夏空列車

梅宮香緒里

第1話

「なんか面白いことないかなー」

大学のレポートを書く手を休めると、思い切り伸びをする。朝から約4時間座り続けて固まりきった背中が、嫌な音を立てる。

机の前の壁にかけられたカレンダーにつけられた赤いバッテンが、今日が夏休みが始まって4日目であることを告げている。

「早く終わらせすぎたかな…」

横に無造作に置かれた検定用のノートを手に取り、パラパラとページをめくる。赤丸が多くつけられたそのノートは、あっという間に最後のページまでめくられてしまった。

「二度寝しよ…」

冷房のタイマーを延長し、ひんやりとしたベッドに潜り込み、そのまま目を閉じた。エアコンが冷気を吐き出す音が子守唄のように、私の頭に響いた。


「朱音ー?昼ごはんはー?」

冬の夢を見ていた私は、ドアを叩かれる音で目が覚めた。若干寝ぼけたままの声で食べると伝えた私は、隣においてあった携帯を取り上げた。いくつか来ていた通知を消しているうち、ある一つの通知を消そうとしたとき、私の指が止まった。

「夏空列車へのご招待…?」

開いて差出人を見てみたものの、見に覚えのない名前だった。

詳しいことはご飯食べてからにしようと決め、私はスマホをオフにした。


「この日、確か暇だったはず」

昼ごはんを食べた私は、部屋に戻り、例のメールの画面を呼び出した。ところどころ埋まっているカレンダーは、その日だけきれいだった。

丸つけに使ってそれ以来、芯を入れるのを忘れていた赤ペンを取り上げると、カレンダーの四角い枠に「夏空列車」と書き込んだ。



「まもなく、2番線に回送列車が参ります。ご乗車いただけません。ご注意ください。」

メールに指定された日。私は小さなカバンを一つ持ったままで最寄りの駅のホームに立っていた。私の他にもおそらく旅行にいくのであろう、スーツケースを持った人がちらほら電車を待っていた。

『10時25分に2番線に入ってきた回送列車の一番先頭に乗ってください。』

「回送列車に乗れって言われても難しいんだけど…」

目の前には、騒々しい音を立てて少し古ぼけた電車が滑り込んでくる。甲高いブレーキ音とともに私の目の前に止まった車両の扉が開き、車内の電気がつく。

「西條朱音さんですか?」

夏なのに制服をきっちりと着た若い男の車掌が私に問いかける。少し戸惑いがちに頷いた私を、彼は車内に誘った。

「この電車は西條様の貸し切りでございます。どうぞお好きな場所へご着席ください。」

「ありがとうございます。」

一応軽く礼を言うと、私は車両の真ん中ほどの窓際の席に腰をおろした。

私が座るのと同時に電車は動き始めた。止まるときの音とは比べ物にならないほど静かな発車だった。


川端康成の「雪国」という小説の冒頭に「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という有名な一文がある。読解力のない私は、トンネルを抜けた先が雪国であろうが南国であろうが、そんな良さなど文章からは読み取れなかったが、この時ばかりは一瞬かの小説の登場人物の気持ちがわかった気がする。

最寄りの駅を発車した列車は、しばらくは見覚えのある風景を走っていたものの、ふいに長いトンネルに入った。5分ほどトンネルの中だっただろうが、抜けた先は、夕暮れ時の田園風景だった。

「西條様。間もなく終点でございます。お支度願います。」

例の車掌が靴音も立てずに私のところまで来ると、そう言った。おそらく絨毯だったから足音がなかったのだろう。

「ここ、どこですか?」

「お降りになればわかります。帰りの電車は1時間後に同じ駅に参ります。それまでにお戻りください。」

淡々と事務連絡だけ伝えると、彼はまた足音も立てずに去っていった。私は首を傾げながらも乗降口に立った。

再び騒々しい音を立てて止まった列車から降りた私は、空気の涼しさに驚いた。

「では、また後ほど」

わけもわからずホームに突っ立ったままの私をおいて、その列車は出発していった。

そこは、駅員もいないような小さな駅だった。唯一あった時計は4時を指していた。改札にかざしたICカードは止められることなく、私は駅の外に出てしまった。

駅の外にある、今も使われていそうなものは小さな駐輪場と、中学生らしき男子たちが屯する駄菓子屋らしきお店くらいで、ほかは今は使われていないのか、扉もカーテンも閉じたままだった。

「なぁ、聞いた?西條、今日の放課後瀬野に告るらしいで」

「まじで?あの西條が?」

聞き覚えのある名字に、ふとその男子たちの会話に耳をそばだてる。

「でも瀬野も案外気ありそうやしいけるんちゃう?」

「なぁ、行ってみーひん?面白そうやし」

店から出てきたもう一人の男子が話に加わる。私はさっきからの胸騒ぎがどうしても抑えられなくて、こっそり彼らについていくことにした。駅前においてあったボロい自転車を、心のなかで謝りながら引っ張り出し、彼らの自転車を追う。

しばらく住宅街を通る道路を走ると、すぐに周りに畑が出て来る。見覚えのある風景に、ペダルを漕ぐ足が重くなる。

「あ、おった!あそこや!」

彼らの指差す先には、制服を着た男女が二人、田んぼのあぜ道を歩いていた。私はそれ以上見ていられなくて、そこで自転車を降りた。夏の夕暮れの風が横をそっと通り過ぎていった。




