Episode Ⅱ - Slip Swing Spark!

第1話「雨声は未だ止まず」

 雷が、轟いていた。




 うだるような蒸し暑さの中、延々と降りしきる長雨が、煉瓦の壁を叩いては滑っていく。

 アンファリス大陸は――地域差はあるが――これからの季節、雨期を境に気温が低下し始め、長かった夏も終わりを告げる。

 同時に、膨大な降水量が夏によく日光を浴びた作物の成長を促すことから、激しい雨風や響き続ける雷鳴の恐ろしさとは裏腹に、この雨期は『恵みの季節』とも呼ばれている。

 都市部中枢で机仕事に励む文官らはともかくとして、人口の大多数を占める農家、あるいはその関係者にとっては、大風や水害で畑が荒れてしまわないか、それだけが心配の種だった。

 少なくとも、今日この瞬間までは。


「―――――急げ!! せっかくの機会だ、こいつを逃す手は無ぇぞ!」


 大陸北部、余人の立ち入りを拒む未開拓の原野。数多の魔獣が跋扈する領域からほど近い場所に、その施設は存在した。


「ヒャハハハハハハハ!! 自由だッ! 俺たちは自由だァアァァァ!!」


 バゼドー刑務所。

 軽犯罪に手を染めた不良から、極刑を言い渡された凶悪犯まで、多種多様な犯罪者を収監するアンファール王国最大の監獄。

『一度入ったが最後、刑期を終えるまでは外の土すら拝めない』とされる極めて厳重な警備体制と、規則違反者には徹底して懲罰を加える、囚人への苛烈な態度で知られる"悪人の墓場"。

 ただし後者に関しては、都市伝説めいた大衆の想像の産物に過ぎない。


「邪魔する奴はぶっ殺せ!! どうせ俺達ゃ悪人だ、今さら一つや二つ罪が増えても何て事ぁねぇ!!」


 だが、少なくとも前者に関しては―――王国最大規模の監獄の名は伊達ではない。

 監獄を取り囲む外壁は、王城宮殿や各地の城塞都市と同じ『レジータ石』であり、王都外縁部のそれすら上回る20mの高さを有する。

 各所に設置されている錠には、王家直属の騎士団『セントマルクス騎士団』の魔術師による呪いが仕掛けられており、破壊を試みた愚かな囚人を容赦なく罰するようになっている。

 収監者の総数およそ2000人に対し、常駐している看守は300人に満たないが、その全員が一騎当千の実力を備えるセントマルクス騎士団の出身者であり、十把一絡げの小悪党とは格が違う。腕自慢の元・格闘家などの囚人が10人がかりでも、バゼドーの看守には傷一つ付けられないという。


「ぶっ殺せ!! ぶっ壊せえぇぇ!!」


 故に―――この状況は、間違いなく異常であった。

 アーカーシャ戦役の終結後、宣統暦せんとうれき272年に完成したバァノ=レゼド刑務所に始まり、修復と改築を重ねながら、実に120年余りの長きに渡って、王国中の悪人を捕らえて離さなかった最強の監獄。

 堅牢堅固、難攻不落を誇るレジータ石の外壁に、巨大な亀裂が走っていた。

 建物の至る所から火の手が上がり、同時多発的に引き起こされた混乱は、歴戦の精鋭たる看守らをも戦慄させて余りあるものだった。

 彼らとて、いくら盤石の体制が整っているバゼドー刑務所といえど、脱獄の可能性を想定していなかったわけではない。監獄の長い歴史においては、大規模な囚人の蜂起があり、そして鎮圧されたことも一度や二度ではない。

 そんなバゼドーの看守たちにとり、想定外の要素があったとすれば、それは、


「ぐっ…!」


「―――……」


「う、お、ぉっ」


「……」


「がはっ!!」


 バゼドー刑務所は、あくまで"刑務所"に過ぎない。刑務所とは、罪人を捕らえるための施設だ。

 人間は――過去にはどんな神秘や異能にも頼らず、己の力のみで脱獄を成し遂げた者も存在はするが、それは例外中の例外だ――金具で固定された手枷を砕くことは出来ないし、呪いの錠前を破ることも出来ない。

