第13話 線状降水帯

「嫌な予感がするな」

「そういうこと言うなよ」

 思わず呟いた天翔に、追いついた将貴がすかさず注意する。それは将貴も同じ懸念を抱いている証拠だった。それを裏付けるかのように大きな雷の音が廊下に響く。それで気持ちが怯んだ二人は、足早に天文台室の階段を降りていた。

「あ、いた。もう大変だったのよ」

 階段を降り切ると、雨合羽を着た葉月がやって来た。前髪も合羽もしとどに濡れていて、外に出ていたのは一目で解るがどうしてだろうか。葉月はたしかコンピュータの制御室に向かったはずだ。先ほど会った時は雨合羽を持っていなかったし、何より外に出る用事はない。天翔がそう思って不思議そうに見ていると、ああこれっと気づいた葉月が雨合羽を引っ張った。

「ああ、これ。あの坂井のせいよ。制御室に行こうとしたら呼び止められてね。南館は今日が休業日の影響で人員が足りないから応援に行ってくれって。自分が行けばいいのに。もう大変だったんだから。ねえ、坂本」

 ねえと、葉月は後ろからタオルとビニール袋を持って追い駆けてきた博士課程の学生である坂本修実へと声を掛けた。修実は身長が百八十ある影響でここに常備されていた合羽が合わなかったらしい。ズボンも髪も濡れてしまっていた。

 ここの天文台は南館にも天体望遠鏡が備え付けられている。北館の望遠鏡が新しく着けられるまでは南館の望遠鏡で観測していて、今でも現役だ。南館の天体望遠鏡は口径が六〇センチの反射望遠鏡だ。こちらの望遠鏡も壊れては多くの研究者が困る。

「凄い雨です。台風並みですよ」

 修実は困ったと額に張り付く前髪を払いながら言った。それだけで雫が飛ぶ。すでに本降りだということは、そんなところからも実感できた。

「台風か。被害が出なければいいんだが」

 そう天翔が懸念を口にしたところに、館内放送を告げる音が鳴った。

『職員及び学生は直ちにミーティングルームに集まってください。繰り返します。直ちにミーティングルームに集まってください』

 続いてそう恭輔がアナウンスする。これはいよいよ差し迫った状況らしい。天翔が集合することを提案するよりも前に恭輔が手はずを整えていた。

「急ごう」

 将貴の一言で、その場にいた全員が廊下を進み出した。その間にも雷はごろごろと音を立て、窓ガラスに激しく打ち付ける雨音が館内に響く。建物の中でこれだけ音を聞き取れるほど降っているとなると、記録的豪雨になるのではと心配になった。

「こうなるんだったら家に帰るんだったわ。ここでやらなければ論文が一日遅れるってこともないんだし」

 家でやればよかったと、昨日から泊まり込んでいる葉月は、家でゆっくりお風呂に入りたいと文句を言う。恵介によって南館の手伝いをさせられるし、このままでは帰れなくなりそうだ。まったくついていない。

 ミーティングルームは階段を挟んで研究室とは反対側にあった。天翔たちは一度研究室方向に戻り、そこからミーティングルームに向かうことになる。

「あ、団体ですねえ」

 階段を過ぎようとした時、下から上がって来た研究員の春日典佳に声を掛けられた。典佳はおっとりした性格で、今も一人マイペースでやっていましたという感じだ。二十九歳なのだが、どこか幼い雰囲気を持っていた。

「たまたまよ。そっちは何もしてなかったんじゃないでしょうねえ」

 そんな典佳と仲のいい葉月は揶揄う。どうせどこかでのんびりしていたんだろうと笑っていた。

「ちゃんとやってましたよ。備蓄食料の確認をしていたんです。坂井さんが下手したら長期戦になるかもしれないから、確認してくれって」

 ぷうと膨れる典佳は可愛いのだが、今はそれどころではなかった。

「ちっ。また坂井か」

 葉月はお前も仕事しろと小さく悪態を吐く。そう、恵介は腰巾着であるだけでなく、仕事を人に指示するだけで自分は嫌なことをやらないところがあった。ここでも火種を抱えている。

「これは今夜、細心の注意を払わないとな。ていうか、お前が長期戦を考えるなよってとこか」

 将貴は苦笑しながら天翔の肩を叩いてくる。言われるまでもなく注意はするが、そもそも天翔は今日まで恵介のことを意識したことはなかった。周囲にはあれこれ言っているようだが、天翔に向けて何かを言ってきたことはない。それを考えると、妙なケンカになることはまずないと思われる。

「さっさと行こう」

 葉月が不機嫌な理由を知らない典佳は首を捻っていることだしなと、天翔は一行を促した。そして真っ先にミーティングルームに入る。

 中はすでに事務員の大野広国と杉山真子が、協力してモニターやパソコンの準備を済ませていた。今から気象状況についての説明をするということだろう。窓際では館内放送を行った恭輔が、腕を組んで激しく降る雨を睨みつけていた。

