第9章「大湊の化身」_2

「遅い?」ヒグルが不安そうに尋ねた。言葉の背後にある何かが気になっている。


「大丈夫。みんながここにいるのが知られるのは、もっと先だと思う。それに、いずれにしても」シュリは続けた。「だからここで話す。巫女についても、ほかのことも」


 白鈴はシュリの言葉に耳を傾けつつ、周囲の状況を考慮していた。時間の余裕はないが、彼女の表情には決心が見えた。


「こいつは? どうする」目黒は壁際の男を指さし、警戒心を示した。


「彼なら、聞いても平気」シュリは静かに答える。彼女の言葉には、何か特別な信頼感が込められているようだった。


 糸七に動きは見られない。彼の沈黙は不安を煽るが、白鈴はその言葉を受け入れ、仲間たちと共にシュリの話を聞く準備を整えた。これからの行動が彼女たちの運命を大きく左右することを、誰もが予感していた。


 シュリは糸七を一瞥し、その後、ゆっくりと話し始めた。「屋水のことは、おばさんから聞いたの? だからここに……」


「いや。上井から聞いた。リュウの妹だと」白鈴が言った。


「テングのお面をつけてる人にね。シュリのこと、教えてもらった」ヒグルが補足する。


「上井から聞いたんだ。そう、私はツキビト。屋水の巫女リュウの妹」シュリは自らの立場を明かした。


「なぜ、言わなかった?」白鈴は疑問を投げかける。


「言ったら、絶対、白鈴ついてくるなって言うの、わかってるから」シュリの言葉には、彼女の苦悩が滲んでいた。


「それは……」白鈴は思わず言葉を詰まらせる。彼女は考え込む。否定はできなかった。知る機会はあったが、深く知ろうともしていない。


「いま、大湊は、火門は、過去にツキビトが封印したという『化け物』が、どこにいるのか、それを知ろうとしてる」


「やはり、か」白鈴は呟いた。「大湊に聞かれたのか?」


「柄木田から」シュリは静かに答える。


「シュリのお姉さんは知っているの? それで、シュリも……」ヒグルが尋ねた。


 シュリは「わたしは……」と言いかけて俯く。そして、首を横に振った。彼女の表情には不安と戸惑いが浮かび、心の中で葛藤が渦巻いているのが見て取れた。


 目黒は溜息をつき、不満げに言った。「なにが何だかわからんものに頼ろうとしている。冷静に見てよ。正気とは思えねえな」


「だが、それが事実だ」糸七が静かに反論し、立ち上がった。「少なくとも、柄木田はその『化け物』に興味を持っている」


 目黒は驚いた様子で彼を見つめる。「お前、口が利けねえのかと思ってたら、話せたのか」


「ただの賊と言葉を交わす必要がない」糸七は冷静に返した。


「いま、してんだろ」目黒は苛立ちを隠せずに言った。


 糸七は一瞬、言葉を失ったが、すぐに続けた。「屋水姫の風習は知っているな。正確には、『この国の風習』になるが」


「ああ」白鈴は頷いた。「十二に近付けば、生まれ月よりあとの満月の日は、家にいろ。だったか?」


「探している化け物とは、この国にその風習を生んだ存在だ。ただの作り話とは考えないほうがいい」糸七は真面目な顔つきで続けた。そこには、過去の痕跡と警告が込められていた。「屋水姫と間違えられて姿を消した女子は一人だけではない。習わしと、なっただけの理由がある。記録としても残っている」


 屋水姫の風習は「十二」と言われているが、人によっては「十一」で行う者もいるらしい。そして、十二になる歳にも同じことをする。それから、「十三」になる歳にも習わしとして行う者もいるようだ。


 その曖昧な部分は、「間違えられたら」というところから来ている。糸七の言葉は、ただの伝承ではなく、実際に多くの人々がその風習に従い、恐れを抱いてきたことを示唆していた。


