傘神

安良巻祐介

芋泥棒の巻

「幽霊の手が、生えるんだよう」

 屋台の席の端に腰かけて、欠け丼の稲荷蕎麦を啜っていたら、反対側に腰かけた赤ら顔のじいさんが、いきなりそんなことを言い出したので、念仏ネンブツは思わず箸を止めて、そっちを見た。

「仁八」の電気行燈を掲げた、流れ蕎麦の屋台である。

「畑から、真っ赤な、子どもみてえな手が伸びてくるんだ…。それで、タマあ、取っちまうんだ。知ってるか、大将」

 欠け徳利からじかにぐびぐびと呑みながら、じいさんはえらい剣幕である。対して蕎麦屋のおやじは、ぐらぐら沸かした鍋と睨み合っていることもあってか、そいつは大変だねえ、といかにも生返事だった。

「タマ抜かれるんじゃ、男はしっかり下押さえて畑を通らねえとなあ」

「ばかやろう、タマシイだよッ…」

 爺さんが、バン、と徳利を目の前に叩きつけると、皿から蒲鉾が転がり落ちたので、勿体ない、と念仏は思わず顔をしかめた。

「浜掛けの珊吉が、寝込んで起きてこねえのは、畑の手に魂を抜かれたからだって、カギの野郎が…」

「じいさん、俺は流れの蕎麦屋だよ。そうやってここらの名前を出されてもわからねえよ」

「ウウン…」

「ほら、むじな蕎麦だ。お待ち」

 いつの間にか手早く蕎麦を笊に上げていたおやじが、爺さんの前に丼を置いたので、その話はそこで終わりになったらしかった。

 念仏もひとまず、おのが蓬髪をさすり、目の前の自分の蕎麦を、再び啜り始めた。

 爺さんの言っていた名前は、馴染みがあった。ここらの浜農(塩野菜を中心に作る、浜辺の農家)の、若い衆である。鉤とかいうやつは確か、二輪の汐車うしおぐるまを乗り回して、畔みちを走っていたのを見かけたことがある。爺さんも、浜農なのであろう。

 いっぽう、幽霊の手というのは、聞いたことがない話だが、何であろうか。怪談話にしては時期外れであるし、魂を抜かれたとか言っていた。与太話にしても、気になるところではある。

 念仏は、山向こうの法力堂を破門された、いわゆる青坊主だった。修業はいずれも半端で終わり、ごく簡単な経文しか覚えていない上に、尺八も駄目で、菰を被っての托鉢も出来ない。

 そもそも、二親なく、帰る家も元よりない、天涯孤独の身の上である。「念仏」というのも、覚えた短い経文だけを、空元気の景気付けにいつも呟いていたところ、宿の隣の筵で寝ていたイシという男がうるさがって付けただけのあだ名で、本名に思い入れもないから、自身でもそう名乗り出したのだった。

 つまるところ、まさしく吹けば飛ぶような、風太郎の名にふさわしい、何にも気兼ねのない身分なのである。

 しかし、気兼ねはなくても腹は減る。

 破れ床に寝転がっての空きっ腹に耐え兼ね、その日暮らしの労働をやっつけては、なけなしの銭をかき集めてめしを食う。最近は専ら、この屋台蕎麦の暖簾をくぐっていた。

 稲荷蕎麦を名残惜しく食べ終わり、「お勘定」と告げて、念仏は立ち上がる。

「まいど。今日も風のギョウかね。若いのにいつも感心なことだね」

 おやじが愛想笑いをしながら、念仏の差し出した銭を受け取った。

 風の行、というのは、風太郎を自虐して言っただけの事だが、おやじは無邪気にもえらい勤行だと思い込んでいるらしい。

 反対の席で爺さんが眠り込んでいるのを見ながら、念仏は、屋台の外へ出た。

 嫋嫋じょうじょうと音色の零れそうな、輪郭の淡いおぼろ月であった。

 念仏は懐手をして道を歩きながら、仕事のについて考えた。

 このところ、宿近くの正念場しょうねんばに、求人の紙を見かけない。ここらの日雇い仕事自体が、不景気の煽りで、殆どなくなってきているらしい。

 念仏がここへ来た時分には、それなりに賑わっていた筵宿も、気づけば石と念仏の二人だけになっており、その石もちょうど昨晩、峠仕事を見つけたとかで、荷物をまとめて出ていってしまった。

