。顔立ちは、わかりやすく例えるなら、陰キャの彼女を寝取るチャラ男みたいな感じだ。わかりやすさ限定的すぎるな。しかも寝取りチャラ男って漫画じゃ大体のっぺらぼうだし。


 辻真斗。中二の頃に友達になって、今日から通う柏葉高校でも同級生になった男だ......あの日、僕を美術室に置いて行った一人でもある。いや、辻が言い出し他の連中がついて行ったわけだから、実質僕を置いていった張本人だ。


 しかし、最悪だ。辻以外に制服姿は見当たらない。ということは、外面をロクに作っていないこの状況で、一人で辻の相手をしないといけないわけだ。


「お、フリスク。なんだ、口臭対策?」


「......はは、まあそんなとこ」


「お、じゃあチェックしてやるよ。ほら、ハーってやってみ?」


 ええ、なんでそんな両名得しないことを、と思いながらも、拒否権はないので従う。なんで男子中高生って人の臭いをいちいち嗅ぎたがるんだろう。変態大国ニッポンの教育のたまのものだろうか。


「......んー、確かに、言われてみれば臭うかもな。なんだこれ」


「あ、納豆。親が絶対食えってうるさくってさ。健康がどうとかで」


「あー、わかる。俺も毎日まっずいめかぶ食わされるし。そっちのストレスでむしろ健康じゃなくなるっつーの」


「はは、だな......あれ、他の連中はいないのか?」


「ん? ああ、いないよ。集合学校だろ」


 そうだよな......参った。つまり、これから学校に向かうちょっとした時間、僕は辻と二人きりにならないといけないわけだ。


 辻は「今日親が朝飯用意してなくってよ、買いにきたんだ」と説明し、ドリンクコーナーへと向かう。そしていかにも健康に悪そうなエナジードリンクを手に取るので、僕も、特に買う予定のなかったミネラルウォーターを手に取った。


 その後、辻は惣菜のパンを三つほど手に取り、会計に向かった。僕も会計をすませると、辻より先にコンビニを出て、すぐにフリスクを四粒ほど口に放り込んだ。強いミントの香りが鼻腔に広がり、とりあえずホッとする。


 会計を終えた辻がこちらに来るのを見て、自転車にまたがりいつでも出発できるようにする。しかし、辻は自転車のカゴに袋を入れると、その中から毒々しい色の缶を取り出して、「ちょっと限界だから食べてっていいか?」と聞いて来る。先輩も通るこの通学路で買い食いは全くよろしくないし、もちろん二人きりの時間が増えるのなんてもってのほかなのだが、「ああ、了解」と頷く。


 僕、緒方啓介のコミュ力は決して高いとは言えない。事実僕の普段のコミュニケーションの手段は、笑う、頷く、皆と同じことを言い方を変えて言う、が八割。今さっきの何気無いと言ったら過大評価なくらいの会話は、僕にとってはそれなりの会話だったのだ。


 そして、辻真斗のコミュ力も、お世辞にも高いとは言えない。中学で絶対的地位を築いていた彼のコミュ力が高くないのは、不思議な話じゃない。


 グループの中心である彼は、取り巻きが必死に考えてきたであろうすべらない話を聞いて笑ってるだけのことが多い。別に自分がコミュニケーションを取ろうとしなくても、周りの連中がコミュニケーションを成立させてくれるのだ。そんな環境に、多分小学生ぐらいから浸かっていただろう彼のコミュ力が伸びるはずもない。


 そして、そんなコミュ力に問題がある二人が二人っきりになれば、当然生まれてしまうのが沈黙だ。


 僕はすかさずミネラルウォーターの蓋を開け、口をつける。今僕たちの間に訪れている沈黙は飲み物で口が塞がっているのが原因であり、つまり不可抗力であり、気まずいとかそんなんじゃないんだからねっ、というアピールのためだ。僕たちの間に気まずい沈黙が流れているなんてことを認めることはできない。僕たちは仲のいい友達なんだから、気まずさなんかとは無縁でいなくてはいけないのだ。


 もちろん、この気まずさを解消するために、無理にコミュニケーションを取ろうとするのは悪手だ。コミュ力のない人間が下手に無理をすれば、まず間違いなく失敗し、未だ二十代気分の三十代がいきなり運動した時のように大怪我を負ってしまうことだろう。僕なんか、未だに古傷が開いてベットの中で悶え苦しむことがある。精神の傷は、肉体の傷なんかよりよっぽど治りにくいのだ。


 辻の方を伺う。辻は口に当てた缶をちょいと傾けると、しかめっ面をして口を離し、缶をしげしげと眺め始めた。不味かったのか知らないが、そんな余裕こいてないでさっさと片付けてくれ。辻にとっても、今の空気はあんまり気分のいいもんじゃないはずなんだから。


 僕はとりあえずめいいっぱいあくびするフリをして時間をつなぐ。そして、何回もあくびするふりしているうちに自然に出るようになった涙を拭うのにこれまたたっぷりと時間を使った。しかし、それでも稼げる時間は十五秒程度だ。仕方なくポケットからスマホを取り出す。


 現代の学生が気まずい時にする行動ナンバーワンがスマホ構いだということに、異論のある人はいないだろう。つまり、スマホ構いはある意味自分が気まずいとの表明をしてしまう諸刃の剣なのだが、ここは頼らざるおえない。


 溜まったグループLINEを長押しすると、メンバーのうち何人かは既に集合しているようだ。一安心。そのまま既読をつけずに、今度はブラウザを開いてSNSを開く。学生たちのしょうもないツイートや好きでもないYouTuberのツイート、そして彼らのリツイートが目に入ってきて、意味のない情報たちにドッと疲れに襲われた。すぐに閉じる。

 

