Vol.8 【会社員】

日が暮れた時間帯。

学生のお客様はほとんど帰られて、仕事帰りの方や友人と軽くお茶をする為に来られる方がちらほらといらっしゃいます。


「はぁぁ」


入口付近のテーブル席から、深いため息が聞こえてきました。

時々いらっしゃる20代後半くらいのスーツの男性です。

今日も30分ほど前に来て、コーヒーを片手に疲れたようにぐったりとしておられます。


「マスター、お代わりくださーい」


ふらぁっと手を振って注文されます。

私は新しいカップにコーヒーを注ぎお持ちします。


「どうぞ」

「どうも。

……はぁ、マスターは良いですよね。

こう、一国一城の主って感じで。

自分のやりたい事をやれるんですから」

「おや、そう見えますか」

「ええ。俺は無理ですよ。しがない平社員ですもの。

上司の命令は絶対。いやな事でもやらない訳にはいかないですから」

「そうですか」


はぁぁ、とテーブルに肘をついてため息をつく。

私はその方の姿をじっと見て、咄嗟に出そうになった言葉を止めた。

恐らく今言っても受け入れられる事はないでしょう。

何がこの方をそれほど無気力にさせているのかは分かりませんが、きっと正論は求めていないでしょうから。

その代わりと言ってはなんですが。


「先ほど、私がやりたい事をやっていると仰いましたが」

「ええ」

「残念ながら、私のこの仕事も全てがすべて、好きなことで成り立っている訳ではないのですよ」

「えっ?そうなんですか??」


だいぶ意外だったようで、ビクッと私の方を見る男性。


「はい、わかりやすい所で言えば、クレーム対応、営業、銀行回りなどをイメージして頂ければよいでしょうか」

「うわぁ、分かります。そういう人たちって、いったいどこの王様だって言いたくなるくらい偉そうだったり、こっちの話を聞かないんですよね」

「(本当はそうとも限らないのですが)幸い、お互いの意見をしっかりと交換することで、何とか理解はしていただけますよ。

でもやりたい事だけで成り立っている訳ではない、という事もご理解頂けましたか」

「はい。やっぱマスターは出来た大人ですねー。

でも、そうやって考えると、どっちに転んでも嫌な事って付いてくるんですね」

「そうですね。『権利を主張するなら、相応の義務を果たせ』という言葉もあります。

多少嫌なことでも、その先に自分の望むものがあるなら苦にはならなくなりますよ」

「望むものがあるなら、ですよねー。

俺の未来にそんなものあるのかなー」

「会社の上司が未来の自分の姿だ、という方も居られます。

もし尊敬できる方が居られるのでしたら、その人のようになれるように頑張る、というのもありかもしれません」


そう伝えると、必死に上司を思い浮かべているのか「うーん」と首をひねるお客様。


「あの、もし尊敬できる上司が居ない場合はどうすればいいんでしょう」

「そうですね。1つはどの上司のようにもならないと決めて、全力で今の職場で働くことです。

これが一番安易な選択肢でしょう」

「ですよねー」

「もう1つは、今の仕事はそのままに、それ以外の時間で自分の人生を謳歌することですね。

24時間365日働いている訳ではないと思いますので、仕事以外で生き甲斐を見つけることです」

「はぁ。とは言っても、仕事で疲れていてそんな気力はなかなか湧かないですよ」

「最後は、今の仕事を辞めることです」

「う、簡単に言ってくれますけど、仕事辞めたら生きていけないですよ」


そう言って苦虫を噛み潰すお客様。

でも、それは本当にそうなのでしょうか。


「幸い、私達はこの豊かな国に暮らせています。

多少労働条件に目を瞑れば、バイトの募集はどこにでもありますし、昔に比べて派遣社員も増えています。

『正社員じゃなきゃいけない』というのは、決して正しいことではなくなってきているのが今の時代ですよ」

「そうは言っても、折角正社員で入れた今の状態を手放すのは怖いじゃないですか。

もしそれで全然バイトとかが決まらなかったらって思うと、なかなか一歩が踏み出せません」

「そうですか。私もお客様に無理強いをする気はありません」

「うぐっ、ここまで話に乗ってくれたのに、最後はそっけなくないですか」


拗ねたように言うお客様に私は頭を振ります。


「どちらの道を進むのかは他人に強制されると、どうしても後悔しますからね。

『もしかしたら反対されたあっちの方が良かったんじゃないか』

『あの人が言った事を真に受けたせいで俺の人生はダメになったんだ。全部あの人のせいなんだ』

という風に。

ですから、今だけでなく、これから数年後を考えた上で、どうするかはご自身で決めていくことをお勧めします」

「そう、ですね。

……はーー、だめだ。自分で考えて決めるって言われても全然思い浮かばない」

「今まで、そういった経験を積まれてきていないのですから仕方ありません。

幸い、今すぐ決断しないと殺されるということも無いのですから、じっくりと考えればよいと思いますよ」

「はい、じっくりと考えてみます。なにより、俺の人生ですものね」


まだまだ疲れた姿は変わらないものの、少しは前向きになれたでしょうか。

そういえば、昔の私もあんな時代がありました。

幸い決断を促してくれる方が私のそばに居てくれたお陰で今があります。

この方もご自身の幸せを見つけられれば良いのですが。

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