終節「災厄が止む時」

 世界を闇で覆った魔の軍勢は強大だった。

 銃弾をものともしない生命力を持つものや、毒素を放って外敵を殺すもの、機関車輛の速度に追いつくほどの走力を誇るもの……通常の生物にも、そのような驚くべき生態を持つものは存在する。

 だが果たして、如何なる物体も粉砕する爆弾の炸裂にすら耐え抜き、極超音速の航空機を軽々と抜き去って飛翔する生命体が、かつてこの地上に存在しただろうか。

 そしてそれらが、異常なまでの攻撃性をもって、他の生きとし生けるものすべてに牙を剥いたとしたら―――――。


 万物の霊長の座を追われ、人類は徐々に衰退していった。

 心血を注いで築き上げた科学の叡智は失われ、というよりも、常識を超越した魔の軍勢の実在によって、次々と否定されていった。

 世界をも焼き尽くすとされていたあらゆる兵器は、それを遥かに上回る魔の軍勢の暴力の前に屈した。


 既存の社会が完全に崩壊した人類は、わずかに遺された文明の残滓を総動員して、最後の生存圏を創造することとなる。

 必然として、そこには後退した工学技術にも実現しうる限りの都市機能が集約され、例外なく要塞化が施された。そこは外界の如何なる脅威をも遮断する楽園であり、また何人たりとも二度と逃れられない牢獄だった。

 数百万年を数える歴史に与えられた報い。栄華を極めた世界を棄てて、人類は再び暗い洞穴に住まうようになった。




――――――――――――――――――――――――――――――




 だから、多くの人々は気づかなかった。


 誰もがあなぐらの奥深くで膝を抱えていた世界で、その屈辱を受け入れるしかない現実を前に、なおも戦い続ける者たちがあったことを。

 新たなる霊長の座に手をかけた万魔の王、かの赤竜を討滅せしめた人間が居たことを。

 魔獣たちの異常性を前に、人類が究明したと思い込んでいたすべての知識が破綻する一方で、彼ら自身にもまた新たなる可能性が拓かれていたことを。


 ―――いずれにせよ、ついぞ人類は滅亡しなかった。

 それだけは確かな事実で、そしてその陰にあった真実を、多くの人々は知らない。




――――――――――――――――――――――――――――――




 近頃、人間たちの様子がおかしい。

 赤竜ゼドゲウスは率直にそう思った。


 自分が目覚めた当時と比べ、人々の衣服と鎧は明らかに貧相になった。ゼドゲウスの強さからすれば大差はないが、現在の彼らの装備は、見た目ばかりが華美でまったく実際の防御力に乏しい。

 武具の質もまた下がった。今までゼドゲウスを散々に苦しめてきた、音より速く飛来する金属の棘も、爆発する杭ももはや見かけない。、あるいはか、そのような雑多な道具ばかりを振り回している。


 それなのに、以前より手強くなったように感じられるのは、ひとえに人間たちが身に着けた奇怪な「力」のためだった。

 ある者はゼドゲウスと同じく、その身一つで強烈な業火をおこせるようになった。またある者は疾風の如き速度と、猛獣じみた怪力で剣を振るうようになった。またある者は尋常ならざる広大な視野によって、敵陣の奥深くに居ながら、ゼドゲウスの喉元にまで弓矢を届かせた。


 何かが変わったのだ。

 彼らはもう、赤竜率いる万魔の軍勢に蹂躙されるばかりの木偶でくではない。


 ただ、それでも、人類の征服は順調ではあった。

 いくら怪奇の力を備えたとて、所詮は人間。付け加えるなら、魔なる力の扱いであれば、やはり魔物自分たちの方にこそ一日の長がある。元より身体性能で劣る人間如きが、今更そのように過大な代物を手にしたところでどうにもならない。

 あらゆる障害を蹴散らして魔物たちは進んだ。ゼドゲウスが知る中で最も広く、最も多くの人間を擁する城塞都市の壁面が、既に目と鼻の先にまで迫っている。それを守る人間の兵士らも同様に。