 部屋の中を見ると後は学生が徐々に集まり、部屋の後方の席に着いているだけだった。まだ恵介は来ないだろうと、天翔はちょっと気になるものの恭輔の元へと近づいた。

「先生」

「ああ。これはしばらく止みそうにないな。むしろ強まっている。雷もまだ鳴っているようだ」

 見てみろと恭輔が首で外を指すので、天翔もそこから外の様子を確認した。なるほど、修実が台風と表現したように、外は雨で視界が利かない状態だった。風はそれほど吹いていないようだが、雨粒が当たる度に近くの木々がせわしなく揺れている。

「しばらく雨は抜けないようだ。それについて所長から説明がある」

「はい」

 先に恵介が所長の雅之とともに入って来たことに気づいた恭輔が席に座るよう促す。やはり恭輔も最大限警戒するつもりなのだ。それを思うと、今日が泊りになるというのは気が重くなる。

 恵介は一度天翔の方へと視線を向けたものの、雅之がいるために無表情を貫いていた。しかし何か冷たい空気が流れたように天翔は感じてしまう。

「意識し過ぎだな」

 天翔は頭を掻くと最前列の席に座る。横は葉月と将貴だ。葉月の横に典佳が座っている。

「それでは揃ったようなので、今後の対策について説明を行います」

 恭輔がそう開始を告げ、マイクを雅之に渡した。雅之は五十七歳なのだが、恰幅がよく髭を生やしていた。大きな眼鏡を掛けていることから、その姿は有名なアニメ映画の監督を彷彿とさせた。

「ええ、気象庁からの情報によると、現在この上を雨雲の帯が留まっている状況だという。この中で最近耳にしたことがある人もいるだろう、線状降水帯というヤツだ」

 雅之の言葉に数人がどよめく。天翔もニュースで線状降水帯について聞いたことがあった。大雨が長く降り続くもので、各地で甚大な被害を引き起こしているものだ。発達した雨雲が同じ地域にずっと掛かり続け、大雨をもたらす。これは厄介だった。

 恭輔が手早くパソコンを操作し、気象庁から配信されている雨雲の状況を前に設置されたモニターに映し出す。そこには雨雲がこの山の付近に集中している様子がはっきりと映っていた。それにどんどん大陸側から流れ込んでいるのが見て取れる。

「これを見てわかる通り、今降っている雨も、抜けるのにまだまだ時間が掛かるとしか言えない状況だ。気象庁から随時連絡は入るようになっているものの、予断を許さないのは確かだと肝に銘じてくれ。周辺の状況にも気を配ると同時に、今日は全員がここに留まるように。雨で視界が悪く、車での移動は困難だ。それに時間も夕方となり、余計に見通しが利かないからな。無理に帰して怪我人を出すわけにはいかん」

 今日はここに泊まることを了承してくれと、雅之は厳しい表情だ。視界の悪さを強調しているが、本当の懸念は土砂崩れにあることは誰もが察知していた。近くに川が流れていることから、その懸念は当然だろう。まだごろごろと鳴り続ける雷も、窓を激しく叩く雨音も、それがいつ起こるかと気を焦らせるかのように耳に届く。

「寝る場所はこのミーティングルームを使うこととする。モニターも繋ぎっぱなしにするから、常に誰かが状況を確認できる。今から机と椅子を後ろの一か所に集めてくれ」

 今はここに留まり状況を見る。その雅之の決断に合わせ、恭輔がそう指示を出した。どうやら集まった理由はここを拠点にするためというのがメインらしい。

「布団はどうします。さすがにないですよね」

 ここで寝るのかと、将貴が気まずそうな学生たちを気遣って質問した。机と椅子を除ける必要もないのではとの思いもあった。

「何かあった時のために、常日頃から毛布は用意してある。枚数はここにいる人数分より多いから、何枚か使ってくれ。同じように段ボールも常備してあるから、それを床に敷けばまだマシなはずだ」

 工夫すれば何とかなると、恭輔は苦笑した。たしかに床に雑魚寝は厳しいが、緊急事態に文句も言っていられないだろうというわけだ。

「なるほど。宿泊棟にも行けそうにないですしね」

 雷と雨の激しさから、レストランの脇にある外部研究者用に用意されている宿泊施設に行くことも難しい。今日は布団を諦めるしかないというわけだ。

 しかし将貴が質問を挟んだことでその場の空気は和んだ。誰ともなく仕方ないなと立ち上がり、長机の移動を開始する。

「後は何もないことを祈るだけ。だな」

 まだ難しい顔をしている天翔に、お前も少しは気を抜けと将貴が笑った。

「そうだな」

 しかしこの状況は気を抜いていられないと、天翔は表情を緩めることなく窓へと目を向けていた。

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