深紅の紋章 ヴァンパイアの花嫁と失われた遺産
矢芝フルカ
1章 連続変死事件
1話 序章
序・1
開け放たれた窓から、青白い三日月が夜空を細く切り抜いているのが見える。
豪奢な寝台に身を横たえて、
口元に蓄えた髭は真っ白であり、顔じゅうに刻まれた深い皺は、彼の長年の労苦を物語るようである。
大理石の小机に置かれた金時計が真夜中を示し、通りを行く馬車の音も、すでに聞こえはしない。
蜀台の蝋燭も燃え尽きて冷たくなっていた。
広い寝室は闇と静寂に包まれ、開いた窓の辺りだけが、差し込む月明かりで仄かに明るいだけであった。
その微かな光を遮ったものに、老爺は落ち窪んだ目を精一杯に見開く。
人影であった。
いや、闇の中にさえ鮮やかに輝く深紅の
だが、老爺は嬉し気に目を細めた。
「・・・来てくれたか」
枯れた声に応えてか、部屋に降り立った者は寝台へと近づいた。
「呼び出すのならば昼間に人を遣ってくれ。あの手は無駄に疲れる」
その者は寝台の老爺を見下ろしながら、壁の方を指差した。
「すまないが灯りをつけてくれ。お前は闇でも目が利くだろうが、私にはお前が見えん」
弱々しい声が終わらないうち、ひとつ指を打ち鳴らす音と共に、火の気の無い蜀台から炎が立ち上った。
「ああ、テレンス。お前だ」
老爺は浮かび上がった姿に、柔らかい笑みを向ける。
若い長身の男であった。
羽織っている
艶やかな黒髪の隙間から覗く瞳は、妖しい深紅では無く、落ち着いた藍色に変わっていた。
「何用だ?ジャック」
テレンスと呼ばれた男は、手近な椅子をズルズルと引き寄せて、腰を掛けた。
その様子に、老爺は小さく笑う。
「
「言っただろう、あれで呼び出されると消耗するんだ」
「久しぶりに描いたが、きちんと間違わなかったようだ。こうしてお前が現れたのだからな」
老爺が目を向けた壁には、大ぶりの鏡が掛けてあった。
その表面に、赤黒い文様のようなものがひとつ、大きく描かれている。
「わかるだろう、私はもう長くない」
老爺の呟きに、テレンスと呼ばれた者は眉根を寄せた。
上掛けから出ている手は、枯れ木のようだ。
畳まれた皺の奥にある小さな瞳で、老爺はじっと彼を見つめた。
「
老爺はにっこりと笑いかける。
「テレンス、お前とは本当に長い付き合いだった。最期にどうしても頼みたい事があったのだよ。聞いてくれるな」
「ジャック、それは・・・」
彼が言いかけた言葉に割り込んで、老爺は声を上げる。
その声音は先ほどの掠れたものではなく、堂々と力強いものであった。
「ミセリコルディアのヴァンパイア、盟主テレンスに願いたもう。我、ジャック=ウィルトンと契約を結びたまえ。
小刻みに震える手は、それでもしっかりと自分の胸の上に置かれた。
その瞬間、稲妻のごとき光と衝撃が部屋を走り、渦巻く突風が轟音を立てて、テレンスと呼ばれた者のクロークを巻き上げる。
部屋を駆けぬけた閃光は彼へと集結し、紅い光となって足元にひとつの文様を描き出す。
様々な模様の中に浮かぶ
それは鏡に描かれたものと同じ図であった。
「・・・何が望みだ?ジャック・・・」
紅く光る文様の上に立つ彼の瞳もまた、深紅に輝いていた。
序・2
「これで4人目か・・・」
石畳に転がる死体を睨み付け、男は呻きにも似た声を漏らした。
そろそろ40を過ぎるかという年頃、ボサボサの頭に薄汚れたコートをずるりと引っ掛けた男は、この街の治安を護る警部である。
ガス燈の灯りの下、白い裸体をさらす死体は、うら若い娘であった。
人目に付き難い裏通り、夜も更けた時刻だとはいえ、集った野次馬が好奇の視線を向けている。
男はコートを脱ぐと、膝を付いて娘にそっと掛けてやった。
「バート警部」
呼ばれて振り返る。
若い警官が走り寄って来た。
「この娘の身元が判明しました」
手渡されたメモを見て、男、バート警部は顔を曇らせる。
17歳の商家の娘だ。「野次馬の中に顔を見知った者が居たようです」と、警官が付け加えた。
いつも通り・・・というのも気が重いが、娘の家への連絡と聞き込みの指示を飛ばす。
そしてバートはぐるりと辺りを見渡した。
やはりこの現場も、死体以外は何も残されてはいないようだ。
掛けたコートを少しだけめくって、死体の様子を確認する。
詳しい事は医者の診立てが必要だが、見る限りでは、前の被害者たちと同じ状態らしい。
血を失って死んでいるのだ。
体内の血液を大量に失っての死亡。
なのに、死体には傷も無く、血の流れた痕跡すら無い。
死体は綺麗であり、争ったり拘束されたりしたような痕も無い。
まるで置き去りにされた人形のように、道端に横たわっているのだ。
ここ2ヶ月ほどの間に、同じ年頃の娘ばかりが同じように死んでいた。
それも皆、歓楽街の裏路地や裏通りという狭い範囲で、時間もほぼこの夜更けの頃に発見されている。
全裸でありながら衣服などが周囲に無いため、別の場所で殺害されて運ばれたと考えられるが、目撃者が居ないのだ。
表側に比べればガス燈も少ない裏通り。
とはいえ、いざ死体発見となれば、こうしてわんさと人が集まって来る。
それなのに怪しい人物を見たという話はおろか、馬の蹄や、馬車の車輪の音を聞いた、という話も出て来ない。
発見者からも「
ふぅと溜息をつく。
せめてここらで解決の糸口を掴まなければ、警察の威信にかかわるだろう。
だが・・・。
「ヴァインパイアだよ」
野次馬から上がった声に、バートは顔を上げた。
「ヴァンパイアの仕業だよ」
「やっぱりウィルトン様のところにヴァンパイアが居るんだよ」
声はさざ波のように広がって行く。
それをかき消すかのように、荒々しい早馬車の音が表通りから聞こえてきた。
警官が「道を空けろ!」と、がなり立てる。
どうやらこの娘の家人か、医者かが到着したようだ。
たちまち野次馬たちが散って行き、バートも立ち上がってこちらに入ってくる馬車を見守った。
その時、ガス燈の灯りも届かない建物の狭間で、
To be continued.
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