第7章「屋水襲撃 馬の頭」_2
地面を蹴る。人の体をやめて、「水」となり、彼女をそこから押し出すようにして器用に包み込む。
大きな斧が勢いよく飛んできた。間一髪のところで、避けることに成功する。
地面に寝転ぶかたちとなる。白鈴は水の体で倒れ込んだとき、その衝撃を吸収した。
サモンは何も言わない。それは当然のごとく、うろたえている。
「平気か」白鈴は心配して徐々に人の体に戻して尋ねた。
「う、うん。あ、ありがとう」
「喜べないが、こんな体でも、役には立つのか」
その瞬間、彼女にはしおらしく振る舞う色が見られた。
サモンは黙っている。かける言葉見つからず、相手を見詰めており、動こうとしない。
「おい、平気か? 頭を打ったか?」
「だいじょうぶ。ちょっと、急に色々起こりすぎただけ」
「そうか」
「はあ、びっくりした」その場で立ち上がると、サモンが独り言のように呟いていた。彼女は斧が見えていたようだ。その方角に目をやっている。極めて僅かな間ではあったので、それが「斧」であったかどうかはわかっていないかもしれない。
白鈴はあとになって気付く。そうだ、喜べないと彼女は思った。それは、助ける為ではあったといっても、サモンにとっては、突然、鬼が(私が)襲い掛かったようにしか見えなかっただろう。
背中を向ける。白鈴は刀を取り出して、抜いた。
「サモン、『馬』というのはこいつか」
霧のなかから姿を現したのは、大きな怪物だった。そのぼんやりとした影だけだと、人のように見える。馬の頭、人間のような体格、二本足で立っている。
攻撃してきたのは、馬男。離れたところから投げてきた。それで違いない。
「そう、こいつ」
馬男は居場所を見失っていたのか、声に反応した。口を開けて鳴き声をあげる。
白鈴は刀を構えて、それから行動する。相手が考えもなしに突っ込んできた。
巨体、力でねじ伏せようとしている。正に敵意に満ちた者の行動は、そのように見えた。他の鬼よりも気性の激しいとでもいうべきか、そのまま暴れ馬のようだ。
動きがあまりにも大振りかつ単純である――白鈴はその肉体を活かした攻撃をかわすと、斬りつけようとする。
彼女は刀が触れようとするところで、それを止める。斬ることなく引っ込めた。
思うように距離を置くことは難しい。手首か。それとも足か。首は無理だろう。どうにか一瞬の隙をついて、彼女はいくつか別の方法を試す。
かげかげを振った。猿猿猴。だがそれでも、その体を斬ることは叶わない。
次の手だてを考えていると、馬は火に包まれた。
「白鈴」
名を呼んだのは、ヒグルだった。彼女はサモンと共にいた。
「一旦、引こう」
「刃が通らない」
「やっぱり」
馬男から逃げて、白鈴は斬らない理由を説明した。それは触れる前に判断できた。
「刀引っ込めたから、怪しいと思った」
「刀で切れない体って、あの馬、どんな体してんの」
「あと、少しな気はする」
不可能だとは考えていなかった。彼女のかげかげを眺める動作は実現を漂わせている。
「ヒグルさ、この霧、魔法でどうにかならない」
「ごめん、私には無理。原因を叩くのが一番早いかも」
「そっか。ううん。こんだけ探して。目黒、生きてるよね。骸骨にやられてないよね。さっきの『馬に』ってのも考えられるし」
「目黒なら、平気だろ」白鈴に心配はなかった。
「うん。だと、いいな。まあ、目黒だし」
白鈴は頷くと、耳を傾けて、次に刀を抜いた。その方向へと集中しつつ構える。
「ヒグル、サモンを」
「たいした時間は稼げないか。サモン、こっち」
ヒグルが後方へと下がっていく。一箇所に固まっているのは得策ではない。
白鈴は息を吐く。敵は見えない。刀を軽く振った。
霧の中から彼女に向けて、ふたたび「斧」が回転しながら飛んできていた。しかしその軌道は、白鈴によって勢いが失われる。
「斧」は空高く昇り、音を立てて、地面に突き刺さった。
視界不良であることも原因の一つである。しかしそれ以上に予期せぬ事態が発生する。白鈴は十分に用心していた。相手の出方を窺っていた。けれども、彼女は対応に遅れてしまう。
霧の中から忽然と生まれたように、そこから馬男がぬらっと出てきた。動きが変わった。白鈴はそのときそう感じた。聞こえなかっただけとは思えない。近付く足音もなにもなかった。