 王国最強の監獄たる、バゼドー刑務所から逃走を果たす。そんなことが可能な生物は、もはや人間ではない。

 バゼドー刑務所に収監されているのは、兵力によるも免れて、人の世界に生きることを許された者だけだ。


「……噂には聞いていたが、これほどとは。牢獄の中で、よくそれだけの身体を維持できたものだ」


「…………」


「止まれ。仲間との合流を許すわけにはいかん」


「……。……」


 で、あれば。

 その男は紛れもなく、人の世界に有り得ざる怪物であった。


「……知らん顔だな。王都の警備隊には居なかったか」


「さすが、お察しの通り。現役時代はろくな武勲を挙げられなかった、しがない地方出向組だよ。しかし……今の職場を退屈だとは思っていない。これも立派な王国騎士の務めだ」


「下らぬ。今のアンファール王国に、命を賭して守る価値など無い」


「聞き捨てならんな。尤も、お前が言う分には不思議ではないが」


「……」


「―――ガンド・ラダスベノグ」


 大剣じみた鋭利かつ重厚な視線。その強面と山のような体躯は粗暴さを連想させるが、立ち居振る舞いの随所には、ある種の気品と余裕が感じられる。

 太い四肢に分厚い胸板、鋼の如く鍛え上げられた筋肉は、青灰色のくたびれた囚人服を纏っていても尚、見る者を圧倒する威容であった。


 男の名は、ガンド・ラダスベノグ。

 かつてセントマルクス騎士団きっての武芸者として名を馳せ、最終的には下等貴族の生まれとしては異例の騎士団長の地位にまで上り詰めた、王国屈指の豪傑。

 現役を退いた後は、騎士団時代の経験を活かし、平民の心情を推し量ることに長けた穏健派の王都中央議会員としても活躍した。

 周囲の誰から見ても順風満帆に思えた彼の人生だったが、しかしある出来事によって、その身に受けた数々の栄誉は地に落ちることとなる。


「……つくづく、下らん」


 3年前、ガンドは突如として活動家団体『憂える鷲の会』を設立し、亜人と魔族の排斥を熱烈に訴えた。


 宣統暦387年の亜人保護協定・亜人特区制度の改正を皮切りに、389年のビルセイン会談における煙精ジンの一族の『亜人認定』を経て、これまで魔物と見なされてきた異形種たちとの融和を模索し始めたアンファール王国。

 それらの風潮には元より賛否両論があったが、古来より人間ヒューマンと一定の距離を置いていた森精人エルフの勢力が初めて協調の意志を見せたことで、既に大勢は決していたと言える。


 だからこそ、議員ガンドが亜人・魔族排斥派であることはよく知られていたものの、まさか内乱にまで発展するとは誰もが思っていなかっただろう。

 395年、ガンドは古巣であるセントマルクス騎士団から離反者を募り、自身の思想に同調した兵士を率いて武装蜂起した。のちに『ガンドの鷲の乱』と呼ばれる事件である。


 騒乱は半年以上も続き、一時は王城宮殿での決戦状態にまでもつれ込むも、最終的にガンドの後釜である新たなセントマルクス騎士団長と、王家の相談役である筆頭宮廷魔術師が出撃して首領・ガンドの捕縛に成功。

 トップが逮捕され、統率を失った『鷲の会』は見る見る内に弱体化し、1ヶ月を待たずして壊滅した。

 そのような経緯により、叛逆者ガンド・ラダスベノグは王国最大の監獄へと囚われていたのだが―――。


「もうよい。消えろ」


 男がそう告げた次の瞬間。

 巨岩の如き武人の拳は既に、立ちはだかる看守の鳩尾みぞおちに届いている。


「な……!?」


「フン」


 吐き捨てて、腕を引く。看守は一撃で意識を奪われていた。

 ガンドには彼の生死はわからない。久方ぶりに身に沁みる戦いの感覚は、今のガンドのを差し引いても明らかに鈍っていたし、まだ攻撃に迷いがあったとも感じている。

 大逆の使徒は、すぐに思考を切り替える。敵は残っている、それも腐るほど。問題ない―――全て叩き潰すのみだ。


 看守らの主な得物は、特殊な硬質素材で作られた非殺傷性の警棒だ。しかし、彼らの腕前にかかればそれも必殺の白刃と変わりないことを、ガンドはよく知っている。決して油断はしない。

