宙に捧げられし祈りたち~Scattered wishes to cosmos~
仔月
第一話 「共同戦線、張りましょう?」
ⅰ
眼下にはまぶしいほどの青、大海が広がっている。後ろを返りみる。もはや、古巣は見えなくなっていた。見えたとしても、そこに用はない。わたしたちは渡り鳥。だから、翼をはためかせる。豊穣の大地を目指して。
まだ見ぬものがわたしを駆り立てる。気持ちが弾む。気が付くと、翼を強くはためかせていた。速く、もっと速く。鋭い風を背に受け、わたしは一本の矢となる。そして、流れゆくものを横目に、ただ一心に進んでいく。
気が付けば、眼前には緑が広がっていた。ここが豊穣の大地?いや、そうに違いない。木々が生い茂り、その枝にはみずみずしい果実がなっている。そして、川の水は澄み、そこには何匹もの魚が。もはや、疑いはない。そう、ここが豊穣の大地なのだ。私は歓喜する。ああ、この素晴らしさを仲間たちと分かち合いたい。後ろを振り向く。が、そこには何もない。あるのは、目が覚めるほどの青、大海だけだった……
ⅱ
「透華(とうか)、ねえ、透華ってば、起きて」
声がする。誰だろう?かすんだ視界のなか、声のするほうへと視線をやる。
「透華、先生が話してるよ。起きないと怒られちゃうよ~」
徐々に、視界がはっきりとする。クラスメイトの一色梓(いっしき あずさ)だ。
「……もしかして、わたし寝てた?」
「うん。ぐっすりと」
どうやら、うたた寝していたらしい。窓の外では、桜吹雪が舞っていた。季節は春。きっと、春の陽気に誘われてしまったのだろう。
「透華、顔色悪いよ……大丈夫?」
意識していなかった……梓が心配そうにこちらをうかがっている。どうやら、相当に酷いらしい。
「大丈夫。ちょっと、夢見が悪かっただけだから」
「それなら、いいけど……あんまり無理しないでね」
優しい声色、そこには暖かな「色」が伴っている。真夏の向日葵のように暖かな「黄色」。だが、いつもとは異なり、若干のくすみがある。そう、彼女は心配しているのだ、私のことを。
「で、先生の話って何だったの?」
「ええとね、今度、図書委員が主導となって、小説を公募するんだって。担当の先生と委員の子たちが集められたものを評価して、優秀賞をとったひとには表彰がされるとか……」
「なるほどね……」
こちらから尋ねたものの、どうにも、そちらに意識が向かない。まだ、夢のことを引きずっているのだろうか。あるいは……
「でも、表彰ってすごいよね~わたしも一度でいいから、表彰台にあがってみたいなぁ~」
徐々に、くすみが晴れていく。小説の公募に意識が向いたからだろうか。いずれにしても、自分のことで心配をかけ、彼女の「色」を曇らせることは忍びない。
「ところで、透華は何か書く?透華だったら、凄いものが書けそう!ほら、国語全般が得意だし」
期待のまなざしが向けられる。そして、彼女の「色」の彩度が増していく。いまや、それは輝きを帯びている。あまりの眩しさに目がくらみそうになる。
「いえ……書くつもりはないわ。これといって、書く理由もないから」
「そっかぁ。もし書いたら、見せてほしいな。わたし、透華がどんなものを書くかが気になるし」
そう言い終えると、彼女は前を向く。心のなかで、そっと息をつく。別に、彼女が悪いわけではない。良い子だと思う。それは確かだ。だが、彼女の「色」の振れ幅はあまりに激しい。その純粋さゆえに、良くも悪くも、染まりやすいのだ。だから、時々、気疲れしてしまう。そして、そのたびに、わたしはわたしの能力を忌まわしく思わされる。他者の心の在り方を「色」として感じ、感情の指向性を把握できる能力。こんなものさえなければ、もっと楽に生きられるはずだ。そうすれば、みんなと同じ景色を共有できないことにもどかしさを覚えることも……自嘲してしまう。自身の思考のあまりの馬鹿馬鹿しさに。思いつくかぎりの手は尽くしてきた。けれど、どうにかすることもできなかった。ならば、わたしにできることは、この「呪い」を抱え、生きていくこと。それしかないはずだ。きっと
