リセット子育て

水神竜美

リセット子育て

 母親は後悔していた。

 丁度三日前のあの日、娘がいつもより妙に遅く帰ってきたので理由を問い詰めたのだった。

 すると。

「……坂下先生が……急に……スカートの中に……手を……」

「……え?」

「パンツの……中にまで……」

「やめて!」

「……え……?」

 絞り出す様に発せられていた微かな声を、聞こえないように大声で遮った。

「お母さんそんないやらしい話嫌いだっていつも言ってるでしょ!いやらしい話なら最初にそう言ってよ!気持ち悪い!」

「気持ち……悪い……?」

 呆然とした様子で、娘は見開いた目を母親に向けた。

「もうそんな話しちゃ駄目だからね!?もしまたお母さんに聞かせたら罰としてトイレ掃除だから!」


 その日の晩のうちに、気付いたら娘は失踪していた。


 着替え等も纏めて無くなっていたので家出で間違いない筈だ。

 友達の家にさりげなく問い合わせてみたがどこにも来ていないとの話だった。

 家出したなどと近所に知られたくはなかったので警察にもどこにも言わず、なるべく目立たない様に夫婦で心当たりを探しているが見つからない。

 しかし三日も学校を休んで姿も見せないと、同じ団地の住人達は流石に訝る様になっていき、段々と近隣の視線が痛くなっていった。


「……あんな事……しなきゃ良かった……」

 母親は後悔していた。

 あの時娘に遅くなった理由を聞いた事を。

 何も聞かなければ、何も知らなければ何も言わなかった。

 何も言わなければ、こんな事にはならなかったのに。

「ただいま……やっぱりどこにもいなかったな……」

「お帰り……こっちも同じ……」

 テーブルに伏せて考え込んでいたら、仕事から帰る途中に娘を探してきた夫が帰宅した。

「……まだ十二歳の小学生がどこに隠れてられるっていうのよ……おかしいでしょ今時は……」

「若い子はネットカフェに泊まり歩いてるなんて話は聞くけど……小学生も泊めるのか……?まさか出会い系とか使って……」

「やめて気持ち悪い!変な事考えさせないでよ!」

 思わずテーブルをばんと叩いた。

「ああもう……!何でこんな事になっちゃったのよ……!あんな事しなければ……!」

「ならやり直してみるか?」

「え――?」

 突然聞き覚えの無い声が聞こえて、二人でその方向へ顔をやった。

 薄暗い居間の隅に、いつの間にか黒いコートを着た短い金髪の白人風の男が立っていた。

「――――!?」

 その男の顔を見た瞬間、体温が下がった様な気がした。一瞬で全身の皮膚が粟立ったのが分かった。

 とは言っても、目が三つあったり角が生えていたりといった異形をしていた訳ではない。

 美し過ぎるのだ。

 その美しさが余りにも常軌を逸していて、人間の脳で理解出来る限界を超えている様だった。

 理解出来ないものを、人間は未知の恐怖として捉える。

 その異常としか言えない美しさは、男が人とは違う「何か」であると物語っていた。

「後悔しているのだろう?ならば時間を戻してやろうか?」

 薄ら笑いを浮かべていた男は、ふいにそんな提案をしてきた。

「……え……?」

 凍り付いた様に動けなくなっていた体から、何とか声を絞り出した。

「時間を戻す位私には容易い事だ。娘の話を聞く前の時点に戻せばやり直せるか?」

「……な……何でその事を……!」

 夫が思わず声を荒らげたが、男はそんな様子を鼻で笑った。

「今更そこを気にするか?人間の事情など幾らでも知れる」

