ママへの手紙

河合ゆうみ

第1話 タイムマシンに乗りたい

「今朝ね、夢にあんたが出てきたのよ。小さいころみたいな声で、『ママ、がんばろうね』って言ってたの」


数年前、母は不明熱や偏頭痛で体調を大きく崩し、寝込むことが一気に増えた。それまでほとんど病気らしい病気をしたことがなかったから、不安だったのだろう。ちょうど父が入退院を繰り返している時期で、そのストレスだろうと皆思っていた。

そんなときに、唐突にこう言われた。そのときの母の声や表情が今でも忘れられない。


それは、予兆だったのかもしれない。

――タイムマシンに乗りたい。

母が天国に籍を移して数年経って、私はそう思う。願う。


母はその後認知症のような症状を見せ始め、みるみるうちに悪化していった。たった一カ月の間に通い慣れた道で迷うようになり、洋服の着方を忘れた。小さなこどもに返ったみたいに兄や私に頼り切り、お風呂やトイレも介助が必要になった。

やがて、子どもたちの名前も忘れてしまった。

はじめは若年性認知症、てんかん、多発性脳梗塞――さまざまな病気の疑いがあった。入院して徹底的に調べてもらった結果、病名がわかったのと余命宣告が同時だった。

孤発性クロイツフェルト・ヤコブ病。今まで聞いたこともない名前だった。

「今現在、治療する方法もなければ、何故この病気になったのかもわかっていません。余命は数か月先の保証もできません。急変があることも覚悟しておいてください」

つまりは、明日をも知れぬ状態というわけだった。

母が不治の病に罹るなんて想像もしたことがなかった。余命宣告なんて到底信じられなかった。

でも。


ものすごい速さで弱っていく母を見て、やっと病名がわかって、納得できた。

ママがこんなに衰弱してしまったのは、この病気のせいだったんだ――と。


それから毎日、今日は生きているだろうか、明日は息をしているだろうかと気が気でない日々が始まった。なにせ治療法がないのだから、何をしたらいいのかわからない。できることは、顔を見に行くことだけ。そばについて手を握っていることだけ。

病室を出るたびに、生きている母と会えるのはこれが最後かもしれない、と覚悟する気力が必要だった。


母は余命宣告を振り切って8年頑張った。ものも言えず食事もできず、身動きもできない。意思表示もできない。

でも息をしていて、触るとあたたかい。それで充分だった。ただ生きているだけでいいから、死なないで。何度も言った言葉は、きっと聞こえていたはずだ。


最後の数年は胃ろうが体質に合ったのか顔色が良く、痩せ細った体に肉もついて、一時期ダイエット用の胃ろうに置きかえられるくらいだった。

私は、母はもしかしたら治るんじゃないかと期待していた。

母がこうして頑張っている間に、薬が発明されるかもしれない。病名を知ってから、ずっとそう願い続けていた。


母は母らしく戦い抜いて、穏やかに息を引き取った。死に顔は綺麗で、娘の目から見ても美しかった。葬儀の席で、親戚やご近所さんやお友達、皆から褒めてもらえたくらいだった。


この病気の特効薬はまだできていない。2019年現在の医学でも、この病気を治すことはできない。


タイムマシンに乗りたい。

タイムマシンに乗って、あの朝の母の夢に行って。

「がんばろうね」と言うために。

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