ⅲ
終業のチャイムが鳴る。その音を聴き、私は卓上の教材と筆記用具をカバンにしまう。そして、一連の動作を終えるやいなや、教室を抜け出る。が、廊下に出ると、そこには授業を終えた学生たちがひしめきあっていた。刹那、色の洪水が視界に飛び込む。感情の嵐。迂闊だった。こうなることは容易に予測できたはずだ。どうやら、相当にまいっているらしい。だが、立ち止まるわけにはいかない。先の悪夢を振り切るように、感情の嵐のなかを進んでいく。一歩一歩、確実に。
やがて、色の洪水は引いていた。どうやら、廊下を抜け、人気のないところに辿り着けたらしい。思わず、安堵の息を漏らす。私が、この能力を身に着けてから、十数年が経つ。それでも、人ごみになれることはいまだにできていない。わたしにとって、人ごみというものは凶器に等しい。ひとつひとつの「色」は綺麗なものであっても、それらが集まることによって、個々の「色」は失われ、混然としたものが生まれる。まるで、絵の具のようだ。黒々としたもの、感情の奔流、それは私の心を乱すに十分なものだ。ふと、辺りを見る。どうやら、ここは屋上への階段のようだ。あのような状況にありながら、足はいつもの場所へと向かっていたらしい、乾いた笑みが漏れる。あれほど、周囲に溶け込もうとしていながら、それでも、わたしは「私」でいられるところを求めているのだ。
だが、ここまで来てしまったのだ。屋上で「私」を取り戻そう。いつものように、屋上へのドアノブを回し、扉を開く。そこにいつもの風景はなかった。
「あなたは……」
そこには、クラスの図書委員、宙野拡(そらの ひろむ)がいた。どうして、こんなところに……
そのとき、彼がこちらを振り返る。流麗な顔立ち、そこには人間離れした魅力が備わっている……らしい。曰く、クラスの図書委員に就任したのち、委員にて、大規模な改革を提案し、それを成功させただとか。曰く、学校の模試では上位を維持しているだとか。その種の話には事欠かない。だが、わたしにとって、そんなことは関係ない。何故ならば、今、この瞬間、彼は異物だからだ。わたしが「私」でいられるところを侵すもの。それに、彼の「色」はわたしの心を揺さぶる。白、それが彼の色だ。今まで、私が出会ってきたひとたちには何らかの色があった。例えば、青、赤、黄、緑。だが、彼には何の色もない。無色、そこなしの空虚。
「やあ、霧ヶ峰(きりがみね)さん。奇遇だね」
まったく、このような偶然は願い下げだ。よりによって、私の場所に侵入してきたのが彼だなんて
「ええ、まったくね。どうしてこんなところに?」
「風を浴びたくなってね。ほら、ここって見晴らしがいいだろ。ここで風を浴びれば、さぞ気持ちいいだろうなと思ってね」
そんな理由で……
だが、一つの疑問があった。入学したときから、わたしはここの屋上に入り浸っている。けれもど、彼をここで見たことは一度もない。そう、一度もだ。これはただの偶然?それとも……?
「なるほどね。でも、風を浴びたいならば、もっといい場所があるんじゃないかしら?」
「はは、確かに。君の言うとおりかもしれないね。どちらにせよ、君は僕のことを歓迎していないようだ。早々に立ち去るとするよ」
そう言って、彼は踵を返す。どうやら、立ち去ってくれるようだ。思わず、安堵してしまう。そして、彼が立ち去ることを確認すべく、彼の背に視線をやる。そのとき、奇妙なことに気が付いた。彼の色は白。そのはずだ。だが、今、そこにはあるものは白ではない。もっと、別の何かだ。そもそも。これは色なのか?いや、私は他者の心の在り方を「色」として感じ取れる。だから、これは色のはずだ…… にもかかわらず、わたしにはそれを形容することができない。赤ではない、青ではない、黄ではない、白ではない。ただ、否定だけが積み重ねられていく。あれは何だ……?
