想刃の銀風 -wish for my dearest-

アレセイア

第一章 風神の巫女

第1話

 少女は、逃げていた。

 木立の中を、息を切らしながら駆ける。まとう衣服は、切り裂かれたようにばらばらで、露出した細い手足には、痛々しい傷跡が覗かせている。

 まるで、何かに追われるように、ただひたすら駆けて行く少女――。

 その後ろから駆けてくるのは、漆黒の衣服に身を包んだ人影であった。

 狼のように執拗にその少女を追い立てる。

 その気配に、少女は喉を引き攣らせながらも、必死に前へ前へと逃れ――。


 不意に、足が空を切る。


 足場がない。目の前は、崖下――それを見つめ、少女はぎゅっと目を閉じる。

(なんで――なんで、私は生きたいだけなのに……!)

 必死に生きようとして、逃げ続けて――それでも、追われて。

 息つく間もなかった。休む日もなかった。

 せめて、もう一度、お腹いっぱいご飯を食べたかった――。

 彼女は、迫りくる地面を見つめて、ぎゅっと目をつむる。

 そして、彼女は為す術もなく、地面に叩きつけられる、寸前。


 何かが、目の前に横切った。


 ぼふっと柔らかい何かに包まれる――助かっ、た……?

 そう思う間もなく、横から素っ頓狂な声が響き割った。


「な、なんだぁ? 何が降ってきて――ってガキんちょお!?」


 包まれた柔らかさから抜け出す。布の塊のようなそれから顔を上げると、そこは荷馬車の上だった。周りが、凄まじい速さで動いている。

 その御者台では、一人の男が目を見開いていた。

 まるで、鳩が豆鉄砲を食らったような顔だ。目が合い、お互いに絶句――。

 だが、次の瞬間、背後から迫ってくる影に気づき、男は我に返って手綱を振る。

「う、おおおおっ!? なんだってんだ、ああくそっ!」

 ぐんと加速する荷馬車。男は手綱に食らいつくようにして吼える。

「くそっ、また貧乏くじかっ! いいか、しっかり掴まっとけよ――!」


 陽の光が燦然と降り注ぐ中――谷間の道で、不意の逃走劇が始まろうとしていた。


(ったく、なんでいつもこうして貧乏くじばっか……!)

 ゲイリー・ルードマンは悪態をつきたい気分を必死に堪えていた。

 山と山の切り通しのような街道を、激しく荷馬車が駆ける。舗装されていない、土がむき出しの道のせいで、激しく荷馬車が揺れる。

 乗り心地は最悪。下手に罵れば、舌を噛みそうだ。

 だが――後ろの追手、あれは、明らかにヤバい。

 ゲイリーは後ろを振り返る――そこには、追いすがってくる黒装束の人影があった。馬の足に食らいつくように、ぴったりと疾駆してくる。

 それどころか――じりじりと追いつきつつある。

「なんなんだよ、あの化け物――ッ!」

 思わず叫ぼうとした瞬間、荷馬車の車輪が大きく浮く。がたんっと激しく揺れ、舌を噛みそうになる。御者台に激しく尻を落ち着けて、涙目になる。

(なんでこんな目に遭うんだよ……!)


 そもそも、ゲイリーは吟遊詩人である。

 文字も読め、教養もあり、面白おかしくいろんなところで語り明かしているだけの、ただの詩人だ。トラブルなんかに巻き込まれる筋合いは、一切ない。

 だが、彼にはある欠点があった。

 酒が好きである。その上、金に意地汚い。

 だから、彼が儲け話に飛びつくのは日常茶飯事であり、その悪癖のためにさまざまなトラブルに巻き込まれることは多々あった。

 今回もその『儲け話』にのせられて、こうやって積荷を運んでいただけだが――。


(ガキが降ってきて、しかも追手が掛かるたぁ――)

 ついていないを通り越して、最低も最悪だ。ゲイリーは手綱を握る手に汗を握る。

 ここが火の国ならまだ何とかなったかもしれない。だが、ここは異国――海を越えた先にある大陸の、ウェルネス王国なのだ。

 土地勘すら全くない。闇雲に馬を走らせるしかない――。

 その速度が、がくんと落ちた。

「お、おおおいっ! くそっ!」

 慌てて鞭で馬の尻を打つ。だが、馬は少し勢いを取り戻すも束の間、すぐに脚が遅くなる。

(金をケチって、駄馬を選んだせいか……!)

