弐拾壱 禿

 五年以上前の夕暮れ。北海道のとある村で、金剛杖を持ちリュックを背負ったローブの人影が逃げ回っていた。

 以前、陸徒が夢で見た女性と同じ。これは少年時代の出来事だ。

 彼女の後ろからは、二人組みの警官が追いかけてきている。

 女は、ある道の角を一足先に曲がった。そこからどうすべきか迷ったとき――。


「こっち! こっちだよ、お姉さん!!」

 この村に来てからいつも彼女がいた児童公園の奥。茂みの向こうから、あの顔なじみの少年が呼び掛けた。

 小学生の頃の陸徒だった。ランドセルを背負い薄汚れた私服姿、学校帰りに女性を探していたのだ。

 若干躊躇してから、女は藪に飛び込む。陸徒少年のそばでしゃがみ、息を潜めた。

 紙一重の差で、追跡してきた警官たちは公園前を通り過ぎていった。


「やれやれ」女はぼやく。「望み通り出てってやろうってのに、なんなんだい」

「えっ、もう!?」

 ショックを受ける少年に、女性は哀しげに相好を崩した。

「まあね、最後に会えたのはよかったよ。辛気臭いのは苦手だからね、黙って行こうとしたんだが」

 うな垂れた少年が、ぼそりと言う。

「……嫌だ」

 それから、ばっと顔を上げた。

「お姉さんは悪くないのに! なんであいつらの嘘のせいで出てかなきゃならないんだよ!」

「……別に珍しいことじゃないよ」

 女は遠い目をした。


「わらわの両親はホームレスだった。物心ついたときには父親が殺されてたよ、浮浪者狩りをしてたガキどもにリンチされてね。未解決事件なままだそうだ。社会は衝撃を受けた、とかニュースはほざきやがったが、その社会がそんな見方を蔓延させてきたんじゃないか」

 いきなり語られた内容は、幼い少年にはどう反応すべきか見当もつかないものだった。子供の沈黙をよそに、彼女は継続する。

「だいぶ後で、母親も殺されたよ。わらわの生活のために金を工面しようとして半グレに利用された挙句、約束を反故にされて暴行されたんだ。そこは生き延びたが、結局その傷がもとで死んだよ」


 話し終えて、女はようやく少年の戸惑いを察した。いくらか態度を和らげて、謝る。

「すまないね。こんなこと、子供のあんたには関係ないのに。――そうだ、最後の物語を聞かせてやろうか」

「う、うん」

 別れが近いことを感知して、少年はおとなしく応じた。

「知ってるかい?」女は語りだした。「イエスや釈迦のような名高い賢者たちには、わらわたち浮浪者みたいな生き方の中で悟りを啓いた連中がいる」


「おい、あそこ」

 声が割り込む。

 二人の警官が引き返してきて、茂みの隙間から女か少年を発見したらしい。

「……そこの君」

 歩み寄りながら、彼らは呼び掛ける。

「ちょっと出てきてくれないかな、尋ねたいことがあるんだが」


 少年は身を縮めて案じた。けれども女の方は平気で、しゃべるのをやめなかった。

「空海やティアナのアポロニウスのように、旅の中で奇跡を起こした人々もいる。わらわも同じような放浪で、身に付けつつあるんだよ」

 ついに、彼女は立ち上がった。

 いきなりの行動に、警官たちは茂み手前のベンチの辺りで足を止めた。少年は女性を心配して座らせようとした。ためにローブを引っ張ったのだが、反射的に自分も起立してしまった。


 ややあって、なにかを深読みしたのか警察側は身構えた。

「おまえ。……男の子から、離れなさい!」

「子供や女は霊感が強いっていわれる」構わず、彼女は述べていた。「山の神も女とされるんだ。こんな風にね……」

 警官が近づいてくる。そこで、

 ――彼女は杖を激しく地面について、詠唱したのだった。


「懺悔懺悔、六根清浄ろっこんしょうじょう。日の本の比売神等ひめがみたち、諸の禍事罪穢有まがごとつみけがれあらんをば、祓え給い清め給えともうす事を聞こしせとかしこみ恐み白す」

 二人の追っ手が顔を見合わせる。無視して、彼女は紡いだ。

「われはやゑぬ。大禿御前おおかむろごぜん、いますけにこね!」


 ――急激に日が暮れた。

 おそらく誰もがそう認識した。けれども、実態は違った。

 夕陽は沈んでいないのだ。

 注視すれば、その高台から俯瞰できる山村の付近は陽光が当たっていた。ちょうど、児童公園全体だけが暗くなったのである。

 自然、疑問を抱いたみなが頭上を仰視することになる。


「う、うああああああああぁァ――――――ッ!!」

 警官たちは絶叫し、腰を抜かして座り込んだ。少年も、悲鳴こそ上げなかったが同じ姿勢になっていた。声さえ出せなかった。


 くすくすくすくす。


 上空からの笑声。

 そこには巨大な幼女の生首が浮遊していたのだ。自分に視線が集まるや、舌を出して一行をからかう。

「悪いね、まだ不完全で。禿かむろでなく大かむろなんだ」

 女が口走ったが、おそらく意味は彼女にしか解せないものだった。

「……おじたんたち、ばいばいだね」

 幼女が宣告した。


 瞬間、警官たちは消滅した。着衣や所持品ごと、跡形もなく。


 ――少年はただ、震えることしかできなかった。

 やがて、巨大な顔は幻のように空へと溶けていった。

「そして日の本の荒神は、少々危険なんだよ」

 我に返った幼き陸徒が声のほうを見ると、女はすでに茂みを出て公園の真ん中にいた。

「……びっくりさせてすまなかったね。でももう会うこともないだろう、さよならだ」

 彼女は背中を向けたまま別れの挨拶をした。それから、出口の方へと歩いていく。

 ほんの僅かだが、少年は迷った。迷った挙句に藪から飛び出して、けれども接近する勇気もなく、震えながら開口するのがやっとだった。


「ま、待ってよ!」

 女が、出口付近で足を止める。振り返りはしなかった。

「もう、行っちゃうの?」


 ため息をついてから、呼び掛けられた相手は明るく口答した。

「こんな体験をしても声を掛けるとは、たいした度胸だよあんたは。やっぱりその探究心は脅威になるかもしれないね。親しいままだと去りにくくなるんだが」

 それからちょっとだけ、少年に目をやった。

「じゃあね、生き延びれたなら元気で暮らしなよ。わらわがこれからなにを成すかも知るかもしれないね。母さんが好きだったこの歌を記憶しておけば」


 そうして彼女は、公園をあとにして遠ざかっていった。少年は様々な感情から、それ以上引き止めることもできなかった。

 ただ女の歌声だけが、いつまでもいつまでも侘びしく一帯に反響しているだけだった。


 だいだらぼっちだらぼっち、ワラビの新芽を食べにこい。

 おほほほーほほほー、ほほほほーほほほー。

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