投げられた斧よりも速いかもしれない。馬男の体が見えた時には、もう彼女にはどうすることもできなかった。
胸か、それよりも上。胸骨を特大な拳が打った。
辛うじて、白鈴は左手で相手の腕を握る。
小さな手には、それはあまりにも逞しすぎる腕である。
体に走る衝撃は凄まじい。彼女の意図としては、他が難儀であるなら「相手の目を奪おう」と、壁となり、拳を受けて、反撃に出るつもりだった。しかし、逆手に取るにはそれもまた遅い。
馬男の腕に跨るかのように跳び上がるが、好機とするにはもろかった。
馬男は同じ姿勢でいるはずもなく、白鈴の動きは容易く捉えられ、そうして彼女は地面に叩きつけられる。
あとは、やりたい放題。ふろろ、と雄叫びのような声も発せられる。
白鈴はたいした抵抗はできなかった。最後には、仰向けとなって、とても写実的で大きめな人形であるかのように、巨体からひたすら殴られるという光景が続く。
ヒグルとサモンは見ていることしかできなかった。銃弾を撃とうと、効果がないとわかったし、魔法を使ったところで無いものとして扱われる。
魔法を使うにしても一つ間違えれば、白鈴を巻き込む。
端的に言って、二人にとって見るに堪えないものだった。判断は劣るし、冷静となり考えて行動するには目まぐるしく変化している。
もう抵抗もできていない相手を乱暴に殴りつけている。それはとっくに亡骸ではないのか。やめはしない。無慈悲であり、狂気であり、恐ろしい鬼がいた。
「もうやめて」とサモンは叫ぶ。
「サモン。行っては、駄目。逃げなきゃ」
彼女は、馬男に近付くなと引き止められる。駆け寄ってはならない。
そこに、思いはある。
ヒグルの態度は、彼女の心を落ち着かせた。
なぜならそう言葉にはしても、ヒグルもまた同じ思いだった。
「社なら安全だから、そこまでとにかく一緒に逃げよ」
決心して行動するのは簡単ではない。鈍い音はやむことなく、満足していないのだろう、まだまだ殴り足りないのだろう、抑えられない怒りをぶつけるかのような惨状がある。
二人は苦しみや悲しみを抱えて、その場から逃げることにした。
「サモン、もう少しだから」
「うん。わかってる。……でも」
サモンは全力で走ることはできなかった。これまで痛みを我慢して耐えてきたが、薬の効果でも切れたかのごとく、その顔も苦痛に歪んでいる。
去り際、馬男が追いかけてくることはなかった。白鈴だけを見て、形が変わっていくさまでも楽しんでいるのか、そう思えるくらいこちらを見向きもしない。
巫女がいるというお社に向かっていると、地面を殴る音はふっと止んだ。
「もう走れないかも。その時は、ヒグル、あなただけでも逃げて」
「なにを言ってるの」
「わたしは。体がもたない。おねがい」
彼女は「自分はここに残る」と言っている。馬が来ていると考えている。その時となれば、二人で逃げ切るのは難しいと。
介抱しながらお社を目指す――そうして終に、二人が恐れていた事態が目前に迫っていた。
ヒグルは彼女を残して、『どこかへ行く』なんて行動は取らない。自分だけ。ここまでくると、そんなことはヒグルにはできなかった。
とうとう魔法使いは、本領を発揮しようとする。味方がいる環境ではできない魔法を試す機会だった。力加減を間違えようと、手元が狂おうと、誰かが傷付いたりはしない。
馬男は追いかけてきた。ところが、どういうべきか、臨戦態勢ではなかった。戦う気があったのか怪しい。いや、ありはしただろう。とはいえ白鈴の時のような、霧の中から亡霊のように現れて、即刻攻撃を仕掛けようという感じではない。斧も飛んでこない。
ヒグルは、魔法を使う。白い空間の向こう側で、大きな爆発が起こる。
近くの霧は爆風で流れていった。
「これも効かないの?」
大きな人影が見えたところでヒグルは呟いた。馬男はその二本足で立っている。重量感のある立ち姿、歩く姿は痛手を負っているようには思えない。
よってヒグルは、次に試そうとしていた魔法を使うことはなかった。効果がないのでは、と脳裏をよぎってしまった。恐怖にもかられ、足が動かない。
他の方法など、考えている暇はない。やってみればいい。しかし、彼女は歯が立たないと、前もって用意した手段を頼ろうとはしなかった。
「ヒグル、なにやってるの」
サモンは隠れていたが、結局出てきてしまう。ヒグルの傍に立ち、腕を取る。
その頃といえば、馬男は既に二人の目の前まで来ていた。
