神の住む池
風音
第1話 林間学校
早朝のひんやりとした風を頬に感じて、僕は目を覚ました。
こんな田舎の民宿に泊まるなんて。クラスの大半は、林間学校の本来の目的も知らずに、そう文句を言った。猫の額ほどではないが、充分とは言えない広さの校庭に、申し訳程度に植えられた桜と、地表をまだらに
ロビーから外に出ると、驚いたことに、もう売店は準備を始めている。時間が止まっていたのは、都会から来た高校生たちの部屋だけだったようだ。
僕はその観光客たちを横目に、民宿のすぐそばから始まる遊歩道へと向かった。この辺りは湿地帯で足元が悪く、丸太などを組んで作った足場の上を歩くようになっている。人がようやくすれ違えるだけの幅の遊歩道は意外にがっしりとしていて、僅かにも振動しなかった。僕は何かに呼び寄せられるように、黙々と
「まただ」
今度は確かに、笛の音が聞こえた。一キロほど先に見える、ひときわ大きな木の群れの向こう側から聞こえたようだ。僕の記憶が間違っていなければ、池はその辺りのはず。植物の
木々に囲まれているせいか、そこだけひんやりとして、ごく薄い、湿った絹が素肌にまとわりつくような感覚。木々に囲まれた池の神秘的な空気に圧倒されていると、今まさに朝日がうっすらと射して、静まり返った水面を照らす。パチャン、と水音を立てて小魚が跳ねた。すると、それを合図にしたかのように、辺りは急激に生き物の気配を取り戻し始めた。
草を踏む微かな音がしてその方を見ると、ようやく顔が解るほどの距離を隔てて、一人の少年が佇んでいた。長い黒髪を頭の高い位置でまとめ、
少年は、僕の存在を認めて、近づいてきた。近づくほどに、鮮明になる美しさ。美しすぎて目を背けたくなった経験は、これが初めてだった。
「おはよう」
まだ声変わりのしていないような、幼い声で彼は言った。条件反射で、おはよう、と答える。
「怖がらなくてもいいよ」
そんな意外なことを言われて、僕はただ、彼の澄んだ瞳を見つめた。
「怖がってなんか、ないよ」
僕はやっとのことで、そう言い返した。
「そうかな。怖がっているように、僕には見えるけど」
根拠は、あるのだろう。恐怖というより、美しさに対する敬意のようなものが心を占めている。
「どうしてここへ?」
こんな時間に、こんな場所にいる。それはお互いさまなのに、彼が先に、その質問を投げかけた。
「……笛の音が聞こえて。ここから聞こえたような気がしたから」
まるで、自分の意志とは関係なく、そう口にしていた。心から、言葉を盗まれたような感覚だった。僕が
「笛というのは、これのこと?」
彼は
「また、おいで」
演奏が終わると、彼は優しい表情で、そう言った。押し寄せてきた記憶の川はそのまま流れてゆき、やがて見えなくなってゆく。ただ呆然としてそれを見送っていたが、突然木々の葉を叩く音がして我に返った。何の前触れもなく大粒の雨が降り出したのだ。池の水面からも、
「ここに雨宿りをする場所はないよ。気をつけてお帰り」
雨を呼んだのは、彼自身なのだろう。叩き付けるような雨に構うことなく、ゆっくりと歩いて、森の奥へと姿を消した。僕はその後ろ姿を、夏の生温い雨の下で、ずっと見つめていた。
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