暗中模索
飛び降りる舞台の高さを知らず
鬼道の本部移転後、最初に組んだ仕事から半年。
篝は女子更衣室の鏡台の前に座り、乾いたばかりの髪を櫛で梳かしていた。
女性ならば特別珍しい光景でもないだろうが、彼女がそうしていると必ず誰かがちょっかいを掛けて来る。
「篝、洒落っ気が出たのはいいが、目の見えぬ相手に髪を整えても仕方あるまいて」
と、半年間同じ任務に当たることの多かった鬼道との仲に進展があったのだと読んだ先輩らが
なるほどそれもそうだという反応が欲しいのだろうが、残念ながらその期待に応えてやるつもりはない。
別段、意地悪でとかそういった意味合いではなく、事実を告げるだけのことだが。
「以前、私の髪は滑るように指が通って気持ちいいと褒めてくださったのです。盲目故、指の感覚が鋭いとのことで」
「はいはい、ごちそうさまでした」
「お粗末」
思っていた答えではなかろうが、事実を言ってまでのこと。
人によってはすでに一線超えたのではないかとさえ勘繰られるが、彼に褒められてから洒落っ気に目覚め、髪を梳かし始めただけ。
篝夏希自身、自分も一応は女だったらしいことに驚いている。
それにいつだったか、流れは忘れたが鬼道が「篝殿を男性だと思ったことはありませんが、男性よりも勇ましいなとは思っておりました」とか言うものだから、剣士としても女としても褒められてしまって、意識せざるを得ない状況だった。
正直、調子を狂わされてしまっているのは自覚している。
それに上も上だ。もはや意図的だと疑わざるを得ない頻度で、鬼道と同じ任務に当たることが多い。今日だってこれから鬼道と二人の後輩と共に、京の都は大文字で有名な如意ヶ嶽に向かわねばならない。
かなりの長旅だ。めかし込まざるを得ない。まぁ余計に着飾るなんてしないのだが、それでも最低限のおめかしくらいはしておきたかった。
これくらいのことがないと、こんな裏稼業ではやっていけない。
「鬼道殿、お待たせしてしまったかな」
待機場所に行くと、後輩二人が頭を下げる。
鬼道はというと一人椅子に腰かけ、杖を抱いてこくり、こくりと寝息を立てていた。だがすぐさま起きたようで、開けたことのない目をこする。
「……あぁ、篝殿。すまない。どうやらうたた寝をしてしまったようだ」
「無理もない。富士の麓から、一人千葉への遠征任務から一昨日戻られたばかりだ。疲れも溜まっているのだろう。眠気にも負ける」
「こちとら、寝ても覚めても目が開くわけでもありませんがね。盲目故、夢中もまた闇夜。何も変わりは――いや、起きていた方が得ですね」
「その心は?」
「皆様と、こうしてお話ができますからね」
ここ半年でわかったことだが、鬼道は静かな男ながらにお喋りだ。
叫ぶことも大声を上げることもなく、静謐を体現したかのようにずっと静かで、ずっと目を閉じているせいもあり、無言だと起きているのか眠っているのかわからないときもあるくらいにずっと静か。
だが、人と話すのは大好きらしい。
仕事の話から家の事情から身の上話から、仕事にはまったく関係のない豆知識。仕事先で見つけた、もしくは聞いた面白い人の話など、話題は尽きない。
そのお陰もあってか本部に長年在中している比較的気位の高い先輩方にも気に入られ、盲目故に後輩らも
たった半年。
これまでの短い間に彼が信頼を得られたのは、彼の人柄もそうだが何よりは功績だろう。
本部に転属されるだけでも実力を認められている証拠だが、その後の彼の功績は本部勤務歴では先輩の篝ですら彼の功績は頭一つ抜けていた。
おそらく頭一つ抜けていることがわかっていないのは、盲目の本人だけである。
詳細に記載すると長くなるので割愛させて頂くが、最初に当たった任務から妖刀の使い手が徒党を組んだ大きな組織の尾を捕まえ、その後は芋づる式で次々と組織に関する情報を集めながら、合計で五本の妖刀を回収または破壊。壊刀団と妖刀の永きに渡る戦いの歴史に終止符すら打ちかねない功績を残していた。