 自分もそうすべきなのだろうと思いつつ、今日のところは宿に帰って、明日また考えようと歩いていた念仏はふと、月に照らされた行く手のあぜ道に、悲鳴が響くのを聞いた。

 見れば、左手に海を、右手に甘薯畑を見る道の上、まろぶように腰を抜かした人影が見えた。

 そして、空には、何やら大きな、蛇のような影がある。

 いや、蛇ではない。

 それは――――人の手であった。

 芋の大きな葉の合間から、月光を浴びて、ゆらりと乙の字を描いて、「腕」――それも、真っ赤な――が数本、伸びているではないか。

「なんだ、ありゃ」

 仰天した念仏の鼻面に、ぷん、となまぐさい風が届く。

 やがて、そのおかしな手のばけものは、這いずって逃げようとする人影に纏わりついた。

「あっ」

 念仏は慌てて、思わずぶつぶつと経文を呟きながら、駆けよって行ったが、遅かった。

 そのまま、くすぐるようにわらわらと蠢くと、あれーっと叫んで、襲われた人はそのまま、ばったりと倒れてしまう。

 ぐったりとしたその人のところへ行く頃には、「手」はいつの間にか消えてしまっていた。

 助け起こすと、それは、ここらで何度か見かけたことのある、浜農の女房だった。手ぬぐいを被った顔は青く、気付けの閼伽水をかけてやっても、ちっとも目を覚まさない。

 仕方なく、念仏は、その女を背負って、近場の医者の家へと、えっちらおっちら歩いて行った。

「なんだ、またか」

 戸を叩いて呼び出すと、丸眼鏡をかけた医者はそう言って、顔をしかめた。

 医者が指差す家の奥を見ると、ベッドや、茣蓙の上に、他にも何人かが寝かされていて、皆一様に、念仏の助けた女と同じように、青い顔でぐったりとしている。

「最近、急にこんな患者が増えたのだ。みんな、ここいらの浜仕事のやつらだ」

 護符綴りの、少しよれた白衣姿で、温泉歌謡を流す手元の念力ラジオのつまみを調整しながら、医者はそう言った。

「息をしてはいるんだが、まるで死んだように目を覚まさない。脈もほとんどない。原因不明だ」

 すると、茣蓙の傍に控えていた、狐の様な目をした若い男が、

「だから、幽霊だ。幽霊にタマを引かれたんだよう」

 と、怒ったように言った。

 爺さんの話にも出ていた、鉤のあだ名で通る、若い衆のまとめ役である。そういえば、表には、汐車も停めてあった。

「そりゃあ、ろくろっ首みてえに伸びる、おかしな手の事だな」

 念仏がそう声をかけると、鉤は、おお、風太郎のセンセイ、とこっちを向いて、

「そうだよう。芋畑から伸びてくる奴だ。おれあ、珊吉の奴がやられるところに居合わせたんだあ」

 そうして、念仏の連れて来た女を見て、

「ヤゴの家の女房もやられたのか」

 と、嘆いた。

「旦那がおとといの晩、幽霊に引かれたもんだから、一人で頑張っていたのによ。何てえことだ」

「じゃあ、ここらの百姓が、襲われているんだな」

「半月ほど前からだよう。おれと珊吉も襲われたんだ…」

「ありゃあ、何なんだい。何か、心当たりはあるか」

「それが、さっぱりだ。おれたちは、浜仕事、畑仕事で毎日が手いっぱいだ。せいぜいが、狸や狐とやり合うのが関の山で、あんな恐ろしい手に襲われるいわれはねえ」

 話し合う念仏と鉤を押しのけて、医者がヤゴの女房を新たな茣蓙に乗せた。

「犯人が何か知らんが、これじゃあうちの医院も、手が回らんぞ」

「警察に電話はしたのか」

 念仏が尋ねると、鉤は、忌々しげに、

「何度も電話をしたんだが、お化けは寺の坊主にでも任せろ、病気なら医者に任せろの一点張りだあ。まるきり信じちゃいねえらしい」

 と、言った。

「じゃあ、坊主なり行者なりを呼ぶべきじゃないか」

「呼んだんだよう」

 そう言って指差す、部屋の角を見ると、浜の男女に混じって、房の付いた袈裟に身を包んだ、厳めしい顔の男が横たわっており、その隣にも、どうやら霊場巡りの六十六部らしい、これもそれなりの身なりをした坊主が、白眼を剥いている。

「旅のえらい行者様と、お坊様だ。どっちもお布施は高かったけども、悪霊退治の凄腕だって言うもんだから、お願いしたんだよう」

 だが、行者の加持祈祷も真言も、六十六部のありがたい法華経も、例の赤い手にはいっこう通じず、動揺しているところを、他の被害者同様に絡めとられ、あえなく骨抜きにされてしまったらしい。