 赤竜は一時、立ち止まった。邪なる神が悪意をもって与えたまう、ほんの戯れ程度の猶予。

 しばらくして、魔王が鎌首をもたげる。例の如く大気を呑み込む。爆炎が喉の奥からせり上がり、そして―――。


 絶死の吐息が吹き荒れる刹那、人間たちの咆哮が天地の狭間にこだました。


 どこにこれほどの数が生き延びていたのか。魔の勢力の数倍に及ぶ、雲霞うんかの如き人の群れは、一方的なとなるはずだった激突をへと塗り替えた。

 蒼い光を放つ流麗な長剣を振るう青年が居た。無骨な槍を薙いですべてを吹き飛ばす大男が居た。目にも留まらぬ神速でもって周囲一帯を斬り刻む武人が居た。祈りひとつで天から無数の雷を降り注がせる少女が居た。火炎と大水と豪風と岩塊を同時に繰り出す魔術師が居た。旗と大盾を振りかざして軍勢を率いる将が居た。敵であるはずの魔獣を手懐けて使役する森の使徒が居た。ひとつの弓から一度で何本もの矢を撃ち放つ射手が居た。


 最前線で有象無象の兵士を鎧袖一触に消し飛ばしながら、されどゼドゲウスは悪寒が止まらなかった。

 過去に鋼の鯨と鉄の巨鳥の群れ、それらがもたらす破壊の驟雨しゅううにすら勝利したはずの己が軍勢が、あの頃より弱くなったはずの人間たちと拮抗している。させられている。


「よォ」


 声がする。平時なら気にも留めない足元から。無数の人間を踏み潰してきた足指の裏から。

 ゼドゲウスはその時、ちょうど自らに襲いかかってきた一団を鏖殺した直後だった。周囲にはその声の主の他に人影はない。うっすらと作為的なものを感じる。人間側があえてこの地点を避けているような節さえある。


「つっても……ま、お喋り好きって性分でもねェやな、赤竜サマよ」


<……G、R、Grrrrrrrrr……。……RRRaaaaaaaaaaaa……!!>


 赤き魔王は全身の鱗を逆立たせ、身震いし、その獰悪な形状の顎門あぎとを開けて唸った。

 ただそれだけで、周辺の空気が加熱して弾け、生じた陽炎が風景を歪ませる。

 幾年を経て未だ無敗、祖にして最強の竜種ドラゴン。たとえ心中に傲慢があれど、ゼドゲウスが行う戦いに慈悲は無い。


「―――いいぜ、踊ろうか」


 悪辣なる赤竜の前に立ちはだかった銀髪の青年は、不敵に笑んでそう呟いた。

 ゼドゲウスは無造作に前肢を振り回す。赤竜にとってはほんの蚊を払う程度の動作だったが、その一撃は岩盤を抉り取って何百メートルも吹き飛ばし、人体に命中すれば容易く五体を爆散せしめるだろう。

 激しい衝撃波が戦場一帯に拡散し―――ゼドゲウスは、自らの爪に手応えを認めなかった。


「ク……ク、ク。ハハ」


 跳躍している。高い。

 今は亡き文明世界に存在した、数々の高層建造物とも遜色ない巨体を有するゼドゲウスの、さらに頭上へと男は躍り出ていた。

 手には深紅の雷を纏う長剣が握られている。その刃は長く厚いが、大剣と呼ぶにはいささか細い。


「―――ぜあぁッ!!」


 自由落下の速度も加わった渾身の袈裟切りが放たれ、血の色の稲妻と化してゼドゲウスへと襲いかかった。

 ゼドゲウスは空いていた左腕で受けたが、すぐに自らの失敗を悟った。青年が持つ剣は――絶大な魔力が込められた特別な武器とはいえ――これまで何人たりとも傷つけることの出来なかった鉄壁の竜鱗を、紙か藁のようにあっさりと引き裂いた。


<OOooooOOOooooOOOOooooooo!!>


 たちまち身を翻し、長大な翼を広げて、ゼドゲウスは空へと逃れる。

 赤竜ゼドゲウスがずっと魔の軍勢の主として君臨してきたのは、何もあらゆる魔獣を凌駕する最高峰の身体性能のためだけではない。

 凶暴性の内にも確かに潜む明晰な知性。野の獣には有り得ない狡猾さこそ、ゼドゲウスが絶対者の地位にある最大の理由だ。

 あの剣が外見からは想像もつかないほど強力な武器であるのか、それとも青年の膂力や剣技が並外れているのか。恐らくはその両方だろう。

 ただの一撃で理解できる、何にせよ馬鹿正直に接近戦に付き合うのは愚策だ。

 上空からの一方的な吐息ブレスの投射―――地上を這うだけの人間には攻略不可能の必勝法。

 ここで躊躇なくそれを選択できる思考の柔軟さが、ゼドゲウスにはあった。


「……クハハハハ!! 逃がすかよォッ!」


 瞬間、信じられない出来事が起こった。

 青年が虚空へ左手を叩きつけたかと思うと、その背後から青黒い炎が噴き出した。蒼炎は見る見るうちに燃え広がり、無数の剣か杭のような鋭い形状を象って、青年が振るった左腕の動作と共にゼドゲウスを目掛ける。