今回の京都への遠征に関しても、その組織へと繋がる情報を得られるかもしれないという上の考えの元、これまでの功績を残した鬼道を中心として小隊が組まれたのだが、見ての通り聞いての通り、鬼道は疲れ切っていた。
壊刀団が発足された江戸初期。未だ刀を持つ者も多かった時代に比べれば、今は一般市民は刀を持たぬ廃刀の時代。団員の質の低下は免れぬ事態であり、優秀な人材は酷使されるのが必定と言えた。
もはや強ささえ兼ね備えていれば、女であろうが盲目であろうがなんでもいいのだ。選り好みはしないしできない。
上はもうそこまで追い詰められているのが目に見えていて、盲目の鬼道とて感じているはずだった。
「さて、ではそろそろ出ましょうか。京都はお寺が有名ですし、参拝もしたいですね。必勝祈願も兼ねて参りましょう」
夜行列車を乗り継ぎ数日。辿り着いた京の都。
疲労困憊だった鬼道の回復を優先し、宿にて二日休んだ後、四人揃って参拝に向かった。
鬼道が寝ている間に後輩らと決めた参拝先は、多くの寺院がある都でも特別有名な、かの江戸三代将軍、徳川家光公が再建に貢献した清水寺。
霊木を削って作った千手観音像が祀られている由緒正しき東山の祗園寺院であり「清水の舞台から飛び降りる」の語源にもなった舞台は、約五九尺にもなる断崖の上にあるため、縁に立つと肝が冷やされる。
鬼道は見えていないが、それでも周囲の反応からそれなりの高さであることはわかっている様子だった。
武勲による必勝祈願といえば鎌達稲荷神社や、かの源義経が戦の勝利を祈願した六波羅蜜寺など色々あったが、やはり京都といえば清水を置いて他にないということでの選択である。
五九尺上にある舞台に風が吹く。
音羽の滝と呼ばれる約一三尺の比較的小さな滝が近くにあるからか、わずかに湿り気を含んだ風が四人を撫でた。
「『清水の舞台から――』という言葉がありましたね。どうですか、篝殿」
「あぁ、それなりの覚悟を持てという意味合いだが、確かにここから飛び降りるのはさぞ勇気のいることだろう。もっとも、ここから飛び降りられると豪語しても、無謀でしかなく自死という後ろ向きな行為にしか、私には思えぬが」
「なるほど。つまりは気持ちの問題ということですね。それができるだけの強い意志を持て、ということなのでしょう。我々もそれだけの強き心を持って、事に当たらないといけないようですね。吹き付ける風が、そう語りかけて来る」
「時折あなたは詩人になるな、鬼道殿」
「はは、それはお恥ずかしい。ではそろそろ、我々も舞台へと参りますか」
「「はい!」」
二人の後輩は、鬼道に尊敬の眼差しを向けている。哀しいかな、本人に一番伝わらないのが残念なものだ。
何はともあれ、篝と尊敬を集める後輩二人を連れて、杖をつきながら参るは大文字の如意ケ嶽。またの名を、大文字山。
大文字とは五山の送り火と言われる夏の京都にて行われる祭事。
死者の霊をあの世へと送り届けるための行事で、都の特別大きな四つの行事に入れられ、中でも五つの山に火を灯す送り火は、最大の行事と言っても過言ではないだろう。
そんな、死者の霊を弔う行事の最後を飾る如意ヶ嶽の大文字山に、人知れず立った古い民家にて怪事件が続いているらしい。
民家を壊そうとやってきた解体家や調査に向かった警備隊隊士も相次いで行方不明となり、妖倒部隊より調査依頼が来た次第である。
民家は相当に古く見えて、障子は破け、雨戸は錆びてそこからまったく動かせない。屋根にもところどころ穴が空いているようで、雨が降ったら雨漏りは必至だ。中の畳が腐っていそうで、とりあえず草履は脱ぎたくない。
最悪、過去に篝が嘔吐した惨状をも覚悟しなくてはならないからだ。
ともかく、中に化け物がいる心配を優先するべきだろうと、先ほど風を浴びた清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟を決めて、四人は民家へと忍び入る。
裏戸も窓もすべて調べたが、どこも錆びていたりして、開けっぱなしになっている玄関しか入り口はない。さながら、侵入者を捕えて逃がさない魔物の口か。四人が入った瞬間に不動だった戸が突然閉まっても、当然の展開ではあった。
