中 挑戦開始
一、
しかし暑い。
まだ6月に入ったばかりだというのにホンマに暑い。
「こんな暑さはいささか異常である」
などと思う反面、1万年、10万年の単位で気候がずっと一定なわけはないのであろうから、
「そう考えたら、この暑さももはや平常ということかな」
と、取り留めなく答えも出ないような不毛な思考のまま、私は海老川の畔を緩やかに走っていた。
海老川は船橋にとって正に「母なる川」である。
なぜなら、御滝不動尊という室町時代に創建されたお寺の敷地から涌き出る湧水を源流に持つ、船橋では唯一無二の河川が海老川だからである。
その湧水は、かつて天台宗の僧である最澄の弟子が、自ら心を込めて彫ったという不動尊が埋まっているとされる場所があり、そこを村人たちが掘ったところ、水が涌き出し滝になったと伝えられているものである。
こんな由来を持つ海老川は、以来600年にわたりこの涌き出た清水を海まで運び、その総延長が僅か7㌔しかないにもかかわらず、船橋の人と町を潤してきた。
それが、海老川が「母なる川」たる所以である。
また、船橋の名の由来になったと言われる、「その昔、ある武将が海老川を渡らんとした時に村人たちが舟を並べて橋を渡した」
という伝説を持つ川でもあり、広く市民に親しまれているのである。
さらに、ジョギングロードとして整備されている凡そ2㌔ほどの間に、13もの橋が架けられていることも特徴のひとつである。
その主なものは、徳川将軍家が鷹狩りの際に、辺りの様子を見るためのお立ち台に使ったと言われる「鷹匠橋」や、太宰治が住んでいた居宅のすぐ近くにある「九重橋」などである。
13の橋には、全て各々異なるテーマが設定され、その欄干にはそれぞれ特徴的な造形があしらわれているのも興味をそそる。
ちなみに、先述の「九重橋」の欄干には、太宰治の代表作「走れメロス」の一節を刻んだレリーフがあり、よく知られている。
また、ジョギングロードの起点となる「八栄橋」の足元には、かつてこの地で練習に励み、2大会連続の五輪メダリストとなった有森裕子選手の功績を称えた足形のモニュメントが、市民ランナーや散策を楽しむ人達を見守っている。
そんな海老川の6月初旬といえば、一年のうちでも数少ない新緑香る爽やかな季節であったはずである。
それも今は昔なのか、まだ届かない梅雨入りの便りを飛び越えて、早や夏がきたかのような猛暑である。
そんな中でもたくさんのランナーが汗を光らせて、いやむしろ「滴らせて」と言った方がピッタリくるような様子で走っているのである。
そんな人達の邪魔にならないようにと、車で例えるならば走行車線、いやいやさしづめ登坂車線をぼちぼち走っている「おっさんジョガー」こそが、この私なのである。
二、
時代や世の中の変化というのは「盛者必衰の理をあらわす」。
などと、平家物語を引き合いに出すまでもなく、天下覇権の争いは避けて通れないのが世の常のようである。
無論、スポーツの世界でもそれは当てはまるわけで、というよりむしろ、スポーツ界ほどその消長が速く激しい世界は少ないのかも知れず、個人戦、チーム戦を問わず、ルールに則って競うのがスポーツならば、勝敗の雌雄はさらに明確だ。
そして、日本のスポーツ界における各種目の人気争いという意味では、かつては野球の人気が他の種目を引き離していた。
それは一強と言った方が適当なほど、その理由や事情はともかく、野球の人気は他の追随を許さないものだった。
教育の一環である学校での部活はさておき、いわゆる「スポーツで飯が食えるのは野球だけ」という環境が何故か作られており、当時の子供たちがなりたい職業の、不動の四番バッターだったことは衆知の事実であった。
そう、それが誰もが疑うべくもない昭和の常識であった。
しかし、時代や世の中の変化というのはやはり「盛者必衰の理をあらわす」のである。
世が昭和から平成に移ろうとしていた頃、プロ野球は21年振りの阪神タイガース悲願の優勝で大変な盛り上がりを見せていた。
しかし一方で、長年の独り勝ちの上にあぐらをかいていたツケがたまり、徐々に足元に危機が迫っていることに誰も気づかずにいた。
巨人を中心とした人気球団に依存する構造が進んできたことで、人気球団とそうでない球団の格差は広がる一方となり、不人気球団同士のカードでの客入りは寂れていた。
とりわけパリーグのお荷物球団に至っては、球団の経営という根本的な問題に直面せざるを得ない状況まで追い込まれていったのである。
そしてプロ野球の発足以来、その歴史を脈々と紡いできた立役者である電鉄会社が、相次いで身売りするという衝撃の出来事が起こったのが1988年、まさに昭和最後の年であった。
それは、共に関西を本拠地にしていた阪急ブレーブスと南海ホークスという老舗中の老舗球団であった。
言うなれば、戦後のインフラ整備での成長期において球団を保有し、沿線につくった球場への乗客との相乗で業績アップを図るというモデルの役割を終えたわけで、その年のオフに、それぞれオリックスとダイエーに身売りしたのであった。
一方で、プロリーグ設立に並々ならぬ意欲を燃やしてきたのは日本サッカーリーグ(JFL)である。
JFL は数々の試行を重ねること約30年を経て、1988年に実質的なプロ化の検討のスタートとなる『JFL第一次活性化委員会』の立ち上げにこぎつけていた。
それからも、さらに3年にわたりプロ化の是非についての熱い議論が繰り広げられたが、紆余曲折を乗り越え、積年の念願であった日本初のプロサッカーリーグ『Jリーグ』がついに産声を上げたのである。
時に、それは世が平成になって間もない、1991年のことだった。
プロ野球が発足した1936年から数えること55年、世界的には最もメジャーなスポーツであるサッカーが、長らく野球の独壇場だった日本スポーツ界に大きな風穴を開けた、歴史的な出来事であった。
そして設立から1年半の準備期間を経て、1993年5月にJリーグが華々しく開幕したのである。
ここまできてようやく危機的状況に気付き、リーグの再編やファンサービスの強化などに重い腰を上げたプロ野球だったが、時すでに遅し。
Jリーグに押され視聴率が取れない野球中継からは、どんどんスポンサーが離れていった。
それは、全試合の放映が当たり前だった巨人戦でさえも例外ではなく「シーズン終盤には放映が全く無くなる」という憂き目を見るようにまでなっていったのであった。
そして、それと歩を合わせて深刻となったのが、子供たちの野球離れである。
当然のように、なりたい職業No.1の座をプロサッカー選手に奪われたのはもちろんのこと、子供たちのサッカー人口の急増と少子化の波も相まって野球人口は激減した。
ただ、これは残念ではあるが、自らが招いた必然であると言わざるを得ないものだった。
これ以上逸れるとますます脈絡を失いそうなので、一旦話を元に戻そう。
暑さ盛んな6月の海老川である。
それから遡ること1ヶ月、ゴールデンウィークがこれほど長くなったのはいつの頃からだろう。
穿った見方をすれば、五月病を助長させるものなのかと疑ってしまうほどの長い連休である。
家人との約束に基づき、義務的に家族サービスをこなすことに休日を費やす不謹慎な私のような者にとっては、それはどちらかというと迷惑極まりないものであった。
家人から「ちょっと相談がある」と言われたのは、そんなゴールデンウィーク突入の一週間前であった。
どうせまた、無駄銭を浪費するだけの遊びの話だと決めつけた私は、あからさまに辟易したわけで、恐らくその時の表情はまさに「最低な父親の見本」のようだったと思う。
しかし私の予想に反し、家人の相談は意外にもこの「へんこ」な私が肯定できる話であった。
先に安物の講釈をたれた通り、当時の少年少女の野球人口の減少は顕著であり、各地では少年野球チームの存続が危ぶまれる事態が問題になっていた。
私達が住む地域もそのご他聞に漏れず、創部から40年を数えるというあるチームが、深刻な部員不足にあえいでいたのだった。
そんな折り「⚫⚫君のママから少年野球チームに入ってくれへん?って頼まれたんよ」
これが家人の相談だった。
私自身、子供の頃から勉学はさておき、運動は好きでやってきたクチでもあり、とりわけ野球はレベルはともかくそこそこ熱心だったので、愚息の入部にも一義的には賛成であった。
当時小2だった愚息は、かけっこはまあまあ速い方であったが、どうも球技が得意ではなさそうだと、小さい頃からのボール遊びを通じて分かっていた。
もちろん、まだまだ決めつける年齢ではないのもまた分かってはいたが、自分が野球をかじってきたからがゆえに、少年野球チームに入れることが、果たして愚息のためになるのか逡巡していた。
飲み屋での野球談義にはちょっとばかり覚えがある野球好きの私が、自分の息子に野球をやらせたくないわけがない。
という感情を強く持ちながらも、私は躊躇していた。
当の愚息本人が望むならば、たとえ辛いことがあっても一緒に頑張ろうと思うのだが、愚息自身が本当に入部を嫌がっているのが、私の目には明らかだったからである。
それも踏まえ家人とさらに話し合い、結果、さしあたり次の日曜日に行われる「体験入部」というのに参加させてもらうことにした。
「体験入部」の内容は、5~10㍍の距離を柔らかいボールでキャッチボールするという、ほとんどボール遊びのレベルだった。
ただ、そうだからこそセンスやポテンシャルの現実が分かるのかも知れない。
そう考えると、ますますかわいそうというか残酷である。
なにも人と比べるためにやるわけではないが、明らかに愚息のそれは、野球に不向きだと即座に判定されるほどのものだったのである。
だがそれも、私の勝手な思い込みならばと努めて冷静を装い愚息の練習を見ていたが、それでもネガティブな思考が取り除けなかった。
そんな私の振る舞いは、愚息が唯一頼みとする父親としては最低のものだったと思う。今、上手くいかなくても上手く出来るように、口でも体でも心でも子供の気持ちに寄り添って手助けするのが、親としての義務に近い責任ではないのか。
と自問自答しても、野球に関しては私のちっぽけでつまらないプライドが邪魔をして愚息に優しく出来なかった。
そのことでは家人とも少しモメた。
体育系にはあまり明るくない家人は、逆に体育系しか取り柄のない私の話を最初のうちは黙って聞いていたが、周りのママ友やコーチなどの話を聞くにつれ、私の言うことが極端なのではと猜疑し始めていた。
しかし、へんこな私が自分の主張は変えるわけがなく、ある意味、客観的な家人の意見を受け入れずにいた。
ただ、わざわざ声を掛けてもらい、熱心に誘ってくれていることを考えると大人げない。
そんな体裁を気にする厄介極まりない私だが、敢えて別の観点での意義を自分に言い聞かせることで、入部させた方が良いという考えに傾けていったのである。
「友達はたくさん作って欲しい」
「苦手なことにもチャレンジして欲しい」