「しかし、他にどうするな。奥辻の沙寺の和尚……あれはまあ、年だし、腰を痛めているが、山向こうに、ほら、名うての法力堂があるだろう」

 医者が、念仏にとっては耳の痛い名前を出す。何しろ、そこを叩き出されたのだ。念仏は誰にというわけでもないのにきまりが悪くて、伸びた髪をばりばり掻いた。

 鉤はこれも首を振って、

「ありゃあ駄目だあ。電話したら、向こうひと月は駒引き返しに骨鎮めにと予約が一杯だとよ」

 と返す。

 確かに、あの法力堂は名も知られている上、あちこちから依頼が来るから、そうなるだろうな、と念仏は納得した。

 医者が、ラジオを掛け棚に置きながら、しかしそれじゃあ、手詰まりか、と言った。

「うちの医院もずっとこの調子か。それは困る」

「いいや、おれたちだって、やられっぱなしじゃあねえ」

 鉤が、そう言って、げんこつを固めた。

「こうなりゃあ、自分たちでやってやる。今度はこっちから、お化けのやつを追い立てて、ぶちのめしてやるんだ」

「坊さんや山伏がやられているのに、無茶じゃないのか」

「やるしかあるめえ。どの道、これじゃあ、みんなやられてしまう」

 固めたげんこつを振り回し、目つきを尖らす鉤を見て、念仏は暫く考えていたが、やがて、おいと声をかけた。

「いつやるのか知らないが、ちょっと待ってくれ」

「なんだようセンセイ。ことは一刻を争うんだ」

「いや、手があるかもしれない」

 念仏がそう言うと、鉤も、医者も怪訝そうな顔で、

「センセイ、幽霊退治ができるのか」

「あんた、実はすごい術使いだったりするのかね」

 などと言った。

 念仏は、ばりばりと蓬髪を掻きながら、

「俺はただの風太郎だ」

 と、答える。

「じゃあ、どうやって」

「ちょっと珍しい専門家に、知り合いがいる。そいつに相談してみよう」

「専門家だって。センセイ、誰だいそれは」

「坊さんか。いや、陰陽師か? そういやあ、政府の陰陽寮が千何百年かぶりに再興したと、新聞に出ていたな」

「いや、何というかな。役に立つかも、正直、まだわからない…まあ、騙されたと思って、明日の夕方まで待ってくれ」

 それから、念仏は鉤に、

「もし、幽霊を退治できたら、報酬はあるか」

 と聞いた。

「そりゃあ、もちろん御礼はするよう。よっぽどの大金は用意できねえけれど」

「そうだな、旅先で食えるような弁当…そういうのも付けてくれるなら、それでいいや」

 それから、念仏は腰を据えて、鉤へ事細かに、幽霊についての聞き取りを行った。

 そして、夜もすっかり更けた頃合いで、訝し気な顔をしたままの鉤と医者とを残し、ひとり、医院を出た。


 念仏は、懐手をしたまま、月光の道をとぼとぼ歩いていった。

 寝起きしている筵宿は、浜裏の道をしばらく行った先にある。

 途中、手慰みや独楽などを売っている露店の一つに寄ると、袖下に残っていた穴あき銭を全部はたいて、線香の束を三つほど買い込んだ。

 そうして、またとぼとぼと歩き、まねき草が周りを陰気に囲んだ、宿へと帰りついた。

 とっ掛け屋根の一軒家で、軒下には、焼き字で念仏の名前を入れた木札が、逆さに掛けられてある。

 それを取って正位置に戻しながら、念仏は、自分がここへ来たとき、さながら神社の願掛けのように札が一杯かかっていたことを思い出した。

 今は、念仏の一枚だけだ。

 汚れた犬除けで遮られた宿の中も、がらんとした薄闇が支配している。

 何とも言えぬ寂しさを感じながら、入口の傍にある、傘立てへと目をやった。

 利休色に褪せた組み竹の真ん中には、ぼろぼろの、大時代な唐傘が、一本挿してある。

 念仏は、腕組みをしたまま、それへと声をかけた。

「おい、神様」

 すると、何としたことであろう、

「むにゃむにゃ、何ンだ」

 傘が、それに応えて、口を利いたではないか。

「食い扶持が見つかったンか」

 ぎざぎざした、割れ竹と笹が擦れるような、声だった。

 それは確かに、この古ぼけた傘から、発せられているのである。

 念仏は、事も無げに、再び話しかける。

「正念場は相変わらず、閑古鳥だ。けど、飯の種はどうやら見つかりそうだぜ」

 傘は、傘立ての中で、ぎしぎしと身を震わした。

「そりゃあ、結構な事よ。己等おいらのお供え物も、手に入るンだろうな」

「ああ、その事だ」

 匂い付きの花紙に包んで、わざわざ隠した線香の束を、懐の中でひそかに転がしながら、念仏は言う。

「腹が減って、骨まで痩せッちまいそうだ」

 ぽきぽきと枯れ草を折る様な声を出しつつ、傘がだんだん組み竹を壊しそうな勢いで激しく震えだしたので、念仏はひとまずその体を傘立てから抜いて、合布で巻いたろくろ頭を上に、壁へ立てかけてやった。

 ろくろの少し下の、傘の胴の辺りに、卵型の白いがひとつ、ずろん、と現れる。

 それは、胡麻の様な黒目をぎょろぎょろと蠢かし、ぱちぱちと幾度か瞬きをすると、

「ああ、くそ、己等は傘神様だぞ」

 と、怒ったように呟いた。

 念仏が、法力堂の古文庫でこの傘を見つけたのは、全くの偶然であった。

 親も家もなく、この世の底のような場所をさまざま流れ流れた末に、遠縁の法力堂に拾われたはいいが、厳しい修行と訓戒の毎日に嫌気がさし、いっそただの下働きとしてこき使ってくれた方が、よほど楽だと嘆く日々だった。

 そんな時、堂主から、使われなくなって久しい、古文庫の掃除と整理役を命じられたのである。

 法力資料ばかりの本堂の図書室と異なり、さまざまな本が雑多に置いてある古文庫は、娯楽のない念仏には新鮮であったし、中でも、捨てるように言われた、古今の物の怪について記した書のかずかずが、特に面白かった。

 念仏はしばしば払子と雑巾を振るう手を止め、時を忘れてそれらを読み耽った。

「絵本百物語」だの、「山海経」だの「九鼎圖写本」だのを漁り、堂主が一笑に付して束に縛っていた、民俗学や妖怪学の研究書なども、こっそりとほどいて読んだ。

 それらのお化けどもはいかにも種々雑多、あるものは邪悪、あるものは滑稽、まるで人間社会の縮図のように、めくるめく形態・現象・不可思議を体現していた。

 念仏は、いかにも面白いと思った。

 輪廻を掲げた尋常の寺ならいざ知らず、法力堂においてそれらは、悉く祓い滅し尽くすべき害悪としてのみ扱われているが、元より経文の才能もない念仏は、ただそれらを楽しんだ。