「彼女は、女の神様だ。屋水姫が戦った鬼の中には、その力、美しさに心酔した者もいる。それが、屋水姫の秘密と言われている」


「むかーし、むかし」目黒は少し間を置き、言葉を続ける。「噂を聞きつけてやってきた、金持ち、権力者から、縁談があった。だが、いつからか、人ではないものからも狙われるようになった。そんな話だ。そんで、この話に出てくるのが――」


 彼の言葉には、長い時を経た伝説の重みが感じられた。彼らはその神秘的な物語に引き込まれ、屋水姫の影響力がどれほど大きかったのかを思い知らされる。


 糸七は刀に手を添え、警戒心を露わにした。指先が微かに震え、視線は細やかに動き、呼吸は浅い。彼の動きが異常事態を告げている。


「どした?」目黒は彼の変化に気付いた。


「倒していなかったのか?」糸七は睨んだ。


「生きていたか」白鈴はその目で確認した。床から現れようとしているのは、機関銃を身につけたかかしだった。


「ここは任せろ。お前たちは、城から出ろ」糸七は内に秘めた熱意を滲ませて指示を出した。


「こんなやつ、全員でやれば……」目黒は不満を漏らした。しかし、その言葉は糸七に無視された。彼は一歩前に進み、決意を持ってかかしに向かっていく。


 シュリは俯いていたが、顔を上げて言った。「糸七に任せよ」


「行け」


 糸七は一言だけ告げ、振り返ることなく、戦う準備を整えた。


 


「彼を残してきてよかったの?」


「大丈夫。糸七なら。うん」シュリは自信を持って答えたが、心の奥では少しの不安も感じていた。


 ヒグルは柄木田の研究施設を離れた後も、出会ったばかりの糸七を心配していた。石隈いしくま糸七いとしち喜秀よしひで。若く見える彼は、大湊に従う侍ではないのだろうか。彼の正体や意図が、ヒグルに疑念をもたらしていた。


 かかしとの戦闘は騒がしかったに違いない。銃声が城内に響き渡り、激しい衝突の音が周囲に広がっているはずだ。しかし、その音は不気味な静けさの中に消え、城内には誰もいないかのような異質な静寂が漂っていた。


 白鈴は黙ったまま、周囲を見渡しながら警戒を強めた。彼女の直感が、待ち伏せがあるだろうと警告を発していた。心臓が高鳴り、足音が響くことさえ恐れられる状況の中で、彼女は一歩一歩慎重に進んだ。


「そんな……」シュリは声を震わせた。


「火門」ヒグルはその名を口にした。


 ありそうにない展開に、彼らは思わず立ち止まった。脱出へ急いでいたはずなのに、まさかこんな状況で城主と対面することになるとは。緊張感が一気に高まり、周囲の静寂が彼らの心に圧迫感を与えた。


 状況から考えるに、侵入者がいると気づいた大湊火門真道は、その場で待ち構えていたのだ。彼の存在は、彼らにとってまさに脅威だった。計画を根底から覆すものだった。


「まさか城まで来るとはな」火門は立ち止まった彼らに目を向けず、冷淡に呟いた。彼の声には驚きと共に、どこか侮蔑の感情が滲んでいた。


「よほど、一人が好きなようだ」目黒は凍りついたような空気を物ともせずに口にした。彼の声には、不安と挑戦が交じっていた。


 城主のほかに、誰かがいてもおかしくないはずなのに、周囲は静まり返っている。まるで何かが彼らを見守っているかのようだ。


「シュリ」火門は静かに名を呼び、彼女の目を真っ直ぐ見つめた。彼の眼差しには、冷淡さと同時に何か別の感情が宿っているように感じられた。「考えは変わらないか。国のために協力する気はないか?」


「火門様、変わったね。なんだか……まるで」シュリは言葉を選びながら、彼の変化に戸惑いを隠せなかった。彼女の心には、かつての彼とは違う冷ややかな雰囲気が強く影を落としている。「要求は飲めません。私にはできない」


