第5話 ママの異変を感じた日

忘れもしません。

2006年秋。


独身時代から宝塚ファンだったママは、東京宝塚劇場になら、目を瞑っても通えると豪語していました。生粋のファンであるママの観劇スケジュールはかなりパワフルで、公演期間中は観劇しない日も入出待ちに行ったり、急にチケットが取れて出かけて行ったり、お茶会もあるしで毎回多忙でした。

そりゃあ、劇場までの道のりに詳しくもなるはずです。

通勤(?)時間帯の時刻表も完璧に暗記しているくらいでした。

それなのにあの秋の日、いきなり家に電話してきたのです。

「駅で待っているのに、電車が来ない」と。


家にいた私は、「? なんで?」と、首を傾げました。

乗り換えの津田沼駅は、時間によって電車の来る番線が替わることがあるのです。4番線に電車が来るときもあれば、3番線に来ることもある。全部、駅の提示版に出るし、時刻表にだって書いてあります。

それを承知しているママなのに、電車の来ない4番線でずっと待っていて、途方に暮れて電話してきたのです。3番線に移動することもせず、駅員さんに聞いて見たりもせず。

たぶん、30分くらい。

そのあとうちに電話をしてきて、ようやく電車に乗ることができたわけなのですが。


その前後、私は宝塚友達からも連絡を受けました。

「ママさんが、帰り道がわからないと言っているので駅まで連れて行った」。


…。

家で言い間違いをしたり、ちょっとしたミスをする以外の、初めての「おかしい」と感じた出来事でした。

なのに、私はそのとき、さほど衝撃を受けませんでした。

父が持病のため入退院を繰り返していた時期で、ママが疲れて、しょちゅう、ぼーっとしているのを知っていたからです。(伯母の家に行く途中、新幹線の中で、携帯電話をなくすという事件を起こしたこともありました。そのとき、ママがあまりショックを受けていないというか、どこか他人事のように話すのが気になりましたが)

ですが、さすがに外でそういう風になるのはおかしい。


決定的なのは、その数日あとのことでした。

その日は私も一緒に観劇するため、出かけました。ママはいつも通りちょっとおしゃれをして、わくわくしていました。いつも通りです。本当に、いつも通り。

公演の休憩時間にエントランスでお友達と落ち合い、飲み物を飲んで、お喋りをして、ショーが始まる前のベルが鳴って、席に戻ろうとしたそのとき。

「ねえ。これからどこに行くの?」と、ママがきょとんとした顔で聞いてきたのです。

「ショーが始まるんだよ。席につかないと遅れちゃうよ」と反射的に返しましたが、びっくりしました。

「そこで、何をするの?」と重ねて聞くママは、一瞬、自分がどこにいて何をしているのかわからなくなっていたのでしょうか。


(ショーが始まるってことが、わかってない…?)

10代からずーっと宝塚ファンの、筋金入りのママが???


別々にチケットを取っていたので、私は慌ててママを席に連れて行き、それから自分も開幕ぎりぎりのタイミングで着席しました。

席に座った途端、私は全身の血が落ちるような、ぞっとした感覚に襲われました。

ママがおかしい。

父親が精神病を患っていたので、ママのそのときの表情に見覚えがありました。

(あの顔つきは変だ)

(あれは、何もわかっていないときの顔だ)

ママの中で、明らかに異変が起こっている。


今すぐにでも連れて帰って、病院に連れて行くべきかもしれない。

そう思いましたが、次の瞬間辺りからしばらくの間、私は失神していたようです。ショーの中盤辺りまで記憶がないし、隣の人にそっと腕を突かれてはっとしました。

「大丈夫ですか?」

小声でそう聞かれ、なんとか頷いたのを覚えています。

でもそのあとも何度か記憶が飛びました。


幕が下りて、ママやお友達と合流したとき、普段と変わりないように見えました。先ほどとは顔つきが違い、いつもの様子に戻っていました。

だから私は、そのとき一緒にいた親友の親子に何も言えず、第一何をどう説明したらいいのかわかりませんでした。

帰りの電車の中でも頭がくらくらして立っていられませんでした。貧血を起こしたのか、しゃがみ込んでしまいました。


家に帰り、兄にこのことを話しました。これはまだきっかけ。

これから起こる大変なことの、ほんの序章に過ぎなかったのです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る