私の当惑を嘲笑うかのように、彼はその場を去っていった。屋上にいつもの風景が戻ってくる。だが、わたしはいつもの「私」になれそうもなかった。
ⅳ
明朝、教室に入ると、わたしは宙野くんの姿があるかを確認する。普段ならば、このようなことは決してしない。だが、今回は別だ。何故ならば、屋上で感じたものが何であるかを確かめなければならないからだ。辺りを見渡す。教室の中心に人だかりがある。恐らく、彼だろう。この教室において、人だかりをつくるようなものは彼のほかに考えづらい。けれど、あの人だかりでは彼の姿を確認することはできない。対象が複数の場合、わたしの能力の精度は落ちる。集団となっているとき、それらの色は混然としたものとして捉えられる。仕方がない。彼の色を確認することを断念し、自分の席へと向かう。
「透華、おはよう~昨日は体調悪そうだったけど、今日は大丈夫?」
席に着くと、梓が声をかけてくれる。今のわたしにとって、ささやかな気遣いが身に染みる。
「ええ、もう大丈夫。ありがとう、梓」
「良かった~心配してたんだよ」
ええ、分かっている。彼女は本当に心配してくれていたのだろう。確かに、あのとき、彼女の色のくすみは消えた。だが、それは彼女が染まりやすいからだ。恐らく、そのあとも、彼女はわたしのことを心配し、その色を曇らせたのだろう。
「ところで、宙野くんはもう来てるのかしら?」
「うん、来てるよ~用事?」
「いや、あの人ごみが彼によるものなのかが気になっただけよ。そう、来てるのね……」
どうやら、推測はあたっていたようだ。何にせよ、彼の取り巻きが去ってくれるのを待つしかない。
そうこうしてると、始業のベルがなった。蜘蛛の子を散らすように、彼の取り巻きが去っていく。彼に悟られないよう、そっと視線をやる。白だった。そう、いつもの彼の色だ。やはり、屋上で見たものは気のせいだったのだろうか……だが、あのときの感覚が偽りだったとは思えない。それほどまでに、屋上での体験は強烈なものだった。では、あれが事実だったと仮定しよう。だとすると、彼は二つの色を持っていることになる。それならば、ありえない話ではないかもしれない。わたしの経験からして、色はその人の人格に対応している。そのため、基本的に、人は一つの色しか持たない。だが、人格が複数あるならば、話は変わってくる。つまり、彼が多重人格者であると仮定するならば、説明はつく。あとは、それを立証するための根拠があれば……
「透華~次の授業は体育だよ。皆行っちゃたよ。私たちも行こうよ~」
意識が戻る。どうやら、考えに没頭しすぎていたらしい。悪い癖だ。
「ごめんなさい。ところで、体育の授業で何をやる予定なのかしら?」
「バスケットボールだよ~」
どうやら、悪いことはつづくらしい。わたしは、心のなかでそっとため息をつく。
ⅴ
梓がドリブルをする。それに伴い、体育館には、バスケットボールの音が反響する。いつにもまして、梓は生き生きとしているように見える。いや、実際にそうなのだろう。その証拠に、彼女の色は輝きを放っている。もはや、真夏の向日葵ではなく、真夏の太陽と言ったほうがいいかもしれない。暖かいではなく、熱い。一方で、わたしの心は沈んでいた。それもそうだ。第一に、わたしは運動が得意ではない。だから、体育の授業というものに厭わしさすらも覚える。だが、それだけではなく……
「霧ヶ峰さん、1番の選手をマークして!」
鋭い声がかけられる。立花結(たちばな ゆい)、わたしたちのチームのキャプテンだ。彼女には目を焼いてしまうほどに鮮烈な赤色が伴っていた。そう、それは闘志。相手を蹂躙するという強い意志。その苛烈さに眩暈を起こしてしまいそうになる。けれど、倒れるわけにはいかない。わたしは足をもたつかせながらも、1番の選手をマークしようとする。が、このような状態でマークできるわけがなかった。わたしはあっさりとパスを通させてしまい、1番の選手が得点を入れる。
「霧ヶ峰さん!」
怒号。肩を怒らせ、立花さんがこちらへ駆け寄ってくる。やってしまった。
「霧ヶ峰さん、あたし、マークしてって言ったよね?聞こえてた?それとも、やる気がないの?」
明確な怒りがぶつけられる。そして、彼女の色を感じとってしまう。それは黒みがかった赤色。眩暈が酷くなる。
「ごめんなさい……次は気を付けるわ」
折れそうな意志と足を奮い立たせ、言葉を紡ぐ。
「次……?そんな考え方だから、通してしまうのよ」
「まあまあ、透華も悪気があったわけじゃないし」
向こう側のコートから、梓が駆け寄ってくる。