<GgyAAAaaaaaaaaaAAAAAAAAAAaaaaaaaaaaaaaAA―――!?>


 たとえ魔術の類であろうと、主を害さんとするものすべてを弾く竜鱗の防御力に例外は無い。ゼドゲウスはこれを全身に纏っている。

 しかし、自在な飛行を可能とするべく、頑健ながらも高い柔軟性を併せ持った翼膜だけは話が別だ。

 風を捉える器官を損傷したことで目論見は挫かれ、ゼドゲウスは無惨にも地表へと墜落する。巨体に相応の自重がそのまま衝撃を増大させ、いくつもの肉と骨と内臓が砕けた。


<AAA……AAAAAAA……。……GyyyyyyyGYAAAAAAAAAAA…………!!>


「チッ。流石に頑丈だ」


 かなりのダメージを与えはしたが、ゼドゲウスは辛くも絶命を免れた。やや気勢を削がれ、軽鎧姿の傭兵風の青年は嘆息する。

 対する赤竜の双眸には、かつて誰も見たことがないほどの憤怒が充満している。翼を傷つけられ、また竜鱗を貫いて皮膚まで浸透してきた激痛と、ちっぽけな人間の手で地に落とされた屈辱とによって。

 空前絶後の怒りの感情のため、吐き出す息はそれだけで高濃度の呪詛と化し、ゼドゲウスの周囲は余人には近付くことさえできない死の空間と化していた。

 青年の剣が放つ赤雷と、ゼドゲウスが放つ漆黒の瘴気が、互いに干渉し合って火花を散らす。


「……まだ足りねェ。次で追いつく」


<GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!>


 大型竜種の巨体を最もシンプルに使う、最も効果的な攻撃手段。

 赤い鱗の隙間から漏れ出す瘴気が風に流れ、直後に炸裂して辺り一面を焼き焦がした。この現象すらも副次的な追加効果でしかない。

 真の破壊はその後にやってくる。重く硬く鋭く速い、計測不能の超絶的な破壊力を有した赤竜の吶喊チャージが。

 それに対して、青年が取った迎撃行動もまたシンプルだった。何の捻りもない大上段からの打ち込み―――と同時に、剣の軌跡から赤雷が迸り、さらに、踏み込んだ足先から蒼炎が噴き上がる。

 青年は地面に赤熱した轍を刻みながら何十メートルという距離を運ばれ、両腕をもぎ取られそうになりながらもどうにか踏みとどまった。


「ケッ……! ハ、あァこん畜生ォッ!」


 追撃が来る。右腕の一閃。先刻よりも明らかに殺意が増し、より広範囲を引き裂かんとする。

 刃を合わせ、敵よりも素早く鋭角的な打ち込みで衝撃を受け流した。流した力の方向に逆らわず、姿勢を低くして疾走。

 蒼炎をばら撒きながらゼドゲウスの爪牙を掻い潜る。大振りな尾の振り回しをすんでのところで回避し、反撃に移る。

 鱗を斬り下ろし、爪を払い除け、甲殻の隙間を狙って突き刺す。耐えるような小さい唸り声。

 ゼドゲウスがわずかに身動ぎしたその時、まさにその地点に、先ほど青年が放った蒼炎の剣が突き立っていた。剣に込められた魔力が起爆し、ゼドゲウスの意識の外から強烈な衝撃波が喰らいつく。