見上げるほどの大きな体。強靭な肉体。それに『彼女』はやられた。
なにもしてこない。どういうことだろう。気性の激しさが失われている。それが余計に恐ろしさを与える。ゆとりを窺わせる闊歩。息遣い。無駄だ、逃げられないぞと。
(この環境のせいだろう)地の果てまで追いかけるぞと。
あの小さいのと同じ目に合わせるぞ。
男の手が、ゆっくりと動き出す。
ヒグルにサモン、二人はじっとその時を待つ。
すると、風が吹いた。
馬男はその手を止める。耳が動く。気配を感じた。そのようだ。体は動いて、背後を意識する。
離れた場所に、人影がある。少女のような見た目だった。片手には刀を持っている。
姿が見えるようになると、その女は黙ったまま、凛と構える。白鈴だ。
彼女の服が変わっている。あれだけのことがあれば、いくらなんでも傷んでしまったようで、以前の物を着ていた。破れた個所は補修してある。その上をシュリの布で隠している。
馬男は、敵とみなした。ふろろと叫び声を上げると、猛進していく。
拳を振り上げる。白鈴に目掛けて、確実にそれは振り下ろされようとしていた。
彼女は待っていた。相手がどういった行動を取ろうとするのかわかっていたので、準備して待ち構えていた。
――流。かげかげが振られると、馬男の振り下ろした拳が元へ戻るように弾き返される。
やはり、その体は、ちょっとやそっとでは斬ることは難しいようだ。切創にならない。
その大きな隙、そこに白鈴は狙いを定めていた。「決める」神経を研ぎ澄まし、刀を振り下ろす。鹿――。
侍と鬼。印象を受ける者もいるだろう。大湊の昔話にでもありそうな一場面であった。
馬男の体にとうとう刃が通る。赤い血は噴き出し、赤黒い煙が立ち昇った。
男は傷を負ったのが驚きだったようだ。闘争をやめたようで、霧の中へと逃げていった。
まだまだ戦えそうにも見えたのだが。
白鈴は刀をしまう。追撃はしない。
二人が駆け寄ってくる。走るには支障ないヒグルが先だった。
「怪我は、ないな。間にあって、よかった」
「白鈴こそ。大丈夫なの?」
鬼を撃退した。とはいえ、勝利にはほど遠い。
「眠っているわけには、いかないだろ」
ヒグルはすぐには言葉が出なかった。そして、「ありがとう」と彼女は言う。
馬男との再戦はなし。三人で話し合い、よって屋水の巫女のいるお社へと向かう。巨大な骸骨はあれから、その手、指先であろうと、傍にいるとは思えなかった。
太陽が昇る朝までだ。聞く限りでは、夜が明けさえすればいなくなる。お社で、彼らはこの苦境を辛抱し乗り越えようとする。
「霧が、晴れてきた?」
サモンは視界が利くようになり、そう言って立ち止まった。
「――あれ」
ヒグルが異変に気付く。夜空を覆うような大きく黒い影が、筍のように生えてきた。
今度はなんだと思えば、正体は巨大な骸骨である。
しかし、よくよく考えるとおかしなもので、社とは反対の方向を向いている。
「近くで見ると、でかいな」と白鈴は呟く。
「うん」とヒグルは頷いた。
鬼はとりあえず急いでいるふうには見えなかった。振り返り、社を目指そうともしない。
体を出したのは、何か理由があるのか?
すると、鬼は動き出した。不気味な音を立て、片腕があがっていく。
それは煙だろうか。火にも見える。鬼は片手に握っていた。
白鈴は怪しみ、目を凝らして、ようやく事態を知る。
「シュリ? シュリがいる」
「えっ? なんで? どこに」ヒグルは見入っていたが、そこまでわからなかった。
「あの手だ。捕まってる」
ここで相談は必要ないだろう。白鈴は助けに行くべきだと考え、行動する。
シュリは気を失っている? 何が起きた。争っている間に、社は襲われてしまったのか。
鬼は握り潰そうとしていた。これまでの人間と同じように、彼女を食べようとする。
白鈴は阻止できない。
この時、どうすることもできない状況であった。
鬼に近付く者は、彼らだけではない。
「たすかっ、た?」
「いや……」
鬼の手から、シュリは解放された。骸骨は取り戻そうと腕を伸ばすが、朝日もないというのにそこで消えてしまう。
危機から彼女を救ったのは、目黒ではなかった。
お面の男。忍びヌエ、幸畑である。
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