第5話 最後の日
気がつくと、騒がしい大部屋の布団の上だった。既に夜が明け、友人たちは朝食のために食堂へ向かおうと、身支度を始めている。
「何だよ、今日は柄が違うじゃないか」
食堂の入り口には予告通り、引率の教師が待ち構えていた。あらかじめレポートを書いてきた生徒たちは、余裕の顔でそれを手渡し、中へと入っていく。あとでお咎めはあったとしても、皆、朝食にはありつけそうだった。
「若葉くん、菜っちゃんに電話した?」
食事中、桃子が話しかけてきた。
「してないよ。なんで?」
「してあげたらいいのに。きっと心配してるよ」
何を、と聞きかけて、思いとどまる。浮気をしていないかどうかの心配だ。信用されていないという不本意さを感じるとともに、それだけ好かれているのだという嬉しさも浮かんで、悪い気はしなかった。
林間学校の最終日でもある今日、僕たちはまた教師の引率のもと、自然の中を引っ張り回されていた。炎天下の暑さは、都心と比べればまだ楽なのだろうが、
それでも木陰に入ると、風が通って
「何考えてんだよ? 珍しい」
友人に指摘されて、僕は我に返った。
「あんまり涼しいから」
全く、的を射ない返事しかできなかった。何処か遠くへ行っていた心を、
「夕べ、おまえが部屋を出てくとこ見たってヤツがいるんだけど、まさかホントに浮気か?」
女子の部屋に行っただろう、とからかうように言う。僕はようやく笑って、それを否定した。
「馬鹿なこと言うなよ。女子に聞いてみりゃ、解るだろ?」
浮気だったら、面白かったのに。友人はつまらなさそうに言って、乾いた地面にできた木陰に寝転がった。僕も同じように、寝転がってみる。吹き抜ける風は少々強いが心地良く、遥か高いところから降り注ぐ木漏れ日が綺麗だ。ただ、男友達とそんな感動を分かち合う気にはなれず、そのまま目を閉じる。
遠くへ行っていた心が運んできたものは、夕べの記憶だった。
夕方、まだ明るいうちに民宿に戻り、
「あ、菜採?」
繋がると、菜採は
「今から言うこと、黙って聞いてて」
僕はそう前置きした。
「細い一本道の遊歩道を、ずっと歩いた先に、綺麗な池があるんだ。神様が住んでるって言われる、すごく神秘的な池だよ。そこに、長い黒髪の少年がいるんだ。まっすぐな髪をポニーテールみたいに縛ってて、色白で、深い青にも紫にも見える、不思議な色の目をしてる。彼は、名前がないって言うんだ。だから、今まで名乗ったことがないって」
そこまで一気に話して、ようやく落ち着いた。菜採は言われた通り、電話の向こうで黙っている。
「その子の名前をつけてあげようと思って、朝からずっと考えてて、さっき、思い付いたんだ」
僕は、その名前を菜採に告げられなかった。硬貨が足りなくて、強制的に切れてしまったのだ。時間とは意外に高いものだと思いながら、しばらく電話の前に立ち尽くしていたが、気を取り直して最後の夕飯のために既に騒がしい食堂へと向かった。
教師が、明日の帰路の説明をしている。朝食のあとすぐにチェックアウトするから、荷物を夜の間にまとめておくように、と言いながら、原稿用紙を配り始めた。予告は聞いたはずだったが、またかよ、と不満の声があちこちから上がる。
「今朝集めたレポートは酷かったぞ。特に男子。誰が食事の献立をレポートしろと言った?」
そんな生徒が数人いたらしい。心当たりのある連中が、含み笑いをしている。
「今度、献立を書いたヤツは、戻ってから便所掃除をさせるから、そのつもりで書けよ」
ネタがないよ、とぼやきながら、運ばれてきた山菜御飯に目を輝かせる。レポートにしたくなるほど美味しかった。
その夜、何とか真面目にレポートを書き終え、帰り支度も整えた生徒たちは、大半が深夜を過ぎても眠らず、
自然と目が開いたのは、初日の朝と同じく、キジバトの歌声が響く早朝だった。波のように押し寄せるヒグラシの声は、いつも胸を高鳴らせる。それが導く出会いは、不思議で美しく、
僕は身支度を整え、そっと民宿を抜け出した。手には鉛筆と、小さなスケッチブックを持って。向かう先は、神が住むといわれる、美しい池。
既に慣れた道のりを三分の二ほど歩いてきたとき、あの笛の音が聞こえた。すると、すぐ近くの湿地から小鳥が飛び立つ音がして、池のあるほうへと向かっていく。また一羽、また一羽と、羽音だけが遠ざかって行った。僕は、幾重にもかかったベールのような
まだ、動くものの存在しない中に、僕の姿はやけに異質に感じられる。微動だにしない水面にそんな自分を映しながら池の形に沿って歩いていくうちに、笛の音はパッタリとやんで、キジバトの声だけが聞こえた。
今は夜と朝の
「……早かったね。鳥たちが驚いて、帰って行ってしまった」
少しだけ寂し気なその表情に、何だか申し訳ないことをしたような気分になる。しかし、彼はすぐに笑顔を見せた。
「毎朝、ここへ来て水浴びをするんだよ。もうすぐ子が生まれるからと、名前をせがまれた」
まるで相手に言葉が話せるかのように言う。僕は可笑しくなって、
「自分に名前がないのに?」
「それは、若葉がくれることになっているよ」
名前を覚えていてくれたことが、言いようもなく嬉しかった。これが夢の続きでないと確信できた気がしたから。
「ねえ、何か笛を吹いてよ。……こないだみたいに、びしょ濡れにならないやつ、」
僕がそう頼むと、彼は笑いながら
「帰りの道が、安全であるように」
またおいで、とは言わなかった。きっとこれが最後だと知っているから。寂しさが夕立のように押し寄せる中、彼に呼び寄せられた朝日が池の水面を照らし、魚がパチャン、と跳ねた。僕はスケッチブックに書いた名前を、彼に見せる。
「ルナって読むんだ。遠い国の言葉で、月っていう意味があるんだよ」
僕の言葉に、彼は驚いたような顔をした。何か言いたげに見える口元を見つめるうちに、辺りはどんどん、色を取り戻していく。
「それと、この字には
彼は嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり、若葉はおかしな子だ」
「……どうして?」
その問いには、答えてくれなかった。
「良い名を、ありがとう。気をつけてお帰り」
宝石のような瞳を持ち、朝の光のようにけがれなく、月の光のように神秘的な雰囲気を
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