「……人間の……って……貴方……一体……」

 人間ではないのは感じていた。だが何者なのかまでは分からない。

「私か?神や天使ならば人間の前に現れたりはしない。人間に手を差し伸べたりはしない。そんな事をするのは――悪魔だけだ」

「……悪魔……?」

 本来ならば信じ難い話だが、この男が人間だと言うよりは遥かに信憑性が感じられてしまう。

「悪魔だって言うなら……そもそも人に手を差し伸べるのか……?」

 夫が疑いを挟む。

「勿論ただでは無い、お前達が死んだ後に魂を貰う。だが別に今すぐに死ねとは言わん。数十年位私には大した時間ではないからな、寿命を迎えるまで待ってやるさ」

「…………?」

 夫は訝しそうな目を男に向けていた。真意が分からないという顔だ。

 だが。

「……本当に……死んだ後魂をあげれば……話を聞く前に戻してくれるの……?」

「――っおい!?」

 代償を払うのは死んだ後だというならば、特にデメリットがあるとも思わない。

「――だって、どの道今のままじゃどうしたらいいか分からないじゃない――!」

「……それは……」

 真っ直ぐ目を見て訴えると、夫は俯いて眉根を寄せた。

 それを見てから、妻は男に向き直った。

「お願いします!私だけでも三日前の娘の話を聞く前に戻して下さい!」

 男は口角を上げた。

「特別サービスだ。二人共戻してやろう」

 そう言って、男は軽く右手を挙げるとぱき、と指を鳴らした。



 気が付いたら、一人でダイニングキッチンに立っていた。

「…………!?」

 思わず周囲を見回すが、夫もあの男もいない。

 夜だった筈なのに、窓からは夕日が差し込んでいる。

 テーブルに置いてあったスマホを見ると、三日前の日付と丁度十八時になった時間が表示されていた。

「……これは……!」

 忘れもしない。あの日娘がなかなか帰ってこなかったので何度も時計を見た。

 娘が帰ってきたのはこの時間を見た直後だった。

 がちゃ。

「――――!」

 いつもならば「ただいま」と言いながらドアを開けるのに、この日だけは黙って帰ってきたのだ。

 それにも違和感を感じ、ついどうしたのかと問い詰めてしまった。

 落ち着いて。ここが大事なのだ。間違えてはいけない。

「…………」

 青い顔をした娘が廊下から顔を見せた。

「お帰り。早くご飯食べちゃいなさい」

 目を合わせずに、不自然にならない様に言葉を選びつつ極力素っ気ない態度を見せた。

「…………」

 娘が立ち止まって動かない。

 不味い。

「早くランドセル置いて手を洗ってきなさい。ご飯片付かないでしょ」

「…………!」

 何か言いたそうだったが、黙ったまま足音だけが離れていくのが聞こえた。

「……ふう……」

 とりあえず一番大事な所は突破出来た。話を聞く気は無いと無言で伝えるのが重要なポイントだった。

 話を聞いて貰えると思わせたら自分から話し出すかもしれない。そうなったら遮るのが難しいので、上手く態度で壁を作る必要がある。


「……ただいま……」

「お帰りなさい」

 七時頃になると、以前よりも早く夫が帰宅してきた。

 真っ直ぐダイニングにやってくると、一瞬だけ躊躇った後に口を開いた。

「……なあ……覚えてるか……?」

「ええ、本当にタイムスリップしたみたいね」

「そうか……俺だけじゃなかったんだな……良かった……」

 夫は深く息を吐いた。

「……ところで……望美は?」