そんな父親の建前によって我が愚息は、少年野球チームに入部することと相成ったのであった。
しかし「入部することに相成った」と決めたのは親の勝手である。
当の本人が望んでいないのは最初から分かっていたのに、である。
然るに愚息に入部のことを話したが嫌がることしきり、なのは当然なのであった。
三、
チームの練習グランドは、自転車なら家から僅か5分ぐらいのところにあった。
だが、嫌がる愚息を一人で行かせるのはさすがに心も痛むわけであるから、私も一緒に自転車で送って行くことにした。
当たり前である。
練習は9時から始まるので、朝からおにぎりを握り身繕いをする。
野球のユニフォームとは何故こんなに面倒なのかと昔から思っていたが、嫌々な愚息に教えて着せるのには自分が着る以上に相当な手間と時間を要した。
そして、8時半過ぎには家を出てグランドに向かう。
余りというか、全く楽しそうでない愚息ではあるが、「行ったら挨拶するんやで」とか「元気出して練習するんやで」とか話しながら自転車をごく、私の後ろを黙ってついてくる。
ちょっと切ないが、しばらく通ってるうちに『友達も出来るだろう』し、『少しずつかも知れないが徐々に上手くなってくるだろう』などと無責任に考えた。
が、考えれば考えるほどにやはり不憫だった。
そして思えば思うほど、愚息に申し訳ない気がした。
そうした思考が循環し、呵責に耐えかねたその時、私は突如決心したのである。
『走ろう』
自分の体裁とエゴで、可愛い愚息に辛い思いを強いるのであれば、自分自身に対しても同じように、辛くてしんどいことを課さねばならないのだと。
このだらしなく、不摂生極まりない私を一念発起させたのは、いみじくも私の心だった。
これは、自分自身がいちばん信じられないほどの驚愕の出来事であり、まさに青天の霹靂であった。
ほんの約1年半前に、入院という人生初の経験をしたにも関わらず、喉元過ぎれば私の生活は元のように戻っていた。
いやいや元々以上に、その不摂生は以前にも増して酷くなっていた。
入院したことで結果として1ヶ月ほどの禁酒を余儀なくされたのであるが、普通ならばそれを機に生活習慣を改めようと思うはずである。
ところがどっこい、1ヶ月の禁酒で肝臓がリセットされたのだと都合よく解釈し、あろうことか禁酒分を取り返すかの如く5時からの仕事に精を出していた。
しかし世の中そんなに都合よくいくわけがない。
その時の齢44。
肝炎で入院という厄に見舞われたことさえも、糧にも薬にも出来ない愚か者のカラダは、確実に衰えていく。
一応は毎年の誕生日に人間ドックは受けていたが、入院で折角改善した数値が瞬く間に悪化の一途をたどるのも必然の道理であった。
そうして、不摂生を表す項目の数値は軒並み要観察から要検査に格上げになっていったが、これにはさしもの私も「ちょっとこのままでは50で死ぬな」と思い始めていた。
それも相まってついに観念、一念発起したわけであった。
もう一度繰り返す。
愚息に辛い思いをさせてまで野球をやらせるのであれば、自分にも相応の辛さを強いるのはもはや必然不可避だったのであった。
『走ろう』
私が最も苦手とする『持久』と『継続』を必要とするもの。それを自分に課そう。
それは子供の頃から忌避してきた持久走に他ならない。
しかし、20年以上も全く運動せず不摂生を重ねてきた私の足はまるで70歳の老人のようにやせさばらえていた。
無論、衰えているのは足だけではなかったので、現実として『継続』するには、まずは「歩き」から始めた方がいいと考えていた。
四、
その年のゴールデンウィークは暑かった。
その暑さも冷めやらぬゴールデンウィーク明けに、いよいよ愚息は入部した。
入部後の初めての練習日に、愚息と一緒に自転車でグランドに向かう。
愚息はもちろんだろうが、私もちょっと緊張気味である。
グランドに着くとパラパラと子供と保護者が集まり始めたところだった。
勝手が分からない私達は位置が定まらないまま、輪に成りきっていない人の近くに立っていた。
そこに体験入部でお世話になったコーチが現れ声を掛けてくれたことで居場所が出来た。
愚息は、慣れないながらも担いできた、小さい体には不釣り合いなリュックの置き場を教えてもらったあと、練習準備の道具出しを恐る恐る手伝っていた。
新参者の私も、最初が肝心とばかりに子供たちに混じって道具を運んでいると
「子供たちにやらせて下さい」
とそのコーチから言われ、少しバツが悪い感じで手を引いた。
子供の自主性を育てるための流儀だと後から聞いたものの、新参者の辛いところである。
ただ、そんなことぐらいではくじけない。
他の親御さんとの立ち話もそこそこに、今度はグランドの草むしりだ。
これは保護者が手伝っても良いらしい。
これから愚息が大変な面倒を掛けることになると思うと、何か少しでも役に立たないと帳尻が合わない気がしていたのである。
ほとんどの親御さんが帰る中、子供たちがランニングや準備運動を終え、キャッチボールを始めるまでの30分程度のお務めだが、少しは自己満足出来た。
五、
さぁ、そしてここからが本番だ。
慣れない上に、苦手な野球を頑張る愚息には負けられない。
ホームグランドを後にした私は、ゆくゆくはホームコースになるであろう海老川に向かった。
左様、当たり前のように船橋の母なる川を私はホームコースに選んだのだった。
五輪で二大会連続のメダルをつかみ取った、かの有森選手もかつて練習したという海老川ジョギングロードは、こんな私にはもったいないほどのコースなのだ。
これぞまさに「環境に不足なし」である。
などと自分に言い聞かせなければ、私の頼りない決心などは、すぐに溶けてなくなってしまいそうなのだった。
時に野球チームのホームグランドは、都合の良いことに海老川沿いである。
海老川沿いではあるが、そこからメインのジョギングロードまでは数百メートルほど離れていた。
ジョギングロードと言っても、川幅がたかだか10~20メートルしかない海老川のその両岸を整備したもので、その道幅も5メートル程度である。
川幅自体がそんなくらいなので、周回というよりもむしろ折り返しコースと言った方がいいかも知れないが、一回りが約2キロほどだ。
ということで、少年野球のオヤジの務めを終えた私は、ジョギングロードの脇に自転車を止め、私なりに颯爽と海老川のほとりに進み出た。
慣れない動作ではあるものの、一応は屈伸や伸脚などの準備運動で体をほぐしてみると、季節の陽光による勘違いなのか、なんか走れるような気になった。
と思うや否や
「そや、どうせならいっぺん走ってみたれ!」
と勢い、その記念すべき一歩を踏み出していた。
その足元には、随分昔に流行ったコンバースのローカット。
しかもカラーは緑である。
何故、この記念すべき第一歩にこのシューズを選んだのか…それには特に理由はない。
そう、運動に全く無縁の生活だった私には、運動靴と呼べるような靴がこれしかなかったからであった。
しかも、そのシューズさえも右足の外側のキャンパス地が破れかけ、そろそろ足がはみ出そうかという始末である。
そして、服と言えばカーゴの短パンに綿生地のプリントTシャツとは、壮大な決心の割にはなんと頓着のない第一歩であろうか。
しかし、これには額面通りには受け取ってはいけない理由があった。
実はそこには、この期に及んでも
「こんな道具やからしゃあない」
という逃げ道、つまり結果に対する言い訳を自分に与えている、中途半端な自分がいたのだった。
だからこそ走った。
もう後戻りしないために、歩くのではなく走ったのであった。
しかし、そんな大袈裟な気持ちとは相反して、体はちっとも言うことを聞いてくれない。
その昔、短い距離ではあるが走ることには少しは覚えのあった頃の頭と、今の体とのギャップは悲しい程に大きく、情けなさと不甲斐なさを感じるまでには50メートルの距離も必要なかった。
そしてついに私は立ち止まってしまった。
「ついに?」
そう、私が思わず立ち止まってしまったのは、走り始めてたった100メートル進んだだけの場所であったのだ。
それを言うにことかいて「ついに」はないだろう。
しかし、それが現実だった。
こんな私であっても、さすがに受け入れ難い現実だった。
他人が見たら当然の現実かも知れないが、私にとっては屈辱的な現実だったのである。
「このまま何事もなかったかのようにやめてしまうか」
「幸い誰にも話してないしバレへんわ」
と、どこからか魅力的な囁きが聞こえる。
「いやいや、屈辱を屈辱とも思わず逃げ出すのか」
「これからも失敗を自己正当化して未来を生きるのか」
一刹那、川の畔に立ち止まったまま葛藤する。
それでも、それを決めるのは言うまでもなく自分自身である。
そして、再び走ることを選んだ。
それは無論、単純に愚息に対する申し訳なさや負い目を感じたということもある。
ただ、それだけではなかった。
大袈裟なようだが、今まさにガタガタと音を立てて崩れた「ちっぽけな自負心」を取り戻したいと思う気持ち、いうなればその反骨心が、私の重たい足を前に進めたのだと思った。
だが、そんな気持ちとは裏腹に自分の想像を超えて呼吸が苦しい。
足も思うように動かない。自分のものではないようだ。
息が苦しくて、100㍍も進めずまた止まった。
やはり走り続けることが出来ず、歩いてはまた駆け、僅かに駆けてはまた歩く。
そりゃ、にわかに思い立って走り始めたのは確かだが、腹の中ではさすがに1、2㌔は走れるだろうとタカをくくっていた私は、自らの情けなさに打ちのめされていた。
哀しいかな、堕落的な生活をずっと何かの誰かのせいにして、マトモに省みなかった自分の愚かさを今更ながらに思い知るしかなかった。
それにしてもまずは息が苦しい。
その上、たかだか70キログラム程度の体重を、たった100㍍さえも支えて走ることが出来ないとは。
そのおじいさんのような足が、より一層私を落胆させた。
そして、ほんのついさっき反骨心などと格好つけてたクセに、たった300㍍でその意志はもう揺らごうとしていた。
「愚息と同じように自分にも試練を与えよう」
などと偉そうに言ったにもかかわらず、その舌の根も乾かぬうちとは正にこのことである。
しかも、そんな時には必ず悪魔と天使が交互に登場するのが相場のはずだが、圧倒的に悪魔が優勢である。
"別に子供にも誰にも言うてないんやからやめたって誰にも分からへんよ、大丈夫"
"そんなん無理してケガでもしたらそれこそ元も子も無いで"
"他の友達とか周りの人間も誰もやって無いし何も恥ずかしくないで"
枚挙にいとまがない悪魔の囁きにほだされた私の心と体は、もうほとんどやめる気満々である。
そうしていよいよ踵を返したその時。
野球のユニフォームを着た愚息と同じ年頃の男の子が、泣きながら自転車で通って行くではないか。
チームこそ違えども、愚息と同じようになかなか野球が上手くいかず辛くて泣いているのだろうか?