鬼道を除く篝ら三人が真っ先に驚いたのは、入った先の内装である。
今にも崩れ落ちそうであった外観と打って変わって、綺麗に掃除の行き届いた内装は昨日まで宿泊していた旅館よりも綺麗で、廊下の脇に並ぶ
裏戸を確認するため外からグルリと回ったために、違和感を感じざるを得ない長すぎる廊下。
左右にいくつもの部屋に通じる襖があり、どれも開けられるのをひたすらに待っている様子が感じられた。
後輩二人も動揺を隠し切れておらず、四人の中では最年少の
隣の鬼道に背中をさすられ、大丈夫だと宥められている綴喜の姿に、篝は既視感を覚える。
「大丈夫です。あなたは今、一人でいるのではありません。お二人がます。頼りないでしょうが私も。盲目故、あなたの恐怖を慰められているかもわからない頼りのない男ですが、寄り添うことはできます。一人で耐える必要はないのですよ」
「は、はい……ありがとう、ございます」
「では、単独で動くのも危ないので、此度は固まって動きましょうか」
鬼道の案に賛成し、四人は二手に分かれて調べ始める。閉じられた襖一つ一つを警戒しながら開け、部屋の中を確認していく。
どの部屋もつい先日まで誰かが生活していたかのように綺麗に整頓されており、鏡台の化粧道具に関しても、篝と綴喜の見立てでは最近使った痕跡が見て取れた。
閉め切られた押し入れも死体が詰まってるのではないかとさえ思って警戒したが、昨日の快晴の下に干されたと思われるフカフカの布団が仕舞われているだけで拍子抜けした。
そんな部屋が二つ、三つ、四つと続いていく。
まだ煙の消えていない煙草のある灰皿があったり、甘ったるい匂いのお香が焚かれていたり、蚊帳長が被せられた食事の乗った
危険な雰囲気の中、ただ気疲れさせられ続けているような展開が続く。
と、ここで初めてまったく違う景色を見る。
台所だ。
まな板も包丁も洗ったばかりなのか水けを感じる。すぐ側で乾かすために立てかけられているのだろう食器も石鹸の匂いがしたが、そんなものでは掻き消せない異臭が
それこそ篝は、あのときの惨劇が繰り広げられた部屋を思い出して嘔吐しそうになる。
女子二人に確認させるわけにはいかず、また鬼道も盲目とあって、中身の確認は
彼もまた、地方で多くの実戦経験を積んで本部に呼ばれた実力者だが、袋の中身を見た瞬間、彼は堪らず側の流し台で嘔吐した。
これまでに行方不明になった人々の無残な姿――もはや人の原型を留めてられていない肉塊が、袋の中に敷き詰められていた。
鬼道は自ら袋の中身を確認してくれた狛村の背をさすってやっていたが、人の死骸が放つ悪臭に、彼は他の人以上にやられていた。盲目故、異常に鼻が働くのだ。
鬼道に背をさすられる狛村の姿もまた、篝は先ほどと同様に既視感を覚えていた。
生まれつき盲目である彼は、色と光を知らない。臭いと音、触れ合ったものすべてが彼の世界だ。
故に人がおぞましいと恐れる光景を、彼は想像するしかない。血の色も臓物の形も、そもそも人の形すら、彼は想像するしかない。
そんな闇夜の世界で隣の人間が突如吐き気を催したとして、鬼道はその人が何を見たのか想像するしかない。
見えなくていい、なんてことはない。誰も彼の恐怖を体験できないし、したいとも思わない。
そんな中で人を励ますことのできる彼は、世が世なら聖人として信仰されてもおかしくないと未だに思えてしまう。
だが彼は聖人でなく、平気ですと笑えても心の奥底は笑えていない。
それどころか目も見えず、本来ならば戦線になど出ることなど許されず、医者にも親族にも止められるべき人だ。
自ら志願して入団したにしたって、彼は本来、こんなところで死体を見て嘔吐に耐える後輩を慰めながら耐える必要なんてないはずなのに。
それでもここにいるのは、彼の言葉を借りて言えば「心の鬼を斬るため」なのだろう。
「鬼道殿、気分が悪そうに見えますが」
「お気遣い頂き、ありがとうございます。しかし気分が優れないのは、皆さん一緒です。私一人が音を上げるわけにはいきませんよ」