「話かけられないように突き放した態度でいたら大丈夫だったわ。何も言わずに部屋に行ってそれっきり。やっぱり食欲は無いのかもね」

「夕飯食べてないのか?」

「まあ無理もないと思う。でも声かけたりしちゃ駄目よ?喋られたらまた同じ事の繰り返しなんだから」

「……ああ……もうあんな思いは御免だ」

「ええ、お互い気をつけましょ。あとすぐご飯にする?」

「ああ、有難う」

 その日はそのまま、至って静かに過ぎていった。


 次の日、娘がいつもの時間になっても起きてこなかったので内心焦りながら部屋に向かった。

「望美?早く起きなさい!」

 頼むから返事をしてくれ、居てくれと念じる気持ちでドアをノックする。

「……行きたくない……」

 絞り出すような声が聞こえて、胸を撫で下ろした。

 だが、不登校になられたりしたら結果は同じだ。それも何としてでも避けなければならない。

「行きたくないのは皆同じでしょ。起きなさい」

「……体重いの……だるい……」

「急に何言ってるの、昨日まで元気だったでしょ。昨夜ご飯食べなかったせいじゃないの?早く朝ご飯食べなさい」

「……食べたくない……」

「だから食べないから悪いのよ!さっさと食べて学校行きなさい!」

 思わず苛立って言葉を荒らげてしまう。

「……お母さん……昨日から何か怒ってる……?」

「あんたのせいでしょ!」

 つい怒鳴ってしまった直後にはっとなった。違和感を持たせてしまうのは良くない。

「……具合悪いって言うならすぐ保健室に行っていいから、とりあえず学校には行きなさい。車で送ってってあげるから」

「…………」

 部屋の中で、ゆっくりだが動く音が聞こえ出した。

 内心ほっとしながら、額に浮かんでいた汗を拭った。


 結局朝ご飯も食べなかったが、学校に行かせる事が最優先なので無理はさせずにそのまま車に乗せた。

 学校に着いたら校門の前に車を停め、娘が降りたのを確認したらすぐドアをロックし、歩みの遅い娘がちゃんと中に入るまで車の中から見張っていた。

 校舎に入ったのを確認して、ようやく長い溜息を吐き出してから車を発車させた。

 だが家に帰り着いて間もなく、九時を少し過ぎた程度の時間でもう学校から電話がかかってきた。

「……保健の先生、ですか?」

『はい。今朝、望美さんが朝礼が始まる直前……坂下先生が入ってきてすぐ位に教室で吐いてしまいまして……今は保健室で休んでいるんですが、どなたか迎えに来られますか?』

「大丈夫です。多分ただの食べ過ぎなんで」

 ちゃんと学校には行ってもらわないと困る。

『いえ、吐いたのは殆ど胃液だったので……お腹はほぼ空っぽだったようですが』

「ああ、そういえば昨夜も今朝も食べてませんでした」

『え……?』

 保険医の声に疑念が混ざり始めた。

『……食あたりではないようですし、熱も無いですが、子供はデリケートですので、体に異常がなくても精神的に疲れていたりすると症状として出てくる事はよくあるんです。望美さんも何かストレスになるような事があったのではないかと……』

 何でそんなに突っ込んだ話をしてくるんだ。あんたにうちの問題は関係ないだろう。

「……ちょっと先生!うちの子の頭がおかしいって言いたいんですか!?」

『いえ違います……!ストレスが体に出るのは誰でも普通にある事なんですよ。決して特別な症状では……』

「頭の病気みたいに言うのはやめて下さい!うちに問題があるみたいじゃないですか!もうこれ以上変な事言ったり娘と余計な話するなら教育委員会に言いますからね!もう娘に関わらないで下さい!」