 戦闘は迅速に進行し、しかし一進一退の状況にあった。

 荒ぶる赤竜の爪牙が青年の天命を捉えるのが先か。青年の殺戮の執念が赤竜を押し潰すのが先か。

 ゼドゲウスが極熱の吐息で足元を根こそぎにすれば、青年は剣から放つ赤雷を幾重にも重ねて防壁とした。

 青年が蒼炎を鎖へと変えて巻きつければ、ゼドゲウスは満身の力を込めて抵抗し、逆に青年を振り回して返した。


 攻防の順序と手段を複雑に更新し続けながら、人と竜の戦いはどこまでも拮抗する。

 やがてに辿り着くまで、とても永く―――しかし、あまりに短い時が流れた。


<Ggyurrrrrr……rRoGAAaaaaaaaaaaaa!>


「クッ……ソああァァァァァァ!」


 もう何度目とも知れない衝突。

 ゼドゲウスの鼻先の角が、青年の胴を掠めて鮮血を散らした。青年が苦し紛れに投げつけた数本の蒼炎の剣が、ゼドゲウスの左目に滑り込んで眼球を爆砕した。

 両者共に後退り、ほんの一瞬だけ四肢からすべての力が抜け、すぐさま立ち上がった。ここまでがほぼ同時。


「……、……もっと長く語らいてェのは山々だが、これ以上は中弛みが過ぎるか」


<Fgrrrrrrrr……>


「上手い脚本ってのはよ、きっちり締めれば締めるほど、読んだ方は続きが気になるってモンだ」


<―――Graaaaa>


 赤竜ゼドゲウスは、いま立っているその地点を踏みしめ、その深奥に眠る力の奔流へと意識を飛翔させた。

 この広い地表の内側には、世界そのものを形作る材料がどろどろと煮え滾り、星の鼓動となって脈打っている。天地を回転させる大いなる流れ―――掌握すべきは、その比類なき生命力だ。

 ゼドゲウスより生み出される瘴気、否、紅炎が目に見えて膨れ上がっていく。足元の地面は、爆ぜり狂う竜の暴威に侵食されて落ちくぼみ、砕けてひび割れ、発生した断層が貪婪どんらんな赤光を噴き出して拡大する。


「いい覚悟だ。だったら俺も、奥の手を切るのが筋だよなァ」


 青年はだらりと下げていた得物を握り直し、正中に構えて口を開いた。


「起きろ、『000ワイルド・レイ』。第一拘束アルファから第十八拘束シグマまで、出力限定解除リミッター・カット―――準備はいいか。幕引きの時間だ」


 がち、がち、がちりと音がして、青年の剣を戒めていた銀色の拘束が解き放たれた。長剣と呼ぶには厚く、大剣と呼ぶには細身だったそれの、本当の姿が曝け出される。

 光の射す角度によって漆黒、紫苑、群青と色彩を変化させ、星空にも似て悠遠な煌めきが閉じ込められた黒曜オブシディアンの刀身。鍔としてあしらわれた宝玉を抱く鳥類の意匠は、豪奢ながらも大変に精緻な作りで、まったく輪を乱すことなく全体に華を添えている。

 その剣はもはや武器というよりも、芸術の神が作り賜うた彫刻か硝子ガラス細工かと見紛うばかりに美しく完成されていた。


<G……R、rO、r、gr、GaAaa……gaRaRaaaGaaaaaaaaaaaaa……!>


「極限殲滅術式、起動アンロック。万象しいせよ絶対の一、我は天喰らい貪る者なり―――常闇を断て。悪邪覆滅あくじゃふくめつ


 自分を律し、昂らせる文句としては、酷く不格好な唸り。

 魔法を熾し、解き放つ呪文としては、常識外に短い詠唱。

 たったそれだけで、彼らを取り巻く世界の形質が歪み始める。天が裂け、陸が撓み、海が捻れ、大気が蠕動し、空間が灼けつく。

 人と竜を照らす黄昏時の夕陽が、虹色に乱反射して散りばめられていく。


<―――GrGyaaaaAAAAAAAAAaaaaaaaaaaaaaa―――――!!>


 地平線が燃え盛って流れ出し、森羅万象を呑み干さんと真っ赤に迸る。


占星の剣ヘヴンズサイン―――葬送歌レクイエム―――――!!」


 空を覆い尽くすほどの暗黒が振り下ろされ、一瞬遅れて極光へと変わる。


 純粋な力と力の激突が世界を穿ち、その途上にあった物質と空間のすべてが虚無へと還った。想像を絶する破壊と崩落が渦巻き、エネルギーはエネルギーを圧縮して、さらに深く、高密度な混沌を作り出す。

 爆裂する現実、極彩色に引き千切られた宇宙の中では、ただその源である一人と一体のみが確かなものたり得た。

 ふたつの存在のせめぎ合いが因果の果てまで押し寄せ、滅び、亡び、やがて―――――。




――――――――――――――――――――――――――――――






「―――ッ、つ、あァ!? ンだよテメェ……! そりゃあ反則だろ!!」






――――――――――――――――――――――――――――――




さりとて、それでも星は巡る。


時間は運行され、全てを持ち去って過ぎていく。


人も然り。獣も然り。此岸に在る、何もかも然り。


どれほど廻ったかは解らなかったが、とにかく。


―――花の香りに揺り起こされて、少女は大きな欠伸をした。

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