第35話 ようやく抜けた雨
一階に降りてみると、外の静けさに驚いてしまった。どこかでミミズクの鳴く声までする。それはここ二日間にない、穏やかな空気だった。ようやく自然が落ち着きを取り戻したのだと、腹の底からすっと気持ちが落ち着くようだ。
「雨は完全に抜けたようだな」
それに恭輔もほっとしたように笑う。これでもう雨に悩まされることはない。一つでも解決したことは、心の負担を僅かに軽くする。
「土産物店の近くで起こったのは偶然でしょうね。玄関先に出て吸うつもりだった。それだけのはず」
天翔は毛布を掛けられて静かに横たわる秀人の傍に行くと、全体を確認した。三日前の朝、ここを通り抜けた時にはこんなことが起こるなんて全く考えていなかった。そんな関係ない思いも去来する。
「たまたまあった警報器に当たり、火災警報が鳴り響いた。それに犯人は動揺したはずだ。しかしどうして滅多打ちだったのか。それに凶器は」
殴打に適するものなんてあっただろうか。近くには自販機。傍にある土産物店といえども、そこらの観光地と違って木刀の類は売っていない。とても人を殴り殺せるようなものがあるとは思えなかった。
「あれか」
ふと、天翔の目に丁度いいものが映った。それは普段、凶器にはなり得ないものだ。それは天体望遠鏡である。これは土産物店でも扱っていて人気商品だ。一般向けの天体観測会の帰りなどに、また星空を見たいと思った人たちが購入していく。とはいっても、望遠鏡そのものは強度がない。犯人がメインに使ったのは三脚の部分だろう。
「一つくらい壊れても大丈夫と考えたということか。どんなものであれ、自らの研究の役に立っているものだ。それを壊していいと考えるなど、学者として恥ずべき行為だがな」
ここでも恭輔は非常に不快そうな顔になる。これは犯人が特定された時に傍にいない方がいいだろう。天翔よりも先に恭輔が殴り掛かりそうな勢いだ。
「ということは、この事件も突発的だったってことですね。犯人も望んで天体望遠鏡を壊そうとは思わないはずです。ましてやそれで人を殴ろうなんて考えないですよ」
天翔は一応そうやって恭輔を宥めておく。となると、あの時のガラス片は天体望遠鏡のものだったかもしれない。犯人にとって、火災警報器が鳴ったことは意図してやったことというわけか。
「右側だけだったのは、どうしてか」
ひょっとして秀人は外に行くのが面倒でこの辺りで吸っていたのか。それも、煙草ではなく薬物の方を吸っていた。それに気づいた犯人は、色々な心情を抱えているために、何をやっているんだとかっとなり犯行に及んでしまった。だから薬物を持っていた右側にだけ集中して殴打してしまった。
「自分もやっているのに勝手だけど」
そう思うと、恭輔と同じく自分も犯人を絶対に許せなくなってくる。不都合なのは解るが、自分を棚上げしているのだ。その理由はおそらく、天翔のためにとの思い込みがなせることだろう。
天翔はそのまま外へと出てみた。ほんのちょっと先に進んでいれば、秀人は命を落とさずに済んだかもしれない。しかし、普段ならば芝生の美しい玄関先の広場が泥まみれになっているのを見ると、出るのが億劫になった気持ちも解った。こんな山の上でも、雨の力で泥にまみれた姿へと変えてしまっているのだ。道路を塞いだという土砂は凄いことになっていることだろう。
「天文台には、しばらく近づけないかもな」
しかしそれでいいのかもしれない。多くの研究を考えると最悪の事態だが、自分たちは少なくともここにいるべきではない。
「これは、車がどうなったか心配になるな」
後ろからやって来た恭輔もその惨状に、ちょっとずれたことを呟いてしまう。山の木々だけを見ていたために大丈夫だろうと思っていたが、そんな楽観を打ち砕くほどに地面は乱れていた。でこぼこになった地面に、降り続いた雨の激しさを思い知らされる。
「行きましょう。最大の謎は、やはり坂井先生のことです」
警察のヘリが先発してくるが、いずれ救助のヘリもやって来る。ここからの脱出はもうすぐなのだ。となると、解決すべきは起こってしまった殺人事件だけとなる。
「そうだな」
現実に引き戻された恭輔は、天翔と並んで中へと戻った。そうだ。天気の回復は総ての解決ではない。今、自分たちはこの天文台に巣食ったものと闘っているのだ。