「一色さん、甘い、甘すぎる。そういう風に、優しくするから、霧ヶ峰さんがつけあがるのよ」
「でも……」
立花さんの色に感化されてか、チームメンバーたちの色も曇り始める。そして、それらのものは混然としたものを織り上げていく。みんながわたしを見つめている。侮蔑、哀れみ、怒り、同情。さまざまな感情が突き刺さってくる。視界がゆれる。あれ?どうして、コートが斜めになっているのだろう?そして、わたしは意識を手放した。
瞼を開く。ここは……?曖昧な視界のなか、周囲を見渡す。手にふかふかとしたものが触れる。これは布団…?どうやら、わたしはベッドに寝かされていたようだ。そして、そのまわりは白いカーテンで覆われている。恐らく、保健室だろう。
「透華、大丈夫?」
梓だ。心配そうにこちらを見つめている。
「梓…?わたし……」
「授業中にね、倒れちゃったんだ。ほら、立花さんが怒っていたときに」
なるほど。合点がいった。また、わたしは倒れてしまったのか。
「なるほどね……でも、もう大丈夫よ」
「本当……?それなら、いいけど。でも、透華、体育の時間に倒れることが多いし、心配になっちゃうよ。病院でしっかりと検査してもらったら」
授業中、彼女の色は太陽の如き輝きを放っていた。しかし、いまや、それが嘘のようにくすんでいる、本気で心配しているようだ。本気で心配してくれる友達にさえも、わたしは事情を打ち明けられずにいる。堪らなく、自分が惨めになった。
「大丈夫よ。以前、お医者さまからも、心因性のものだという診断を受けたから」
嘘だ。そもそも、診断を受けてなどいない。いや、受けさせてもらえないだろう。きっと……
「そっか、わたしで相談に乗れることがあったら、乗るよ。なんでも言ってね。じゃあ、お大事に」
梓が保健室を去る。ふと、窓のカーテンを開けると、夕陽が差し込む。視界が滲む。気付くと、わたしは涙していた。
ⅵ
足取りが重い。それでも、いまのわたしにとって、「私」になれるところが必要だ。屋上への階段を昇っていく。一歩一歩、確実に。昨日は宙野くんに邪魔されたが、流石に、この時間には来ていないだろう。扉のまえに辿り着く。深く息をすいこむ。わたしが「私」になるための儀式。ドアノブに手をかけ、扉を開ける。
「どうして……?」
思わず、声が漏れる。そこには宙野くんの姿があった。そして、わたしは昨日に見たものが見間違いではないことを知る。「あの色」だ。
「どうして…?あなたがここにいるのよ……!」
声がふるえる。屋上はわたしだけのものではない。そんなことは当たり前の話だ。でも、ここはわたしにとっての特別な場所だった。わたしが「私」になれる場所だった。そんな場所さえも奪われるというのか。
「やあ、また会ったね。授業中、倒れてしまったと聞いたが、大丈夫かい?」
優しい声色、だが、彼の胸中は読み取れない。
「ええ、おかげさまでね。ところで、聞きたいことがあるのだけど、いいかしら?」
「構わないとも、僕に答えられることならば」
深呼吸する。この質問は、諸刃の剣だ。彼が何者であるかを尋ねるということは、わたしが何者であるかを浮き彫りにしてしまうかもしれない。それでも、聞かずにはいられない。何者かもわからないものに「私」の居場所が侵されるなど、我慢がならない。
「あなたは誰?本当に、宙野くん?」
沈黙。彼の表情は変わらない。
「勿論だとも、僕が僕である。当たり前のことだろう?」
にこやかに答える。嘘だろう。勿論、彼が何を考えているかを読み取ることはできない。それでも、彼の色が白でない ということは事実だ。けれど、わたしは……
「そう、そうなのね……ごめんなさい。変なことを聞いてしまって」
「構わないさ。きっと、疲れていたんだろう。どちらにしても、君には落ち着けるところが必要だろう。僕は立ち去るとするよ」
屋上の扉が閉まる。結局、わたしは声をかけられずにいた。親友にさえも打ち明けられずにいる。見知らぬものに、それを打ち明けられるはずがなかった。それでも、気になる。彼が何者なのか。
ⅶ
玄関の扉を開ける。靴箱を確認すると、ビジネスシューズとパンプスが入っていた。父と母が愛用しているものだ。どうやら、二人とも帰宅しているらしい。靴を靴箱に仕舞い、自室へ向かおうとする。
「透華、おかえりなさい。遅かったわね、何かあったの?」
間が悪い。自室へ向かおうとした、そのとき、母に声をかけられた。
「ただいま、お母さん。大丈夫。なにもないわ。ちょっと、委員の仕事があって」