 文庫の掃除は一向に進まなかったが、幸い文庫も念仏も、さして堂守たちから重要視されていなかったので、毎日の修行の後、中に納められた本のほとんどを読み尽くしてしまうくらいには長く、掃除役を続けていられた。

 そんなある日、埃まみれの文庫の奥で、そのおかしな傘の化け物を見つけたのである。

 それは、ほとんど放置された仏棚の跡へ、無造作に立て掛けられており、最初は念仏も、ただの襤褸傘だと思って手に取ろうとしたのだが、その時ちょうど、手にしていた燈明の香蝋が、誤って傘の胴に滴り落ちた。

 すると、傘はいきなり一つ目を剥いて、まるで嵐の夜風のような大あくびをした後、

「むにゃむにゃ、腹が減ったぞ」

 と、呟いたのである。

 念仏は仰天した。

 仰天したが、ろくに法力仕事にも連れていかれぬ身で、初めてお化けというものを目にした面白さから、自分でも呆れるほどに、すぐに慣れてしまった。

 元々、身の拠り所なく、地獄じみた這いずり暮らしをも経てきて、胆が座ったというか、頭のねじが幾つか抜けてしまっていたのも、原因だったかもしれぬ。

 ともかく、その傘と念仏とは、対座して話し込んだ。

 そいつが、見た目からして、絵本や昔の双六草子に出てくる「傘化け」であることは一目でわかったが、おかしなことは、傘の癖に神を自称していることであった。

 しかしそのことを笑うと、傘は大いに怒るのである。

 曰く、大昔には観音様の塀に立て掛けられていたところに始まり、何千里もの雨雲の上を旅したのち、ついには人間たちの手によって祭られ、名実ともに唐傘の神になったのだという。

 それならばなぜ、こんな法力堂の古い文庫の奥に、埃を被って眠っていたのか、と念仏が問うと、傘は途端に不機嫌となり、その日の話を打ち切ってしまうので、真偽のほどは曖昧のままであった。

 神を自称するくせに、やたらと俗っぽく、野卑な言葉遣いなことも、神様らしさを大いに減じていた。

 けれども、念仏としては、それはまあどちらでも良かった。それより、面白い話し相手が出来たことが嬉しく、日々の暮らしに張りが出来たようで、足しげく文庫へ通うようになった。

 傘化けは、「供え物」として、線香やら燈明の蝋やらを欲した。どうするのかと言うと、それをバリバリと食べるのであって、ようは人がめしを食ったり、犬猫が餌を漁ったりするのと同じようなことらしかった。

 そうして念仏は、一向に上手く行かぬ修行をよそに、夜は文庫で掃除をしながら、傘化けに餌をやって暮らしていたのだが、ある時、傘が傘らしくどうしても雨に当たりたいと言うので、こっそりと文庫から傘を持ち出して、雨の下で広げていたところ、とうとう堂主に見つかってしまった。

 ちょうど厠へ立ったところだったらしい堂主は、念仏に即刻破門を言い渡し、その手から傘を奪い取るや、恐ろしい法力で以て、すぐさま傘化けを調伏しようとした。

 が、なんと傘は堂主の手をするりと抜け出るや、慌てて投げられた堂主の独鈷を回転しながら弾き飛ばし、さらには骨細工のような腕でポカリとその禿頭を殴り付け、あっさりと気絶させてしまったのである。

 ウーンと唸り声を上げて倒れ伏した堂主に、傘化けが追い打ちをかけようとするのを、念仏は慌てて止めた。

 元はといえば、拾ってもらった身でありながら、修行にも身を入れず、不真面目に暮らしていたばかりか、見つけたお化けを連れ出して堂内で遊ばせていたのだから、これは自分が悪い。堂主の立場からしたら、化け物を退治ようとするのも、無理からぬことである。それくらいの道理は、念仏にもわかった。

 とは言っても、せっかく見つけた面白い話し相手を今さら祓うとか封じる対象と見ることは出来ず、これからまた真面目に修行し直せるとも思えなかったので、堂主の破門を潔く受け入れ、堂を出ることとした。

 そして、ろくに経文も尺八も覚えぬまま、念仏は風の身分となった。

 傘化けは、そのまま逃げ去るかと思いきや、ぶつくさ言いながら、付いてきた。恩義を感じているのか、他に行くところもないからか、或いは他に何か悪巧みでもしているのか、判断ができなかったが、結局のところ、線香だの蝋だのを得るのに一番いいと判断したのではないかと念仏は思った。

