第2話「レジータの夜の邂逅」

 アンファリス大陸北西部、アンファール王国マルシム領レジータ。

 ワットスン・マルシム辺境伯、並びにマルシム伯爵家が代々治める領地であり、牧畜と石材産業が盛んな田舎町。

 田舎とは言うが、北方禁足地と面しており魔物の脅威が身近であるため、騎士団や傭兵団の出入りも多い。故に、市内はいつも本来の規模以上の活気に包まれている。


 濃灰の石材と焦茶の煉瓦で舗装された街並みの中、レジータではマルシム伯爵の邸宅に次いで大きな建物があった。

 正面玄関である木造の扉の上には、剣と鶴嘴つるはしを背景に、馬とその騎乗者が描かれた意匠の金属の浮彫レリーフが鎮座している。

 開拓者もしくは冒険者と呼ばれる、命知らずの夢想家たちが集う世界―――『ギルド=ローグ・オブ・グッドフェロー』、レジータ支部。


 禁足地近郊という都市の性質上、常に一定の賑わいを見せる冒険者ギルド屯所内は、しかし平時よりもさらに物々しい雰囲気に包まれていた。

 理由は明白で、学術調査のため訪れていた王都からの調査隊が、正体不明の外敵の襲撃を受けて帰ってきたからだ。現地協力者として随行していた数人の冒険者――つまりは案内人ガイド兼傭兵としての扱い――にも犠牲者を出しながら。


 そんな屯所に、ふたりの来訪者があった。

 若い男と連れの少女の2人組だ。たとえ子供が幼かろうが、家族で仕事をする冒険者も珍しくはない。ギルド所属の冒険者や、彼らと連携して事態の捜査にあたっているマルシム領騎士団が、自身らの相談事を中断してまで気に留める要素は無かった。

 男は足取り軽く受付に向かい、懐から身分証を取り出して係の者に見せる。話を聞いた係の者、長い茶髪を三つ編みにした眼鏡の女性は、いささか驚いた顔をして裏手へと引っ込んだ。

 しばらく後、レジータ支部の長である精悍な顔つきの中年男性が現れ、ふたりを伴って密談向きの別室へと案内する。

 この日、レジータ支部屯所に集まっていた多くの人々が彼らの正体を知るのは、もう少し時間が経ってからのことである。




――――――――――――――――――――――――――――――




「初めまして、私はフォガート・マルシム。冒険者ギルド・レジータ支部の支部長を務めさせていただいております。お会いできて光栄です、“黒銀卿こくぎんきょう”―――アルト・ディエゴ=ペイラー殿。ご活躍はかねがね」


「あァ。そういうアンタは、ワットスン伯爵の叔父君で間違いなかったか」


 握手と当たり障りのない挨拶を済ませ、2人はテーブルについた。

 何ということもない光景だが、アルトはそれだけで少し気分を良くした。この壮年の男の口調には、目上の人間への敬意はあっても余計な飾り気が無い。そして恐らく彼はそういう性質のために、冒険者ギルドの纏め役などという任をやっているのだ。


「は、如何にも。……ところで、そちらのお嬢様は?」


 フォガートが巡らせた視線の先には、アルトが連れてきた少女がやや落ち着かない様子で立っている。

 年の頃は15か16といったところか。夕焼けの空のような、鮮やかながらもどこか陰のある橙――岩や鉄に非常な高温を与えて溶かすとあのような色になる――の長髪と、概ね同様の不可思議な色彩の瞳が特徴的だ。

 着ている服には袖がなく、どころか砂塵めいた薄茶の布を緩く巻いただけのような代物に見えたが、それはそれで少女の持つ素朴な雰囲気とよく合致していた。貧民街スラムの不幸な子供の恰好というよりは、東方のモンクが好む質素な装いに似ている。


「助手のリンゼだ。元々は任務のついでで保護した孤児みなしごだが、見ての通り『加護持ち』でな。普通に孤児院送りにするのも惜しかったんで、俺の部下として引き抜いてきた」


「なるほど。それは―――」


「んじゃ、早速だが本題に入ろう。つっても、俺も聞いた話以上のことは知らねェけどな……何でもいい、とにかく情報が欲しい」


 疑義の声を遮られたが、フォガートは動揺しなかった。世の中には踏み込むべきでない事情というものがある。


「主だった魔物の動きはこちらでも把握しています。小鬼首長ゴブリン・リーダーの『赤斑アカブチ』、銀猩々シルバーバックの『ブロウィ』は現在も精力的に活動中、『ハルベルト湖のヌシ』も健在です。ですが、どの特異指定魔獣ユニークも今回の襲撃犯の目撃情報と一致しません」