 そう捲し立てて電話を切った。

 危なかった。

 学校には行かせないといけないのに、学校に娘の状態を正確に見抜いて気にかける人間がいるなんて。


「もう保健室行くのはやめなさい」

「え……!?」

 終業時間にまた迎えに行き、車に乗り込んだ娘に開口一番そう言った。

 保険医が娘に話を聞いたりしたら困る。

「……無理……!」

「無理じゃないでしょ。保健の先生だって熱も無いし気の持ち様だって言ってたんだから」

「無理……また吐いちゃう……!」

 娘が何度か無理だと言ってきたが、全て無視して帰路に着いた。


「ちょ……お母さん!?お父さん!?開かないんだけど!」

 その日の夜、また部屋に閉じ籠っていた娘が急に大声を上げながらドアを叩き出した。

 夜中に家出されないように、部屋のドアにつっかえ棒をした事に気付いたらしい。

「大声出さないで。お隣に聞こえるでしょ」

「開かないの!」

「ずっと閉じ籠ってた癖に何で慌ててるのよ、別に困らないでしょ?トイレとか出たい時はお隣に聞こえない位の声で言いなさい」

「何で……?ねえ何で……!?」

「あんたが普通にしないからよ」

 それだけ言ってさっさとその場を離れた。

 その晩は安心して眠る事が出来た。


 次の日も有無を言わせず車に乗せて学校へ向かった。

 だが、校門の前に着いても娘は降りようとしなかった。

 小さく溜息をつきながら運転席から降り、外から娘の乗った後部座席のドアを開けた。

「ほら、早く行きなさい」

「……無理……」

「まだ言ってるの?無理じゃないからさっさと降りなさい」

 苛立ちを覚えて娘の腕を掴む。そのまま引っ張り出そうとすると急に手を払った。

「やだ……!」

 急に出された大声に、校門の中にいた児童達も視線をこちらに向けてきた。

「ちょっ……大声やめなさい!」

「嫌だ!行きたくない!」

 声を抑えさせようとしても、まるで当て付けの様に更に声を張り上げてくる。

 思わず込み上げた怒りのまま、力任せに娘を引きずり出した。そのまま道路に転がってしまう。

「やだ!やだあ!」

 だが娘は道路に座った状態のまま暴れ出した。こちらの手から必死に逃れようとする。

「うるさい!やめなさい!何でお母さんを困らせるの!?」

 こちらは何とか娘を起き上がらせて校門に押し込もうとするが、容赦なく蹴りまで入れられてちゃんと掴むのも難しかった。

「いい加減にしなさい!何で普通に出来ないのよ!?」

 何でこんなに余計な手間をかけさせるんだ。

 何でこちらの気持ちが分からないんだ。

 ただ普通にしろと言っているだけなのに。

「すいません!どうしましたか!?」

 随分長い時間取っ組み合いをしていた様な気がしていたが、やがて校舎の方から声が聞こえた瞬間に娘が硬直し、ほっと胸を撫で下ろした。

「坂下先生……!すいませんお騒がせしてしまって……」

 固まった隙に娘を引っ張り起こし、駆け寄ってきた担任教師に笑顔を向けて会釈した。

「何だ塚本、今度は何をしでかしたんだ?お母さん大丈夫ですか?」

 娘を一睨みした後、こちらに同情する様な笑みを向けてくる。

「大丈夫です、急にこの子が学校行きたくないって駄々こね出しちゃったもんで……連れていっていただいてもよろしいですか?」

「大変でしたね……後はお引き受けしますんでお任せ下さい」

 お互い笑顔を向け合いながら、娘を担任に引き渡した。

 硬直したままの娘は、教師の大きな手にがっしりと肩を掴まれて引き寄せられた。

「う……っ……ええ……!」

 急に娘が口を押さえて下を向いたと思った瞬間、その手の隙間からびちゃびちゃと黄色いものがこぼれ落ちてきた。

「……塚本……お前また先生が来た途端それとか馬鹿にしてんのか」

 教師の口から暗い怒りの込められた声が漏れた。

「す、すいません先生!」

 慌ててティッシュを出して娘の手と口を拭く。

「いえいえ、お母さんはお気になさらないで下さい。後でちゃんと注意しておきますんで」

 先程とは別人の様に朗らかな声で、教師は気遣う様な笑顔を見せてきた。

「まあそうですか?先生にお任せしますんでどうか宜しくお願いします」

 ようやく協力者を得られた。そんな嬉しさを感じて自然と笑みが溢れる。

 ぺこぺこを頭を下げながら、娘と目を合わせない様にそそくさとその場を離れた。


 その日は学校から連絡も無く、終業時間に迎えに行った娘も何も言わなかった。

 寝る前には娘にトイレに行くかだけ確認し、しっかりとつっかえ棒をしてから安心して眠りについた。


 その晩、急に鼻と喉に痛みを感じて目を覚ました。

「――――!?」

 目を開けると、部屋の中に黄緑色の煙が充満していた。

「げほっ……何……これ……!」

「これは……塩素ガスか……!?」

 隣で目を覚ました夫が驚愕した声を上げた。

「塩素ガス……?」

「トイレの洗剤とか混ぜると出る!毒だ!」

 夫はそう叫びながら立ち上がり、パジャマの袖で鼻と口を覆って部屋のドアを開けた。