「そうか。まあいい」火門は一瞬の間を置き、冷静に答えた。その表情には、どこか冷ややかな感情が見え隠れしていた。シュリの固い意志を軽視するような響きがあった。


「であれば、お前の姉に直接聞くしかないようだ」彼の言葉は、鋭い刃のようにシュリの心に突き刺さった。彼女の胸に不安と恐怖が広がり、冷や汗が背筋を走る。


「大湊、答えろ。この国で、何をするつもりでいる」白鈴は毅然とした口調で問い詰めた。


「間違いを正す」火門は答える。その口調は変わらず、彼の意志の強さを感じさせた。


「間違い?」白鈴の眉がひそめられる。彼女の心には疑念が渦巻いた。火門の言葉が何を意味するのか、理解できないまま彼を見つめた。


「取り戻すのだ。忘れ去られた、栄光をな」火門の言葉には、確固たる決意が込められていた。しかし、その内容には一種の危うさが潜んでいるように感じられ、白鈴は心の奥深くで警鐘が鳴るのを感じた。


「返答次第ではと考えていたが。無駄だったかもしれないな」白鈴は一瞬の沈黙の後、前進し、刀を抜いた。金属が擦れ合う音が静寂を破る。


「この国に、そんなものはない」彼女の声には、強い反発が滲んでいた。火門の目指すものが自分たちの理想とはかけ離れているという確信があった。


「刃を向けるか。共に、歩もうとは?」


「私は家族を失った」白鈴は首を振り、言葉を続けた。「お前は二度、屋水を襲った」


「共に歩めば、そんなこと気にならなくなる」彼の狡猾さが見え隠れしている。


 白鈴の心は決まっていた。強く握りしめた刀を、鞘に納めようとはしない。その決意は揺るがなかった。彼女の内には、火門に対する憎しみが燃え盛っていた。


「では、しかたない。お前も欲しかったところだ。後悔はするなよ」火門は挑発的に言った。その言葉は、白鈴にさらなる怒りを引き起こした。


「だれがするか」白鈴は激しい気持ちを込めて応じた。彼女の目には、火門への強い敵意が宿っていた。


「いや。そうなる。『鬼』である、お前ならな」火門は冷たく微笑み、刀に手をかけた。


 シュリの救出から城内での戦闘が始まり、先に仕掛けたのは白鈴だった。彼女は一番月見櫓での敗退を一瞬思い出したが、その切っ先や動きは鈍ることはなかった。燃える思いが、彼女の動きを一層鋭くしていた。


 時間としては非常に短いのだが、この時もまるで橋の上で二人だけの戦いを繰り広げているかのようだった。目黒はすぐに間に入ろうとはせず、ヒグルもまた、介入する隙を微塵も感じられなかった。ヒグルは背中を見せない。目黒は目を離さない。参加できる、ここだと思える瞬間を待っている。


 白鈴は油断を突いて追い込もうとした。彼女の心の中には勝利への期待が高まり、機会を逃すまいと鋭い視線を火門に向けた。しかし、火門は(感心するべきか、当然か)焦る素振りも見せず、冷静に構えていた。


 白鈴が繰り出した一撃は、雷のように速く、彼女の全力を込めたものであった。しかし、火門はその攻撃を見越していたかのように、とてつもない力強い一振りで持ち直す。彼の刀が白鈴の刀を受け止めたその時、衝撃が彼女の腕を震わせた。


 後退しながら、白鈴は最近の出来事を振り返る。


 かげかげに目をやり、敵に視線を向ける。


 二人の間に繰り広げられる激しい戦闘が一時途切れると、火門はそれ以上の動きを見せない。彼は距離を詰めず、白鈴が床を蹴り走り寄るのを待ち望んでいるかのように静かで堂々としていた。


 すると、火門の視線がふと壁の方へ向けられた。何かを感じ取ったのだろうか。


 壁が大きな物音を立て、崩れ始める。材木が悲鳴を上げ、瓦同士がこすれる渇いた音が混ざり合い、不気味な緊迫感が漂う。白鈴はその異変に驚き、瞬時に身を構えた。


 突然の崩壊の原因は、がしゃどくろだった。巨大な骸骨の鬼が建物内へと手をねじ込み、壁を破壊し、中を覗こうとしている。その姿は悪夢の中から這い出てきたかのようだ。


 白鈴は一瞬だけ火門から目を離していた。元に戻すと、異変に気付く。


「なんだ、こいつは……?」彼女の声が震えた。


 目の前には、火門の姿が消えていた。周囲は夜の闇に包まれ、灰色の霧が立ち込め、視界を遮り、次第に城の内部の様子が歪んでいく。まるでこの場所が生きているかのように、形を変えていく。