まさに今、愚息も泣きながら頑張っているのではないのか?
そう考えると、私はこうべを垂れて自分の靴を見た。
すると自分の情けなさや恥ずかしさがこみ上げて、涙が出そうになった。
でも今の自分にはその資格さえもないと思い、強く奥歯を噛みしめてこらえた。
そうしてこのとき漸く、本当に漸くスタートラインに立つ資格が与えられ、本気の決心がついたことを自覚した。
人のためとかではなく、自分に甘い自分を変える決心が固まった気がしたのであった。
六、
「公言すること」
「道具を揃えること」
それはいささか単純だが、自分に対する退路を断つ、逃げ道を無くすための方法である。
それは甘くて弱い、そしてええ格好しいの私にとっては、それなりの抑制効果があると考えたのだ。
ただ、もし公言するとしたら目標や計画を詳らかにすべきである。
しかし、自分の中で決意はしたものの、
「いきなり高いハードルを設定したばかりに続けられなかった」
という、さもありがちな事態はやはり避けたかったので、まずは抽象的な定性目標を立てることにした。
目標「健康のため」
でも、さすがにこれだけでは子供騙しと言われそうなので、
「週末土日は必ず1㌔走る」
という一応の定量目標も設定した。
次は、道具を揃えることについてである。
無論、投資を大きくすれば「元を取りたい」という心理から継続しやすいことは想像出来たが、いかんせん先立つものが限られている前提なので「安くて良い」モノを予算精一杯で探すことにした。
どこぞの営業マンの精神論ではないが、足りない分は足で稼ぐとばかりに、相当の数のスポーツショップを巡った。
しかも定期的に足を運ぶことで、いわゆる「掘り出し物」探しに余念なく勤しんだのだった。
その結果、またもや手前味噌だが、入門編としてはかなり納得のギア(なんて言うのは10年早いが…)を買い揃えることが出来た。
ちなみに、至極当たり前だとは思うが、ランニングで一番大切なのはやはり足回りであろう。
然るに靴にはさらに相当の時間を掛けたので、良いモノが手に入った。
色が真っ黒というのがテンションアップには少し不十分かとも思われたが、到底ランニングというレベルには程遠い我が身を顧みれば、むしろ「無」からのスタートという意味において最も相応しい色を必然的に選んだのだと、悦に入ったのであった。
さしあたり一応道具も揃ったところで、かなり消極的な目標ではあるが継続することを最優先に置き、それを家人に公言することにした。
さて、如何に私の行動に無関心な家人といえども、私がそそくさとスポーツショップなどに通っていることくらいは分かっていたようであった。
というか、私の動きが相当に怪しかったようで、この私にとって一世一代の公言は、家人の懐疑の目にさらされる運命になったのであった。
それにしても家人ひとりに話しただけのことを、よもや公言したなどとは言えないのは当然であった。
とはいえ、他人からしたらホンマにどうでもいいことを40半ばのオヤジにいきなり力んで話されても困惑させるだけだろう。
とすれば、誰にどうやって聞いてもらうのが適当なのかと思い淀んだ。
だが、そもそも何故公言しようと考えたのかと思い及んだ時、迷いはなくなった。
自分だけでは逃げ出してしまいそうになる弱い心を、周りの力を借りてつなぎ止めたいという想いだったはず、ならば誰に憚ることがあるのか?
そう自問自答したら、腹は決まったのであった。
七、
次の週末もなかなかの野球日和である。
土曜日は昼飯を済ませた後に、自転車で愚息とグランドに向かう。
おにぎりを握る必要もないし、朝も早くないから楽である。
勝手も少しは分かってきて、初めてだった先週よりはちょっとだけ気持ちも楽だ。
それはどうやら愚息の方も同じようだ。
むしろ、実は親の方が子供と比べてつまらない体裁や先入観があり、かえって気疲れするのは世の親ならたぶん経験済みであろう。
12時半過ぎに家を出れば、13時からの練習には十分間に合うのだが、新参者の心得とすればちょっと早めに行って準備する。
良し悪しはともかく、これニッポンの常識と教えられた世代である。
ちなみに野球ならば、道具を出し、ネットを張りトンボでグラウンドを慣らすのであった。
そして、我らのホームグランドの場合は、それにもれなく草むしりがついてくるという寸法だった。
子供たちがウォーミングアップをする間、邪魔にならぬよう一生懸命草を引く。
とりわけ私の場合は、愚息が足を引っ張る分を親が草を引っ張る、という笑えない光景なのである。
しかも、今日は軍手はもちろんのこと、園芸用のスコップまで携えてくるという張り切り振りで、コーチの気も引いてみたりと引きっぱなしである。
子供たちがキャッチボールを始めると、草むしりはお役御免となる。
あとは他の親御さんたちと少しばかり世間話をしながら、暫し練習を見学すると流れ解散となる寸法だ。
が、その日はあるお母さんから
「あれ、中村さん走るの?」
と、家人に怪しまれながらも足を棒にして買い揃えたウェアに気付かれた。
いやもとい、気付いてくれた。
嬉しさ1割、恥ずかしさ9割くらいであろうか、そんな心持ちで
「いえいえ走るなんて滅相もない」
と言いかけた。が、おいおい待てよ、お前は公言するのではなかったのか?と思い直し、それでも相当に冗談めかしながら思い切ってこう言った。
「余りの不摂生に「このままなら死ぬよ」
ってお医者さんに言われたので、ちょっと散歩がてらやってみようかなぁと…」
すると、お約束のようにお母さんたちから「えらいね~」の言葉が。
その社交辞令を聞いて、我が意を得たりと確信した。
全く何の利害もない、この間知り合ったばかりのお母さんに対してでさえも、言ってしまった以上は『やらねばならぬ』と思うものだということである。
これぞ「公言作戦」大成功である。
ただ、これ以上突っ込まれたら深みにはまりそうなので
「ほな、お疲れ様でした」
と言い残し、颯爽と走り去って行くことにした。
と言いたいところだが、この間のこともあり、やはり海老川ジョギングロードの畔までは自転車に乗って行ったのであった。
皆がトスバッティングをやっている横で、一人だけ砂遊びをしている愚息の姿を見ながら、
「パパも頑張るからお前もガンバレ」
と心の中で声を掛け、自分の決心が弛まないようにした。
それにしても運動を始めるにはうってつけの最高の日和である。
新緑の眩しい海老川には、すでに多くの先客が皆それぞれ思い思いの出で立ちで、思い思いに散歩したりランニングしたりしていた。
多くのランナーがスタートゴールにしている時計がある場所には、自転車ならば5台はゆうに置けるスペースがあった。
また、ベンチの他にトイレや水飲み場もあるのでランナーが集うのだろう。
その後ろ側には、山茶花の垣根が人の背丈よりも高く連なっているのも何かの巡り合わせか。
冬の季語にもなる山茶花は一年中常緑を誇り寒い冬に花を咲かせる。
ならば、やはり冬にシーズンを迎えるランニングに勤しむランナーがそこに集うのも必然なのだろう。
垣根の枝に優しく結びつけられた『海老川ジョギングクラブ』と書かれた青い横断幕がそれを自然に象徴していた。
取り敢えず自転車を置いた私は、準備運動の勝手も分からぬままかつて野球チームでやっていた体操で体をほぐしてみた。
帽子こそ間に合わせのゴルフキャップだがその他は全て「まっさら」である。
相当にリーズナブルではあるものの、れっきとしたランニングウェアとランニングシューズである。ただ、ひとつ訂正するならば靴下は普通のショートソックスであったが、後年聞くところによると余程のアスリートでない限り専用の靴下を使うランナーは少ないらしい。
そういう意味で今日の私は「ほぼランナー然」な出で立ちと、一週間前とは違う決意を心に秘めて立っていたのであった。
とはいえ、体力という面では一週間前の私と何ら変わったわけではないので、決意はしたものの身の丈に合わせたプランで始めることにした。
なぜなら、簡単なようで最も難しいのが三日坊主にだけはならない、いや絶対になってはならないことであり、それが一番大切だというのを、あの「屈辱的な僅か100㍍」で思い知ったからであった。
だからそこには、決して自分を甘やかすとか、厳しいプランに挑まない自分を許容するという気持ちは毛頭なかった。
ただ、公言して他人の目を気にすることで必然となるであろう「逃げない決心」を偽りないものにする必要があったのは、その一方では確かなことだった。
時計の横のエビス像が、その私の姿と決意を優しく見守ってくれているようだと勝手に思う。
そうして、エビスさんの右手にある釣竿と左脇に抱える網を撫でるように触り力をもらったら、いざスタートである。
今日のメニューは「1㌔を何とか走り切れないか?」というのを目標にした。
まずは、エビスさんの前から半時計回りに鷹匠橋までの200㍍を真っ直ぐに進む。
しかし先週は100㍍で止まってしまったので、今日はそれよりもゆっくりと走り出した。
あたかも犬の散歩をしている人たちと歩を合わせるような速度である。
しかし本人は真剣そのものである。
足元には決して高性能とは言えないが、先週のコンバースとは違い正真正銘のランニングシューズ。ここでの言い訳は無用である。
が、いかんせん走り方が皆目分からぬ。
まあ、よしんば走り方が分かったとしても、その通りに出来る体力も技術も持ち合わせていないのは無論自覚している。
それでも知らないよりは知っている方が良いに決まっているだろう、などと考えながら進む。
果たして今日帰ってから調べてみようと思ったが、いずれにしても今日はなんとしても走り切らねばならぬ。
だが、実際には走っているというよりも、それはたぶん足踏みのように見えていると思われたが、もうそんなことは気にしないのである。
100㍍を過ぎて鷹匠橋が目の前に迫ってきた。
この辺りは桜の青葉が大いに茂っており木陰は涼しいが、間もなく左に折れて鷹匠橋を渡る時には初夏の陽光を浴びることになる。
元々、幅の狭い川を渡る橋は僅か15㍍ほどなので、すぐに渡り切ったら左に折れて周回する。
というか、折り返すと言った方が正しいかも知れないくらいだ。
ちなみにジョギングロード自体の道幅は概ね3㍍程度、最も広いところでも5㍍程度である。