 自分も慌てて起き上がると、黄緑色の煙はほぼ足元に漂っていたのが分かった。だが鼻と喉の痛みは収まらず、夫と同様に袖で覆いながら部屋を飛び出した。

「――――っ!」

 廊下に出ると、向かいの娘の部屋のドアの隙間から毒々しい煙がどんどんと漏れ出している様が目に入った。

 娘には学校と家しか往復させていなかった。ならば学校から混ぜると毒が出る洗剤を持ってきていたのだろうか。

 思わず驚愕していると、ふいにがちゃがちゃ、という音が耳に入り、慌てて玄関に目をやった。

 思った通り、夫が玄関の鍵を開けている音だった。

「待って――!」

 声を上げたのと、夫が玄関を開け放ったのはほぼ同時だった。

 冷たい空気が流れ込んでくる感覚と同時に、黄緑色が外へと流れ出していった。

「…………!」

 煙を追う様に外に飛び出すと、既に隣や下の部屋からざわめきが起きているのが分かった。

「げほっ!何この臭い……塚本さんの部屋から!?」

「塚本さん!何があったんですか!?」

 異臭を感じて飛び出したらしい両隣の家族が、我が家から流れ出る煙に気付いて呼び掛けてきた。

「うえっ、何だこの異臭!?」

「やだ何この煙!?」

「塩素ガスだ!」

「誰か自殺したの!?」

 次々と窓を開けたり外に出てくる人の声が聞こえてくる。

 騒ぎはどんどん大きくなっていく。

 煙はどんどん階下へと流れ出ていく。

「……自殺……?そういえば塚本さん、望美ちゃんは……?」

 隣の奥さんが恐る恐るといった様子で問い掛けてきた。

「……先生よ……」

「え?」

「坂下先生のせいよ!担任の先生がうちの娘に乱暴したからこんな事になったのよ!」

 あらん限りの声で叫んでいた。



「――では、昨日の夜に娘さんから『三日前に坂下先生から乱暴された』と聞かされたんですね?」

「そうです。昨夜初めて聞かされて……驚きました」

 あれから救急車や警察を呼ばれ、病院で娘の死亡確認と夫婦二人の検査をされた後、昼前になった頃に警察署で改めて詳しい話を聞かれ、夫と事前に打ち合わせした通りの話をした。

「おかしいですね」

「……何がですか?」

 何もおかしな事など無いだろう。本当は何も聞いていないのだから本当に最低限の話しかしていない。

「お嬢さんの遺体を調べたところ、確かに数日前に性的暴行を受けた傷もあったんですが……死ぬ数時間前にも同じ事をされていた痕跡が残っていました」

「……え……?」

「つい昨日、当日にも性的暴行されていたんです」

「……嘘……」

 心臓の音が自分の耳にまで響いてくる。

「どうしてお嬢さんは、三日前の事は話してもその日にあった事は話さなかったんでしょうね?」

「そ……そんな事分かる訳ないでしょう?娘がそう言ったんですから……!」

「そうですか……」

 警官はファイルを取り出して開いた。

「坂下先生に話を聞いた所、すんなりやった事は認めてくれたんですが」

「なら問題ないじゃないですか!?」

 思わず大声が出てしまった。

「先生は『お母さんは自分がやった事を知った上で味方をしてくれていると思っていた』とも言っていたんですよ」

「味方なんてする訳ないでしょう!?そんな変態教師の言う事なんか信じてるんですか!?」

「いやこちらも流石にあり得ないだろうと思いましたが……お母さん、昨日の朝は随分目立たれていたようですね」

「は……!?」

 握り締めた手に汗の感触があった。

「お嬢さんを無理矢理学校に行かせようと取っ組み合いになって、その後やって来た坂下先生にお嬢さんを渡したら急に吐いたのに心配もせず嬉しそうに帰ってしまった……という目撃情報が沢山あったんです」

「……そんなの見た人の勝手な感想でしょう!?」

「それが一人や二人じゃなく、その場にいた大勢が同じ感想を話したんですよ。ちょっと異様な光景だったと」

「何人だろうと勝手な感想に変わらないじゃないですか!私が何を考えてたかなんて誰にも分からないでしょう!?そもそも学校に行かせようとして何が悪いんですか!?」


 その日はそのまま帰されたが、話の矛盾はいつの間にかマスコミにも漏れていて、その日のうちに全国ニュースになっていた。

 翌朝には、もうネット上で住所や電話番号が特定されていたようで、電話は鳴り止まず、家の前では知らない人間が怒鳴り声を上げていた。


「変態教師に娘売ったんだろ糞親!娘と同じ目に会え!」

「塚本さんは五一二号室です!」


 表札を外していてもそうやって部屋はバレてしまい、次々と罵詈雑言を浴びせられ、ドアや壁には落書きをされた。

 次の日には訪問者の合間を見てやって来た自治会長から、団地の住人の総意として出ていってほしいと伝えられた。

 こちらこそ出ていけるならば出ていきたいが、夫婦両方の実家や親戚からも既に当分来ないでくれと言われており、一歩外に出るのも恐ろしくなってしまった今ではどうやって引っ越し先を探せばいいのかも分からなかった。