 しかし、こんな気まずい目にあっているせいか、先ほどまでの東堂との時間が天国のようにも思え、だからか、先ほどの疑問に、新たな答えがふっと湧いて出てきた。


 僕は、金魚の糞を辞めたいのかもしれない。


 先ほど、『僕に、金魚の糞という言葉はあまりに似合っていた』なんて思ってしまったが、それをもし当時の僕が聞いたら、『お前にだけは言われたくない』と怒ってしまうかもしれない。


 僕がこの柏葉高校を進学先に選んだ理由は主に三つ。私立にはいけないのでほぼ百パーセント受かる程度の公立校が良かった。家からそれなりに近い......いや、そんなのは所詮言い訳で、結局のところ、主な理由は一つ、僕がどうしようもないくらい金魚の糞だってことだ。


 中三の夏、サッカー部を引退するまで、辻は勉強らしい勉強を一切していなかった。他の面子、後藤と高橋も同上で、そんな彼らにとって柏葉高校は現実的に手の届きうる中で最高の学校だった。頭髪や服装に対する校則が緩いのも、彼らにとっては魅力的なことだった。


 それから毎日のように、僕たちは集まって勉強をした。最初のうちはそんなことはなかったはずだが、いつ頃か辻がその勉強会のライングループの名前が『目指せ柏葉高校!』に変えていて、そのグループにどんどん柏葉高校を受験予定の男子が入って来たときには、僕もすっかり柏葉高校を目指す一員として扱われていた。その時には、僕も、まあ柏葉でいっかと、いう気持ちになっていた。


 つまり、僕は進学という大きな岐路においても、金魚の糞のように金魚《リア充》たちに導かれる形で決めてしまったのだ。


 東堂からお前は金魚の糞だと言い放たれ、自分が金魚の糞という決して褒められた人間でないことを自覚してなお、僕はその生き方を一切変えることなくここまで来てしまった。結果、こうやって気まずい目にあっている。当然だ。


 金魚リア充の後をついてまわる糞は、もちろん前の金魚リア充に心を許しているわけじゃない。むしろ機嫌を損ねてしまわないかと、いつもビクビクしながら接しているものだ。


 そんな金魚の糞の僕の人間関係は、今や随分息苦しいものになったと思う。なにせ、曲がりなりにも友人と呼べるはずの関係相手にこの有様だ。心を開ける人が誰一人いないというこの状況に、僕は内心限界を感じているのかもしれない。


 そんな僕に現状を伝えるため、僕の自意識が、僕に確実に効く東堂の言葉を使って、僕に金魚の糞をやめろと訴えかけているんじゃないだろうか。金魚の糞さえやめてしまえば、この息苦しさから解放される、自由になれるんだ、と。


 そう、それなら春休み中、東堂が出てこなかったのも頷ける。春休み、辻や後藤が柏葉サッカー部の練習に事前に参加していたから、彼らと会うこともなく、よって僕が金魚の糞ムーブをすることもなかったから......。


 ガシャンッ、という金属音に思考が途切れる。どうやら辻がエナジードリンクの缶をゴミ箱に捨てたようだ。そして、惣菜を包むプラスチックの袋を破いて、目にも止まらぬ速さで平らげると、僕の方を見た。


「うし、それじゃ行こっか」


「ん、了解」


 辻は何事もなかったかのように言う。しかし、僕としては、今の無言の時間が辻にとってなんでもなかったとは思えない。きっと彼の中での僕の評価は落ちたに違いない。


(緒方って、本当に金魚の糞だよな)


 また、東堂の言葉が頭の中で反芻された。いや、これはどちらかと言うと、僕の意思で思い起こしたのか。どのみち、こんな糞みたいな、というか糞そのものな生き方、責められて然るべきなのは間違のないことだ。少なくとも僕は、金魚の糞なんて生き方を肯定している人間と今まで会ったことがないし、それこそ金魚の糞的生き方をしているやつだって、自分が金魚の糞だなんて言われたら、顔を真っ赤にして怒ることだろう。そんな生き方、すべきじゃない。それは分かる。


 しかし、僕がこの生き方をやめることはないだろう。


 僕は辻が自転車を漕ぎ出すのを待って、その後を追従する。こういう時、道が細いと並ばずに済んで非常に助かる。並ぶと会話しなきゃいけない感じするからな。


 学校という場所を水槽の中のアクアリウムに例えた小説だかアニメだかがあったと思うので、その表現を借りてみる。その水槽の中で、残念ながら僕は糞ほどの価値しかない。これは僕の十六年に及ぶ人生で、はっきりと証明されてしまったことだ。一年ほど前に言われた言葉を、未だにひきづっているような脆弱なメンタルからも、それはわかることだろう。


 そんな僕でも、ただ金魚リア充の尻にくっついているだけで、水槽の中を悠々と、しかも他力で泳ぐ頃ができる。なんならそんな僕を金魚リア充の群れの一部だと勘違いしてくれる者さえいる。


 確かに、金魚の糞をやめてしまえば、僕は自由の身になれるだろう。しかし、金魚にくっついていない糞など、飛べない豚はただの豚理論により、ただの糞になってしまう。カエルがお姫様になるようなおとぎ話にだって、糞が金魚になった前例は残念ながらない。糞は結局糞のまま、泳ぐこともできず沈んでいくだろう。息苦しさからの解放を求めた結果、もっと息苦しい水底に落ちてしまうわけだ。それに耐えるだけの精神力が僕にないことは、やはり幻聴が証明していることだ。


 学校に近づくにつれ、柏葉高校の制服姿が増えていく。その間を、新入生でありながら、何の気なしに通り過ぎて行く辻。視線は辻に集まり、僕を見てる生徒なんていない。辻の後ろにいると、一人の時よりも安心した。うん、やはり、僕の居場所はここなのだ。

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