勿論、嘘だ。本当のことを言えば、母がどのような反応をするか。それを考えるだけで憂鬱になる。それならば、嘘をついてでも、お互いに傷を負わないほうがいいはずだ。
「そう、それなら、良かったわ。夕食できてるわよ、はやく来なさい」
そう言い終えると、母はリビングに向かっていった。母の後ろ姿が見えなくなると、深いため息をつく。かつての経験から、どうにも、父と母への苦手意識が拭うことができない。
幼いころ、わたしはこの能力を発現した。ちょうど、物心がつきはじめたころだったと思う。そのとき、わたしはこの能力が特異なものであることに気付いていなかった。当然だ。まだ、世間の常識が十分に内面化されていないのだから。だから、そのあとの顛末も当然の帰結だったのだろう。わたしは、世界はたくさんの色で溢れていることを知った。そして、父と母にそのことを伝えた。最初、父と母はわたしのことを感受性の豊かな子だと思っていたようで、そのことをしきりに褒めていた。将来、この子は芸術家として大成する。そんなことを言っていた気がする。思い返せば、あのころが最も幸せだったかもしれない。
だが、幸せな時間は長くは続かなかった。徐々に、父と母はわたしの言動を訝しみ始めた。それもそうだ。何せ、色を見ることを通して、心の指向性を読めるのだから。はじまりは些細なことだった。何気ない日常の一場面。食卓で、父と母が会話しているとき、母の色がくすんでいることに気付いた。そのときのわたしは、能力の特異性には気付いていなかったものの、色の彩度は当人の感情を反映していることを何となく把握していた。そう、わたしは言ってしまったのだ。「おかあさん、大丈夫?」と。今でも、そのときの母の顔は覚えている。まるで、隠していたものが見つかってしまったときのような顔。あれが転機だった。それからも、わたしは父、母の色がくすんでいるときに言い続けた。「大丈夫?」と。悪意があったわけではない。ただ、ギスギスしたものがわたしの家族を壊してしまうのではないか、その不安に突き動かされていただけだ。だが、皮肉なことに、家族を壊してしまったのは私自身だった。父と母はわたしの能力の特異性に気が付いた。確信していたわけではないと思う。だって、あまりに荒唐無稽だから。それでも、家の空気は変わってしまった。一見すると、そこにはあるものは普通の家族だ。だが、水面下では緊張が張りつめている。以来、わたしは自身の能力が特異なもので、これは「隠しておくべきもの」だと悟った。
憂鬱な気持ちを抑え、食卓へ向かう。そこには、父と母がいた。
「おかえり、透華」
「ただいま、お父さん」
今も、緊張が張りつめている。比喩ではない。何せ、わたしはそれを感じ取ることができるのだから。
椅子を引き、席につく。思わず、背筋が伸びる。居心地が悪い。わたしの家族をこうしてしてしまったのは私自身だ。そんなことは分かっている。それでも、この雰囲気に慣れることはできそうにない。
「学校の調子はどうだ?何か、変わったことはないか?」
父の心の色がくすむ。猜疑心。きっと、わたしが変わったことをやらかしていないかを心配しているのだろう。
「ええ、大丈夫。いつも通りよ」
「それならば、良かった」
「ええ、そうね」
とんだ茶番だ。演目はなごやかな家族。だが、舞台裏にそんなものはない。誰も彼もが演じているのだ。わたしも含めて……
ベッドに倒れ込む。柔らかな布団の感覚が心地よい。何もかもを忘れて、このまま眠ってしまいたくなる。だが、そうするわけにはいかない。わたしには解決すべき問題がある。そう、それは宙野くんのことだ。昨日、今日を通して、彼は屋上に姿を現した。それだけでも、わたしにとっては、重大な問題だ。だが、問題はそれだけではない。彼の色は変質していた。白から形容しがたいものへと。わたしの仮説が正しいならば、彼は多重人格者だ。だが、そのことをどのように立証する。立証したとして、どうすればいい?きっと、この問題は、彼を排除するだけでは終わらない。根拠はないが、ある種の確信がある。彼は何らかの理由があって、屋上に姿を見せている。もしかしたら、その理由は切実なものかもしれない。わたしのように……心のなかに、躊躇が生まれる。わたしにとって、彼は異物だ。そのことに変わりはない。けれど、わたしのように、何らかの事情を抱えているとしたら、話は別だ。そのことも確認せずに、彼を排除してしまっては、わたしは「私」を、同族を殺したことになってしまうかもしれない。それだけは避けたい……だが、どのように確かめればいい……?
