魔笛、The Magic

増田朋美

第一章

魔笛The Magic

第一章

「小澤君。」

先生が、教室の窓の外を眺めている、小澤博に言った。

「今、先生が言ったことをいってごらんなさい。」

博はぽかんとして先生を見つめた。クラスメイトが隣でクスクスと笑っているのが聞こえてくる。

「また怒られているよ。博。」

「まあ、自業自得ねえ。どうせ、バカなんだもん、放っておきましょ。」

「あ、あ、あの、、、。」

博は、口ごもったままそんなことを言うと、

「小澤君、余計なことを考えてないで、ちゃんと授業を受けなさい。外を眺めたままぼんやりしているなんて、小学生じゃあるまいし。」

先生はあきれた顔をして、博の事を見ていた。

「そんなこともわからないなんて、今は何を一番にするべきなのか、ちゃんと考えてよ!学生なんだから、勉強するのが一番でしょう!ぼんやりしてないで、ちゃんと授業を聞きなさい!」

全く、先生も余分なことをいうものだ。学生は、勉強が一番何て。勉強なんてとてもする気にはなれない。なんで俺はこんなことをしなければならないんだろう。勉強何て、成績がいい人だけやっていればいいじゃないか。だって、成績の良い人はうんと讃えられるけど、出来ない人は虫けらみたいな扱いをされる。先生なんて、出来る人だけ相手にして、出来ない人には何もしない。教えてと言えば自分で考えろとかっこつけて言うだけで、結局わかるようにはしてくれないじゃないか。友達も、勉強ができないと作ってはいけないと言われることもあるし、だからもう同級生と友達になんてなれないさ。できる見込みもなさそうだ、寂しいな、何て博は思っている。

家に帰っても、どうせ家族の言うことは、勉強しなさいしかないし、結局、俺って、何のために生きているんだろうと、博は時々考えるのだった。どうせ勉強では間違った答えしか出せないし、試験でいい点は取れないし、美術なんかで作品を作るにも、親が適当に作り変えてくれたおかげで、一にならずに済んだようなものだ。体育は、もともと足が遅いし、球技もさほどうまい方ではないので、ここで挽回していい成績をという訳にはいかないのであった。つまり、博は、勉強も運動も何もかもぜんぜんダメな、しいて言えば、生きているだけに過ぎない、存在意味のない高校生だったのだ。

どうせ、自分なんて、適当に行ける大学に入って、適当に入れる会社に入って、適当に結婚して、適当に家族を喜ばせて、適当に年を取って死んでいくのだろう。それしか自分には用意された道もないし、家族以外に人にとっては、自分は何の必要もないただの虫けらだと思う。どうせ、勉強ができないんだから、ただの馬鹿なやつと、親は、親戚や知人に言いふらしているだろう。勉強ができなかったら、碌な人生も用意されていないことくらい、博は知っている。どうせ、周りの人から何も必要ない人間として終わってしまうんだろうな。もしも願いが叶うなら、一度でいいから、一度でいいから、本当に一度でいいから、誰かに必要だって言われてみたい。それが、社会的に高いか低いか、そんなことは問題ではない。博は、そんなことをひそかに願う様になっていた。

「小澤君!下なんか向いてないで、黒板を見なさい!今から大事なことをいうって言っているのに、なんでわからないの!」

また先生に怒鳴られて、博はしかたなく、つまらないことが書いてある、黒板のほうを向く。そして、鈍い手で、仕方なくノートに黒板の字を書いていく。その作業だってつまらなかった。どうせくだらない単語ばかりをかかされる羽目になるのだ。

そのあとは特に、先生に叱られることなくその授業はおわった。まあ、ここに親がいて、監視しているわけではないけど、でも、どうせ三者面談もあることだし、それで授業態度が悪いとか言って、親に知らされてしまうんだろう。そして、また、なんでそんなことやっているのとか、叱られるんだ。ああ、俺は結局、親や先生に叱られるのしか、生きていく道もないのか。俺、もうこんな人生しかないんだ。もう生きてたって、仕方ないな、、、。俺、こんなつまらないことでしか、生きがいがないのかあ。どうせ、社会なんて、何もないし、出ていくの何てつまらないだけだよなあ。

