幸せの条件

くたくたのろく

幸せの条件

 その人が好きだった。


 笑うと両頬にえくぼが出来ること。

 丸っこい一重の瞳。

 長いまつげ。

 ペンだこのある長い指。

 嘘を吐くと唇をふにふにさせる癖。

 血が苦手なくせにスプラッタ映画が好きなところ。

 家ではジャージ姿だけど、一緒に出かけるときは可愛い服を着てくれること。

 一人になろうとすると、無言で隣に来てくれること。

 耳に髪をかける仕草。

 流し目。

 料理が苦手なのに頑張って勉強して、作ってくれること。

 早起きが苦手なのに「おはよう」を言うために起きてくれること。

 時々甘えてくるところ。

 拗ねると掃除するところ。

 プレゼントした本の栞を、いつまでも使ってくれること。


 好きで好きで、この想いは付き合ってからも止まることを知らない。

 まるでせき止められたダムのように、この「好き」は溢れてくる。

 でも、きっとこの感情はいずれ決壊することを知っている。

 色褪せて、いつか消えてなくなるのではないのかという恐怖がある。



 ―――彼女が亡くなって、5年目の夏。

 僕は遠く雷を唸らせる積乱雲をぼんやりと眺めながら、好きでもないタバコを唇に挟んだ。

 火は点けない。ただ口寂しいから咥えただけだから。

「もう5年か」

 シュボッとライターの火を灯してタバコに火を点けた隣の男は、ぽつりと呟いた。煙を燻らせ「ふぃー」と一息吐いた男は、白く染まった薄い髪をぼりぼり掻いて同じように空を仰ぐ。

「お前さん、いつまで娘の影追うつもりだよ。そろそろ自分の人生歩け」

 好きだった彼女の父親は、例年通りの文句を告げる。

「嫌です」

 それに対して返す言葉もまた、毎年変わらない。

 彼女の命日に彼女の実家の縁側で、今年もまた義父になるはずだった男と不毛な言葉を交わす。

 意味も無く続くこのやりとりはいつか終わりがあるのだろうか。もしあるとすれば、きっとそれは僕が彼女を好きじゃなくなったときだろう。それは―――――怖い。

「スイカ食うか?」

 男は家の中へと視線を投げ、つられるように僕も見る。

 視界に入る彼女の遺影。だいぶ短くなった線香が灰を落とす。彼女が好きだった麩菓子が置いてあって、僕は咥えていたタバコに歯を立てた。苦みが口の中に広がる。

「スイカ、いらないです」

「そうか」

「はい」

「………」

 チリンと軒下の風鈴がそよ風に音を立てた。

 雨のニオイがする。夕立がくるかもしれない。

「お義父とうさん」

「俺はお前さんの義父にはなれなかった男だ。名前で良い」

「……足立さん」

「ああ」

「今日、僕は話しがあって来ました」

「ああ」男は煙を吐き出して、とくに驚くこともなく促す。

「僕は彼女を忘れられません」

「ああ」

「僕は彼女が好きです。この想いは、変わらない」

「―――、変わらないもんなんてあるんかなぁ」

「分かりません。でも、好きだという気持ちに偽りはないです」

「………お前さんは堅いんだよ。堅くて堅くて、俺には少し羨ましいくれぇだ」

「僕は」

 咥えていたタバコを灰皿に置き、体をずらして男と向き合う。

「僕は、この気持ちを抱えたまま、結婚しようと思います」

「……」男は僕の左手を一瞥した。左手の薬指にはまった、二つの婚約指輪。色も形も違うそれは、キラリと光りに反射して輝く。

「相手の子は納得してる、んだよな……」

「受け入れようと努力すると言ってくれています」

「娘のこと、ずっと想ってくれんのはありがてぇけどよ」男は言葉を探すように視線を彷徨わせ、結局庭に咲いてる朝顔へ視線を固定した。「その子が可哀想だろ。外した方が良い」

「嫌です」

 言われるであろうと推測した通りの言葉に即答すれば、男は喉を鳴らして笑った。

「頑固め」

「――僕は怖いんです」

「怖い?」

「時間が経つにつれ、彼女のことを忘れることが。忘れてしまっている事実が。僕はあんなにも彼女が好きで、それこそ好きなところをいくらでも上げられたのに」

 今ではもう15個しか言えない。

 それが、つらい。

「好きだった想いが、記憶が薄れていくなら。せめてその想いごと背負いたいんです。彼女が好きだった僕の過去を、そのまま」

 過去に囚われすぎているのかもしれない。でも、あの頃の幸せを忘れたくない。置き去りにしたくない。

「ダメでしょうか?」

「ダメでしょうかって……」男は一気に短くなったタバコを灰皿に押しつけると、すぐに2本目を口に咥えた。

「もう答え出てんのに、俺に聞くか?」

「僕のこの気持ちは不純なものです。彼女にとっても、婚約者に対しても」

「まぁ誠実ではねぇかもなぁ」

 溜め息を吐くように大量の煙を吐き出した男はボリボリと後頭部を掻いた。

「さっきも言ったけど、俺は娘のことを忘れちまった方がいいと思うんだ。あいつは死んだ。もう戻ってきやしねぇ。娘との想いを大切にしてくれるのは嬉しいけどよ、それでお前さんの婚約者が心を煩わせてんなら――忘れろ」

「嫌です」

「お前さんなぁ……」ハァ、と今度こそ確実に溜め息を吐かれた。

「ならさっきの質問にダメって答えたらどうするんだ」

「婚約を破棄します」

「なんでそうなる」

「彼女はもういないから。これから新しい思い出をつくることも出来ずに色褪せて、ただ消えてなくなってしまうくらいなら――」

 忘れたくない。彼女との思い出を、感情を、なかったことになんてしたくない。

「…………お前さん、小さい頃にご両親離婚したんだっけか」

「はい」

 飛躍した話題転換に少し戸惑っていると、男は傍らに置いてあったグラスを口にする。麦茶で口の中を潤してから彼は続けた。

「その両親との思い出は、全部忘れちまったか?」

「………」

「俺もよ、小学生に上がる前に母親が蒸発しちまったんだよ。でも不思議と今でも覚えてる。あの人がよく作ってくれたカレーの味も。痩せ細った骸骨みてぇな顔なのに、真っ赤な口紅しててな。俺はよくそれを使って壁にいたずら描きして怒られたもんだ」

 当時のことを思い出してか、懐かしみながらも寂しそうな表情を見せる男。

 彼の言いたいことが、なんとなく分かった。

「人はよ、簡単に忘れねぇよ。忘れることもあるけどな、忘れられねぇこともある。この5年間、娘が死んじまっても忘れたくねぇって足掻くお前さんが綺麗さっぱり忘れられるわけねえだろ」

「でも、」

「娘との指輪は外せ。お前さんは婚約者と新しい幸せを築くんだ」

 そんでもって、

「――毎年、この日だけはウチに来い。それが条件だ」

 息が詰まった。

 鼻の奥がツンと熱くなって眉根を寄せる。

「はい!」

 返事をした僕の顔を見て「酷ぇ顔だ」と男は苦笑した。

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