「人間の仕業である可能性は? 旧国境主義者どもの亡霊って線は」


「まさか。50年前とは事情が違いますので。そも、我がレジータとマルシム家は、今やアンファール王家にお仕えして4代を数えます。南の成金どもと同じにはしないでいただきたい」


「……そうかい。ま、アンタが言うなら信じるよ」


 黒銀卿の深紅の瞳がフォガートの顔を一瞥し、次にちらりと同行者の方を見やって、再びどこを向いているかわからない胡乱げな視線に戻った。

 リンゼ、と呼ばれた同行者の少女は、椅子に腰かけたまま手持ち無沙汰そうに窓の外を眺めている。


「―――ひとつだけ、心当たりがございます」


「ほォ」


 フォガートは事前に用意していた鞄から、1枚の古びた羊皮紙を取り出した。

 羊皮紙に描かれているのはごく原始的な図案。北の地の原野に点在する針葉樹林と、昆虫のそれに似た翅を持つ奇妙な人型生物のスケッチに、ほとんど潰れた文字で手記が付されている。


「『妖精の森』です。かなり古い伝承ですが……レジータの周囲には妖精たちの住まう領域がいくつも存在し、城塞都市が完成する以前は接触の機会も多かったとか。伝承の内容は、友好的な交流であったり、森林資源を巡っての敵対であったりと様々」


妖精フェアリー―――、“妖精の鱗粉”か。道理で俺に声が掛かるわけだ」


「お引き受け願えますか。黒銀卿」


「ハ。安心しろ、どうせ俺には断れねェよ。どんな手を使ってと話をつけたか知らんが、せいぜいマルシム家の面子を潰さない程度に働くさ」


 その二つ名の由来となった特徴的な外套を翻し、アルト・ディエゴ=ペイラーは席を立った。

 無事に帰投している件の調査隊や、事件を捜査中のマルシム領騎士団との情報交換は不要――レジータ市周辺の地図を除いて――だという。

 フォガートは今更ながら、自分たちが動かした事態の重みに感じ入っていた。

 マルシム家からの要請で、アンファール王国最高峰の宮廷魔術師が動くということ。黒銀卿の出陣という、レジータの歴史に残る出来事を。




――――――――――――――――――――――――――――――




 ひとり、夜の町を駆ける。

 地脈レイラインから汲み出された外界魔力マナを動力源に輝く街灯と、所々で焚かれているランプや蝋燭の火が行く道を照らしてはいたが、それがわたしの心を晴らすことはなかった。

 追手は刻一刻と距離を縮めてくる。逃げる先にあてなどない。ないけれど、人混みを掻き分けて走りながら、わたしは考える。

 もうすぐポートウィーン公園だ。より大勢の集団に紛れれば、あるいは―――。


 きらり。

 光の粒が踊る。


「……っ!?」


 瞬間、陶器が割れるような音と共に視界が、気づけばわたしは暗い路地裏に立っていた。

 幻術だ。は“人間のための世界”である城塞都市の中では大きく力を削がれるはずなのに、目も耳も完全に騙されていた!

 相当に強い魔力を持った相手が来ている……!