そのとき、一つの考えが思い浮かぶ。あまりに突飛な考え。けれど、これしかないはずだ。確信めいたものがある。明日の学校の用意を済ませるやいなや、わたしは準備にとりかかる。
ⅶ
屋上の扉のまえに立つ。時刻は8時。始業にはまだ早い。こんな時間には彼も来ていないはずだ。そう、普通ならば。深く息を吸い込む。わたしがこれからしようとしていることは、わたしにとってもリスクのあることだ。けれども、もう決めてしまった。彼が何なのかを確かめると。思いっきり、扉を開く。
そこには彼の姿があった。予想があたった。やはり、彼は人がいなくなる時間帯、場所に表れる。そして、形容しがたい色。間違いない。
「やあ、おはよう。随分と早いんだね」
「おはよう、そちらこそ、随分と早いのね」
言葉の応酬。さて、ここからが勝負だ。
「ねえ、話があるの、いいかしら?」
「僕に聞けることならば」
「宙野くん、図書委員をやってるのよね?」
「そうだね、ご存知の通り」
「それならば、小説の公募の企画のことも知っているという認識でいいのかしら?」
「勿論だとも。それがどうかしたのか?」
「単刀直入に言うわ。私と共作しない?」
「共作……?それは随分と急な申し出だね……でも、僕は審査員でもあるから……」
「なら、秘密裏に行うのはどうかしら?それに、これはあなたにとっても意味のあることだと思うの?」
「なるほど、秘密裏に共作を行うことにどのようなメリットがあるのかな?」
「そうね、それはわたしたちの物語に関わってくることよ」
「物語……?」
「そう、これがプロットよ」
そう言って、わたしは彼にプロットを手渡す。昨夜、急ごしらえしたものだ。勿論、細部は全く詰められていない。それでも、重要な部分は出来上がっている。それは……
「主人公はエンパシー能力を持つ少女……彼女は人の心を色として見ることができる。少女は一人の少年と出会う。少年は不思議な色を持っていた。あるときは、白。あるときは、形容しがたいもの。二つの心。少女は疑問を抱く。あの少年の色は何なのだろうか?そして、少女はある提案を持ちかける。」
『ねえ、ともだちにならない?』「ねえ、共同戦線を張らない?」
そう、これがわたしの計画。直接、彼が何を抱えているかを尋ねても、先日一件のように、さらりと躱されてしまうだけだろう。それならば、建前を作ればいい。具体的な話ではなく、そういうものがあるという体で話を進めていけばいい。言わば、これはわたしたちの符丁なのだ。
「なるほど……面白い……!」
「それなら……!」
「だが、これをそのままに受け取るわけにはいかないかな」
目の前が真っ暗になる。わたしは賭けに負けてしまったのか……自分の能力を間接的に明かすというリスクを負ってまで……
「おっと、早合点してもらうと困る。僕は『そのままに』と言ったんだ。一つ、訂正したい」
「……どういうこと?」
「そうだね。少年は二つの心を持つのではない。」
「少年はね……宇宙人なんだ」
その日、わたしと彼の共同戦線が始まった。
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