 何にせよ、そのような経緯を経て、念仏と傘とは、今に至る。

「久々に雨にも、当たりたいぞ」

 傘化けは、骨人形の様な手先で器用にポリポリと自らの体を掻きながら、愚痴を言った。

 傘の胴も、骨も、埃が溜まり、すっかり汚れてしまっているらしい。

 その様子を眺めて、念仏は、屋根向こうを見た。

「こないだ降った時は、お前、丁度寝てたんだな」

「アア畜生、そうだった」

 傘化けはポカポカと壁を叩いた。

「居眠り癖が、我ながら腹立たしい。イヤ、これも、供え物が少ないせいだぞ」

 喋っていたらまた興奮してきたのか、

「くそ坊主。雨乞いの一つも、出来ねえンか」

 などと、罵詈を浴びせてくる。

 これには念仏もかちんと来て、

「雨乞いは坊主じゃなくて神主とか巫女の仕事だろ。ついでに言うなら、雨を降らすのが神様じゃあねえか。自分で降らせないのか、雨」

 と、やっつけた。

 傘化けはかんかんになって、言う。

「何だと。己等は神様だ。雨どころか、天の雲も自由自在だ」

「じゃあやったらいいじゃないか」

「五月蠅い。五月蠅い。全く何ンて不敬なヤツだ。お供え物を寄越せ」

 怒って暴れ出したので、念仏はそこではっと我に返った。これからの仕事にこのお化けの協力は不可欠である。怒らせてしまってはどうしようもない。

「いや、すまない。すまない。確かに、俺が悪かった。俺はお供え物の話をしようと思っていたんだ」

 ここぞとばかり、念仏は、花紙から、線香の束を一つ、取り出した。

「ほれ、そこの由緒あるお堂から貰って来た、有り難い甘茶線香だ」

 嘘である。しかし、傘化けは馬鹿舌であるから、あっさりと引っかかった。

「わっ旨そうだ、旨そうだ」

 腕を振り回して、念仏の手から、それを奪い取ろうとする。

「そいつを寄越せ。腹と背がくっつきそうなンだぞ」

 腹も背もどこだかよくわからんじゃないか、と言いたくなるのもまたこらえ、念仏は、話を切り出した。

 すなわち、浜に出る幽霊退治について、である。

「俺の懐も潤うし、神様も、そんなものよりもっといいお供えにありつけるぞ」

 放ってやった線香を、口もないのにどうやってか、夢中でパキパキ食っている傘化けに、念仏はそのように言って、同行を頼んだ。

 本当の神様かどうかは怪しいものだが、法力堂の主さえものしてみせた傘化けの実力は、どうやら本物である。

 この筵宿に流れ居ついてからずっと、ただの古傘として話し相手にしていたが、医院での話の中で、新たな仕事仲間にできないかと、思い至ったのだ。

 いわば、ビジネス・パートナーである。この不景気の世で、根無し草の自分にできる、新しい仕事の、だ。

「頼むよ。悪い話じゃないはずだ」

「上等の線香十束と、報酬は折半」

 どこから取り出したのか、青白い火打で線香屑に火を点けて、その煙を吸いながら、傘化けは、びしりと言い放った。

「後はまあ、労働内容によりけりだ」

 思いの外すんなりと承諾したことと、金も普通に要求されるとは思っていなかったので、念仏が思わず、

「神様が金を何に使うんだ」

 と、言ったら、傘化けはジロリと念仏を睨み、

「莫迦か。貯金するに決まってるだろ」

 と言った。

「貯金って、銀行の口座とか、どうやって作るんだい」

「そんなもの使わなくても貯金は出来る。何か文句があるンか」

「いや、それでいいよ。報酬は折半だ」

 これだから、変なところが俗だと言うんだ…と思いつつ、また機嫌を悪くしそうだったので、念仏は慌てて、条件を呑んだ。

 半分は痛いとも思ったが、よく考えれば、二人仕事の予定なのだから、まあ妥当な額だ。念仏は守銭奴ではない。日々を暮らす銭が稼げれば、元よりそれでいいのだった。

 話が決まったので、二人は宿へと入り、灯明をとぼした車座の上で、さっそく畑の幽霊についての対策を練ることにした。

 医院で鉤に聞き込んだ、幽霊についての話を、今一度事細かに反芻する。

 念仏自身の見たそれも併せて、幽霊の図絵も描いた。

 ジリジリと灯明が音を立てる中、二束めの線香を噛みながら、傘化けが、図絵をじろじろと見て、

「手が伸びるンか」

 と、言った。

「そうだ。俺は、最初、百物語でもよく聞く、死人の手かと思ったんだが…」

 お堂の文庫の奥で毎晩、妖怪幽霊の本を肴に、対坐して話し明かしたのを懐かしく思い出しながら、念仏は言った。

 溺死者の多く出た海や水場から、人を引き込む手が幾つも伸びるという怪談は定番で、念仏も、文庫の本で何度か目にした。

「ふーん。でも、そいつが出てくるの、海やら川じゃねえンだろ」

「そうだ。芋畑だ。溺死人は当然として、死人が出るような場所でもない」

 現に、鉤にそのことを尋ねたとき、あの畑で死んだやつなんて聞いたこともない、という答えだった。

 何より―――。

「山伏が一人、坊さんが一人、やられてる。医院で寝てるのを見てきたが、いんちきじゃあなさそうだったぜ。つまり奴には、経文も祈祷も効かねえらしい」

「ちぇっ、人間の術者なンぞ、みンな大したことはないさ」

 気炎を吐く傘化けが、上手く乗ってきている事に喜びながら、念仏は続ける。

「つまりだ、あれはただの幽霊じゃねえと思うんだ。それで、その浜の奴に、他に何でもいいから、あの畑で変わったことが無かったかと、しつこく聞いてみた。そしたらよ」

 おおむねを素朴に暮らす、浜の百姓たちの、退屈な日常ばなし。やれ、狸が月に化けたの、狐に肥溜めに落とされたの…。

 その中で、念仏は、どうやら幽霊の正体ではないかと思われる出来事に、一つ、行き当たったのだ。

 それについて、傍らの本の山――法力堂を出る時、文庫の、捨てられるはずだった場所から集めて来たもの――の中から一冊を抜き取り、灯明の火の下に掲げた。

 そこには、大きな芋の葉の群れの中に蠢く、あるものが描かれていた。

「ああ、こりゃア」

 それを見て、傘化けが、ない眉を曲げる。

「そういやあ、そんな話もあるな。へえ、こりゃあ、面白い」

 ケケケケケと軋むように笑いながら、骨をポキポキと鳴らした。


 翌日の、夕刻の事である。

 念仏が約束の畔道の上に出ていくと、鉤を筆頭に、浜の若い奴らが、手に手に鍬や鬼杭を持って、もう集まっていた。

「センセイよ、本当に大丈夫かね」

「なあに、駄目なときゃあ、俺たちでやるまでよ」

 血気さかんらしい、号令がかかる中、鉤が、念仏の後ろにいるものに気が付いて、声を上げた。

「なんだあ、そいつは」

 一つ目一本足の傘のお化けが、当たり前のように堂々と歩いてきたのだから、驚くのも無理はない。

「そいつとは何だア」

 一つ目をしかめて言い返す傘化けに、浜の一同は、ざわざわとざわめいた。

「センセイ、専門家ってえのは、その傘のバケモンのことかい」

 呆れたように言う鉤に、念仏はすまして、

「これなるは只の妖怪にあらず」

 と、大音声で言いはなった。

「かの弘法大師の用いた由緒正しき唐傘に仏心宿りて、畏れ多くも大慈大悲高淤加美観音ダイジダイヒタカオカミカンノンの化身となった、有難い仏神様である」

 文献にある名や用語をめちゃくちゃに混ぜた、口から出任せであったが、弘法大師の名前と、法力堂で経文と共に学んだ、虚仮威しの獅子咆ししくは、それなりに効果があったらしく、浜の衆はみな、呆然としたまま、黙り込んでしまった。