〈―――■■■■■■■■■■〉


 掻き回される視界、酷い耳鳴り、立っていることすら覚束なくなる不快感の中で、の姿だけは嫌にはっきりして見えた。

 大人の男性ほどの体長と、6枚の翅、太く鋭利な肢を持つ異形の蝶。その輪郭は燃え盛っているかのように曖昧で、全身から絶えず紫色に輝く鱗粉を撒き散らしている。


「あ……うぁ……!」


 ……これまでは、どうにか逃げ回ることができていたけど。

 もう限界だった。わたしではこの蝶に勝てない。応戦するまでもなく、それがはっきりと理解できた。

 脳裏にいくつもの光景が蘇った。世界で一番大好きな、お父様とお母様。何をするにもずっと一緒だった友達。色んなことを教わり、手伝ってもらった村のみんな。


「……そう、だよね。これで……これで、いいんだよ。これで……よかったんだ」


 はっとして、最初からそのつもりであったことを、今ようやく思い出した。

 蝶の複眼がわたしを睨みつける。怖い。鎌のような前肢が空を切る。恐ろしい。

 目に見える景色は毒々しく歪んでいて、耳鳴りは止まず、吐き気を催すほどの頭痛が続いている。

 死にたくない。


〈■■■■■、■■■■■■■〉


 6枚の翅と10本の肢が、死の世界へ続く門扉めいて口を開け、




「間に合っ―――たァ!!」




 横合いから噴き出した炎に呑まれ、路地裏の行き止まりへと叩きつけられた。


「え」


 彼らが発する光の粒とは異なる、とても熱く、温かい火の粉。

 爆炎を纏って繰り出された拳の主は、驚くべきことに、わたしとそう変わらない年頃の女の子だった。

 精霊加護の魔力によって、黄昏めいた橙に輝く髪と瞳。砂色の質素な服装。そして―――。


「……ンだよ、歯応えねぇな。高位の妖精ってもこんなもんか」


 切れ長の瞳の横。その女の子のこめかみからは、左右1対の都合2本、真っ直ぐに天を衝く黒い角が生えていた。

 肘から先と膝から先は赤い鱗に覆われており、手足の方へ向かうにつれて、角と同じ焼け焦げたような黒に染まっていくコントラストを描いている。

 背中には、深紅の骨に銅色の膜が張られた翼。腰には、赤い鱗を持った蛇の如くうねる、先端に棘が付いた尻尾。


「……ドラ、ゴン……?」


「お? 何だお前、この翼と尻尾がわかるのか? まぁ有名だもんなー、やっぱりなー! くっくっく……そうさ、聞いて驚け! アタシの母上は―――」


「……あっ! 危ない!!」


〈―――■■■■■■■■■■■■!!〉


 奇襲攻撃のダメージから復帰した異形の蝶が、凄まじい速度で飛翔してきた。

 一瞬にして女の子――だよね?――の背後まで詰め寄った蝶は、刃物並みの鋭さを備えた前肢を振り上げる。

 怒りのためか得意の幻術を発動するのを忘れているものの、彼らは単純な身体能力も高い。この女の子が何者であれ、切りつけられれば無事では済まない……!


「油断すんな、アホリンゼ」


 ―――そして、女の子が振り向くより速く、異形の蝶へと青紫色の稲妻が突き刺さった。

 仄暗い夜の路地裏が一瞬だけ強烈な閃光に照らされ、わたしは思わず目を覆う。眩む視界、ばちりという快音、間近で炸裂する高熱。バケツに入った水が零れるような異音、声ならぬ悲鳴。

 ……やや遅れて、全身が揺らぐ衝撃。女の子がわたしを抱え、庇って横へ跳んだことを理解するのに、もう少しかかった。


「おまっ……何しやがんだクソボケ!! アタシはともかくこの子だって居るんだぞ!?」


「ちゃんと当てただろォが。出力も絞ってある、掠った程度じゃ死にゃしねェよ」


「そういう問題じゃねぇ!!」


 やや遠方から聞こえてくるその声は……男の人だろうか。如何にも陰鬱そうな雰囲気ではあるけれど、敵意は感じない。

 異形の蝶はさっきの一撃で総身を焼かれ、胴に大きな穴を開けて絶命していた。途轍もない破壊力の魔術だ。


「……あ……あなた、たちは」


 女の子と共にわたしを助けてくれたその人は、蝶の幻術が解かれたことで光を取り戻した三日月を背に、林立する町の建物の屋根に立っていた。

 夜風に靡く漆黒の外套。月光と同じ銀色の髪。闇の中でもなお煌めく深紅の瞳。右手には黄金色の剣が握られており、幅広の刀身から白い煙を棚引かせている―――あの見慣れぬ意匠が施された長剣こそ、さっきの凄まじい雷撃を放った“杖”に違いない。


「一体、何者ですか……?」


 魔術師とも剣士ともつかぬその人は、大人3人分はある高さの屋根から事も無げに飛び降りた。当たり前のように着地し、すたすたとこちらに歩み寄ってくる。

 わたしたちとの間にあった異形の蝶の骸を少しだけ見つめ、爪先でつつき、はぁと息を吐く。

 青年が切先で地面を叩くと、剣は瞬く間にと化して縮んでいき、いくつかの帯に別たれて虚空へと消えていった。


「俺はアルト・ディエゴ=ペイラー。見ての通り魔法使いだ。で、こっちが……」


「アタシは赤竜ゼドゲウスの一人娘、リンゼだ。こいつとは……あー、その、腐れ縁ってところかな」


 魔法使いと、赤竜の娘。

 ―――これは、とんでもない人たちに助けられたぞ。


「で、お前は?」


 ごくり、と生唾を飲み込む。

 たっぷり3秒以上の猶予を経た後、わたしはほとんど必死になって声を絞り出した。


「わたし―――わたしは、ノエル・ウィンバートです。妖精の森、隠し村ランベから来た、人間です……!」

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