「大湊の、化身」シュリが言った。そこには緊張が混じっていた。


「火門はどこにいきやがった?」目黒は周囲を見回した。


 その時、彼らの前に現れたのは明らかに人ではない存在だった。人の形をしているようで、しかしその本質は異なる。白鈴は特徴を捉えようとした。蛇だろうか? 頭部と思わしき場所には人間の顔があり、黒い髪は長く乱れている。蛇には似合わない腕と足を持ち、体長は大人二人分ほどもある。その姿は、恐怖と異様さを醸し出していた。


「白鈴、私も戦う」シュリがそう言って隣に並ぶと、彼女の前に巨大な骸骨の手が伸びてきた。


「白鈴、こいつは任せろ」目黒がその手を阻み、力強く言った。その後、彼は一瞬立ち止まり、屋外へと出て行く。「屋水での借りは返す」


「手伝おう」糸七が駆け込んできた。彼は、かかしとの戦闘を終えたばかりのようだった。片手には刀ではなく、槍を持っている。


 白鈴は一瞬、糸七を仲間と考えていいのか迷った。しかし、判断する時は今ではないと思い直した。彼らの運命が交差するこの瞬間、重要なのは彼の力を借りることだった。


「私も」白鈴の傍で、そっと聞こえた声はヒグルのものだった。彼女は恐れを見せず、目の前にいる脅威へと視線を向けていた。


 大湊の化身。白鈴は心の中で呟く。その存在がどれほど恐ろしいものであろうと、決して引き下がるわけにはいかなかった。彼女の胸には戦う覚悟が高まる。


 


 大湊の化身は否定するのが難しく、「鬼」であることは間違いなかった。その者が持つ力は、この国で頻繁に見られる他の鬼とは比べようもないほど強大であった。今、この時、白鈴一人では大湊の化身を倒すことはできなかった。ヒグルの魔法の力を借りても、シュリの力を借りても、容易にはいかない。


 一見するとその動きは鈍いようにも思えるが、運が良くない限り、戦闘経験のない者がこの鬼の攻撃をかわすのは至難の業だ。伸びる腕は奇怪で自在、そして非常に破壊力がある。物理的な攻撃だけではなく、大湊の化身は不思議な力も使ってくる。


 かげかげによって斬られた部分は、即座になにもなかったかのように再生していく。斬られることに抵抗がないのだろう。彼には、戦うための余裕があるように見えた。


 唐突に白鈴たちの見える景色が変わったのも、大湊の化身による力の影響だ。上品な造りであった城の内観が、一瞬にしておどろおどろしいものへと変貌を遂げた。不気味な霧が立ち込め、周囲は悪夢そのもののような表情を浮かべている。


 目黒と糸七は二人で巨大な骸骨と戦っている。建物から飛び出した彼らの姿は、白鈴たちには見えず、現在の状況を把握することはできなかった。外では、一体何が起きているのか?


 三人で戦える。それが、戦局を動かした。


「……あっちは平気かな」ふとした時に、ヒグルの口からそんな言葉が漏れた。彼女にとって、明らかに強者との戦闘であったが、彼女の心には不安がよぎっていた。もしものことが起こりはしないかと気にかけているのだ。


 白鈴はヒグルの表情を見つめた。その集中力は感じられるが、同時に彼女の心の奥に潜む不安も伝わってくる。


 白鈴は戦いの最中、徐々に技量を高めていた。彼女の動きは次第に鋭さを増し、相手の攻撃を見極める力も確実に向上していた。敵の動きが見え、瞬時に反応できる自分を実感するたび、心の中に自信が芽生えていく。しかし、その成長を敏感に察知した大湊の化身は、じりじりと反撃に出る準備を整えつつあった。