「……何で……こんな事になっちゃったのよ……!」

 真夜中になっても部屋の灯りを着ける事も出来ず、二人で息を潜めるようにしてテーブルに伏せていた。

「……やっぱり……逆にちゃんと話を聞いてあげた方が良かったんじゃ……」

「今更何言ってんのよ……!それに話を聞くとか私がしないといけないじゃないの……!私はそんなの嫌よ……!」

「おいあんまり声出すなよ……!」

「貴方こそ……!」

 どうしてこうなってしまったのか。

 どうして自分がこんな目に会わなければいけないのか。

 自分は何も間違っていなかった筈だ。

 何が悪かったのか。

 誰が悪かったのか。

「どうだ、その後の様子は」

「――――!?」

 忘れもしない、三日前に聞いた声が再び耳に入った。

 がばっと声の方を向くと、あの金髪の男が楽しそうな顔で立っていた。

「――あんたのせいよ!」

 思わずありったけの怒りを込めて叫んでいた。

「――お、おい!そんな声出したら――」

「何故、私のせいになるんだ?戻ると決めたのは自分だろう?」

 男はどこか愉快そうに返してくる。

「あんたが余計な事言わなきゃ戻るなんてしなかったのよ!そもそも戻る事自体あんたがいなきゃ出来なかったんだから!」

「私は契約を果たしただけだ。望んで願ったのはお前自身だぞ。そもそも私は戻しただけで、その後どうしたかはお前の意思だ」

「……それだって……私は間違ってない!当たり前の事しかしてないわよ!娘が変な事されたとかどこかに訴えたら大事になるし、そんな気持ち悪い話聞きたくないのだって当然でしょ!?」

「要するに、自分が娘の話を聞くなど我慢出来ないから娘に我慢をさせようとした、という訳か」

 笑いを堪えるような顔で言う。

「……っ……何が悪いの!?そんな話されたら今まで通り平穏に暮らすなんて出来なくなるじゃない!家の中に余計な波風立てさせないのが私の……ううん、家族の義務でしょ!?あの子がそれを分かってないから……!」

「既に立っている波風をどうやって押さえろというのだ?」

 男が冷笑を浮かべながら見下ろしてくる。

「とっくに立っていただろう、娘が襲われた瞬間に」

「……何……言ってるのよ……それじゃ戻っても意味無かったって言いたいの!?なら何で戻そうなんて……」

 背中に嫌な汗が伝った。

「そうは言っていないだろう。戻るならば娘が襲われる前に戻れば良かっただけの話だ」

「――――!?」

 瞬間、頭の中が真っ白になった。

「『娘の話を聞く前』に戻してほしい、と願った時点でこうなる事は確定していた。本当に解決を望むならば何を願わねばいけないかは決まっていたのだからな」

 へたり、とその場に座り込んでいた。

「……そん……な……それじゃ……」

 後ろの夫の声が、随分遠くから聞こえた。

 楽しそうな男の顔も、どこか違う世界にいるように見える。

「諦めるのはまだ早いぞ、私はもう一度やり直すチャンスを与えてやりに来たのだからな。今度は男の方の魂を渡すのならばだが」

「……え……?」

「な……本当……なのか……?」

 男の姿がまたはっきりと目に映り出した。

「……なら……今度こそ……!」

 思わず立ち上がる。

「落ち着け、お前達との契約は三日前に戻す事だったろう。お前達が同じ価値の魂一つしか払えない以上、戻せるのは三日前までだ」

「……三日前……!?そんなんじゃ……」

「だが、今回は特別だ。『どの三日前』かを選ばせてやる」

「……は……?」

 夫と二人共間の抜けた声が出た。

「一つは『元々の三日前』だ」

「……元々……?」

「要するに私に会う以前、娘が行方不明になっていた時間軸での『今から三日前の日付』だ。娘は生きているが、どこにいるかは分からないまま。分かりやすく言えば私に会う直前に戻ると思えばいい。時刻は今と同じだがな」

「…………?」

 夫婦二人で顔を見合わせた。

「もう一つは『今の三日前』、つまり丁度娘が自殺した当日の今の時刻だ」

「え……」

「それって……」

「その日の今の時刻を覚えているか?丁度ドアを開けてガスが外に流れ出た直後だ」

「は……?それじゃまた意味無いじゃない……!」

 折角希望を見せておいて、やはりこの男は悪魔なのか。

「そうか?少なくとも今ならばは分かるだろう?」

「…………!?」

 どくん、と胸の奥が鳴った。

「上手く立ち回れば、今度こそ『被害者遺族』になる事が出来るだろう」

「…………」

「…………」

 悪魔の誘惑が、耳から体全体に染み渡っていくような感覚だった。

 それを見透かしているのか、男はにやりと口角を釣り上げた。


「――さあ――どちらを選ぶ――?」

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リセット子育て 水神竜美 @tattyi

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