 焦るゲイリーはさらに馬を叩こうと鞭を振り上げ――。

 がたんっ、と大きく荷馬車が揺れた。岩に乗り上げ、激しく地面に叩きつけられる。

 衝撃と共に、ばきり、と何かが砕ける音が伝わってきた。

(しまっ――!)

 比べ物にならない衝撃に、身体が投げ出されそうになり、慌てて御者台にしがみつく。

 激しい振動と共に、荷馬車が斜めになりながら引きずられるように停車する――無茶な動きに、車輪が故障したのだ。

 あまりの衝撃に、ぐらぐらする頭を押さえながら顔を上げるゲイリー。

 そこに、一瞬で間合いを詰めている無数の、漆黒の人影――。

 その一人が、刃を手に跳躍して来ていた。

「う、ああああっ!」

 情けない声を上げるのが精一杯だった。それが、彼の最期の言葉になる――。


 寸前、轟、と凄まじい勢いで何かが吹き抜けた。


 何かが割り込むように、飛び込んでくる。金属がぶつかり合う、耳障りな不協和音。

 思わず、ゲイリーが呆ける――白銀が、宙を舞ったように見えた。

 だが、幻覚だった。目の前に立っているのは、鎧姿の青年――。

(あ――)

 その後ろ姿が、知り合いの者と重なって見える。

 いつだったか、野盗から守ってくれた一人の騎士――だが、彼女とは違い、その青年は短い黒髪だった。迫る凶刃を弾きながら、彼は振り返る。

 漆黒の、剣呑な眼差し――それが、わずかに緩んで訊ねてくる。

「大丈夫か?」

 そう問いかける一方で、その騎士を取り囲むように、三人の黒装束が飛び掛かっていた。

「あ、あぶねぇ――」

 ふっと、騎士の口角が吊り上ったように見えた。

 次の瞬間、騎士は刃を振り抜く。右手から迫った刃を弾き上げながら、正面から突き出された手を左手で払い除けた。

 体勢を崩した黒装束。それを誘導するように左手に流し、同士討ちを誘う。

 ぶつかりかけ、左手と正面の敵は慌てて身を逸らす

 その間に、彼は鮮やかに刃を振り返していた。右手の黒装束を、真っ向から斬り捨てる。血飛沫が舞い散る中、彼は振り返りざまに刃を薙ぎ払った。

 体勢を立て直そうとしていた二人をまとめて斬り払う。

 その残心をそこそこに、血振りをしながら、その騎士は再度振り返って目を細めた。

「――大丈夫か、と聞いているのだが?」

「は、へ、へい、大丈夫、です……!」

「そうか。なら、残党の始末にかかる――キミはそこの子と一緒に下がってくれ」

 その騎士は悠然と残りの黒装束たちと向き直る。

 そこには三十人ほど黒装束がいたが――その騎士は、一切、臆する様子はない。自然体で進み出て行く。ゲイリーは言われた通り、荷馬車にいた子供を引っ張る。

「お、おい、こっちだ――物陰に、一緒に……!」

 震える、薄汚れた子供を傍に引き寄せる。

 必死に逃げて来たのか、ぼろぼろの衣服――髪も真っ黒にどろどろで汚れている。その身体を庇うように、ゲイリーは抱きかかえ。

 だからこそ、気づいた――その首筋に、何か奇妙な形の痣があることに。

(火傷の痕、でもないようだが――)

 不意に、激しい金属音が鳴り響く――騎士が、戦い始めたのだ。激しい足音と息遣い、衣擦れの音に、ゲイリーはただ必死に身を縮め――。


 だが、次第にその音は、少なくなっていった。


 やがて、不意に足音が一気に遠ざかっていき――静かな声が聞こえた。

「敵は、逃げた。二人とも、もう安全だ」

「お、おぉ……?」

 びくつきながら、ゲイリーは荷馬車の物陰から顔を出す――。


 そこは――言葉を失うような光景が広がっていた。


 地面に転がる、無数の死体。陽だまりの道は、真っ赤な血飛沫で染められている。

 その中に立つ、刃を片手に立つその騎士は、血に染まって何より不気味なのに。

 どこか、寂しそうな面影を、宿していた。

 彼は振り返って微笑みを浮かべる。血振りをし、太刀を鞘に納める音で、ゲイリーは我に返った。

「あ、あんたは一体――」

「ああ、私は、ウェルネス王国近衛騎士団、征東隊所属――中臣静馬なかとみしずまだ」

 そう名乗った彼は、端正な顔つきに笑みを浮かべて一礼して見せた。


「ようこそ、異国の民よ」

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