 傘化けはと言えば、出鱈目といえど神として紹介されて悪い気はせぬらしく、苦しゅうないぞ、近う寄れい、などと言って得意がっている。

 それは神様じゃなくて殿様じゃあねえか、と言いたくなるのをぐっとこらえ、念仏は、そのまま畳み掛けた。

「結局のところ、幽霊騒ぎが解決すればいいんだろう。それに、報酬さえ貰えれば、この神様も俺も、この土地を去るつもりだ。文句もあるまい」

「……確かに、例の化け物さえなんとかしてくれるなら、傘だろうが杖だろうが箒だろうが何でもいいや。そうだな、みんな」

 面食らったままの鉤の言葉に、他の者たちも、傘化けを珍しそうに見ながら、おう、おうと同調した。

「よし、決まりだ。それじゃあ、幽霊狩りとゆこう。

 鉤さんよ、言ってたものはしっかり持ってきたかい」

「そりゃ、調達してきたが…風のセンセイ。ウツボのふりかけって、こんなもの、何に使うんだよう」

 傘だの何だので困惑極まれりな鉤から、粗末な小袋を一つ受けとると、念仏は、ちょうど雲の衣からうっすらと現れ始めたおぼろ月を見上げ、傘化けに号令した。

「それ狩り出しだ、神様」

オウよ」

 威勢よく言い放つと、傘化けはいきなりその場で両手を引っ込め、ばっと傘を開いて、猛烈な勢いで回転し始めた。

 砂ぼこりが巻き起こり、そのまま、ぶん、と竹トンボのように、空へと飛び上がる。

 わあ飛んだ、傘が飛んだぞ、と浜の衆の叫びが響く中、傘化けは回転しながら低空を飛び、そのまま広い芋畑へと突っ込んだ。

 ぞぞぞぞぞぞ、ばちばちばちぶちぶち、と激しい音を立てて、背の高いダイダラ甘藷の葉が、今杣いまそまの電動鋸にやられたように、みるみる斬り飛ばされてゆく。

 その派手な伐採に感じた如く、がさがさ、ずるずる、ざざざざ…と巨大な蛇が何匹も地面を擦るような音が聞こえ始め、同時に、ひどく腥い風が、畑の中から吹きつけてきた。

「おいでなすったぞ」

 念仏の言葉と共に、葉の合間から、青い月の光の下へと、それは次々、鎌首をもたげた。

 幾本もの長い影――ぬらぬらとした、真っ赤な手の群れであった。

 念仏はそれを見上げ、その数をかぞえ、笑みを浮かべる。やはり思った通りだ、と。

 一方で、ひゃあ、とか、うわあああ、という、浜の者たちの悲鳴が上がる。

 それを聞きつけたものか、ぐうと手首を撓めた「手」の群れが、一斉にそちらへ伸びかかりだした。

 しかし、その前に、ぶうううん、と音を立てて、空から傘化けが襲い掛かった。

 まるでカマイタチであった。それは、恐ろしい切れ味だった。

 生きた回転ノコギリに飛び込まれ、赤い手どもは、ズパズパズパ、と威勢のいい音を立てて、あっという間に斬り飛ばされていく。

「おお、なんてことだあ」

 鉤が、逃げようと足をかけていた汐車の上から、感嘆の声を上げた。

「経もお祈りも通じんかったあのバケモンが、次々真っ二つだあ」

「普通に斬っちまえばよかったんかあ」

「馬鹿たれ、近づいたら魂抜かれるじゃねえか」

「傘神様あ、ありがたやあ」

 群衆は好き好きに声を上げる様子であったが、しかし赤い手は、それで終わりではなかった。

 切り飛ばされた赤い腕は何と、斬られて暫しすると、断面に新たな指を若芽の如く生やし、見る間に再生していくではないか。

 そして、怒り狂った大蛇そのままの様相で、鎌首をもたげる。

「うわあ、やっぱりだめだあ」

「見ろ、全く堪えずにまた襲ってくるぞう」

「役立たずの傘神様じゃあ」

 またも勝手な声を上げて逃げ惑う浜の衆をよそに、念仏は号令した。

「もう一度だ。今度は低いところを狙え」

「合点承知ノ助」

 なんだその返事は、と呆れる念仏であったが、空を旋回しながら、赤い手の追撃をかわしていた傘化けは、投げ円盤のような軌跡を描いて、今度は地面ぎりぎりのところで、ふたたび赤い手の群れへと突っ込んだ。

