第三章 第三話
緋蝶は戸の向こうから聞こえる雨の音で目が覚めた。
「びっくりするぐらい、良く
「わたしって案外図太いわ。昨日あんなに
立ち上がって戸をそっと開けると、
こんなに雨が降っているのを見るのは久しぶりだと思いつつ、ほっと息をつく。
「あの子ども、本当に竜神様なんだわ。予告通り雨が降った。これでしばらくは
一月以上雨が降らなかったせいで、農作物に
「わたしが雫花帝になれなかったら、竜神様はこの国を去ると
部屋に戻って戸を閉めた。そして大きく息を吸い込んで、
「どんな試練だって乗り
自分に気合いを入れて、まずは
どこに片付けたらいいかときょろきょろしていると、戸の向こうから声が聞こえた。
「お目覚めになりましたか?」
女性の声だった。はい、と返事すると、そっと戸が開いた。
「まあ、緋蝶様。布団なんてそのままで」
顔を出したのは、自分より少し年下の少女だ。そういえば桜教殿に来て、女性の姿を初めて見た。花賢師以外で見かけるのは、従者の男と警護の武官ばかりだ。
余計な事をしたのかと布団を下ろすと、少女が静かに部屋に入ってきた。
「初めまして。
年も近い女性の姿を見て、何だかほっとした。
「緋蝶でいいです。こちらこそよろしくお願いします」
座って頭を下げると、茜が首を横に振った。
「私はただの
にっこり笑った顔は
「あの……わたしは昨日ここに来たばかりで、何も知らないんです」
「承知しています。準備を
「はあ……でも洗面も食事の用意も自分でしますけど」
貴族の屋敷で働いていたので、身分が高い人は使用人に食事やお湯を運ばせたりするのはよくわかっている。しかしいままで運ぶ側だった自分が、いきなり運ばれる側に回ると、何だか落ちつかない。茜がぶんぶんと首を横に振った。
「
(うっ! 茜の立場がよくわかる。わたしも東雲様のお世話を任された時もあったけど、東雲様ってば自分で何もかもやってしまうから、あとでこっぴどく不知火さんに
世話をされるのは何だか落ちつかないが、
(じたばたしたって始まらないんだから、わたしはわたしにできる精いっぱいの事をしよう)
朝食も終わり、
「ねぇ、茜。ここではあなたしか女性を見かけないけど……」
「はい。ここにいる女性は緋蝶様と私だけです」
桜教殿は東雲の屋敷の倍はあるのに、女性が二人だけというのは、おかしな感じだった。
「どうして二人だけなの?」
「ここは花蕾東宮が教育を受ける場であるとともに、夫君選びをする場だからです」
そういえば、そんな話を前にもされた事があった。
「わたし、あんまりよくわかっていないんだけど、夫君選びって具体的にはなに?」
茜が
「ご存じないんですか?」
「自分が皇族の血を引いてるって知ったのは昨日なの。ここで花賢師様達から教えを受けて、一月後にある花蕾東宮の位を授かる儀式を無事に終えなければならないっていうのは聞いたけど、夫君選びの事はあまり詳しくは……」
茜はそっとこちらににじり寄った。
「紗和国では女帝が君臨する決まりがあります。皇族の血を引く女性だけが、
たどたどしいが、茜の説明はわかりやすかった。苑紫や東雲はとてもいい人達だと思うが、貴族相手だと思うとどうしても身構えてしまうので、聞きたい事もなかなか質問できない。
「何人か女性の皇族がいれば、まずはその方達に教育を
「ああ、なるほど。でもいまは皇族の女性はわたししかいない。だからわたしが花蕾東宮になるのにふさわしいかどうか決めるわけね」
「そうです。そして花蕾東宮は、正式に雫花帝になる時に、後宮の男性達の中から夫を選ぶんです。雫花帝は夫とともに、国の安定の為に
それを聞いて、はっとした。
「じゃあ、ここにいる五人の花賢師様達の
改めてそう考えると顔が真っ赤になった。いずれも
「いいえ。五人だけとは限りません」
茜の言葉に目を見張った。
「どういう事?」
「いまの雫花帝が花蕾東宮だった時は、十人ほどの花賢師様と、それ以外にも夫君候補が数十人いらっしゃったそうです。ですので夫君候補は百人近かったとか。これからこの桜教殿も人が増えていくと思います。
いまの茜の話を頭の中でまとめてみる。
「……つまり、わたしはここで花賢師様達から教えを授かりつつ、雫花帝になる時にはここにいる男性達の中から夫を選ばなければならないと」
「その通りです! 緋蝶様、頭の回転が速いですね」
「教えは授かるけど、結婚とかまだ考えた事もなかったのよ。どうしたらいいの……!?」
がっくりと
「ここにいらっしゃる男性方は
茜の
「橙幻様は、
茜が
「暁様は主上のご子息です。皇子様としてとてもご立派で
「ちょっと待って。暁様って、あの
「知らなかったんですか?」
「ええ。だって、とても皇子様だなんて思えないような
「あ、それはそうです。花賢師様はみなさん同じ身分として
驚いて目を見張ると、茜が話を続けた。
「竜神様が、生まれもっての身分は本人の努力で勝ち得たものではない。そんなものにあぐらをかくのは気にくわない。だから花賢師はみんな身分を統一すると仰ったそうです」
少年の姿をした竜神の顔を思い出す。
「わあ、確かに竜神様はそういう事を言いそう」
ぼそっと
「緋蝶様は、竜神様のお姿が見えるんですよね。どんな方でしたか? とてもお美しく立派な青年の姿をしているという
(ただの生意気な少年だったけど、言わない方がいいかも。竜神様の
「……うーん。そうかもね。それより花賢師様達の身分は統一されているのよね。だから、花賢師様達はお
茜が気を取り直したように、居住まいを正した。
「そうです。この桜教殿は、花蕾東宮を教育する場所です。師である花賢師様達の間に、身分の差があってはよくないだろうというお考えもあるようです。それに……暁様は主上のご子息ですが男のお子様なので、皇位を
男女の差で、扱いがこうも
そしてふと、ある事に気づいた。
「……という事は、暁様はわたしのいとこになるのかしら」
茜が
「暁様もそれをご存じのはずよね。だけど昨日会った時はとても
「それはおそらく……あ」
何かを言いかけて、茜が慌てて口を押さえた。
「どうしたの? 何か知っているなら教えて」
少しでも情報がほしくて
「……ここだけの話ですけど、暁様には気をつけられた方がいいかもしれません。
そういえばと思い出す。蔵書室でも暁は女帝制度に反対だと言っていた。茜が話を続ける。
「男性が皇位につけるなら、暁様が
確かに暁の立場からしたら、
(これって、皇位争いってやつなのかしら。……そんなたいそうな事に巻き込まれるなんて、思ってもみなかった。ううっ、帰りたい……)
だが、ここで帰ったら命はないし、兄の
(ううん。ここで
「茜、またいろいろと教えてほしいわ。お願いします」
頭を下げると、茜が
「もちろんです。私でよければいくらでも。……では、さっそくお
そういえば、橙幻が女帝候補にふさわしい着物を用意したと言っていたのを思い出す。
「着付けのお手伝いをします。鏡の前にどうぞ」
大きな姿見を手で示した茜に従って、
(新たな出会いに、新たな生活。不安はいっぱいだけど頑張れるわ。
息を大きく吸い込んで、着物を
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