 白鈴の意識が高まったその瞬間、彼女の身体に冷たい感触が襲いかかった。伸びる腕が鋭い力で彼女を掴み、金属のような圧力が全身に広がる。驚愕と痛みに彼女は息を飲み、心臓が激しく鼓動する。捕まったその刹那、彼女の思考は一瞬停止した。


 しかし、その恐怖は長くは続かなかった。周囲が急激に明るくなり、魔法の光が彼女を包み込む。すると、化身の腕が緩み、白鈴は再び自由を取り戻した。


 彼女は「一人」で戦っているわけではないのだから。しかし、それにしても、大湊の化身はまるで状況を理解しているかのように、しっかりと三人を相手にしていた。力強い攻撃を繰り出し、彼女たちの連携を崩そうとしてくる。


「ここに長く居るのはよくないかも」シュリは周囲の空間を観察し、冷静にそう述べた。彼女の目には、危険を察知する鋭敏さが宿っていた。


 猪武者。白鈴の巧みな一撃でこの戦いは幕を下ろす。


 大湊の化身は、白鈴の一撃を受けて痛みを泣き叫びながら、無秩序に暴れまわる。その姿は、かつての威圧感とは裏腹に、混乱に陥っていた。周囲の障害物を叩き壊し、恐怖をまき散らしながら、ついには姿を消してしまった。


 次に起きた出来事、内観は元に戻り、それは壁を突き破るほどの凄まじさ、青年が一人槍を片手に彼らの前に現れた。両脚で着地した彼は、その勢いを弱めることができず、反対側の壁に背中をぶつけた。


「糸七?」シュリが彼の名を呼んだ。白鈴たちは驚愕の表情を浮かべた。彼の姿が目の前に現れるとは思ってもみなかった。


「聞いていたとおりだな。流石に簡単にはいかないか」糸七は槍をしっかりと握り、鬼の一撃でも防いだのだろう。彼の表情には、戦いの痕跡が浮かんでいた。飛ばされてきたようだが、その目には決心が宿っている。


 すると、遅れて目黒も姿を見せた。彼の表情には、戦いの緊張感が漂っていた。勢いに負けて壁に背中をぶつけるほどではなかったが、彼の姿勢は明らかに警戒している。


 目黒は姿勢を変え、隣にいる者に問いかけた。「おい。まだいけるか?」


「もちろんだ」


 目黒は糸七の具合を確認し、安心したように視線を移動させた。「そっちは終わったのか?」彼の声は大きく、周囲に響き渡った。


「ああ」と白鈴は答える。


「火門は?」目黒が尋ねると、彼女は首を横に振った。


「なんだ? どこに向かう気だ?」目黒は不安を感じながら言った。その時、耳に届いたのは、何か鳴き声のような歪な音だった。彼は建物に開いた穴の向こう側を見つめた。


 霧に包まれた世界が広がっている。その先には、未だ巨大な骸骨の鬼がうごめいていた。


 白鈴も外側へと注意を向けた。「――夜が明ける。逃げるつもりだ」


「なんだと?」目黒は事態に固まっていた。彼の頭の中では、混乱と不安が渦巻いている。二秒ほど経過して、ようやく続行しようとその場から動き出した。


「目黒」白鈴は彼を止め、真剣な表情で言った。「脱出しろ」


「ああ?」目黒は驚き、言葉を失った。


 彼女は、目黒に近づいていった。すると、彼女の傍から声が聞こえてきた。「なに? どうするの?」それはヒグルの声だった。


 白鈴は立ち止まり、「追いかける……」とだけ口にした。「ここから出ろ。城下も、安全じゃない」


 目黒はやや不満げな表情を浮かべたが、彼女の言葉を理解し、その意図を感じ取った。最後にはその思いを飲み込んだ。「ああ。行ってこい」


 白鈴は頷き、跳躍して鬼がいる穴へと、その霧の中へと消えていった。


「白鈴……」ヒグルは呟いた。


「行くぞ」目黒が前に出て、仲間たちを促した。


「……目黒」ヒグルは不安そうに彼を見つめた。


「あいつなら、また会えるさ。急ぐぞ」目黒は力強く言い、仲間たちを励ます。


「行こ」シュリが言うと、ヒグルは小さく頷いた。彼女の心にも、白鈴を信じる思いが芽生えていた。


「急げ!」目黒が先導し、仲間たちは一緒に動き出した。彼らの心には、白鈴の無事を祈る気持ちと、再会への希望が灯っていた。


 