そう思いながら、博は学校で過ごした。それを一日十時間近く繰り返されるというのは、つらいというより、苦しい時間であった。学校に行きたくないと、表現できる人はまだいいなと思う。それで親が何かしてくれるんだったら一層の事。うちは、少なくとも、そういう家族ではないなという事は、ちゃんと知っている。

やっと授業が終わって、放課後になった。放課後に部活何かやれるのは、成績のいい人だけに決まっている。悪い人は、部活をするより補習に出ることを強いられる。そんなからくりがあるのなら、部活なんて、初めから参加しないほうが得である。そういう訳で博は、部活には入部しなかった。幸いこの学校は、帰宅部でも許してくれるシステムになっていたから、まだよかったといえる。文武両道とか言って、勉強も部活も強制されたら、たまったものではない。

そんなわけで博は授業が終わったら、すぐに家に帰る。でも、家に帰ったってやることはない。どうせ宿題をするだけだし。それだけの事だ。大学の受験対策何て、まだするような学年ではない。

家は学校から歩いて、30分くらいの距離である。自転車通学をしなくてもよかったのだが、それは逆に、ほかの生徒から、バカにされる理由の一つでもあった。みんな自転車とかバスで通学していて、歩いていく生徒はほとんどなかったからだ。また、ほかの生徒に笑われながら、博は学校を出て、道路を歩き続けた。

家は、メイン通りにむき出しの状態で立っている。その立地条件は、なんだか変だなと思わせる気がした。

「ただいまあ。」

博はガチャンと玄関の戸を開けた。

「お帰り。」

台所で、母が料理を作っている。本当はコンビニでも行けばすぐに食べ物は手に入るんだから、そんなことしなくてもいいのに。母の料理は、まずいというわけではないのだが、内容が古いような気がするのだ。

「すぐに宿題をやるのよ。」

と、言われるんだろと思った。それが嫌で、博はすぐ自室へ行こうとすると、母はこんなことを言い出した。

「悪いけどさ、回覧板を、向かいの中山さんの家に届けてきてくれないかしら?テーブルの上に置いてあるから。」

確かに、テーブルの上には回覧板と書かれている画板が乗っている。

「回覧板?そんなの後で届ければいいじゃないか。」

「いや、もう中身は読んだから、早く回した方がいいと思って。だから向かいの中山さんに、届けてきて。」

中山さん。聞いたことのない名前だ。そんな人、向かいの家に住んでいただろうか?

「中山さんって誰だよ。」

「あら、博は知らないの?この前あいさつに来たじゃないの。先月から、向かいの家に引っ越して来たのよ。」

そういえば、向かいの家は、何年か前から、空き家になっていた。となると、その人がその家をかったんだろうか。しかし、向かいの家は、平屋だ。それが原因で売り家に出しても売れないとか、そう聞いたこともあったけど、その平屋を買ったんだから、なにか事情がある人だろうか?

「知らないのって、学校に行って、留守にしているほうが長いんだから、そんなの知らないよ。」

博がそういうと、

「あら、そう。なら、挨拶も兼ねて、ちょっと行ってきて頂戴。あんまり回すのが遅いとまずいのよ。此間、町会長さんに、もっと早く回してくれって、怒られちゃったから。」

母にそういわれて、仕方ないなといいながら、博はテーブルの上に置いてあった、回覧板をとった。

「仕方ないな、行ってくるよ。」

「はい、気を付けて行ってきて頂戴ね。」

博は回覧板をもって家を出る。

とはいっても、その家まで歩くのには、数分ではたどり着けないことも知っていた。というのは、家の前にものすごい大きな道路があって、そこにかかっている立派な歩道橋を渡らなければ、皆反対がわへ行けないからだ。

博は、歩道橋の階段を上った。結構な坂道でここで運動をする人もいる。そして歩道橋の上を歩いて、階段を下った。しかし、あと数段で向こう側へ降りられると思ったとき、足を踏み外して滑り落ちてしまった。

「いってえな。」

幸い、お年寄りではなくて、まだ17歳の少年だからよかったんだろう。大けがにはならず、左足の膝を打撲しただけで済んだ。でも、それは強烈な痛みというものを残した。博は足を引きずりながら、

その中山さんと言う人が住んでいるはずの家にたどり着く。

まあ、ただの家と言えばただの家である。まだ引っ越してきたばかりだからか、それとも別の理由があるのかは知らないが、まだ表札は特についていなかった。でも、向かいの家と言えば、間違いなくここであるし、挨拶にも来ているんだから、中山さんという人がここに住んでいるんだろう。博は、玄関ドアの隣に設置されていたインターフォンを押した。