彼は普段通りの聖人、もしくは仏のような微笑を返す。だが少しだけ、声を掛けるまえよりは楽になってくれたような、そんな気がした。
彼の感情云々は、もはや彼との付き合いの長さが培った感覚――基、勘である。
だから間違っているかもしれないし、思い違いかもしれないし、勝手な思い込みかもしれないし、その方が多いだろうけれど、篝はそこまで外しているとも思っていなかった。
絶えず浮かべている微笑の下で、揺れ動く彼の感情は常人のそれと変わらない。故に特別扱いせず、他の人同様に接すれば、彼もまた他の人同様に心を動かす。それだけのことだ。
だから思い違いも思い込みも、彼だけでなく誰にでも言えること。
彼相手に構える人もいるけれど、特別扱いなんて必要ない。盲目故の手助けはした方がいいに越したことはないが、それを除けば他の人と同じだけ心配りができれば、彼は喜んでくれる。
「無理はなさらぬよう。この中で、あなたが一番疲弊なさっているのですから」
「ありがとうございます、篝殿――」
ぽん、
音がした。
直後、四人は刀へ手をかけつつ、互いに背中合わせになって四方に視線を配る陣形を取る。
物音ひとつで大袈裟な、などと思われても困るので捕捉させてもらう。
今の音は鼓の音だ。つまりは楽器だ。打楽器だ。誰かが叩いて鳴らすものだ。そこらの茶碗が落ちただとか、偶発的に起きた音であるはずがない。誰かが叩かなければならない音がした。
つまりこの民家には、自分達を除く何かがいることが確証されたのである。
実際、生芥袋に肉塊が大量に詰め込まれていた時点で、すでに何かがいることはわかっていたが、要は今現在の話である。警戒度を上げねばなるまい。
「すみませんが位置確認を。私を正面として、右方、左方、後方の順に名前を」
「右方、綴喜です」
「左方、篝」
「後方、狛村仁之助です」
「ではすみませんが綴喜殿、記憶違いでなければあなたの正面には今、私達が通って来た廊下があるはず。何者かの気配を感じ次第、伝えて頂けますか」
「は、はい!」
「他二人に関しても、何か異変に気付き次第、状況把握のため確認を。全員抜刀の際には、自身の正面から見て左方の相手を斬らぬようご注意を――いや、その点に関しては大丈夫ですかね」
「ではその、早速なんですが報告を……先ほど俺が確認した生芥の中身が、消えました」
「なるほど、確かに異変ですね」
べべべん、
とまた楽器の音。今度は三線か。
それが聞こえた直後に訪れた明らかな変化に、鬼道は盲目故気付けない。
すぐ側にいた綴喜が四方を見る形の陣形を解いて周囲を見渡し、状況を説明してくれた。
「鬼道様。妖術と思わしき力にて篝、狛村両二名とはぐれ、私達は今、座敷の大広間と思われる場所に移動させられてしまったようです。そしてもう一つ」
綴喜はあくまで陣形を解いただけで、構えは解いておらず、刀から手を離していなかった。
二人しかいなくて、しかも片方は盲目の身で四方を見渡せるはずもなく、さらに敵が確認できているのなら、取るべき陣形を変えるのは当然のことだ。
最年少ながら的確な判断力。緊張と恐怖で震える少女ながら、実力は本部の折り紙付きだ。頼りがいのある後輩である。
「綴喜殿。敵に関して現在わかる範囲で、説明をお願いしてよろしいでしょうか」
「はい。敵は一体。異形の妖です。四腕に二本の三線を抱き、先ほど私達を転移させたのは、おそらくこの妖の妖術によるものかと思われます」
「なるほど」
それもまた、人より妖へと変えられた元は人間。
女か男か、子供か老人か。とにかく妖刀に斬られ、妖にされ、このような血生臭い化け屋敷に閉じ込められて、なんと苦しいことだろう。悔しいことだろう。
嘆きと悲しみを押し殺し、祈りを籠めて念仏を呟くように唱える。
「では、斬り捨て御免とさせて頂きましょう」
安らかに成仏することを祈って向けた刀にて、真正面から斬りかかった。
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