違和感しかない家族関係
私は3人兄弟の末っ子、兄2人と妹の私でした。
私自身は記憶していないのですが、当時会社を経営していた我が家は、仕事で親も祖父母も大変忙しかったようです。
母は、私が産まれた時、「やったー!女の子だ!!」と、出産の痛みを忘れるほど喜んでくれたようでした。
兄2人で、母は余計にずっと女の子がいい、と看護師や医師に話していたそうです。
私が産まれた病院は、当時性別を言わないという方針の病院で、余りにも女の子がいい、と母が言うので医師たちは話してしまおうかと思うくらい女の子を望んでいたようです。
出産後、母はたくさん遊んだり育児に専念したかったようですが、何せ仕事が忙しく、ベビーベッドで寝ている私に毎回「仕事してくるね」と言っていたそうで、赤ん坊の私は一切泣いたりせず当時はすごく物分りのいい子、というのでしょうか。
言ってしまえば手の掛からない子だったそうです。
当時会社が繁盛していたこともあり、他の社員や家族が一丸となり努めていたようですが、何が原因かは今も知らされていませんが結局経営は傾き、倒産することになりました。
社員に最後のお給料を渡し、必要最低限の物を持って母の住んでいる地域に夜逃げという形になるのでしょうか(小さな抵抗をすると 昼逃げになります(笑))
父も地元から離れて母が住んでいる地域に大学生として一人暮らししていたこともあり、そちらに移ることになりました。
しかし、会社は倒産、借金、幼い子どもたち、そして夜逃げという形にもなったこともあり、今までとは全く違う生活に変わりました。
住んでいる家も転々とし、贅沢な暮らしなど一切出来なくなり、当時は死ぬ事まで考えたほどらしいです。
ですが子どもの存在が救われたのでしょうか、決して楽ではない生活でしたがなんとか生活はしていました。
少し話は遡りますが、当時母が父と出会い、結婚の話が出た時、母方の父(私の祖父に当たります)は猛反対したようです。
旦那はまだマシだとする、だけどあの親は問題だ、特に父親はかなり苦労することになる。
そう言われたようです。
当時母方の母(私の祖母に当たります)は祖父とは離婚をして、私も会ったことがありますが、当時籍を入れた方と一緒に住んでいました。
そしてその結婚相手も問題でした。
結局祖母が亡くなった時、最期のときも滅茶苦茶、遺産を全て持ち逃げ、音信不通となりました。
昔母にその話を聞きましたが、当時の結婚相手は、祖母が不調を訴えても病院にも連れていかず放置。
話が飛躍しますが私が小学生の頃末期の膵臓癌の祖母に会った時、腫瘍が酷く足もパンパンに腫れ上がり、見ていられないほどでした。
祖母は最期、母に結婚相手の墓には入りたくない、と言っていたそうです。
しかし母は今まで我慢していたからでしょうか、初めて声を荒らげたようです。
今まで勝手なことをしていて今更なんだ、と言ったそうです。
当時、片親というものに偏見を持たれていた時代だったので母や母の弟(私の叔父に当たります)も色々思うことはあったのかもしれません。
話は戻り、結局母の地元に戻った時、祖父は何も文句1つ言わず「戻ってこい」と言ったそうです。
祖父は厳しい人でしたが、一本筋が通っているような人でした。
誤診により片足を切断し、義足を履いていました。
何一つ愚痴も漏らさないような強い人でした。
それに比べ、と言うと言い方は悪いですが、父方の祖父母は嫌味、悪口、孫に対する嫌がらせやそれはもう自分勝手な行動ばかりでした。
人を否定ばかりし、陰で言い、他の人には良い顔ばかりするような人でした。
母ももちろん大事な一人息子の嫁だった訳ですから、愚痴や嫌がらせはもちろんのことありました。
仕事をきちんとこなし、それに同居もしていたのですからそれはもう気を遣うことも多々ありました。
それでもたまにの休みに友達と遊びに行くことになっても「遊び呆けてばかりいる」と言われたり、私が幼稚園から中学生まで、毎日毎日陰口を言われているのをずっと聞いていました。
実の母が陰で色々悪いことを言われていると、やはり子どもは嫌な気持ちになります。
それに部屋が狭かったため、祖父母、私と3人で寝ていたのでそれはもう耐え難いものでした。
兄2人は恐らく気付いていなかったのかも、しれません。
当時幼稚園の頃、私は生まれつきの気管支喘息を持っていました。
吸入器が手放せず、ひどいときは吸入器を吸っても良くならず、呼吸もままらない程でした。
定期的に病院に通っていたので今は完治していますが、喘息が治まらないときに見た、1人で母が泣いていた姿を今でも忘れられません。
何故か喧嘩も耐えなく、母が滅茶苦茶に言われているのも日常的に見ていました。
何故そこまで母を責め立てるのか、私はいつも祖父母、父に「もうやめて!」と泣きながら何度も懇願していたのを覚えています。
結果、幼稚園の頃夜に母と近くのスーパーに行き、大好きなアイスを買ってもらって兄たちと食べよう、と思い手を繋ぎながらお話をしながら帰った夜、父が母をどつき回しているのを見ていました。
お前、浮気してるだろ、と。
テンパってしまい、止めることも出来ずあたふたしていると、2人は外に出ていきました。
必死に探し、姿を見つけましたが知らない男性と3人で外で話していました。
それを見た兄は、もう家に帰ろう、と無理矢理帰らされました。
それ以降、母が家に帰ってくることはありませんでした。
ですが私は小さいながらに腑に落ちない部分がありました。
当時、今思えば駄目なことなのですが、父がお風呂に入っている時に何気なしに携帯を見たのです。
すると、早く会いたい、とハートマークがたくさん付いているメールを見てしまったのです。
幼稚園という小さい子どもですが、見てはいけないものを見てしまった。