 切り飛ばされながらも、ものともせず傘化けを追う赤い手が、地面近くへと集まっていく。

 そこへ、同時に駆け出していた念仏が、走り込んだ。

 斬られたばかりの赤い腕が、それぞれ断面を露わにして、いっせいに念仏の方を向き、襲い掛かってくる。

 その瞬間を狙い、念仏は、紐を解いた手元の小袋の中身を、

「これでも食らえ」

 叫ぶや、思い切りそいつらへと、ぶちまけた。

 効果は絶大であった。

 至近距離からその、茶色っぽい粉――この辺りで飯の友とされているウツボのふりかけ――を振りかけられた腕たちは、びくびくと痙攣し、凄まじい苦悶の蠢動を見せた。

 ついでにそこへ、旋回しながら戻って来た傘化けが、回転を解き、両手を出し、もう一つ分けておいた袋から、ふりかけをばらまいたからたまらない。

 ぎゅううう、とねじくれ回りながら、赤い腕は、どんどん褐色に褪せてゆき、畑の地面をずるずると、奥へ奥へと引き上げ始めた。

「おお、効いたぞ」

「幽霊の奴が、逃げてゆくぞう」

「何をしたんじゃあ」

 何が何だかわからないという顔で、浜の衆が、駆けよってくる。

「神様、腕を追っかけろ」

 念仏は傘化けに呼びかけながら、畑の奥へと走っていく。

「センセイ、どういうことなんだあ。何でお経が効かないのに、あんなものが効いたんだあ」

 追いついてきた鉤に、念仏は言う。

「あれが幽霊なんかじゃあねえからだ。見ろ、腕が八本。それで、ウツボが天敵。俺の睨んだ通りだった」

 それでもわかっていないらしい鉤に、念仏は、

「俺が、根掘り葉掘り、変わったことは無かったかと聞いた時に、お前、そう言えばと話しただろう」

「え、馬糞で狐に化かされた話か。それともいたずら狸を叩き出した話か」

「畑に、タコが芋を盗みに入った話だよ」

「おお、あれか。いや待て、どういうことだあ」

「お前たち、芋を貪ってた蛸を見つけて、珍しいからってとっ掴まえて蛸鍋にしたんだろう」

「おう、そうだ。ちょうど茹であがったところで、蛸が鍋を倒して逃げたんだあ」

 そこまで言ってから、鉤は、鼻先を蛸につままれたような、妙な顔をした。

「ということは、ありゃあ、蛸なのか。そんな馬鹿な」

「馬鹿な話だが、そうなんだ。あれは蛸だ。それも、茹でられて真っ赤になって怒った、芋泥棒の蛸だ」

「な、なんてことだあ」

「いやがったぞオ」

 ちょうどその時、行く手から傘化けの声が響いた。

 念仏と鉤が駆け込むと、しゅうしゅうぶちぶちという音とともに、刈られた芋の葉の合間から、巨大な、赤い蛸の顔が出て、傘化けを威嚇しているところであった。

 それを見た鉤がおののく。

「うわあ、でかい。こんなでかい蛸じゃあなかった」

「化けたんだ。元々、蛸が海から上がって、畑に芋を盗みにくる話が、いろんな場所にある。そういうのは、だいたい、長く生きた化けかけの蛸だ…」

 芋畑の中、話し合う念仏と鉤の一方で、蛸と傘化け、まるで双六の戯れ絵のような組み合わせの妖怪同士もまた、絵草子の中の様な会話をしていた。

「くるしや、くるしや。やいぼろがさ。なんのうらみがあって、こんなことをしやあがる」

「はン、この芋タコ野郎。恨みも何も、己等を信仰する者どものために、ひと肌脱いでやったまでよ」

「ばけもののくせに、ひとにみかたするつらよごしめ。うう、くるしや。おのれえ」

「何が化物だ、己等は神様だ。畏れ多いぞ、蛸野郎」

「なんだこいつ。ううくるしや。くるしや。ゆるさん。いきたまま、まっかにゆでられたいきじごく。うみへももどれぬこのうらみ、はらさでおくべきか。てんよ、おてんとうさまよ、にんげんどもと、このぼろがさに、てんばつをくだしてくれえ」