二階へと戻り、そのまま研究室の並ぶ廊下を進む。ミーティングルームにいるメンバーはもう寝静まったのか、ここもまた静かだった。
「密室にする必要は、あの煙のせいでしょうか。犯人は坂井から俺の情報を引き出そうと、一緒に吸っていた。だから換気をすることは不可能だった」
それを考えても、警報器を一度押したのは意図的だったと考えることが出来る。秀人を滅多打ちにしたついでにあれを押したのだ。後は解除した際についでに鳴らないように細工してしまえばいいのだ。すると部屋でどれだけ吸おうと、煙のせいで警報器が鳴ることはない。
「その後も換気は不可能だった。しかし犯人は外へ出たんだろ。どうして締め切る必要があるんだ」
その推理は少し無理がないかと恭輔が指摘する。外へ出た時にすでに恵介が死んでいたとすれば、煙を閉じ込めておく必要があるとは思えない。むしろ自分が出た時についでに換気してしまえばいい様に思う。その後にバタバタと駆け付けたメンバーが、それが煙草の煙か薬物の煙かを嗅ぎ分けられるはずがないのだ。ここに薬物の専門家がいるわけではない。天翔もある程度の医学知識を持っているが、それでも薬物の香りは解らない。
「じゃあ」
恵介が死んだのは本当に密室の中だったということになる。それにあの悲鳴。
「急に凶器が現れた」
それが自然な考えとなってしまう。しかし急に出現させるなんて可能なのだろうか。
部屋の中に入ると、すでに煙はなくゆっくりと部屋を見渡すことが可能だ。恵介の死体には他の二人と同じく毛布が掛けてある。
「そう言えば、叫んだというのに表情は恍惚としていた。まあ、部屋に煙が充満するほどだったと考えると、相当な数を吸っていたということか」
煙。それが妙に気に掛かる。灰皿に大量にある吸い殻から判断しても恵介がかなりの数を吸っていたのは確かなはずだ。しかし、充満する煙がどうにも気になってしまう。ひょっとして臭いに囚われ過ぎているのか。
「そうだ。甘ったるいとか気持ち悪いとか、それは煙草でも起こり得る。気にしていたとは思えない」
そうでなければ天文台で堂々と吸っていることもないはずだ。新たに気づいた薬物との情報に振り回されている。
「煙を煙に紛らわせる」
そういうことではないか。本当の目的は恵介が吸ったせいで部屋中に充満した煙を利用したかった。そうすることで凶器の出現に使ったトリックを消してしまった。
その時、恵介は酩酊状態だったことだろう。突然現れた包丁に驚きはしたものの、幻覚か何かと勘違いしたに違いない。そしてそのまま息絶えてしまった。
恵介の研究室は一人で使っているのだが、広さは天翔のものよりも随分と狭い。八畳ほどであろうか。そこに机と本棚、それに休憩用のソファが置かれている。天翔たちの研究室は多くの机が置いてあっても二十畳はあるので、ここはかなり手狭な感じだ。
灰皿は机に置いていた。そして机の横には本棚がある。恵介は椅子に座り、丁度本棚の方向を向いて吸っていた形だったはずだ。
「ん」
本棚には何か所か本が抜けた所がある。恵介が抜いたのだろうか。よく見ると、ずぼらだったらしく適当に積み上げられた所もあった。本のタイトルが逆さになったままのものもある。これならば凶器を仕込むのは簡単そうだ。わざわざ包丁だったのも、あの部分の大きさが問題だったからだ。ということは、部屋のどこかにあれがある。それは恵介の死体のすぐ傍に落ちていた。おそらく衝撃でここに転がったのだろう。
「どうやら友部君に追いついたみたいだな」
きょろきょろと部屋を見渡して確認する天翔に、恭輔は真相に気づいたのかと感心した。
「ええ。さすがに兄さんのような安楽椅子探偵とはいきませんでしたが」
足りないと言っていたのは、実際にそれが可能なのか部屋を見ないと解らないということだろう。しかし、天翔にはまだまだ解らないことが多くある。
「なぜ、小杉君と久保君を殺すことになったのか。それも、兄さんは見抜いているんでしょうね」
思考実験に慣れている理論物理学者だからというだけでなく、龍翔には洞察力があるのだろう。だから両親の僅かな態度から自分が双子のはずだと早くから確信することが出来た。
「早く朝にならないかな」
初めて、天翔は今すぐに龍翔に会いたいと思っていた。
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