動揺を隠せなかったのかもしれません。
それから毎日、父の携帯を見るようになり、とうとう見ている姿を母に見つかりました。
結局、父も浮気をしていたのです。
ですが母は家族を考慮し、近くの公園で話したそうです。
それなのに。その気持ちが大きくなった反面、自分のせいで、という罪悪感があったのを覚えています。
母と会えなくなり、長男とは別居(未だにそれは何故か分かっていません)、そして毎日の悪口、雰囲気の悪い家庭。
そしてこれも何故か分からないのですが、ある日次男と私は祖母に連れられ外に行きました。
すると、もうここにいなさい、と言ったのか、それは定かではないのですが2人とも何時間か放置されどこかへ行ってしまいました。
小さいので慌てますし泣きます。
それでも来ない。
結局来てくれましたがあれは一体何のために?と思います。
幼稚園の卒園式、小学校の入学式。
周りは若いお母さん方ばかりなのに私はおばあちゃん。
写真を見てなんで私はお母さんじゃないんだろう、と思っていました。
小学生の低学年はかなり内気な性格で友達も最初はいませんでした。
私は覚えてはいないのですが、母の親友に私に会いたい、と泣いていたそうで学校の帰りに帰っていると母と親友が待ち伏せをしてくれていて、泣きながら「学校頑張ってるの」と色々ノート等を見てくれたそうです。
母は、私が小学校2年生の時に戻ってきてくれました。
長男も転校にはなりましたが、戻ってきてくれたのです。
しかし祖父母の陰口は相変わらずでした。
掃除をしているときに写真やメモ帳を見つけた時、孫の顔が黒く塗りつぶされていたり、訳の分からない愚痴のようなメモも見つけたことがあります。
当時、母の弟の、私からすると叔父は結婚したのですが、従兄弟はいました。
ですが兄の方は脳麻痺で産まれ、車椅子生活を余儀なくされていました。
弟は身体的ハンデはありませんでしたが、私からすると従兄弟は従兄弟。
それも祖父母は悪く言っていました。
ありもしない、叔父の嫁がシンナーを吸っていたとか、意味の分からないことをぶつぶつ言っていました。
叔父も離婚し、それ以来20年ほど従兄弟には会っていません。
しかし今はFacebookの時代。
前妻さんと連絡を取ることが出来、兄は福祉の大学に通い、頑張っているとのことです。
弟はきっかけがあり、鬱になってしまったようですが今は非常勤講師をして頑張っているようです。
いつか再会出来たら、と願っています。
当時、母が友達と会う時に私を連れて行ってくれていましたが、「こんにちは」と言われても人見知り程度ではない程の挙動不審になり、人を伺うような目で見ていたそうです。
結局、祖父母は私が今考えても決して良い祖父母ではありませんでした。
小学校中学年の頃に少し祖父に性的なことをされたこともあったり、それ以来祖父母を軽蔑するようになった自分もいました。
やはり暴力的な一面があった父は、兄をもう死んでしまうんじゃないか、と泣いて母が止めるほどどついているのを見たり、喧嘩はやはり絶えず、毎週日曜日に兄たちの野球の付き添いに行かないほど人と関わるのが嫌になっていましたが、家にいても悪口のオンパレード。
居場所なんてないと思っていました。
学校ではだんだん学年が上がる毎に積極的になり、委員会や劇の主役、宿題や読書、そういったことを頑張っていたと思います。
対人関係はまぁまぁ良好なほうで、ですが嫌なことがあるとすぐに図書室へ入り浸り、毎日毎日読書をしていました。
良好と言っても正直学校が終わって遊びに行く、というのが苦手でした。
誘われることもあまり無く、思い返すとやはり友達にも気を遣っていたのかもしれません。
ずっと1人で何故こんなに家族仲が悪いのか、家族で旅行や遊びに行った記憶なんてなく、永遠と愚痴や喧嘩を目にしていた様に思います。
家族を恨んだこともありました。
私は必要な子なのかなという疑問も常にあり、母方の祖父母は若くして亡くなったので、小さいながらに死んだらどうなるんだろう、ここから飛び降りたらどうなるんだろう、という考え自体はありました。
高学年の頃、長期休みの時に微熱がずっと続き、体も心もしんどい。涙も出る。
誰からも誘いの電話がない。
固定電話なので自分から掛けるのも、遊びを断られるのも嫌だからという理由で自分から誘うこともありませんでした。
結局総合病院で精密検査をすると尿に蛋白も降り、ストレスだということも分かりました。
乗り物酔いも酷く、学年で田舎に行って1泊して学ぶ、という行事も激しく嘔吐し、脱水症状になるほどだったので結局病院に付き添いの看護師さんと行ったり救護室で寝ていたためキャンプファイヤー等の行事も参加出来なかったのを覚えています(笑)
とにかく家族仲は悪く、祖父母が問題だったので勉強を頑張ったり委員会に入ったり読書に明け暮れていました。
読書は趣味でしたが、どこかで色んな面で褒めてほしい気持ちもあったのかもしれません。
父は怖く、母は色々言われている、祖父母は変な祖父母だという認識しかなく、兄2人とは仲が良かったですがとにかく当時の私は小さいながら大人は怖いものだという考えになっていたのかもしれません。
先生に褒められるのが1番嬉しかったのを覚えています。
家族がバラバラ、という考えしかなかったのであまり人に自分の話をするのが得意ではなかったですが、ただ委員会活動などは楽しかったと思っています。
長々と家族関係のことを書きましたが、幼少期はこのような感じでした。
次回は中学生以降のことを書かせて頂こうと思います。
長文、読んで頂きありがとうございました。
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