一対一のスレ違いには殆ど難はないが、自転車と散歩人が重なったりしたら、ちょっと気遣いが必要な感じだ。
なんせ初心者というか、ほぼデビュー戦である私にとっては全てが未知との遭遇なのは当然で、まずは道の左右どちらを通ればいいのかさえも分からない。
感覚的に左側、つまり半時計回りの最内をなるべく邪魔にならないように進み数人の散歩人とスレ違っだが、特に変な顔はされなかったのでちょっと落ち着いた。
なんとも心細い話である。
さて、大目標の1㌔は、鷹匠橋から下流に向かって500㍍ほど直進したら突き当たる市場通りという割と幅の広い県道を折り返し、エビス像まで戻るコース設定になった。
繰り返しで恐縮だが、海老川ジョギングロードは川べりの片道1㌔を折り返す約2㌔のコースになっているが、私が今回設定した1㌔はその南側半分と想像して頂けたら有り難い。
したがって市場通りはジョギングロードの最南端となり、そこに架かる富士見橋を左に折れて北へ向かう辺りまでくれば残りは300~400㍍ぐらいの地点にになる。
スタートから200㍍を過ぎた鷹匠橋から南に向かう道辺りには、樹齢が古いのか枝振りの乏しい桜が多く日陰が少ない。
だがデビュー戦の私には、降り注ぐ陽光がかえって気分よく感じられ歩が進むように思われた。
といっても、散歩人と変わらぬようなスピードを貫く私である。
それでも自己最長(大人になってから)の400㍍に達する桜橋の辺りでは、かなり息が上がり苦しくなってきた。
足も膝より下のふくらはぎのところが重くなる。
ただ幸い痛みや違和感はなかったので、安物でも思い切ってランニングシューズを買い揃えて良かったという思いが、少し気持ちの支えになった。
レベルの問題はさておき、自分史上最長距離の未体験ゾーンに突入していることは紛れもない事実であり、不安の中を進むときにはそんな些細なことひとつひとつが目標に向かう活力になるのかも知れない。
などと大仰に考えながら
「いくら遅くても走り切ろう」
という気持ちを、何とかつないでいたのであった。
今、進んでいる桜橋から富士見橋へ向かう道は少しずつ左へ蛇行しており行く先があまり見通せないのだが、走ることに慣れていない私にはかえって気持ちが楽に思われた。
逆に真っ直ぐな道がずっと続いていたら、行く先が果てしない場所に感じられ、精神的に萎えるというか、心が折れてしまうような気がした。
そんな加減なのか富士見橋までの200㍍では、さっきより少し苦しさが和らいだように思えた。
またまた大層な言い方かも知れないが、全く些細なことでも自分にとってすごく新鮮な発見と経験だと思えたら、残り400㍍に前向きに挑む気持ちになれた。
富士見橋を折り返してからは川を左に見ながら進むことになり、当然ながらさっきとは反対に右に少し蛇行していく。
しかしさっきとは違い、曲がっていく右側に視界を遮るものがあまりないため案外と見通しが利いてしまい、私を意識過剰にさせる正念場となった。
土曜日の午後ではあるが、ちらほらとランナーや散歩人が行き交っている。
無論、スピードを競う気持ちなど全くなく、到底そんな次元ではないのは分かっていても、
「やっぱり犬を連れた散歩人ぐらいは追い抜けないものか」
と余計なことを考えてしまう。
こんな状況でもそんなことを考える自分は、つくづく体裁を気にする男だと改めて自虐的になるが「いや待てよ」。
さくら橋の手前に見える散歩人を自分が頑張る目標にすることは、体裁とか了見とは違う意味で悪くないのではないか。
そう思い直して、歩きたい止まりたい誘惑と闘いながら何とか前に進む。
そして漸く、さくら橋の横を通り過ぎ、いよいよゴールのエビスさんまで200㍍というところに迫ったとき、その白い小型犬を連れた散歩人と私の距離はさっきと比べて着実に近づいているように思えた。
それがこんな私の初完走への支えとなり、私の初完走を応援してくれているのかと思うと、残り100㍍の辺りでついに追い抜かす時、私は自然と頭(こうべ)を垂れていたのであった。
「さぁ、エビスさんがハッキリと見えてきましたよ」
タイムを図るようなレベルではないのでまだ腕時計はしていないが、エビスさんの真後ろにそびえ立つ時計の針はちょうど午後2時を指していた。
苦しさに打ち克ち、誘惑にも勝利し、小さく手を広げてゴールした私の姿はまさに自己満足の極みであった。
八、
かくして私の1㌔初完走は、そうして私の記憶と海老川の柱時計にしっかりと刻まれたのであった。
そして、このとき感じたほんのちっぽけな満足感と達成感が、ジョギングを始める動機だった義務感に、少しだけ変化を与えたような気がしたのは、いささか早合点だろうか。
それでも、少しの気持ちの変化が翌日の日曜日も同じように愚息をグランドに送り届けた後に、1㌔を止まらず走り切る原動力のひとつになったのは紛れもない事実であった。
にもかかわらず生来の持久力のなさゆえか、走ることに対してのそれ以上の意義が私の中には湧いてこなかった。
だから、6月が終わりいよいよ暑い夏が訪れようとしていた7月に入っても、毎週土日の1㌔だけが長くも短くもならず、ただ途切れることなく続けられていた。
しかしこんな私でも、まがりなりにもひと月ぐらい続けていると、次に挑戦してみようというピュアな心が芽生えるのか。
「何か物足りない」という気持ちが湧いてきたのはお盆の前あたりだった。
ところで、典型的な自己中心人間且つ、典型的な男性タイプである私は買い物が嫌いである。
殊に女性の多くがこよなく好む「ぶらぶらする」というのが最も苦手である。
というよりもはっきり言って大キライなのである。
目的、目標の買い物があるならまだしも、買いもしない、又は買えもしないものをただ眺めながらぶらぶらすることの意味を理解する術を、私は全く持ち合わせていなかった。
一方、その当時はまだ家人との契約は効力を保持したままだったので、愚息の野球生活が始まり随分と機会は減ったものの休日の外出はそれでもままあった。
その中でも私がとりわけ苦手なのは、モールなんかをぶらぶらウロウロすることだった。
誤解を恐れずに言うと「子守りの要員として女性の買い物に駆り出されるもの」としか思えない休日を楽しんでいる男などいるのか。と、いつも懐疑的いや否定的にしか考えなかった私だった。
しかし、その私に大きな変化をもたらしたのが「走ること」への思いがけない自分の興味であった。
大抵、女性がぶらぶら買い物するところにはスポーツショップがある。
中でもモールにはアメリカ生まれの典型のような超大型のスポーツショップを見かけることもしばしばで、そのスケール、品揃えたるやまさに壮観である。
そしてその上なかなか値ごろなのである。
つまりこうして「走ること」への興味はこんな私に買い物の楽しみまでも与えてくれたのであった。
と言っても、ケチを絵に描いたような私は簡単にはモノを買わない。
これはいかなランニンググッズにおいても等しく同様であった。
まずそもそも、自分が欲しいモノ、自分が気に入ったモノを買うという優先順位は私の辞書にはなかった。
new arrivalなどもってのほか、そんなものには決して手を出さない、目もくれない。
銀座と新橋の相対ではあるまいが、そんなものの脇や通路にはキャリーハンガーごと置かれている赤いsaleの札が踊る場所やワゴンがあり、それが私の主戦場であった。
無造作にワゴンにぶちこまれている掘り出し物を丹念にほじくること、それこそが私の真骨頂なのであった。
この頃には幸か不幸か子供たちも既に赤ん坊ではなかったので、ダッコヒモで抱えたりベビーカーを押したりすることからは解放されていた。
さらにキッズコーナーみたいなスペースで子供を走り回らせて監視をすることもなくなっていたので、私の役割は買い物をしている家人を待っていることだった。
即ち「暇潰し」である。
しかしこの「暇潰し」こそ、生来の貧乏性にA型日本人の特性を兼ね備えた私にとって、最も苦手とする分野だった。
だからそれまでは無為な時間をイライラしながら消費するだけが私の休日の常であった。
暇潰しの特効薬であるゲームは、そのセンスのなさから全く受け付けず、かといって騒がしいモールの数少ないベンチでは本を読む気にもなれなかった。
その持て余していた暇を解消して、なお素敵な時間にしてくれたのがスポーツショップだったのである。
元をただせば意を決して始めたジョギングが、齢四十五のおっさんに初めてウィンドウショッピングの愉しさを教えてくれたのであった。
九、
さて、いよいよ夏本番を間近に控え市民プールや海水浴場がそろそろ賑わいを見せ始めた頃にも、まだ土日の1㌔ジョギングは続けられていた。
しかし、約2ヶ月にわたり1㌔だった私のルーティンが、とうとう破られる日がきた。
それは、ちょうど小学校が夏休みに入った翌日だったのだが、その日にはたまたま特別な行事があったので、さすがの私もその日を覚えていたのであった。
特別な行事とはこんなことである。
愚息の野球チームは夏休みに入ったからと言って、連日練習するほどの熱血ではなく、いつもと変わらぬ土日だけのサイクルだったが
、ただ毎年、夏休みに入ったその週末に「合宿」と称して房総方面に一泊二日で出掛けるのが慣わしだった。
相変わらず野球はからきしだが、幸いにも友達と遊んだりすることは割合に楽しんでいた愚息は、思いの外「合宿」を心待ちにしているようだった。
合宿の朝はいつもより少し早めだったが、いつものように愚息と二人で集合場所のホームグランドまで向かった。
ただし、この日は愚息の自転車を翌日まで置いておけないので、私だけが自転車に荷物を乗せ歩いて行ったのだが、この「いつもより少し早め」というのがミソである。
つまり、1㌔のルーティンをいよいよ破るキッカケを探していた私にとって「いつもより少し早め」はまさにうってつけ、渡りに舟だったのだ。
ともすれば、合宿を明日に控え落ち着きなくはしゃいで寝床に入らない愚息よりも、私の方が密かにドキドキしていたかも知れない。
よもやそれを家人に悟られることがないようにそそくさと翌日のウェアの準備をしている私は、自分でいうのも何だが、さしづめ少年の心を取り戻したかのようだった。