 化け蛸が呻くとともに、一天俄かに掻き曇り、ごろごろごろ…という音とともに、黒い雲が、月を隠した。

「あっ、雷雲だ」

 鉤が叫び、慌ててへそを隠す。

「まさか、そんな馬鹿な」

 念仏も驚いて、空を見る。死に際の化け蛸の切なる訴えに、天が答えたというのであろうか。

「おお、てんはわがうらみききとどけたり」

 蛸はぐにゃぐにゃと腕を蠢かし、感動したように、渦巻く黒雲に向かって、怨嗟の祈祷を捧げた。

 次の瞬間、黒雲が激しく閃き、ひとすじの稲妻が走ったかと思うと、それは狙いを過たず、まっすぐ大蛸を直撃した。

「あっ」

「あっ」

「ぎゃああああ……」

 化け蛸の断末魔が、甲高く響き渡る。

 不思議なことに、近くにいた念仏と鉤は、眩しさを感じこそすれ、感電するようなこともなく、ただ蛸のみが、天からの俄か火に身を焼かれて、真っ黒い蛸焼きになってゆく。

 香ばしい匂いが立ち込める中、ざざあ、と続けて降来した豪雨が、辺りに叩きつけ、あっという間に残り火を消していった。

 ずぶ濡れになりながら、念仏は、その雨の中を、傘化けが、ぐるぐると歓喜に舞い狂っているのを見た。

「見たか、芋泥棒。己等が術を。ざまを見ろ。己等は神様だぞう。…」



 ***


「浜の奴ら、思ったよりも報酬を弾んでくれたなあ」

 雨の上がった、朝ぼらけの山道の上である。

 本の束に加え、当面の旅弁当に路銀、医院の医師がくれたラジオなどを詰めた風呂敷包みを背負って、念仏は、呟いた。

 背後からは、風に竹林の生る様な声で、かれこれ何十回めかの、同じような自慢が繰り返されている。

「あいつ等の顔を見たか。神様、神様と。己等を伏し拝んでいたぞ。なア」

「ああ、凄い、凄い。何という凄い神様だ」

 うんざりしながら、念仏は、適当に相槌を打った。

 畳まれた傘は、風呂敷の中に横差しにしてあって、おかげで幾らか声はくぐもって小さいけれど、それでも、たまったものではない。

 鉤たち浜の衆は、実に彼ららしい素朴で素直な感謝の念を以て、念仏を名残惜しそうに送り出してくれた。

 いや、それはもはや、感謝というより、信仰に近かった。どうやら、蛸にとどめをさしたあの稲妻を、本当に傘化けの仕業だと信じたらしい。

 全く馬鹿なことだと胸中で独り言ちて、しかし念仏も、まさかな…と、思わず背後の古傘を振り返っては、その阿呆丸出しの言説に、うんざりして前を向く、その繰り返しだった。

 神様扱いがどうにも居心地が悪かったのもあるが、盗まれていた魂が戻り、次々目を覚ます被害者たちに混じった行者と六部に傘化けの事を見とがめられると面倒だという事で、念仏は祝いの宴にと引き留める鉤たちの勧めを丁重に断り、それなりに長い間を暮らした、その土地を後にした。

 まねき草の筵宿からは、最後の木札が取り除かれ、とうとう無人となった。

 もうずっと来ない管理人に連絡を取るすべもなく、そのうち、狐狸などが棲みついてしまうかもしれないけれど、そこまでは念仏の知るところではなかった。

 それに、今は、新しい仕事を自ら始めた高揚感と、これからの道行きへの算段で、頭が一杯だった。

 すなわち、お化け相談、お化け退治の仕事である。

 近頃の不景気に伴ってか、妖怪変化、幽霊に魑魅魍魎のたぐいが、新聞を騒がすことが多くなっており、医師の言っていた、陰陽寮の復活も、それと無関係ではないだろう。

 行く手行く手にお化けの事件を取材し、時にはそれを解決して、金を稼ぐ。

 職業、事業とも呼べぬような、鵺じみた目論見ではあったが、ただ無為に日々を過ごし、風の行に身をやつすよりは、よほど張り合いがある。

「おい、聞いてるンか。神様のありがたい説法を。ダイジダイヒ、タカオノカミ、カンノンだぞ」

「説法はお釈迦様だろ。ついでにそれは俺がでっち上げた偽名だ」

 ――そうだ、こんな間抜けな神様があってたまるか。

 はははは、と無理やり笑い飛ばして、念仏はのっしのっしと足を動かしていった。

 行く果ても知らぬ、奇妙な一人と一本とを、今はただ、空に薄く残った白い月かげばかりが、静かに見下ろしている。……







※傘化けのイメージは、小田仁二郎「からかさ神」及び水木しげる「ゲゲゲの鬼太郎」より着想を得、オマージュとしたものです。末尾ながら感謝と共にしるす。

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