第4話 深夜の池へ
『怖がらなくてもいいよ』
ハッと目を開けると、真っ暗な大部屋の中だった。時計の針はよく見えないが、夜明けはまだ遠そうだ。目が冴えてしまった僕は起き上がって、明かり一つない窓の外を眺めてみる。すぐそこにあるはずの大木も、民宿の前を流れる川も、黒く塗りつぶされて消えていた。
耳を澄ますと、遠くでフクロウの鳴く声がする。闇には闇の世界があり、そこに
意を決して服を着替え、僕はそっと、大部屋を抜け出した。空は再び晴れて、月明かりが人の気配の消えた遊歩道を照らす。立ち止まると、
闇は果てしなく続く。木で作った道も、その脇に広がる湿地帯も、何処を切り取っても同じような景色で、たとえば同じ場所を何度も通っていても、気付かない。そういう時は、一度立ち止まって振り返ると良い、といつか聞いたことを思い出した僕は、思い切って立ち止まった。今歩いてきた道がなくなっていたら。そして再び前を向いたとき、目の前に得体の知れないものの姿があったら。自分一人しかいない広大な闇で振り返ることの恐怖が、これほどのものとは。僕は大きく息を吐き、素早く後ろを向いた。
「……、」
ちゃんと、そこに道はあった。おそらく、今まで歩いてきた木の道だ。それを確認して、再び前を向いた僕は、そこに池の入り口を示す看板を、見つけた。
ゆっくりと池に近づいて行く。静まり返った水面に、
僕は、彼が立っていた場所に
「迷ったのか?」
少年は、僕を認め、そう声をかけた。僕が首を横に振り、自ら、ここまで歩いて来たのだと説明すると、驚いたような表情になった。
「それなら、早くお帰り。帰り道が、闇にのまれてしまう前に」
真顔で、そんなことを言う。僕は今朝のことを思い出し、
「どうして、そうやって追い返そうとするんだよ。今朝だって。……それに、またおいでって言ったのは、そっちだろ」
すると少年は、声を立てて笑った。
「おかしな子だな」
「何がおかしいんだよ?」
「まだおいでとは言ったが、深夜にとは、思わなかった」
まだ、笑っている。僕が
「名前は?」
突然尋ねられて、自分の意志とは裏腹に、口が動いた。
「若葉」
「良い名前だね。春の生まれだとすぐにわかる」
確かに、その通りだった。若葉の季節に生まれたから、若葉。
「君は?名前」
その問いに、答えられない人間がいるとは思わなかった。彼はしばらく僕の目を見つめ、困ったように笑う。
「僕には、名前などない。皆、好きに呼んでいるから」
今度は僕が吹き出した。そんなバカな答えが返ってくるとは。
「そんなに
幾分、戸惑ったような表情に、ますます可笑しくなる。僕は何とか
「だって、名前がないなんて、……じゃあ、僕がつけてあげようか」
冗談のつもりだった。しかし、彼は頷く。
「若葉からもらった名を、次から名乗ることにするよ」
本気で言っているような気がした。祭りの練習にしては、時間が遅すぎることにも、気付いていた。
「……でも、すぐには思い付かないや。一晩、待ってよ。きっと良い名前を考えてくるから」
僕がそう言うと、彼は微笑んで頷いた。
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