愚息たち野球チーム一行を乗せた観光バスを手を振って見送ったあと、父母との立ち話もそこそこにホームグランドを後にした私は、ちょっとだけドキドキしながらホームコースに向かった。
合宿には良く似合う青空が広がる夏の日は、ランニングには少々手強い気候である。
いや、1㌔ルーティンを打ち破るために気合い十分の私にとっては、むしろ「相手に不足なし」といったところかも知れない。
始めた当初は筋肉痛に苦しみ、足の爪の痛みと変色にも悩まされ、やめたい気持ちとの間でそれなりの葛藤があった。
しかし愚息の姿と「公言」で退路を断ったことが私の性質には効果的だったのか、何とか逃げずに済んでいるのであった。
そんな2ヶ月弱の間に準備運動もそれっぽい感じに変わっていたが、それも無論立ち読みで仕入れた受け売りの知識であるのは言うまでもなかった。
そうして体をほぐした私は、いつものエビスさんの前に立った。
さらに、これまで分不相応という気がして使わなかったサングラスを付けてみた。
かれこれ20代の頃からメガネ族の私は、当然メガネを掛けないと支障があるので、仕方なく運動には似つかわしくない普通のメガネを掛けて走っていたわけである。
それもいよいよ解禁かと手前味噌に思うと、なんか気持ちにスイッチが入ったような気がした。
ちなみにその度付きサングラスはメガネのメッカ、ソウルはミョンドン(明洞)で4万ウォンで手に入れた代物であった。
そして、いつからか身に付けるようになっていたストップウォッチ付き腕時計に指を添えたら「いざスタート」である。
さて、今日のコースはジョギングロード1周、つまり2㌔に挑戦である。
週末土日だけではあるものの1㌔ジョグを2ヶ月近く続けていたので、2㌔への恐れはさほどなかったが、ペース配分には気をつけなければならない。
周回はいつも通り時計と反対回り、つまり野球のベースランニングと同じである。
ところで、あらゆる情報が氾濫している昨今、こんな私でもネットや雑誌でランニングの情報を興味を持って見るようになっていた。
目指す目標や目的、また年代や環境などにより、驚くほど多種多様な理論が飛びかっていたが、私のような中年男の初心者向けには総じてこう書いてあった。
「少しずつでも続けることが大事」
「そのためには目標を持つこと」
まあ、確かに続けることが一番肝心なのだが、翻ってそう言えば私が続けるための一つの方法としていた「周りに公言すること」はどうなったのであろうか。
まずは関係上、家人に告げて懐疑の目を向けられたのは前述の通りだが、その次は行き掛かり上の、少年野球チームの父母各位への告白である。
それは所詮、社交辞令ではあるが毎週顔を合わせるたび「頑張ってますね」などと声を掛けてくれる人もおり、実は少しモチベーションになっていた。
そしてその次は仕事仲間だが、利害関係のある相手に無用な気を使わせる懸念から、ここは形式的な体裁程度で済ませたので、私に特段のモチベーションもプレッシャーも与えるものではなかった。
そう考えていくと最も適当な相手、つまりモチベーションにもなる一方でプレッシャーも掛けてくれる相手は誰なのか。
ここまできてそれが、同級生の友人たちであることに思い至った。
同級生といっても小中学校からのいわゆる竹馬の友なのだが、良し悪しや幸不幸はともかくとして、いまだに5人ぐらいがつながっていた。
最近はそんな我ら中年にもSNSなるものが少しは普及してきていたので、生まれ故郷を守ってくれている朋友とも気軽に連絡が取れるようになったのは、私にとってはありがたいことだった。
また、四十も半ばになるとそれぞれ子供の手が離れてくるので、朋友との交流はかえって活発さを取り戻していた。
それも私にとって程良いタイミングだったのかも知れなかった。
にもかかわらず、そんな朋友に対する私の「公言」は、情けない程に中途半端なものだった。
というのも、ランナーの対極にいる男、いわば走るという行為から最も縁遠いはずの私のことを知り尽くしている竹馬の友であるがゆえに、半ば冗談めかしたメールでの宣言になってしまったのであった。
そうでなくても受ける側からすれば唐突極まりない上に、私の知る限りでは彼らには全く興味のない領域のことだったので、尚更にこちらも照れ隠し半分の「公言」になってしまったわけであった。
まあ、ちょっとエラそうに言った割にはだらしなく中途半端な言いふらしになったが、それでも元来が「エエ格好しい」の私にはそれなりの効果はあると思われるのでどうか片目をつぶってご容赦頂きたい。
さて、先ほどのくだりにもあるように、ネットや雑誌の立ち読みなどで、私は結構な頭デッカチになっていた。
中でも走るフォームについては1㌔ジョガーある自分の身の程は全く省みず、たくさんの理論や方法を一生懸命見聞きしていた。
ランニングに限ったことではないが、理論というのは大抵において多岐に亘る場合が多く、その取捨選択に迷うのが相場である。
しかしそれは、恐らくたくさんの方法論と個々の特徴、いわゆる個性との掛け算になることで、おびただしい種類や数があるように錯覚しているのではないかと思う。
然るに、自分に合うフォームやトレーニングの方法を見つけることこそが上達の早道なのではないのか?などと悦に入っていた私だが、そんな私がたどり着いた結論が(と言ってもたかだか1ヶ月半ぐらいだが…)、珍しくマトモ?な考えに思われた。
その結論とは「身の程を知り、身の丈に合ったことをまずは『一つだけ』実践してみる」というものであった。
では、あくまでも自己評価ではあるものの、なぜ「珍しくマトモな考え」にたどり着いたのかを少し説明しておかねばなるまい。
あの情けない『100㍍挫折事件』(と呼ぼう)の翌週土曜日に意を決して敢行した1㌔走であったが、この完走のウラに実はこれまた情けない話があった。
まずは完走を目標に、散歩人にも抜かれその後塵を拝するほどのスローペースだったにも関わらず、その最中に足が痛くなった。
膝より下のふくらはぎのあたりが中心である。
かれこれ20年間、何の稼働も負荷も掛けてこなかった我が脚は、もはや老人のように細くみすぼらしく衰えていたのは既述の通りであり、それが体裁だけランニングシューズを履いたからと言って魔法がかかるわけでもあるまいに、それがいきなり走るなんて身の程知らずもいいところ、無知無謀の狼藉という他ない。
当然の報いに、その夜は一応シップみたいなヤツを貼ってみたもののそれこそ気休め、翌朝はお約束の筋肉痛であった。
「歳を取ると筋肉痛が遅れてくる」
まことしやかに囁かれているこんな話が、俗説なのか、はたまた都市伝説なのかは定かではないが、翌朝にきたことを「オレは若い!」などと浮かれている場合ではないのであった。
だから、それぐらいの筋肉痛を理由に(実のところ結構きていたが…)翌日日曜日の1㌔をやめたならば、この先も継続することは恐らく一生無理であろうと考えたのである。
なぜなら、現に今の私も含め、数多の余人もここを乗り切れずいわゆる「三日坊主」の仲間入りを果たしてきたこと往々なのだろうから。
自分としては、さすがに命までは賭けないものの、少なからず退路を断つほどの決意で臨む1㌔走である。そして、それが真剣であればあるほど他人からは滑稽に見えるのが分かっていた。
その証拠に家人からは心配という名の軽蔑の眼差しを全身に受けながらも、痛い脚を引きずりながら再び意を決して日曜日の朝もグランドに向かった私なのであった。
グランドではいつもの父母友達が「ランニング頑張ってるんですか?」などと何の他意もなく純粋に聞いてくれるので、よもやたった1㌔のジョギングで脚が痛いなどとは口が裂けても言うことが出来ず、率先して草をむしる。
が、実際にはしゃがむことさえも困難を極める程にふくらはぎが痛い。
おまけに一晩寝たら太ももにも筋肉痛が上がってきており、なんと情けない姿かと思う自分への腹立たしを噛みしめていた。
十、
季節が進み夏の足音が大きくなってくる頃になると、海老川の畔はめっきり人が少なくなるようだ。
春から初夏には雨後の筍のようにジョギングロードを賑わしていたランナーや散歩人は、冬眠ならぬ夏眠よろしくその姿を見せなくなっていた。
昨今の酷暑はここで語るまでもないが、外に出たとたん、熱気と暑さがまとわりついてきて、立っているだけでも汗が吹き出してくる。
そんな中で散歩はおろか、ましてや走るなどとは狂気の沙汰である。
と、私も先頭に立って喧伝していたクチであったことは容易にご想像頂けると思うが、人の気持ちとは全く勝手なものである。
まだたったの数ヶ月というのに少しずつ、ほんの少しずつではあるが、私は自分の中の変化に楽しみを覚え、微かな自負を持つようになってきていた。
本当に気付かない程だが、肉体(カラダ)にも変化が現れてきたような気がしていたが、その自負はむしろ、精神(ココロ)の変化に対してのものであった。
誰と競うわけでもない。時計との競争もまだまだ気が早い。ましてや競技に参加するわけでもない。
そして、自己満足的にそれなりに公言したとは言うものの誰かが見ているわけでもない。
つまり、全ては「自分との約束、自分との闘い」なのである。
従って、裏を返せばいつでもやめることが出来る。
そして恐らくやめたからといってほとんど誰も気にも掛けないだろうし、よしんば分かったとしても何事もなかったかのように流されるだろう。
少しカッコつけて言わせてもらうと、「誰かに見せるため」ではなく「自分との約束を果たす」ことへのこだわりが、ほんの少しずつだが私のココロに変化を与えてきたのであった。
それは、たった数ヶ月、しかも週末だけのチャレンジであったにせよ、ちっぽけなプライドを持ってやり切ることが自信につながり、前向きな思考を生むことへの好循環を与えるのかな、と感じていた。
少し話を戻そう。
走り始めた時に見舞われたヒドい脚の筋肉痛により、少しでも痛くないように走れないものかという必然的な工夫から、まずは『一つだけ』フォームへのこだわりを決めて実践してみたわけであった。
これは至極単純な素人考えなので笑わないで聞いて頂きたいが…
脚の特に膝から下のふくらはぎが痛くなるということは、当たり前だが走る時にふくらはぎに負荷を掛け過ぎているのではないか?