学校を出たときから、私はどうにかなってしまいそうなほど、緊張していた。先輩にあってから約一年。ようやく告白しようって気になって、二人きりになる部活の帰り道を狙っていた。でも、いざ二人きりになるとやけに緊張してしまってうまく話せなかった。

「どうした?疲れたか?」

「あ、いえ、なんでもないです。」

「そっか。元気ないな。西條らしくないぞ?」

「そうですか?気の所為ですよ。」

笑って誤魔化してみても、胸のドキドキは晴れなかった。

遠くから同じクラスの男子の声が聞こえてくる。おそらく私のことを見に来たんだろう。ふと私はその後ろにいた、綺麗な女性に気がついた。モテそうなその人はふいに自転車を降りてしまうと、道端に立ち止まり、こちらを見ていた。一瞬先生かとも思ったけれど、こんな田舎の学校にそんな美人の先生がいるはずがないとすぐに頭のなかで打ち消した。

「あの先輩、ちょっといいですか?」

「ん?どうした?忘れ物か?」

突然立ち止まった私を振り返るように、少し先の先輩が立ち止まる。言うなら今しかない。

「ずっと好きでした。付き合ってくれませんか?」

頭は下げたほうがいいのか、それともまっすぐ目を見たほうがいいのか。いつか友だちにした質問の答えは真っ白になってどこかへ飛んでしまった。手って出したほうがいいんだっけ。どっちだっけ。恐る恐る先輩の顔をみると、少し固まっていた。

「どう、ですか?」

「えっと…あー…」

答えに窮するように頭をかく。

「俺、好きな人がいるからお前とは付き合えない。ごめんな。」

「そうですか…。」

うつむいてその場に立ち止まった私を、その先輩はしばらく心配するように近くにいたけれど、なにも言わない私に困ったのか呆れたのか、そのまま歩いていってしまった。

しばらくして、ようやく私の目から涙がこぼれた。あまりにあっさりすぎた。ずっと抱いていた淡い期待は一瞬で壊されて、残ったのは切ない思い出だけだった。

「やっぱだめだったかなー。」

なんとなく思いつきで空を見上げた。無駄に綺麗な夕焼け空に、夏にしては珍しい涼しい風が吹く。上をむいたままついたため息も、その風に吸い込まれた。

「諦めるなぁーーー!」

ふと大声がして、私は驚いてその声のほうを見た。さっきの綺麗な女性が、叫んでいた。

「そんなに簡単に諦めるなー!あなたの思いはそんなに軽くない!」

静かな世界を、まるで弓矢のようにその声は切り裂いた。そして、そのまま私の胸に刺さった。なにも知らない人がなにをって一瞬思ったものの、その人の言っていることは本当だった。

その声に押されるように、私はその先輩を追いかけて走り出した。田んぼのあぜ道は舗装されていないためにローファーで走るのは至難の技だったけれど、そんなことは関係なかった。先輩はそんなに遠くまで行ってなかったために、追いつくのは簡単だった。

「先輩!」

「あ、西條。どうした?」

「やっぱり私先輩のことが好きです!二番目でもいいです!だから、お願いします!」

勢いで言った言葉は、おそらく冷静になってみたら支離滅裂だろう。でも、そんな言葉でも思いは通じるはず。笑顔も付け加えて、私は先輩のことを見た。

「ま、まぁ、友達くらいなら…」

「ありがとうございます!」

先輩に頭を下げたあと、私は突然声をかけてくれた一人の女性の姿を探した。でも、彼女がいた場所には誰も立っていなかった。

少し不思議に思ったものの、なぜか私はそのことをあまり深く考えることはなかった。




「おかえりなさいませ。」

定刻通りに戻ってきた電車に乗り込み、行きと同じ席に座る。

「いかがでしたか。」

景色を見ていると、突然前から声が飛んできた。見れば車掌がにこやかにこちらを見ていた。

「これってもしかして思い出の世界ですか?」

私は彼に向かって一番気になっていたことを聞いた。彼はその笑顔を崩すことなく頷いた。

「ええ、これは皆様の記憶の中の世界でございます。今回は西條様の、高校のときの記憶へとご案内いたしました。」

「やっぱりそうですよね。」

「ええ、記憶に残っているのではないですか?4年前。あそこで突如飛んできた他人の声。」

「はい。まさか未来の自分だったなんて思いませんでした。」

「この夏空列車で過去に戻られる方は大体そうおっしゃるんですよ。」

列車は田園風景を抜けて、山が並び立つ山脈の麓を走っていた。もうすぐトンネルだ。

「この夏空列車は夏の苦くて甘い思い出だけをその人に見せるんです。ほんの少しロマンチックだと思いませんか?」

「そうですね」

「ああ、そう。一つ言い忘れていました。」

彼の言葉は、残念ながらトンネルに入った騒音でかき消されてしまった。

「なんて言ったんですか?」

「それは、未来のお楽しみです。では。」

意地悪そうに笑った彼は、そっと立ち上がると列車の端へ消えていった。


「ご乗車ありがとうございました。よい未来を。」

彼が一礼するのと同時にドアが閉まり、その列車は走り去っていった。謎を秘めたまま。

私は改札口に向かってあるき始めた。改札を出ると、携帯を取り出し、電話をかけた。

「ねぇ、覚えてる?4年前のこと。」

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夏空列車 梅宮香緒里 @mmki_ume

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