第2話 昼間の池は
「おい、どこ行ってたんだよ? こんな朝早くから。それに、ずぶ濡れじゃないか」
ようやく半数ほどが起き出した大部屋に戻るなり、友人から声をかけられた。僕は生返事をして、差し出された民宿の名前の入ったタオルで顔や頭を拭く。
「
僕の姿に、友人たちはそんなことを言った。民宿の前には川が流れていて、そこにかかる一風変わった橋は観光名所にもなっている。飛び込める深さはないだろう、と笑う者もいた。ずっと雨が降らないようで、見たところ、せいぜい膝くらいの深さだと想像できるが、意外に深いのかも知れない。友人たちがそんな会話を始めて、僕は追求を逃れた。
不思議なことに、あの大雨は池の周囲一キロ四方くらいだけのもので、木の遊歩道を走っているうちに、ぱたりと止んだ。池での出来事は夢だったのかとさえ思えたし、友人たちに話しても相手にしてもらえなかったが、
別室の女子も加えたクラス全員で朝食を終え、いよいよ林間学校の本番が始まった。が、生徒たちはロビーから繋がる売店で足を止め、いきなり出足を
笛と名の付く商品は、いくつもある。動物を
生徒たちが売店の見物に満足すると、今度こそ、外に出た。完全に陽が昇って、避暑地と言えども、充分に暑い。窮屈な制服でないだけまだマシなのだろうが、生徒たちは口々に、暑い、休憩、と二つの単語を繰り返した。
「
木の遊歩道を歩き始めると、教師が注意した。じめじめとした湿地帯の一部と化した足場の木材は、濃い緑の苔に浸食され、その割れ目から平らなキノコが顔を出している。低木や草の
「今から、さっき言ってた池に行くらしいぜ」
同じようにぶらぶらと集団のあとをついていた一人が、僕に声をかけた。
「パワースポットらしいよ。年寄りが行くと、元気になるとか」
俺たちには関係ないご利益だけど、とつまらなさそうだ。しかし、
「おまえが会ったって言うヤツ、俺は女だと思うな。きっと、祭りかなんかの練習してたんだよ。それなら納得いくだろ」
確かにそうだ。長い黒髪も、白い肌も、あの澄んだ声も。どうしてそれに気付かなかったのかと不思議に思ったが、あの時は余計な雑念はおろか、通常の思考回路さえも、まともに働かなかった。それが
早朝に歩いた時は数メートル先までしか視野がなかったが、
林間学校は毎年、夏休みの恒例で、二年生が半強制的に参加させられる。部活の大会があるとか、法事、結婚式の類いの理由以外は、避けられない。ここには小さな民宿しかないため、二クラスずつ期間をずらして、三泊四日の旅だ。
『くれぐれも、浮気しないでね』
クラスの違う
「
「でも、菜っちゃんの気持ちも解るな。だって
真顔で言われて、こっちが恥ずかしくなった。変なこと言うなよ、と僕はわざと歩調を上げて、男友達の集団に
やがて目的地の池に着くと、早朝の神秘的な雰囲気が嘘のように、明るく開けた空間だった。確かに木々に囲まれてはいるが、奥の見えない森というよりは、木立といった感じだ。水面まで覆っていた
解散、と言われても、することがない。生徒たちは再び、腹減った、飯、と口々に言う。飯は民宿に帰ってからだ、と言い返す教師の言葉は最初から予測できていたはずなのに、不満そうだ。
「若葉、黒髪の女を捜そうぜ」
僕の話を聞いた時は馬鹿にしたような口振りだったくせに、皆、その人物に興味があるのは明らかだった。その理由は一つ、見たこともないような美しさだったという僕の感想。
「女と決まったわけじゃないだろ」
「女だよ。若葉はからかわれたんだよ」
もしそうだとすると少々腹立たしい気もして、友人たちの誘いにのりかけた。しかし、桃子の目が怖い。
「若葉くんは行かないよね? 彼女いるんだもん」
当然のように言う。僕も、渋々頷いた。友人たちは僕を一応気の毒そうに
「桃子はカレシ、作らないの?」
取り残された僕はあきらめて、桃子と会話をすることにした。
「好きな子、いないんだもん。大学に行ったら、できるのかな」
全く、幼い。まるで妹のように感じながら、早朝に出会った「彼」を思い浮かべる。年齢も、性別も、実在したのかどうかさえ定かでないことが、あるのだろうか。容姿や声はあどけなく、かなり年下に思えた。しかし、その口調や
幾らか時間が経ち、教師が気を
「裏道を下ったところにある売店で聞いたら、そんな女はいないって。もちろん、男も」
僕はそのセリフに頷きながら、さほどガッカリもしなかった。そんな答えを持って帰ってくるであろうことが、薄々、解っていたからだ。
帰り道、さすがに空腹と暑さで口数の減った一団は、ただ黙々と足を動かすだけになった。行きにはあちこちから聞こえた蛙や鳥の声が、暑さを増長する蝉の声に変わっている。ようやく半分ほどの距離を戻ったとき、民宿のほうから来た家族連れと、すれ違った。何のメロディでもない、オカリナの音が聞こえていたが、
「ねえ、神様って、ホントにいるの?」
小さな子供が
「今も空から見てるよ」
母親がそう答える声が、後ろで聞こえた。今までは気にも留めずに聞き流したであろうその会話が、いつまでも耳に残った。
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