それなら、ふくらはぎだけではなく負荷が分散するような走り方は出来ないか?
まぁ「論より証拠」、実際に走って考えてみたら何か分かるんとちゃうか?
ということで善は急げとばかりにエビス像の前をスタートしてみた。
少し走ったところで思ったのは、脚を前に出さなければという意識が強いために大きく踏み出そうとし過ぎていないかということだった。
しっかり練習を積んで筋力も備わっているランナーなら脚で体重を支えられるが、20年振りにそろりと走っているド素人がその真似をしてもダメージが出るだけだったのだ。
ならば、あまり脚を大きく踏み出さないこと、つまり少し小股で走ることで脚への負荷を和らげられるのではないか。
ただ、そうすると歩幅、いわゆるストライドを狭くした分を回転で補わなければ同等の速度は維持出来ないことになる。
そうして「なんちゃってランナー」の私がたどり着いたフォームは「なんちゃってピッチ走法」であった。
どちらかというと長身の部類に入る私にはピッチ走法はマッチしないかと思われたが、ある理由がそれを必然にした。
それこそ見事にやせ細った「老人の脚」が、身の丈を知るように導いてくれたのであった。
覚悟はしていたものの想像以上に痩せさばらえた脚では、たった1㌔ジョグにさえも耐えられないことを痛切に思い知ったことで、このままではとても継続できないと焦った。
それが怪我の功名か、少しでも何か改善出来ないかを考えるキッカケを作ってくれたのであった。
その上、予期せぬ客人のような嬉しい誤算までもがいくつか来訪し私を喜ばせた。
のちになって知ったのだが、偶然にも我流のピッチ走法が、体の真下に着地するというランニングの基本動作に合致していたのである。
さらにそうすることで猫背になりにくく、ほんの少しだけ前傾姿勢になる。
すると、緑眩しいジョギングロードの景色など、全く目に入らなかったほどうつむいていたのが、ちょっと前を向けるようになる。
まだまだ左右の景色をうかがいながらとはいかないけれど、前を向けるようになると気分的にも楽になった。
他人から見たらどこが変わったのか分からないようなことでも、本人にしてみたら一大事なのである。
すると、ちょっとフォームを変えた(つもり)だけでも、不思議と気持ちや姿勢が変わってくるのが分かった。
例えば、他の人の走る姿を見ても、ただ淡々と走っているように見えるあの人も、
「実は自分なりに自分しか分からないような改善を加えながら走っているのではないか?」
そして、
「その変化に手応えや違和感などを感じているのではないか?」
などと興味や共感が持てるようになったりするのであった。
そんな、たった数ヶ月ではあるが続けて走っていると、1㌔で脚が痛くなったり、呼吸がどうしても苦しくなるということが漸くなくなり、少し前向きな欲が出るようになってきた。
ちなみに先述の通り、我がホームコースである海老川ジョギングロードは、一周約2㌔からなっている。
そして、これまで2ヶ月はその中程の位置にある鷹匠橋で折り返す1㌔走を繰り返してきたのだが、いよいよ本来の海老川一周2㌔に挑戦してみたくなったのである。
その頃には1㌔ならば6分半ぐらいのペースで走れるようになっていたが、やはり倍の距離なので少し準備が必要であると考えた。
なんと言ってもペース配分が大切であるが、あまり数値にとらわれるとかえってプレッシャーになりそうなので、2ヶ月前の原点に戻ってまずは「走り切る」ことだけを目標にすることにした。
十一、
8月のとある土曜日の昼下がり。
暦では立秋を過ぎていたものの、残暑と呼ぶには到底激し過ぎる酷暑の日に私はエビス像の前に立っていた。
それは、もしかしたらプチ自分記念日になるかも知れない「大人になってから最長」の2㌔完走に挑戦するためだ。
かつて1㌔を何とか完走したいと思った2ヶ月前のように、エビス像の前をゆっくりとスタートする。
まず、いつも曲がる鷹匠橋までの200㍍はさすがに難なく通り過ぎ、今日は曲がらずまっすぐ進む。
次に目指すはジョギングロードの北端にある八重橋である。
その八重橋までは約500㍍なので、力まずペースを崩さずに脚を運んだ。ちょっと慣れてきた頃で、ともすれば調子良く行きたくなる気持ちがはやるので、抑えて行こうと意識した。
それが奏功したわけではないと思うが、八重橋のたもと近くにある「レジェンド有森裕子」の栄誉を称えるモニュメントには、まだ何とか苦悶の顔ではなく挨拶ができた。
八重橋を左回りに渡って折り返し、今度は川を左に見ながら一路南下して行く。
たかだか数ヶ月の成果とはいえ、さすがに散歩人に追い抜かれることはなくなったが、まだまだランナーには抜かれることはあってもこちらが抜くことはほぼ皆無である。
でも、あくまでも自分との約束、自分との闘いなのでそんなことは気にしない。
八重橋を折り返してから200㍍足らずのところでは、白鷺が水遊びをする姿を結構な頻度で見ることが出来、少し気持ちが和んだ。
海老川自体が細く短い川ではあるが、支流が合流するやや川幅も水量も多くなる場所に出来た中洲には適当な広さがあるので、白鷺や水鳥たちが飛来するのかも知れない。
などと、そんな情景を見て悠長に余裕などかましている場合ではなく、まず今は、何とか歩かないように一歩ずつ進むことが先決だ。
さて、左前方にいつも折り返していた鷹匠橋が見えてきたらそろそろ1㌔だが、カラダもココロもまだ大丈夫だ。
さらに、橋を左に見ながら小さなアップダウンを越えると未知の世界1.2㌔に届き、ついに自己最長を更新である。
ここまできてもカラダとココロは大丈夫どころか、とてもちっぽけではあるが自己記録を更新したことへの興奮と嬉しさで逆に元気が出たような感覚になった。
当然息も上がるのでしんどいのだが、そのしんどさとケンカしないとでも言うのだろうか、しんどさに抗って力むのではなく息苦しいのを受け入れられるような耐性が、少しだがついてきた感じがしていた。
おっと、また悪い癖が出てしまったが、過信は絶対に禁物である。
たかだかここ数ヶ月、そうたったの数ヶ月、しかも週末にたった1㌔を走っただけの自分を「勘違いするな」と戒めながら進む。
ともすれば、また調子に乗って身のほども弁えずにペースを上げてしまいそうな自分がいたのだった。
しばしば立ち読みでお世話になるランニング雑誌の受け売りである
「前半を身の丈以上のペースで入ってしまうと、ほぼ例外なく後半に地獄を見ることになる」
というフレーズに助けられ冷静を保った格好ではあるが、素人の私レベルにしてもペースというのは本当に重要だと思う。
いや、トップランナーになればなるほど相当に微妙な感覚があると思うので、実は素人の比ではないのかも知れないのだろう。
これも例えか、はたまた比較になるか分からないが、競走馬の世界には
『持ち時計しか走れない』
という、よく使われる格言がある。
馬に聞いたわけではないが、馬は今日走る距離を恐らく知らないのでペース配分も分からないだろう。
それを騎手が如何にナビゲートするかも競馬の妙味であるわけだが、それでも前半快調に飛ばす持ち時計劣勢馬が、最後の直線でよもやと思わせるシーンはちょくちょくある。
だが、そのほぼ大半、いや殆どがゴール前ではキッチリと馬群に飲み込まれるのであった。
それがまるで、前半突っ込み過ぎて後半に地獄を見るランナーと凡そ等しい、と思うのはあながち私の誇大表現ではないと思われた。
さて、鷹匠橋とジョギングロード南端の富士見橋との中間あたりには、さくら橋の細かいアップダウンがある。
スタートからは大体1.5㌔ぐらいのところになるのだが、ここが2㌔走での正念場だった。
案の定ペースが落ち、息が上がり、顔が下を向くが、ここで歩いてなるものかと必死に腕を振る。
苦しいながらも重い脚が動いてくれたのでなんとかクリア出来た。
そうして冨士見橋を折り返すと、エビス像のゴールまで残すは約300㍍。
思ったよりペースを守れている。
夏の朝陽を右やや後方から背に浴びながらゴールを目指す。
もちろん息は弾んでいるが、身の丈のペースで進んできたので乱れる程ではない。
ゴールが見えると元気が出ると聞いたことがあるが、よもやの最終100㍍でのラストスパートが自分を驚かせた。
そしてついにエビス像のゴールにたどり着いた時、両手を上げないまでも少し左右に開くポーズが自然に出たのであった。
それは自己最長への挑戦をやり切った自己満足の極みであり、他人の眼など気にならない自分がなぜか誇らしかった。
自己満足の達成感に浸りながら吹き出す汗を水場で流し、水を5口ほど飲むとだいぶん息も落ち着いてきた。
すると、なんと生意気にもまだちょっと余力がある感じだったが、明日もあるのだからお得意の調子に乗ってはいけない。
そもそもの目的である「継続することが大切」という気持ちに立ち返り、自転車に乗って帰途に着くことにした。
それでも、達成感からか少し気分が良かったので自転車で海老川を一周してみたところ、意外なことに気がついた。
それは、さっき苦しみながら走った時の方が「周りの景色や空気が感じられたんちゃうか?」
ということだった。
それは、ただ単にスピードが遅いからなのか?