ところが、インターフォンを押したのに、何も反応がない。大体の人なら、はいどちら様ですか、とか、インターフォンをとおして言ってくるだろう。最近は防犯のためもあって、いきなりドアを開けてはいドウゾという人は少なくなっている。事実、博もそうする人は見たことがなかった。

もう一回インターフォンを押してみたが、何も反応はなかった。

もう一回押してみてもやはり同じだ。

という事は、留守かなと思って、それを確かめようと、博は玄関ドアのドアノブに手をかけてみた。すると、ドアはガチャンという音を立てて、簡単に開いてしまった。博はどうしようかと迷ったが、ここまで来たには、ちゃんと回覧板を渡さなければと思い、ちょっと勇気を出す。

「あの、すみません。回覧板を持ってきました。すみませんが、中山さんはいらっしゃいませんか。」

と言っても何も返ってこなかった。土間を見てみると、草履が一足置いてあったので、中に誰かいるのかは確かなんだろうが。

すると、中から、なんとも言えない不思議な音が聞こえてきた。リコーダーとは違うし、篠笛とも違っている。ビービーという不思議な音。以前、長崎を旅行した時、路上でパフォーマンスしていた芸人が吹いていた笛と同じ音だ。その時これは清笛と説明を受けたっけ。つまり、音楽家の家だったのか。それなら、インターフォンが聞こえないくらい、練習していることは十分あり得る。

「あの、すみません、回覧板を持ってきました。あの、中山さん、お願いできますか?」

博がちょっと声を大きくして言うと、初めて笛の音が止まった。そうなると、耳の遠い人なのだろうか。そして、廊下を歩いてくる音がやっと聞こえてきて、この家の主人がやっと来てくれたかと、博は、大きなため息をつく。

「すみません!回覧板です!」

もう一回言ったの所で初めてこの家の主人が顔を出した。ずいぶん端正な顔立ちをした、三十代後半と思われる男性だった。その人は黒っぽい着物を着ていて、博たちとはちょっと住んでいる世界が違うような印象を与えた。先ほどの清笛の音は、もしかしたら、博を違う世界に連れて行くための、魔笛のような気がしてしまうほど、その人は日本人離れした顔をしている。

「すみません。何回も言いますが、回覧板です。確かにお渡ししました。」

博はやっとそういって回覧板を突き出すと、その人は、回覧板を受け取って、右手で変な動きをした。

「あの、何なんですか。」

博がさらに面食らってそういうと、その人は、下駄箱の上に置かれていたA4サイズのノートと鉛筆を取り出した。なんで下駄箱の上にノートが置かれているのか、本来下駄箱はノートを入れるところではない。さらにその人は、鉛筆でそのノートに何か書きだした。

「なんでノートなんか書くんですか。」

博がそういうと、その人は、ノートを博に見せた。非常に上手な字で、「ご丁寧に有難うございます」

と書いてある。つまりこの人は、しゃべれない人だったのだ。若しかしたら、喉頭癌にでもなって、声帯を切除したとか、それとも失声症にでもなったのかもしれない。理由はいろいろあるんだろうが、この人は、とにかくしゃべれない人だった。さっきの清笛は、たぶん在宅しているのを示すためだろう。

「いいえ、どういたしまして。何回もご挨拶してうるさがらせてしまい、申し訳ないです。」

博は、もう帰ったほうがいいと思い、急いで方向転換しようと思ったが、足がズキっと痛くなって、それは出来なかった。

「いってえ。」

思わず博が、痛い足に手をのせると、その人は、ノートと鉛筆を下駄箱にしまった。そして、いきなり、右手を博の肩に乗せた。

「あ、な、な、何をするんですか。」

博が振りほどこうとすると、その人はさらに強く博の肩を掴んだ。不思議なことに肩を掴まれていても、全く痛いとは感じられず、むしろ気持ち良いという感じさえ思わせた。ど、どういう事なんだろう。その人の顔を見ることもなく、博は、天井を見つめたまま、数十分の間、何も言わないでぼんやりとしてしまったのだった。

