第4話 深夜の池へ

『怖がらなくてもいいよ』


 ハッと目を開けると、真っ暗な大部屋の中だった。時計の針はよく見えないが、夜明けはまだ遠そうだ。目が冴えてしまった僕は起き上がって、明かり一つない窓の外を眺めてみる。すぐそこにあるはずの大木も、民宿の前を流れる川も、黒く塗りつぶされて消えていた。

 耳を澄ますと、遠くでフクロウの鳴く声がする。闇には闇の世界があり、そこに相応ふさわしいものが、生活しているのだ。今、起きている自分は、いったいどちらに属するのか。誰に尋ねてもわからないであろう疑問だったが、「彼」なら即答してくれるような気がする。

 意を決して服を着替え、僕はそっと、大部屋を抜け出した。空は再び晴れて、月明かりが人の気配の消えた遊歩道を照らす。立ち止まると、夜露よつゆに濡れた植物たちが静かに呼吸している音が聞こえてくるようだ。寝る前に来た時にはあちこちに感じた暗い気配も、月のしずくに浄化されたのか、今は何処にも存在しなかった。僕は確かに、月に導かれるように、一本道を歩いていった。

 闇は果てしなく続く。木で作った道も、その脇に広がる湿地帯も、何処を切り取っても同じような景色で、たとえば同じ場所を何度も通っていても、気付かない。そういう時は、一度立ち止まって振り返ると良い、といつか聞いたことを思い出した僕は、思い切って立ち止まった。今歩いてきた道がなくなっていたら。そして再び前を向いたとき、目の前に得体の知れないものの姿があったら。自分一人しかいない広大な闇で振り返ることの恐怖が、これほどのものとは。僕は大きく息を吐き、素早く後ろを向いた。

「……、」

 ちゃんと、そこに道はあった。おそらく、今まで歩いてきた木の道だ。それを確認して、再び前を向いた僕は、そこに池の入り口を示す看板を、見つけた。


 ゆっくりと池に近づいて行く。静まり返った水面に、あおい三日月が映り込んでいた。つがいのオシドリの姿は見えず、フクロウの鳴き声が、四方から聞こえてくる。

 僕は、彼が立っていた場所にたたずんでみた。小さな船着き場の三日月が、舟のように見えている。それは誰かを乗せて着岸したものか、それともこれから誰かを乗せて旅立つのか。そんなことを考えていたが、微かな物音に、僕は我に返った。目をらすと、池の対岸に、白く浮かび上がる姿がある。暗闇に浮かぶ白いもの、に良いイメージはなかったが、僕はその白いもののいるほうへ、近づいて行った。

「迷ったのか?」

 少年は、僕を認め、そう声をかけた。僕が首を横に振り、自ら、ここまで歩いて来たのだと説明すると、驚いたような表情になった。

「それなら、早くお帰り。帰り道が、闇にのまれてしまう前に」

 真顔で、そんなことを言う。僕は今朝のことを思い出し、

「どうして、そうやって追い返そうとするんだよ。今朝だって。……それに、またおいでって言ったのは、そっちだろ」

 すると少年は、声を立てて笑った。

「おかしな子だな」

「何がおかしいんだよ?」

「まだおいでとは言ったが、深夜にとは、思わなかった」

 まだ、笑っている。僕が憮然ぶぜんとしていると、

「名前は?」

 突然尋ねられて、自分の意志とは裏腹に、口が動いた。

「若葉」

「良い名前だね。春の生まれだとすぐにわかる」

 確かに、その通りだった。若葉の季節に生まれたから、若葉。安直あんちょくすぎて、説明の手間がはぶける点では、良い名前だと思っていた。

「君は?名前」

 その問いに、答えられない人間がいるとは思わなかった。彼はしばらく僕の目を見つめ、困ったように笑う。

「僕には、名前などない。皆、好きに呼んでいるから」

 今度は僕が吹き出した。そんなバカな答えが返ってくるとは。

「そんなに可笑おかしい?」

 幾分、戸惑ったような表情に、ますます可笑しくなる。僕は何とかこらえて、

「だって、名前がないなんて、……じゃあ、僕がつけてあげようか」

 冗談のつもりだった。しかし、彼は頷く。

「若葉からもらった名を、次から名乗ることにするよ」

 本気で言っているような気がした。祭りの練習にしては、時間が遅すぎることにも、気付いていた。

「……でも、すぐには思い付かないや。一晩、待ってよ。きっと良い名前を考えてくるから」

 僕がそう言うと、彼は微笑んで頷いた。

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