いやいや、そんなに単純なものではないだろうと思案してみた。
そもそも、しんどくて周りを見る余裕などないにもかかわらず、不思議なほどにその情景が目に焼き付いているのはなぜか。
自転車や自動車は、無論スピードが速いので視野が狭くなるということはあるが、意外と漠然と惰性で進んでいるのではないか。
引き換えランニングは、当たり前だが足を止めると前に進まない。
そして、その足を止めないための歩を進めることが苦しいので、集中力が高まり研ぎ澄まされる。
すると、脳までが必然的に活性化することで洞察力や記憶力のポテンシャルが上がるのでは…
などと、得意の自己満足で悦に入っていると、やはり自転車は速いものだ。
早くも半周を超えて鷹匠橋の姿が私の左後方に流れて行ったのだった。
十二、
この当時、メールはかなり一般的に使われるようになり、仕事だけでなくそろそろプライベートでも活躍してきた頃だった。
とはいえスマホはまだ出始めだったから、SNSなどは一部の若者だけの世界であり、その存在さえも知る由のない我々おっさん族の通信手段は専らメールだった。
但し、皆それぞれに仕事にも家族にも時間を費やさねばならない年代と環境ということもあり、それこそ日常の出来事を気軽に、そしてタイムリーにやり取りするというものではなかった。
そんな折ではあったが、数ヶ月前に「自己満足」「自主規制」を公言するメールを、朋友各位に送った私としては、望まれずとも求められずとも、その経過進捗を報告するのが礼儀というものであろう。
そんな手前勝手な振る舞いで、恐らく誰一人として期待もしていない1㌔ジョギングの成果?を、ご丁寧にもメールで送り付けていた私が、よもや今日の快挙?を書かずにいられるわけがないのであった。
無論、2㌔完走が快挙だなどと思う人が日本中、いや世界のどこを探しても居ないことなど頭では分かっている。
しかし、この興奮冷めやらぬココロを一人では鎮めることが出来ない以上、我が朋友たちに犠牲になってもらう外ないのであった。
いや、やはりそれ以上の実を明かそう。
実は興奮がまだ湯立っていた先刻、いち早く家人に熱く語ったところ剣もほろろ。
「3ヶ月も経つのにまだ2㌔なん?」と逆に心配?されたことで大いに消沈したのである。
然るに、その傷心を癒すためには我が篤き朋友の犠牲がどうしても必要なのであった。
当時すでに、ランニングブームに火は点いていたとは思うが、それでも今ほど誰もが気軽に走っているわけではなかった。
そんな中、持久との対極にいた私が走るなどと、最も私のことを知り尽くしている朋友たちが信じるわけがなかった。
一様に、どうせ『三日坊主』にまでもたどり着かない『思い付き』で終わるものと何の興味も示さなかった。
しかし、今回の私の報告には朋友たちが驚いた。
恐らくその驚きとは、2㌔などというどうでもよい距離のことではなく、まさかそんなことをコツコツと続けていたという、私の変化に対してだったのであろうと思う。
そしてそんな中でさらに反応したのはH君という中学校以来の朋友だった。
たった2㌔の完走を、興奮冷めやらず受け売りのウンチクまで交えて報告した私のことを、H君は慰労、称賛してくれる一方で叱咤もしてくれた。
それもそのはずこのH君という男、ちょっとした経歴を持っている男であった。
遠い昔日、H君とは中学校では共に野球部で、高校では種目こそ違えども同じ学校で汗を流した仲であった。
ただH君には悪いが、私の中でその当時のH君は、レギュラークラスではあってもとりわけ運動に秀でていると思わせるまでの存在ではなかった。
ゆえに、彼が昔から言う運動系の話には興味がなく、つい3ヶ月前まではほとんど聞き流していた私なのだった。
にもかかわらず今、私の自己本位の現金さが本領発揮の時を迎えていた。
思い返せば、その聞くところによるとH君は、大学の時分から始めたランニングや自転車において、才能が開花したのかはたまた努力が実を結んだのか、長じてトライアスロンに挑戦するまでになったらしい。
ちなみにトライアスロンとは、一般的にはオリンピックディスタンスと言われるものがポピュラーであり、スイム1.5㌔、バイク(自転車)40㌔、ラン10㌔で競われる。
その他、ミドルディスタンス、ロングディスタンスなどがあるが、トライアスロンの中でも世界一過酷と言われるのがアイアンマンディスタンス、いわゆる『鉄人レース』である。
そして、毎年10月に世界各国で行われる予選を勝ち抜いた強者がハワイのコナ島に一同に会し、アイアンマンディスタンスの世界選手権『ironman Hawai World Championship 』が開催されるが、あろうことかH君は、そのレースに10度以上にわたり出場している鉄人なのだった。
いや、もはや鉄人を超えた変人なのであった。
ちなみにアイアンマンディスタンスの距離は、スイム3.8㌔、バイク180㌔を終えてから尚、42.195㌔、つまりフルマラソンを走るという途方もないものである。
今になって思えば、変人の領域にまで達してしまったがゆえに、かえってH君は誰からも興味を示してもらえなかったのかも知れない。
そんな時に、最もその対極にいた私のようなヤツが、冷やかしレベルであっても足を踏み入れたわけだが、H君にとってはそれは案外に歓迎すべき出来事だったようであった。
それからというものH君からは、私をその世界に優しく誘う、いや引っ張りこむ?かのようなアドバイスや、興味を持たせる楽しい話題が提供されるようになったのだった。
十三、
10月も半ばになると、さすがに最近の異常な暑さも、その座を秋の移動性高気圧に奪われてきていた。
青葉が隆盛だった海老川の堤も葉っぱ同士の間隔が少し広がり、ジョギングロードに降り注ぐ陽光の領域もまた、広くなっていた。
朝は少し涼しく長袖が必要だが、昼に向かって体を動かしていると適度な気持ち良さと一緒に湧く心地よい汗が、知らぬ間にその袖をまくらせる。
「さぁ、富士見橋からのラスト500㍍だ」
と、私は飽きずに走っていた。
相変わらずのジョグではあるがゴールのエビス像にたどり着けば今日の距離は4㌔である。
つまり、なんと海老川を2周である。
これも相変わらずの週末土日だけではあるが、9月の半ば、1ヶ月ぐらい前から2㌔を4㌔に延ばしてみたのだった。
すると、ちょっと苦しい時もあったが意外にも大丈夫だったのである。
これまで、たいがい調子に乗って失敗を重ねていた私が、何故かランニングだけはコツコツと徐々に段階を踏んで続けられていた。
何故コツコツと続けられているのか自分自身がいちばん不思議なのだが、裏を返せばそのことが、持久と継続が大の苦手な私を4㌔も走らせた理由なのは明らかだった。
しからば、何故コツコツと出来たかということになるが、元々が健康のためという"ユルーい"目標だったのが良かったのだろうか。
もし、かつてのようにいつまでに何㌔とか何分とか、数値的なもので無理に追い込んでいたら、とっくにやめていたのかも知れない。
はっきり分かるわけではないものの、そうしたことが奏効したのか、自分でもよもやと思いながら、走り始めてそろそろ半年が経とうとしていたのだった。
しかし、他人から見たらたった半年である。
なのに、絶対に過信だけはするなと言い聞かせていても妙な自信が頭をもたげ、もう少しもう少しと距離を延ばさせようとしていた。
その自信はあくまでも自分の中だけのものだったはずが、そのうち雑誌やネットで知った、いわゆる市民マラソン大会にも興味を持ち始めていた。
「世の中の偶然は全て必然のなせる技である」
とは、誰が言ったか知らないが、そんな私の興味に導かれた何かの必然が、いつの間にやら私自身に迫ってきていたのだった。
産まれてこのかた44年、自ら進んでマラソン大会に参加するという文字など、決して見当たるはずがなかった自分史上において、『ひょうたんから駒』が飛び出すような、極めて重大な事件が、私の意思とは関わりなく起ころうとしていたのだった。
すなわち、私を大いに驚かせるその出来事が起こったのは、夕暮れがすっかり早くなった晩秋のことだった。
それは、普段はお互いに全くと言っていいほど連絡を取り合っていない、兄からの突然のメールから始まった。
改めて私事ではあるが、私には二つ年上の兄がいる。兄弟はそれ限りである。
兄は故郷の大阪に住んでいることもあり、普段のやり取りは殆ど無かった。
仲は良い方だとは思うが、その当時は年賀状の行き来だけで、お互いの生存を確認していたような状況だった。
そんな調子だから、良し悪しはともかく
「便りが無いのは無事の報せ」を地で行くような関係の兄からの、突然のメールには実際驚いた。
ずいぶんと昔に鬼籍に入った母のことはともかくとして、父はその頃まだ大阪で健在であった。
若い時分からの極道で母を泣かし続け、殺しても死なないような親父だったのでよもやとは思ったが、
「スワッ、ついに極道親父がくたばったか?」
と思いながら見たそのメールには、こう書いてあった。
『お前、最近ジョギングしとるらしいな』
は?どこで情報仕入れたんや。
『お前の名前で申し込んだ“東京マラソン”が当たったんやけど走らへんか?』
おいおい、ちょっと待てよ。
いかな極道親父とはいえ、突然くたばったなんていう報せはさすがに歓迎していなかったのでそれは良しとしよう。しかし…
「その東京マラソンってなんやねん」
「それってフルマラソンやろ」
「全く意味不明やんけ」
これが私の偽らざる瞬間的な本音であった。
しかしそう思ったにせよ、それをそのまま兄に投げ返すのは、いくら兄弟とはいえ親しき仲にも礼儀があろう。
と、そんな感情を何とか抑え、一晩寝てから返信することにした。
ちなみに、私の頼りない記憶によると、兄は社会人になった30年ぐらい前からランニングをしていたはずである。
当時はランニングはおろかジョギングでさえも一般的な趣味の領域には入っておらず、どちらかというと「変わった人」扱いに近い時代であった。
私自身もかなり以前に、職場までの15㌔の距離を走って通っていると兄から聞かされて「コイツ、アホちゃうか?」
と思ったのを覚えているほどである。
最近でこそランニングブームの中『通勤ラン』という言葉なども、ある程度は認知されるようになってきたのかも知れないが、その当時にリュックを担いで職場まで走るなんてまさに「変人」を絵に描いたような男であった。
引き換え翻ってみれば、その対極である不摂生の「変人」であった私のランニングは、まさに冷やかしレベルであることは言うまでもなかった。
つまり、フルマラソンなど『別世界』の出来事で、自分には全く関わりのないものであった。
なのに翌日、兄にメールでこう書いた。
「オレまだ最長4㌔、しかもジョギングやで」
「でも、東京マラソンってなかなか当たらへんて聞くしもったいないわな」
「ま、たぶん無理やと思うけど取り敢えずエントリーだけしてみるわ」
かくして、大いなる勘違いをした私が『ランナーの憧れ』である東京マラソンへのエントリーを決めてしまったのは、秋もかなり深まった霜月の初め、2010年11月7日の日曜日のことだった。
そして今思い返しても、何故こんな不純極まりない私が大いなる勘違いをしたのか。