どれくらいたったかわからないが、博がぼんやりした世界から、やっとこの世界に帰ってきたのと同時に、その人の手が、博の体から離れた。

「な、なにをしたんですか。」

博が聞くと、その人はにこやかに笑った。そしてまたノートを取って、もう帰っていいですよ、と書いた。

博が体の向きを変えようと、足を動かしたその時。

「うそ、いたくない!」

と、思わず口にしてしまった。何が起こったのかはよくわからないが、とにかくあれほどいたかった足が、いたくないのだ。あれれ、何だろう。痛いという言葉を忘れてしまったほど。

慌てて、周りを見渡すと、中山さんその人が、にこやかに笑って立っているのが見えるだけであった。他に何もない。ファンタジーの世界にありそうなものなんて、何もない。

これ以上質問をするなというような表情ではなかったが、博は随分長居をしてしまったような気がして、直ぐに出なければならないなと思った。

「あの、ありがとうございました。回覧板は、読み終わったらすぐに回すようにと、町会長が言っていいました。」

とだけ言って、博は、中山さんの家を出た。走って歩道橋を渡ろうと思った。でも、先ほどのけがでは出来そうもない筈なのだが、歩道橋を渡ろうとすると、自分の足はたったったといつも通りに走ってくれた。あれれ、何だろう。今まで落っこちた直後から、あんなにいたかったはずなのに、何も痛みはないし、体もなんだか軽くなったような、、、。そして俺は今、歩道橋を走っている。階段を降りるのだって、何も苦労しないで降りられた。なんで、なんでなんで、、、?

もう、けがをしたのなんて、どこかへ忘れてしまって、博は家に帰った。

「ただいまあ。」

家に帰っても、何も変わらない生活なのだが、なんだかそれが、貴重な生活のように見えてしまったのはなぜだろう?

「あ、お帰り。早く宿題をやるんだよ。」

母にそういつものよういに言われても、今日はムカッとすることもなかった。なぜかなあ。いつもはい嫌になって、すぐに逃げたいと思ってしまうはずなのに。

とりあえず宿題をするか。という考えになって、博は机に向かった。

今日は特に急ぐ必要もないし、かといって怠けるわけでもない。まあ宿題の出来栄えは、たぶん間違いなく悪いだろう。でも、やっただけましだ。たぶんきっと先生も、やる気がない奴は出ていけとか、嫌な生徒は死んでしまえと罵倒することもあるが、本気でそういっているわけではないだろう。そういう風に考えることができるほど、博は落ち着いて宿題をやっていた。宿題とやり終えた後は、夕食だ。夕食の時も、母がいつも勉強のことを聞きたがるが、其れも嫌で嫌でしょうがないというのがいつものパターンだったが、その日は、ただ話をしただけで、穏やかに終わることができた。外見は同じ小澤博であっても、中身はちょっと違った自分だったと思う。博はそれくらい、なぜか落ち着いていた。

その日は、本当に落ち着いて過ごしたが、翌日になると、また元通りのやる気のない高校生に戻ってしまった。また、先生が嫌だとか、家族が嫌だとかそういう気持ちがわいてきてしまうのである。でも、昨日のあれだけ穏やかに過ごせたことを思い出すと、もう一回穏やかに過ごしたい気持ちが沸いてきて、博は、先生のいう事や、親のいうことに、腹を立てないようにしようと気を付けるようになった。

そんなことができるようになったのは、あの中山さんに会ってから以来だった。それだけははっきりしている。

あの、中山さんは何をしてくれたんだろうか。あの人は確かに口が利けない人だ。それだけははっきりしている。だって紙に書いて話していたんだから。だけど、不思議な超能力のようなものをもっているのだろうか。人間の体を掴んだだけで、痛みをとってくれるということができてしまうものなのか。そういう事ってあり得る話かな?

とはいえ、誰に言ってもわかってもらえるはずもないので、博は家族にも同級生にも誰にも言わなかった。

たぶんまぐれだよな。

博は、何日か日が経つうちに、こう考えるようになった。

そうだよな。だってここは流行りのファンタジーの世界ではないもの。現実なんだものね。そんなすごいことができる人なんているはずがない。そうはいないっていうか、あり得ない。そういう事を誰かと共有することもできるはずがない。

そう、それでいい。それでいい。そう考えておけばいい。

あれは単なるまぐれだよ。

博はそう思って、中山さんのしてくれた一連の事をすべて忘れてしまうことにした。

そんなこと、あるわけがないじゃないか、と。


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