 襲い来る棍棒の打突を弾き、格闘術の組み付きを投げ技で受け流し、時たま放たれる捕縛用の衝撃や雷撃の魔術にも耐えた。

 セントマルクス騎士団にて磨き上げ、五体に染みついた戦いの記憶は、およそ5年間にわたる獄中生活を経ても尚、ガンドを凄まじき強者たらしめていた。


「あ……が、うぅ……」


「お前で、最後か」


「ぐう……ぅ!! 畜生ッ……!」


 悲嘆の声を前に、ガンドは情をかける気にこそならなかったが、情けないと嗤う必要も無いと感じた。恐怖のあまり思わず足が竦んでしまうことは、新兵から精鋭まで誰にだって有り得る話だ。

 付け加えるなら、近衛隊で身につけた実力と、常に凶悪な犯罪者たちを制御してきた自信を持つバゼドーの看守らにとって、ガンドの存在はあまりに荒唐無稽で現実離れしたものであったに違いない。


「……もしもこの場より生き延びられる運があったならば、お前たちの王に伝えよ。鷲は戻った―――貴様らの腐ったはらわたを、このガンドが貰い受ける、とな」


 貫手を形作り、振り被る。

 翻ってガンドは、かつて嫌というほど粛清した逆賊の類に、この時ばかりは同情した。自分がそのものずばり、国家に手向かう道を選んだことを笑って。

 鋼鉄の長槍よりも鋭い致死の刺突が、寸分違わず看守の心臓を目掛け―――。


「あァ、上等だ。きっちり伝えといてやるよ」


 横合いより高速で飛来した弓矢を掴み取り、そこで止まった。

 続けて、先刻聞こえた不遜な声が『ははは』と哄笑を上げ、皆がその源を悟る。ガンドたちが見上げたのは、バゼドー刑務所の代名詞であるレジータ石の外壁の上だ。

 監獄と外界の境界線に、ずらりと並び立ついくつもの黒い影―――恐らくは、その集団の首領。

 この雷雨の中、あれほどの高さから朗々と声を響かせるとは、何たる声量か。あるいは、何らかの魔法で自らの意志を発信しているのか。どちらにせよ只者ではない。


「よォし。クク……総出での仕事は久しぶりだなァ」


 稲光が閃き、刹那の間だけ、宵闇に溶けていた闖入者の姿が浮かび上がる。

 夜と同じ色彩を纏うローブ。顔をすっぽりと覆い隠す奇妙な仮面。そしてその左胸に光っているのは、剣を携えたドラゴンの意匠―――アンファール王国の国章。

 背丈と携えている得物は大小様々だったが、彼らの服装は概ねそれで統一されていた。この暗がりと、漆黒で揃えられた自らの装束によく映える白い仮面のため、表情は窺えない。