それは何度どうやって考えても分からなかったが、強いて言うならば『別世界』という現実感の無さが、私を夢の世界へいざなったとしか、答えを見出せないのだった。
十四、
「決めたはいいが、さてどうしよう…」
笑うに笑えない事態を招いておきながら、こういう時に人は笑うしかないようである。
エントリー自体はいささか簡単なものであった。
コンビニでポチポチと情報端末を操り、イベント代金として参加費を払えば、
「ありがとうございました」
の声と共にエントリーは完了した。
いや、してしまったのであった。
程なくメールで「完了しました」通知までご丁寧に送られてきた暁には、やはり夢でも間違いでもない。逃げられないようである。
こうして、いとも簡単にこの僅か数分で東京マラソンへの入口は開かれたが、それはあくまでも、ただ入口が開かれただけであった。
つまりその入口はスタートラインではなく、真のスタートラインはもっとずっと先なのだった。
それは単に東京マラソン開催日2011年2月27日までの時間のことではない。
ずっと先とは、自分自身が葛藤と逡巡を乗り越え、スタートラインに立つ覚悟を決めるまでの、果てしなく遠い地点のことであった。
さて、意志も弱く継続が苦手な私が独りで考えても、そうそう結論が出ないことはまさに自明の理であった。
然るに、誰かに話して相談するしかない。
そして、その無謀としか思えない行為について、誰かに背中を押してもらうか、はたまた「大いなる愚行」と引き留めてもらうか。
いずれにしても誰かの言葉を聞きたかった。
そこで、まずは順番というだけで、期待はともかく家人に尋ねた。
「なんや東京マラソン走らへんかて兄貴から連絡がきたんやけどどない思う?」
「ん?なんなんそれ?」
案の定、いやそれをはるかに超える即反応である。
私が少々ジョギングをしていること自体は、汗にまみれた洗濯物が増えるという迷惑さから、確実に認識しているはずである。
とはいえスポーツとはよほど縁遠い、それどころかその対極にあるような家人には、特別な意図もましてや悪気など無いのだから、それは全く自然な言葉なのだったのだろう。
だからがゆえに、その無関心振りにはほとほとテンションが下がる心持ちだったが、家人が継いだ次の言葉が良かった。救われた。
「絶対ムリやろ」
99%、いやいや極めて100%に近く正しい言葉だったかも知れない。
しかし、そのお陰で覚悟が決まった。
家人の一言が、ランニングにおいてだけはコツコツやっていたはずの私の「生来の無計画さ 」に、いみじくも火を点けたのである。
こうして、家人の全く何の意図も無いその一言が、図らずも私の無謀な挑戦を後押しする結果となるとは、因果とはまさにこのことであった。
十五、
さぁ「大いなる無謀な挑戦」の始まりである。
行き掛かり上、取り敢えずエントリーした東京マラソンの入口に、本当にいや本気で足を踏み入れてしまったのは、東京マラソンのスタート2011年2月27日まで100日余りに迫った2010年秋のことであった。
などと気分だけは高揚しているものの、とはいえさて何から始めたものか皆目分からない。
でも考えた。まずは計画だ。
そう言えば、ずいぶん前に会社の研修で習ったな。
ランニングやマラソンに限った話ではないが、目標の成就達成に向けて取り組むには、まずは計画が大切だ。
しかし、この「無謀な挑戦」においては目指す地点と自分の現在地との距離が余りにも懸け離れ過ぎていた。
いわゆる雲をつかむのと同じで現実感が一向に湧いてこない。
ならばと、本屋さんに向かった。
自分一人であらぬことを考えるよりも、頼るべくは人の話である。
中でも情報と知識とアイデアの宝庫である本屋さんは最高のコーチと考えた。
しかも本屋さんには申し訳ないが、立って読めばタダである。
2007年から5回目を数える東京マラソンの功績もあってか、ランニングもブームを迎え始めていたその頃には、本屋さんにもランニング関連の本が棚狭しと並んでいた。
例えば「知識ゼロからのジョギング入門」とか、「ゼロから始めるフルマラソンの本」などをにわかランナー的に読んでみる。
いかにもこれを読めば、初心者でもフルマラソンを走れるかの如きレクチャー本である。そこには、走る準備からフォームやトレーニングメニュー、そしてウェアやシューズをはじめとしたランニンググッズのことまで情報満載である。
とりわけ、フルマラソンなど全くの想定外だった私にとっては、初めて知ることもとても多く非常に有意義な情報であった。
が、しかし…
何冊かの本を頑張って立ち読みしたものの、私にとって一番肝心な情報がどうしても見つからないのである。
そう、どの本を読んでみても「初心者が3ヶ月でフルマラソンを走れるようになる」というくだりは見つからないのであった。
ということはやはり、そんな短期間でフルマラソンを走るなど無謀でしかないのかと、私は意気消沈した。
しかも当年取って齢45であればなおさらだろう。
皮肉なことに、最高のコーチと思った本屋の立ち読みが、「大いなる無謀な挑戦」の無謀さを、図らずも証明した格好となってしまったのではないのか。
と、これにはさすがの無計画な私でも、ちょっと途方に暮れるというか、逡巡せざるを得ない現実を突き付けられたような、暗澹たる気持ちになったのであった。
しかし、まあ冷静に考えたら至極当たり前のことだろう。
なんせ半年前に100㍍も走れないところから、半年間かけてやっと4㌔を走れるようになっただけの私が、これから3ヶ月余りで42㌔を走ろうなど、どだい無茶な話だったのだ。そう思うと酒が進んだ。
あれ以来、そうジョグを始めた5月からも酒はやめていない。
いや、むしろ増えたくらいかも知れなかったが、多少なりとも運動をしたという自負もあり、夏場にはたっぷりかいた汗の分を酒で補給したのも往々なのだった。
酒の「功罪」などと言うこと自体が酒飲みの感覚かも知れないが、自分の気持ちに素直になれるのが酒の「功」と信じていた。
言い換えれば単に気が大きくなるとも言うが、小心者である私の場合は人と比べてもその傾向は、良し悪しは別にして顕著なようであった。
然るにその夜も、たしかに無謀な挑戦と思っていたにせよ、はっきりとそれを突き付けられたことによる逡巡が「もっと飲めよ」と私をけしかけた。
そして、それに従うまま酒が進めば進むほど気が大きくなっていった。
すると、さっきまで逡巡に100%支配されていた心が、
「何とかなるんちゃうか」
という楽観的な気持ちに変わってきたではないか!
まさしく、私にとっての酒は百薬の長なのであった。
そうして、百薬の長のお陰で、根拠なき挑戦への気持ちだけは取り戻し高まってきたが、かといって、では何をすれば良いのかは、相変わらず宛の無い藪の中であった。
こんなときには飲むしかないかと、さらにコップを空にしていくうちに…ふと思い浮かんだのだ。
またしても、さすが百薬の長である。
それは、公言することでまだたった半年間ではあるものの、自分が最も苦手な「持久と継続」を何とか克服してきたのではなかったのか。
だから今、その力があればもう一度この逡巡からの脱出することが出来るのではないのか、と。
過日、「絶対ムリやろ」の一言で私をヤル気にさせた家人だけでは、この逡巡を全て吹き飛ばすまでには至らなかったが、次に頼るは朋友である。
半年前にも私の自己満足メールを読み続けてくれた朋友たちに対し、私はとても感謝していたし心の支えにもしていた。
とはいえ、半年前とはケタが違う無謀な展開に、さしもの朋友たちもさすがに呆れるのではと覚悟をしながら、不安な気持ちでメールを打ち始めた。
それでなくても書き始めると長くなる私のメールは、酔いも相まってますます要領を得ないまま書き進んでいった。
晴天の霹靂ならぬ兄貴からの唐突メールのこと。
果たして安易にも勢いでエントリーしたこと。
さてどうすれば良いのか思考が進まなくなったこと。
そこに家人の背中を押す?突き放すような一言に決意を固めたこと。
そしてまたどうすれば良いのか思考が進まなくなっていること。
最初のうちは、事実に基づき何とか状況説明が出来ていたはずが、徐々に論理性を失うと共に感情が先走り、仕舞いには支離滅裂極まりない精神論に行き着いていた。
ちなみに朋友グループは私を含めて5人。
全員が中学校の同級生である。
故郷を守ってくれているヤツ。
仕事で世界中を飛び回っているヤツ。
そして私のように第二の故郷に居着いてしまったヤツ。
それぞれが家庭を持ち、忙しく奮戦する中なので、たまにではあるが日々の他愛ない出来事をメールで共有していた。
それは例えば仕事の事や家族の事をはじめとした、喜怒哀楽や困り事も包み隠さず言い合える仲間なのである。
ここで余談を少々。
そんな仲間とのメールのグループ名は『八重洲会』。
今より随分と若かった頃、そろそろ仕事で出張が入るようになってきた年頃の事だ。
大阪から日帰り出張で上京してくるO君やT君たちと落ち合い、見送りがてら新幹線の時間まで八重洲でよく飲んだものだった。
そして、その時ふと思いついて名付けた名前が『八重洲会』。
それを未だに使っているのは、こんな気の置けない仲間との象徴だからであった。
十六、
しかし、今回はそんな誰からも返信が来ない。
予想はしていたものの、やはりあまりの突拍子のなさに、さしもの朋友たちも呆れかえっているに違いないのであった。
と、半ば諦めかけていたところ数日が経ったある晩に、朋友の一人であるアイアンマンH君から返信が来たのである。
それには
「東京マラソン当選おめでとう!そして勇気ある挑戦素晴らしい!」
と、私の無謀な挑戦を肯定してくれるメッセージがあった。
そして私はその言葉に素直に嬉しさと力強さを感じたが、しかしH君のメールにはまだ続きがあった。
「それ、お兄さんの名前とちゃうん?」
「もし、なりすましやったら賛成出来ないな。」
それは、自らがトライアスロンの世界選手権に出場するという、言わば玄人はだしのH君だからがゆえの忠告だった。
つまり何かアクシデントがあった場合、関係者はもとより、たくさんの人に迷惑を掛ける無責任な違反行為であるというのがH君の主張だった。
私が送ったメールの文面に
「兄貴からもらった」
というくだりがあったのを、H君が誤解したものと思われたが、それは的を射た忠告だった。
だから、そんな誤解を解くべく、私はH君に対し今回のいきさつを丁寧に説明した。
確かに私が自分で申し込んだのではない兄貴のさしがね?ではあるものの、H君が懸念する一番肝心なこと。
そう、エントリー名は私本人で間違いないことをH君にしっかりと伝えたところ、
「それは良かった。ならば出来る限りサポートするよ」
と、たちまち強力な援軍に早変わりしてくれたのであった。
しかもその返信メールには、勇気ある挑戦に向けての計画を、早速立案してくれるという心強いコメントが書いてあり、逡巡を繰り返す私の意を強くしてくれたのだった。
第二話 結了
飲んだくれが自称ランナーになるまで ちーしゅん(なかむら圭) @chisyunfumi
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