 白鈴は城の屋根に立ち、周囲を確認した。霧は濃く、何も見えない。視界が遮られる中でも、彼女は確信していた。あれがすぐ近くにいるのはわかる。


「時間はまだある」彼女は静かに呟いた。


 かげかげを軽く振り、戦う準備を整える。


「散々暴れてきたんだろ。ここからは、こちらの番だ」


 その言葉には、彼女の決意が込められていた。敵に対する恐れは微塵もなく、むしろ戦うことへの意欲が高まっている。白鈴は自らの役割を果たすため、全身全霊で立ち向かう覚悟を固めた。


 霧の中から、敵の気配がじわじわと迫ってくる。その存在を感じながら、白鈴は一歩前に出た。彼女は鬼から次々と攻撃を受けるが、うまく対処し、巧みに身をかわす。掴まれるわけにはいかない。


 彼女は闘いつつ屋根を駆け抜けていく。


 巨大な骸骨だけではなく、他の鬼たちも集まってくる。彼女の目に飛び込んできたのは、体の長い魚のような姿。だが、前足のようなものが生えており、異様な動きで迫ってくる。


 鬼の群れを抜けて、彼女が目にしたものは、想像を絶する光景だった。「……何が起きてる?」彼女の心に衝撃が走る。この国は既に――。鬼の国だった。


 おびただしい数の鬼が城を囲んでいる。彼女の胸に恐怖が広がり、戦う意志が揺らぎかけた。しかし、仲間たちのことを思い出し、白鈴は強く自分を奮い立たせた。彼女は戦うためにここにいるのだ。


 白鈴は霧の中でかげかげを振った。手応えがあったような感触が指先に伝わる。


 次の瞬間、白鈴は躊躇いなく崖から飛び降りた。「来い!」その声は冷たい霧を切り裂くように、周囲に響き渡る。空中で彼女は、一瞬の自由を味わった。風が彼女の髪を撫で、心に潜む恐れを吹き飛ばしていく。


 落下するにつれて、霧が徐々に晴れ、視界が開けていく。目の前には、無表情の骸骨の鬼が待ち構えていた。鬼の背後から、まるで生き物のようにうごめく鬼雪崩が姿を現し、彼女に襲い掛かろうとしている。


 白鈴の心臓は高鳴り、時間が止まったかのように感じた。彼女は空中で、恐ろしい光景に直面していた。鬼の長い腕が伸び、同時に鬼雪崩が彼女を飲み込むかのように迫ってくる。まるで二つの脅威が同時に彼女に襲いかかるような、絶体絶命の状況だった。


 白鈴は刀を構えたまま、逃げることなく立ち向かう。無茶な行動だと理解していたが、後には引けなかった。彼女の体は鬼雪崩から必死に抜け出したものの、すでにひどく負傷していた。肩や腕に深い傷があり、痛みが全身を貫き、意識が薄れそうになる。


 それでも、白鈴はその痛みに耐え、仲間たちの顔を思い浮かべた。共に過ごした日々が、彼女の心を支えた。


 負けるわけにはいかない。白鈴は自らを奮い立たせた。彼女の胸には、仲間を守るために戦うという強い意志が宿っていた。傷だらけの体を振り絞り、再び刀を振りかざす。刀の刃が光を受け、彼女の決意を映し出すかのようだった。


 目の前の敵に向かって、白鈴は一歩前に出た。




 花気かき風来ふうらい


 


 それは、二つの太刀筋に分かれていた。まず一つは鎌鼬の如く相手の急所を狙う一手。


 そして、少し遅れて詰め寄る白鈴。

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