「アンファール王国、王室特務査問会。応援の要請を受け参上した。これより所定の任を遂行する」


 白地に2つの覗き穴と、墨で描かれた十字や縫い目のような簡素な模様が存在するのみの仮面。一見してわかる特徴はこれだけだ。

 しかしながら、歴戦の猛者であるガンドは、直接に視覚せずして感じ取っていた。彼らの仮面の奥から放射される、極めて凶暴で悪辣な気配を。


「―――細けェ遠慮は無しでいい。殺すなとは言わん、一匹も逃がすな」


 首魁が命令を下すが早いか、黒衣の部隊―――王室特務査問会の面々は、何ら躊躇うことなく、登るも落ちるも地獄と謳われるバゼドーの絶壁から飛び降りた。

 ある者は超人的な足腰の靭性をもって落下の衝撃に耐え抜き、またある者は曲芸めいた体捌きによって見事に着地を成功させる。

 少しでも知恵の回る者ならば、そのを見ただけで白旗を上げたに違いない。そして、撤退という選択肢を最初から持たない脱獄者たちに、白旗は上げられない。

 一方的な蹂躙が始まる。


「なっ……! 何だこいつら、増援か!?」


「嘘だ!! き、今日は近衛隊がみんな用事で出払って……数が、ここ何ヶ月かで一番少なくなるって話でっ」


「ぎゃああぁァ!!」


 剣が閃く。槍が走る。弓矢が飛ぶ。拳が砕く。魔法が迸る。

 百戦錬磨のバゼドーの看守たちをして制御不能に思われた大規模脱走は、信じがたい速度で制圧されていった。


「……貴様ら」


 王室特務査問会。

 黒衣の集団の動きには、まったく組織らしい統率と、王家の遣いらしい高潔さが欠けていた。

 あの指揮官に言い含められているのか、敵対者を無意味に痛めつけるような真似こそ行わないが、それだけに慈悲も遊びも無い。

 因縁の相手だ。彼らのやり方は、ガンドが知る血濡れのままで、ずっと変わっていなかった。


「……、久方ぶりだな。アルト=ペイラー」


 バゼドーの壁の上に残って、すべてを俯瞰している男。黒衣の集団の首魁。

 雨を避けるために外套の頭巾フードを被ってはいるが、彼一人だけが仮面を装着しておらず、堂々と素顔を晒している。


「ハ。そうさな」


 セントマルクス騎士団と双璧を為す、王室の懐刀。特務査問会の主。筆頭宮廷魔術師にして、最強の魔剣使い。

 アルト・ディエゴ=ペイラーは、見る者の魂を凍てつかせる冷笑を浮かべていた。深紅の瞳にはあからさまな侮蔑が込められていて、自身が格上だと信じて疑っていない。獰猛な、それは捕食者の笑みだった。


「会いたかったぜ、死に損ない」


 ガンドとアルトの眼差しが、水平線上で交錯した。

 跳躍から、落下と同時の攻撃。莫大な位置エネルギーが注ぎ込まれた魔剣の一閃は、しかしガンドの石柱じみて太い両腕に阻まれている。

 衝突が、雨天下の泥濘ぬかるみから泥と水を飛散させる。それが再び地面に戻るよりも速く、彼らは動き始めている。

 宮廷魔術師アルト=ペイラーが、その膨大な魔力保有量をもって身体強化エンハンスの術式を発動した時、振るう剣の最高速度は音を超える。

 無論、アルトの嵐のような猛攻を、徒手空拳で捌き続けるガンドの技量もまた恐るべきものだ。

 そこでは、各所で進行しているとはまるで次元違いの、怪物同士の戦いが繰り広げられていた。


「……潮時か」


「あァ?」


 ガンドの深い踏み込み、重い一撃。

 対するアルトは慎重を期して、カウンターを試みることなく素直に防御した。

 刃はガンドの拳の肉を裂くことは無く、鮮血の代わりにどういうわけか甲高い金属音が撒き散らされ、アルトの身体が後方へと弾かれる。

 その隙にガンドは背中を反らして後転を繰り返し、アルトの剣技の射程から離脱した。


「今は退こう。どうやら……この力をもってしても、貴様は容易い相手ではないらしい」


 途端、天に向かって立ち昇る青黒い靄を残して、ガンドの姿が消失する。


 ―――セントマルクス騎士団においては、剣技だけでなく魔法をも修め、前衛と後衛を兼任する騎士も珍しくはない。

 だが、過去のガンドを知る者が今の一幕を見れば、みな同じ感想を抱いたことだろう。

 すなわち、『彼はその類稀な技量によって躍進を遂げた武人であり、少なくともあのように奇怪な魔術を使う騎士ではなかった』と。


「手前ェッ―――!! 待ちやがれ!!」


 人を食ったような態度の魔法使いが、初めて声に焦りを滲ませた。

 右手の魔剣『災禍の杖レーヴァテイン』が嘶く。棟区ショルダー部分の機械仕掛けが起動し、刀身が展開して銃口を露出する。

 アルトが柄に設けられたトリガーを引くが早いか、青紫色の雷光が迸り―――結果として、ガンドに届くことはなかった。


「…………チッ」


 ごう、と幾度目かの雷鳴が聞こえた。

 雨足はさらに強くなり、建物から上がる火を鎮め始めている。その様子に比例するようにして、刑務所内を覆っていた混乱も、ほぼ完全に失われていった。


 大規模な脱獄事件にも関わらず、王室特務査問会の活躍によって、バゼドーの地から逃げおおせた囚人はごく少なかった。

 付け加えるならば、バゼドー刑務所の北側は、魔物の勢力圏である未開拓領域と隣接している。南側に行けば都市圏に戻れるが、バゼドーから最も近いレジータ市でさえ、徒歩で目指すなら何ヶ月もの時間を要する。

 故に、運よく逃走できた者たちにしても、何の装備も支援のあても無い状態で、大陸北部イディリス地方の荒野を踏破することは不可能だろう。

 ただ一人、文字通り煙となって消えた、ガンド・ラダスベノグ以外には―――――。

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